第28話 美玲と奈緒①

 卒業という門を通るとき、人は「おめでとう」と祝われる。

 実際は多くの人間がそれを経験することができ、言うほどめでたさを感じるものではなくなっていたとしても、卒業はおめでたいままだ。

 たとえそこで何を残すことができなかったとしても、そこで生き残り、最後のステージに立つことができたのであれば、立派に胸を張ってもいい。


 私はそのステージに立つことはできなかったのだが、ちゃんと卒業することはできるようなのでほっとしている。

 みんなよりも一足先に学校の正門を後にして新たなステージに上がる。もうこの門をくぐることはないのかと思うと、忌々しく思われたのが懐かしく思え、寂しいような気持ちもする。

 けれど、最後にこの門を気持ち良くくぐることができたのは、まぎれもなく隣にいる天使のおかげだった。




 美鈴は都内の国立大学に合格した。

 物理学を学んで理科の教師になるという彼女の夢に、また一歩近づくことになった。


「理系の中でも物理学専攻には女性が少ないの。物理を突き詰める人はだいたい研究者か技術者になるから、本当に物理の面白い部分を知っている人は、ほとんど専門家の中でしか知られてない。これってね、物理の面白さが、それ以外の人には伝わってないってことなんだよ。」


 自分の好きなものの話をするとき、いつにもましてこの子の口は止まらなくなった。


「物理って、すべてのものに共通するルールのことなんだよ。それってすごくない? 私たちが接しているもののすべてが、同じルールの中で動いてるって。そんなに大切で面白いことなのに、専門家しか知らないって、すごいもったいないじゃん。だから私は物理学を突き詰めて、多くの人たちにその面白さを伝えていけるような先生になるんだ。」


 何度となく聞かされた話は、私にとってはやけどするほど熱すぎる話だった。

 それでも不思議と、聞いていて嫌な気分にはなったことは一度もなかった。

 いつものファミレスでこうして面と向かって祝勝会兼送別会をしていると、そんな光景が頭の中で繰り返し思い返された。


「奈緒!聞いてるの!?」


 過去から戻ってきた私の目の前には、それよりも少しだけ大人びた様子の美鈴がいた。


「また別の世界に行ってたんでしょ。」


 もう、と言って呆れた顔をしながら、豪華に盛り付けられた塔のようなパフェをスプーンでついばんでいる。

 それと同じものが、私の前にもそびえ立つ。これを食べたら当分はおやつ抜きだな、と思いながらも、口角は緩んだまま戻らない。

 今日は二人のお祝いだから、水を差すようなことは考えないようにしよう。


「なんか、いろいろ思い出しちゃってさ。」


「いろいろ?」


「美鈴も大人になったんだなって。」


「それ、こっちのセリフだから。」


 鋭い目線ですかさず制した美鈴の口元には、生クリームがちょこんとついている。


「入学して最初の頃とか、覚えてる?」


 何かよからぬスイッチが入ってしまったかのように、姿勢を正して私を見据えた。


「一番最初、クラスの自己紹介もろくにできなくてさ。自分の名前さえ誰も聴き取れなくて、結局先生に通訳されて。小学生じゃないんだから。」


「う…」


「学校にもいるんだかいないんだか分からなくて。来たら来たで教室の隅っこでマンガばっかり読んでて。話しかけるなオーラ、半端なく出してて」


「そ、そんなことは…」


「朝はいつの間にか席についてて、帰りは終わった瞬間いなくなってるから、幽霊なんじゃないかって噂になって」


「うそでしょ…」


「誰も近づこうとしなかったよね。ずっとむすーっとした顔で睨んでるから、読んでるマンガも全然面白くなさそうだったし。」


 最後の最後になって自分の知らないところで起こっていたことを知り、なんだか申し訳ない気持ちになる。

 迷惑をかけないようにしていたことが、逆に周りに気を遣わせてしまっていた。


「ご、ごめん。」


 うなだれた顔を少しだけ上げてみると、意地悪な顔がようやくニッと微笑んでくれた。


「私ね、あえていろんな人に話しかけるようにしてたんだー。」


 それは、なんとなく分かっていた。

 美鈴は天真爛漫に見えて、実は気配り屋さんなのだ。


「小学生の頃ね、同じクラスの男の子がいつも周りにからかわれてたの。最初は男子だけだったんだけど、クラスの中心になるような子が加わり始めてからは、女子からも避けられるようになってね。」


