第27話 太陽とさなぎ
同じ大きさの画面に映し出される映像だとしても、それがテレビなのかインターネットなのかで全然違う。
テレビの力は、私達が思っていたよりもはるかに大きかった。
私がFORTEのオーディションに通ったころ、教室には多くの生徒が集まっていた。
生徒の群れは、学校の中では珍しい光景ではない。ただ、その群衆の標的が自分であったということは、それまでになかったことだった。
それから数日は騒ぎの名残があったが、いつの間にか私の周りは静かになっていた。
『オン・ステージ』への出演は思いのほか反響を呼んだ。
テレビ初出演でデビュー曲初披露という演出もあってか、それ以降はネット以外のメディアへの露出も増えている。
『OPEN』の
でもそれは、全てテレビやネットの箱の中で起こっていることだった。
自分が生活している場所と、仕事をしている場所の間には壁があって、私はその間にある扉を介して、二つの別世界を行き来しているつもりだった。
だから、学校へ行くと足がすくんでしまった。
朝、教室前の廊下には熱気が充満していた。
天井が低く、狭い通路だということもあり、そこに詰め込まれた人の数が実際よりもはるかに多く感じられる。
一瞬だけギョッと見開かれた私の目は、すぐにコンクリートの床を見つめていた。
「おはよー!!」
雲一つない青い空。その中では太陽だけが輝いている。
その光と熱は強くて優しい。
強さは目の前の群衆を一歩遠ざけ、優しさは私の背中をそっと押した。
そこではその太陽だけが、私の味方だった。
私に向けられようとする声の嵐は、一つも届くことがない。
雨雲の塊が、偉大な力で廊下の端へ追いやられる。
私の周りだけが快晴だった。
仲良し、写真、LINE、という雨風の音が、静かに遠くで聞こえていた。
私の前に道が開く。
私はただその道を前に進めばいい。
やわらかい手のひらによりかかり、ただこの身を任せてさえいれば自分の席までたどりつくことができる。
いつか見た光景。
でも少しだけ違って見える。
目の前にある席に座ってしまえば、今までと同じように平穏な一日が始まる。
無事に、安全に、何事もなく一日が終わる。
それが私の一番の望みだった。
それなのに、いつもしているその行動が、いつもと同じ椅子に座るという動作が、すんなりとできない自分がいる。
躊躇を、していた。
最初はそういう体の反応が理解できなくて、困惑した。
絡まったひもをほどいていくように、時間をかけて、少しずつ分かっていく。
ここで座ってしまったら、今までと同じ。望んでいたはずのそれを、今、私は初めて拒もうとしている。
頭よりも先に私の体が、それを敏感に感じ取っていた。
―どうした?
―だいじょぶ?
―奈緒?
様子のおかしい私に、隣から美鈴が声をかけてくれている。
気付くとそれも聞こえなくなった。
そちらの方に目線を動かすと、いつもよりも優しい目でただただ私を眺めていた。
何でもこなす美鈴の弱点を、私は一つだけ知っている。
美玲は、虫が苦手なのだ。
容姿端麗頭脳明晰、完全無欠な天才少女の弱点を知っているということが、それだけで心地がよかった。
田んぼや畑に囲まれた帰り道は、私が美玲よりも強くなれる唯一の場所だった。
「美玲!見てこれ!」
珍しく私が大きな声を出したので、先を行く美玲が急いで駆け寄ってきた。
「ん?なになに?」
ニコニコしていた顔から表情が消え、一気に血の気が引くのが分かった。
「………いーーやーーーーー!!」
自転車を倒して何処かへ飛んでいきそうになる美玲の腰を、両手でがっしりと捕まえる。お腹が出ているわけじゃないのに、ほんわりと柔らかい。
「なかなか見れないから。」
「いーよ!こんなの見なくて!」
いーいー、と言ってことさらに目をつむっている。
暴れる体を抑えながらそのまま黙ってしゃがむと、それにつられて美玲も腰を下ろした。
「う、うねうねしてるー!!」
「しー。静かにして。」
いつもと逆の立場になれたようで何だか嬉しい。美玲が逃げようとしているのを、私が笑って引き止める。
「うう、開いてきた。。。」
なんだかんだ言いながら美玲も目が離せなくなっている。
木の葉に隠れたサナギが、小刻みに揺れている。
誰かに見てもらおうだとか、その動きから何か対価を得ようとするそぶりは全く感じられない。一定ではないリズムと、大げさではない動きは、ただそこで生きようとする力そのものだった。
縦に入った割れ目から姿が見え始めてからは、二人でただ黙って見守っていた。
「きれい。」
心のなかで思ったことが、すぐ隣から声として聞こえた。
目の前でサナギからはいでたばかりの蝶は、どこかで飛んでいる他の蝶よりもはるかにきれいな紫色だった。
「飛ばない、ね?」
「そんなすぐには飛ばないよ。こうやって出てきてから世界をじっくり観察して、準備ができたらゆっくり飛び始めるの。」
「へー。」
美玲は今、その時と同じ目で私を見ている。
私は蛹か蝶と同じか、と思い、どうせなら蝶がいいな、などと考えていると、ちょっと笑えてきた。顔のこわばりが、少しだけ和らいだ。
教室の外と後ろでは、まだボソボソと声が聞こえている。
私はゆっくりとそちらへ振り返る。
足のすくみは、いつの間にか治まっていた。
「写真、くらいなら。」
初めてしてみた作り笑顔は、うまくそう見えていただろうか。
明るく盛り上がる歓声が聞こえ、スマホを取り出す人達を収める視界の片隅で、隣の席にゆっくりと座る美玲の姿が見えた。
嵐の中に飛び込んだ私を背に、太陽は役目を終えたかのように静かに沈んでいく。
その日暮れはとても美しく、誇らしげで、どこか寂しげでもあった。
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