第25話 センターの憂鬱
「どうして、私なんか。」
スタジオを出てすぐの廊下。ぼそっとこもった声とともに、小さな頭がわたしの肩にぴったりくっつく。
オーディションの最終審査の後、初めてメンバーの子と話をしたときも今と全く同じ状況だった。誰かに弱みを見せられることが初めてだった私は、自分よりも軽いはずの体重さえ支えきることができず、よろよろとつんのめってしまったのだった。
オーディションの時からずっと、馬場ちゃんは私に似ていると思っていた。細かいところも色々似ていたが、何より、人前に出るのが苦手なのにアイドルに“なってしまった”ことが最大の共通点だった。
なるべきではなかった人間が、アイドルになった。
どこにでもあるわけではない不思議な繋がりがあったからなのかは分からないが、お互いに同じ匂いを感じ合っていたのは確かだった。
だから一番最初に仲良くなったのは、馬場ちゃんだった。
「よかったじゃん。おめでとう。」
何の気もなく発した言葉に反応したのかどうか、目の前のあどけない表情に大雨の兆しが見て取れた。
(…やばい。)
「………私にはできないよ…。」
小さく可愛らしい顔が、うずめている場所を私の胸に替えた。汗で湿ったTシャツが、涙でさらに湿り気を増していく。
こうなったら一人ではどうにもならない。
トイレを我慢しているときのように、無駄に刺激を与えず、かつ足早に控室へと急いだ。
「おつかれー。」
胸に”割れ物注意”の荷物を抱えたまま、傷つけないようにゆっくりとそれを引きずるようにして入ってくる私の姿を見て、帰り支度をしていたメンバー達が笑った。
「どうしたー?」
優しい声で真っ先に近づいてきてくれたのは、希美だった。
「センターなんてできない、って。」
大丈夫だよー、と言って頭をなでてあげている希美は、面倒見のいいお母さんのようだ。
FORTEというグループが一つの家族だとしたら、希美は間違いなくお母さんなのだった。
芯の強さを隠し持つ真由がお父さんで、その下に4人の子ども達がいる。
しっかり者だけど本当は甘えたがりな末っ子の結衣と、自由奔放な三女のみなみ。二人は全く正反対なくせに仲がいい。
上の二人は泣き虫で弱虫同士の同級生で、よく気が合った。
「だったら代わってあげようか?」
きれいに整った顔をして発される真由の言葉には、かすかな緊張感がにじんでいる。
「どのパートも練習してるし、歌もダンスもできるんだから。喜んで代わってあげるよ、私は。」
さっきまでのスタジオよりもこじんまりとした控室が、しんと静まる。
沈黙が支配する時間は、ほんの数秒だったはずがやけに長く感じた。
ただ一つ音を立て続けている嗚咽が、少しずつ弱まっていく。
完全に止まったわけではないそれを、力づくで押さえつけるようにして、小さな頭が私の胸から離れた。
「……!」
「何?」
真由が聞き返す。
今度は、包み込むような優しい目をしていた。
「…いい!」
馬場ちゃんの目からは大粒の涙がこぼれ、真由の顔の口角はゆっくりと上がる。
「私が…やるっ…!」
力強く発された言葉が、なぜか私の胸に突き刺さる。刺し傷が一番深くなるような角度で。
勢いよく振り払っていった、小さな、けれども力強い後頭部が、私の目の前にそびえる。
「よし。」
真由は声を出して笑った。
「それでいい。」
懸命に声を絞り出したあと、涙の勢いは一層激しくなった。
激しさの増した嵐を華奢な体で受け止める真由は、やはり父のようにたくましく見える。
よしよし、と何かを語りかけながら頭をなでてやっていた。
その夜、私たちはいつもより長くその控室にいた。
馬場ちゃんが人前で話すことが苦手になったのが、人前で馬鹿にされた出来事がきっかけであったことを、私達は知った。それ以降もそういう扱いをされ続けてきたことを、私達は初めて知った。
「でも、学校には行ってた。行かなくなったら負けだと思ってたから。」
この子は強い子なんだと思った。
だって、私はすぐに逃げたから。
馬場ちゃんは私と同じ弱虫だと思っていた。
でも違った。全く反対だった。
馬場ちゃんは私よりもずっと強かったのだ。
だからセンターになれたのかもしれない。
ただ、その日に一番驚いたのは、他のメンバーもそれぞれ同じようなことを経験していたということだった。
ただ一人、希美だけを除いて。
「あ、ごめん。私はないや…。」
「いやいや!無くていいんだよ!」
「そうそう。変なのは私たちの方だから!」
「そうだよ!」
本当に申し訳なさそうに頭を下げ続ける希美を見て、なんだかこちらが申し訳なくなった。
お互いに謝りあっている私達は、経験してきたことが違っても同じように笑い合っていた。
きっと希美の近くでは、これからもそういうことが起きないだろう。もしそんなことがあれば、味方になってくれていたのだろうなと思う。
心の中にあった違和感を、初めて傷だったのかもしれないと思った。
メンバー同士で体験を話し合ったことで、見えないように隠していたはずものを引きずりだされてしまった。
そこに傷があるのかもしれないと気付いたことで、あの時の痛みのようなものがぶり返す。
思い出したくない、と思った。
この痛みに、自分が耐えられないことを知っているから。
でも不思議なことにその痛みは、少しずつ和らいでいった。
なぜなのかは分からなかった。
皆で一緒にいるうちに、頭の中ではそんなことがぐるぐる回り続けていた。
”昔と違うことがあるのだとすれば…、”
白い無機質なプラスチックのテーブルをじっと睨んでいると、馬場ちゃんの声が聞こえた。
「奈緒?どうしたの?」
はっと我に返る。
「あ、ごめん。なんでもないよ。」
顔を上げるとメンバーがそろって同じテーブルを囲んでいるのが分かる。
私を軽く小突いて、馬場ちゃんが話を再開する。
周りのみんなは楽しそうに笑いながら、それを聞いている。
これが自分の中の傷だと分かってしまったら、消し去ってしまうことはできないのかもしれない。
”でももしかしたら…”、と考える。
もしかしたら、痛みをできるだけ感じずに済む方法はあるのかもしれない。
それから逃げる必要もなく、こんな私でも前に進んでいくことができるかもしれない。
笑顔と涙が入り混じる混沌の中で、私はFORTEが一つになるのを感じていた。
やっぱりセンターは馬場ちゃんでよかったのだ。
そして初めて、”自分がここにいられてよかった”とも思った。
控室の灯りはその日だけ、ずいぶん遅くまで煌々と輝き続けていた。
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