 どこかで聞いたことのある話だった。


「何が理由だったのか分からなかったんだけど、今思えばいじめられてたんだよね。」


 その時のことを思い出すように、美鈴はパフェからも私からも目をそらした。


「でも私は何にもできなかった。本当はそういうの、すごい嫌だったのにね。何も言えなかったよ。」


 離れた席から、男子学生の笑い声が聞こえた。


「その子にはさ、もしかしたら仲の良い友達がいなかったのかもしれない。くだらない話したりさ、一緒に帰ったりする子が。一人でもいたら、あんなに長くは続かなかったと思う。」


 もしかしたらその子にも、“仲の良い子”はいたのかもしれない。ただいなくなってしまっただけで。


「夏休みにね、街の本屋に行ったとき、偶然その子を見つけたの。私が見に行こうとしてた棚のところから何冊か抱えて出てきて、レジに行くのが見えて。あっちは気付かなかったみたいだけど、私は本の表紙まで全部はっきり覚えてた。」


「全部?」


 カラン、とスプーンがグラスのふちに寄りかかり、美鈴はそれを見つめている。


「宇宙の本、だったんだ。全部。」


 うちゅう、と私は曖昧に口ずさむ。


「彼もね、理科が好きだったんだよ。私と同じだったんだーって。宇宙とか天体とか、私も大好きだった。そんなこと、全然知らなかったの。」


 なんとなく美鈴の言いたいことが分かってきた。気が付くと私もスプーンから手を放していた。


「2学期が始まったら絶対話しかけよう、って思った。宇宙の本読んでる小学生って、そんなにいないでしょ?絶対仲良くなれるって思って。もしかしたらそれで、今までのことも全部終わるかもしれないって。」


 当時の美鈴自身が乗り移ったように、言葉に熱がこもる。


「でもね、彼、転校しちゃってた。2学期の初めから。」


 その子はそれでその場を乗り切ることはできただろう。次の学校では、もしかしたら最初からやり直すことができたかもしれない。

 それでもその子はきっと、いじめを受ける前と同じように学校へ行くことはできなかったはずだ。

 朝、布団から出るとき、

 玄関のドアを開けるとき、

 正門をくぐるとき、

 昇降口に入るとき、

 教室に入るとき、

 大きくなる心臓の音を、抑えることはできなかっただろう。


「そのあとその子がどうなったかは分からない。でも私は一度でも話しかけなかったことをすごい後悔したの。だからそれからはとりあえず話してみようって。それで仲良くなれなかったとしても、何も分からないで一緒にいるよりは全然いいかなって思うようになった。」


 ふふっ、と話題とは裏腹に変な笑いが吹き出してしまった。


「何笑ってんの?」


 真剣に怒られる。


「いや小学生でそんなこと考えてる子、いるんだと思って。」


 私の近くにもいてくれればよかったのに、という言葉も、そこには含まれている。

 む、という表情になったが、一口含まれたパフェが、険しくなった表情をやわらげる。


「それだけ、インパクトあったってことだよ。人に話しかけるようになってみると分かったんだけどさ、誰でもだいたい話しかけられるのを待ってるのかもしれないよね。そう見えなくてもさ、実際話してみると、嫌な顔されることってほとんど無いの。」


 こんなに可愛らしい子に声をかけられたら嫌な気持ちにはならないだろう。


「それは美鈴だからでしょ。」


「ちがうちがう」と大げさな身振りを交えながら、「でもね」と話を続ける。


「奈緒には最初、そう思えなかったんだ。自分の世界の中にいることが一番だって、信じ込んでるように見えたからなのかな。だから“その人のために”話しかけるのは止めとこうって思ったんだよね。」


 おもむろにバッグをゴソゴソとあさり、スマホを取り出す。


「奈緒、最初に私と話した時のこと覚えてる?」


 画面をスクロールする美鈴の動きが、私の記憶を巻き戻してくれているように感じた。

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