第29話 美鈴と奈緒②
「最初?」
「うん。いっちばん最初。」
私達が一番最初に話をしたときのことは、いつだっただろうか。あまりよく思い出せないでいる。
美玲は慣れた手つきでスマホのロックを外し、左手に持ち替えて右手で操作をしてみせた。
「この子、分かるでしょ?」
小さな画面いっぱいに映る、大きな猫。空気がいっぱいに入った風船のように丸くパンパンになっている。薄い茶色と黒と白。三毛の猫が体を丸めてこちらをじっと見つめていた。
「あー!懐かしい!」
「でしょ?元気にしてるかな。最近全然見なくなっちゃったから。」
そうだった。高校に入って一番最初にまともに話をしたのも、やっぱり美鈴だった。
「入学してすぐだよね、奈緒がエサやってたの。一人で帰り道歩いてたらさ、少し前の方に奈緒がいて、すぐ気づいたんだけど話しかけようかずっと迷ってて。」
スマホを手元に戻しつつ、大きな瞳をこちらに向ける。
「そしたら急に道がない方に反れていったから、余計に気になっちゃって。こっそり見てたんだよね。例の空き地に入っていって、その横顔だけが見えた。」
こっそり、と物陰から覗き込む様子をしてみせる。
「そのときだな。この子とは絶対仲良くなるって決めたの。」
「なんで?」
「奈緒の笑顔に一目ぼれしたのよ。」
ふざけているのか、まじめに言っているのか、いつでもまっすぐ濁らない瞳は、その部分だけをいつも教えてはくれない。
「今まで見てきたどの笑顔よりも、なんていうか、幸せそうだったのかな。誰かと一緒にいなくても、こんな顔ができるんだって。そう思ったら、この子と一緒にいたら絶対楽しいんじゃないかって思えてきて。」
自信満々の口調ではっきりと言われてみると、なんだかむず痒くなるほど恥ずかしい。そんな私には、その力強い瞳を真っ向から見つめることなどできなかった。
「それまでは“誰かのために”と思って、色んな人に話しかけてたじゃない。孤立しないように、とか、寂しくないように、とか。押しつけがましいかもしれないけど、本気でそう考えてたんだよね。でもこのとき、それが全部壊された感じがしたの。」
「壊された?」
「そうだよ。一人でいる普通の女の子が、学校にいた誰よりも一番幸せそうに笑ってるんだもん。」
大きな瞳は私と宙を行ったり来たりした。その時の私と今の私を見比べているみたい。
「今まで考えてたこととか全部ひっくり返された感じで。だからなんかすごい混乱しちゃってさ。気付いたらすぐそばまで近寄ってたんだよね。」
私はその時のことを思い出して笑った。
「そうだ。なんかすごい勢いで突進してきた。」
「そうそう。そしたら奈緒がびっくりして倒れ掛かっちゃって。それにびっくりした猫ちゃんもどっか逃げてってさ。ものすっごい速さで。」
ドミノ倒しのように展開された一瞬の出来事は、光景を思い浮かべるだけで笑い続けることができた。その時あげた悲鳴がまだ耳に残っていた。
「だから奈緒だけは特別だったんだよ。初めて“私が仲良くなりたくて”話しかけた子だったから。」
嬉しいという気持ちは、これまで何度も経験してきたはずだった。人と比べれば少ない方かもしれないが、こんな私にも嬉しい出来事はたくさんあった。
ただ美鈴のその言葉は、その中でも群を抜いていたのかもしれない。
まっすぐ目を向けて、ちゃんとした話を続けることはできそうになかった。
なんとか話をそらさせようと、私の涙腺が急かしていた。
「…ていうかさあ、学校からずっとつけてきたってこと?」
「いや、ちがうよ。」
「そうじゃん。」
「ちがうし。ただ帰る方向が同じだっただけだし。」
「美鈴ん家、あっちまで来なくても帰れるじゃん。」
「帰れないし。」
「それは嘘じゃん。」
たった3年間。それに、毎日ずっと一緒だったわけじゃない。そんなに短い間のことだって、思い出話は尽きることがなかった。
ずっと、意味の分からない涙を流しながら笑っていたような、今まで感じたことのない気持ち。
収拾のつかない感情を私はどうすることもできず、ただその時間を一瞬でも無駄にするまいと、美鈴の話に聞き入っていた。
いつもよりもちょっとだけ暗くなってから、いつもと同じ通学路を一緒に帰った。
もうこうして制服を着て二人で歩くことはなくなるのかと思うと、いつも通りの道が違って見える。
美鈴との思い出はだいたい帰り道だった。だからなのか私にとって通学路は、何か魔法がかけられていたように、それ以外の世界とは切り離された特別な空間だった。
今日はその細かい部分までが愛おしく思え、あんなところにこんな落書きがあったのかと初めて気づくこともあった。
「じゃ、またね。」
かたや名門大学生、かたやアイドル。
互いの事情で今までよりも忙しくなる以上、これまで通り頻繁に会うこともできなくなる。
でもきっとまた会える。
そう言い聞かせるように、手を振りあってお別れをした。
ぎりぎりまで後ろ向きで歩いた。角を曲がって美鈴の姿が見えなくなると、途端に寂しさが押し寄せてきた。
ポロン。
音のする方を手でまさぐると、スマホの画面にはすでにLINEが来ていた。
―こっちでは、まだまだ話せるぜ!
これほどまでに私のことを分かってくれているのは、やっぱり美玲だけだ。
さっきまでとは違う涙がこみ上げそうになるのを堪えようと、すかさず上を向く。
雲一つない空に、小さくもしっかりと輝く星々が散らばっていた。
今日くらいは、夜更かししてもいいかな。
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