第15話 母
―どうだった??
書類審査に応募してから結果が出るまでは数か月かかった。自分が応募されたことなんてすっかり忘れてしまった頃、美玲からLINEをもらってようやく思い出したのだった。
―やっぱね。
私はメールで送られてきた第二次審査の案内を、スクリーンショットにして美玲に送った。
―私の目は節穴じゃなかったでしょ?
書類審査を通過してしまった。勝手に撮られた写真と知らないところで書かれた履歴書で、私の意思とは全く関係なく、アイドルオーディションの審査を通過させられてしまった。
―じゃ、二次審査も頑張ってね!!
美玲からは今でも毎日のように連絡が来ている。私はそれに助けられていたのだけれど、学校に来なさい、というメッセージは日に日に少なくなっていた。
自分が本当にアイドルに?などと考えることもあったが、それは遥かに現実離れし過ぎてしまって、イメージすらできなかった。ただ美玲の言う通り、アイドルになれば学校に行かない理由ができる。それに学校と家しか知らない私にとって、芸能界という未知の領域を体験できるかもしれないということは、ただ純粋に胸をくすぐった。
「お母さん、これ。」
夕飯を食べ終えた後、母の前におもむろにスマホを転がした。普段娘の方から先に話しかけられることに慣れていなかった母は、一瞬ビクッとした顔をしてそっと受け取った。
「どうしたの、これ。」
「美玲がね、勝手に応募したの。」
美玲が、という言葉を私はあからさまに強調した。母の箸は宙に浮いたまま止まっていた。最初に話しかけられたときよりも遥かに大きな驚きを隠せない様子だった。
私はどちらかと言うと放任主義で育った。母はとてもサバサバとした人で、私がこうしたいと言ったことに対して、一言二言の助言を添えて、それ以上は何も言わなかった。学校をああいう形で休むようになったときもそうだった。
「奈緒がそれでいいと思うならそうしたらいい。」
その一言を最後に、それ以上は干渉してこなくなった。
最初はそれで見放されたのだと思っていた。明日のご飯はちゃんと作ってくれるだろうか。仕事が終わって、ちゃんとこの家に帰ってきてくれるだろうか。そんなことを小学生ながら、家の中でじっと考えていた。
でもそれも一週間くらいで無くなった。母はいつもと同じように仕事へ行き、いつもと同じ時間に帰ってきて、ちゃんとご飯の支度をしてくれた。出てくるご飯もいつも通り美味しかった。食卓でちょっとだけ話すことも、ただ学校の話題が無くなっただけでいつも通りだった。
母は、何も変わらなかった。それが当時の私にとって唯一の救いだった。
だから今回も、その時と同じだろうと思っていたが少し様子が違っていた。ご飯を食べる手を止めたまま、手のひらの中の画面をじっと睨むように見つめている。時計の針が動く音がいつもよりはっきりと聞こえた。
これ以降のオーディションに参加するためには、未成年者の場合、保護者の同意が必要になる。まだ自分の中で審査を進んでいこうと決めていたわけではなかったが、その前段階として確約だけはもらっておくつもりだった。あっさりとOKが出るものだと思っていた手前、いつもと違う様子にこちらの箸も止まってしまった。
「あんた、こういうの興味あったっけ?」
眉間にちょっとシワを寄せつつも、それを隠そうと無理に柔らかい顔を作ろうとしている。明らかに母の顔は“躊躇”を表していた。
「全然。」
「じゃあ、なんでアイドルなんか。」
「だから、勝手に知らないところで応募されてたの。」
母はまた黙ってしまった。言葉ではまだ否定も肯定もしていない。ただその表情と体のこわばり具合だけは、それを拒んでいるようにも見える。
“いったい何だこれは。思ってたのと違う!”
また静寂が訪れる。それ以外の音がしていれば、こういう時間も間がもつのだろうが、そうではないからそれが永遠にも感じる。
母はあまりテレビが好きではないようだった。テレビがついているのは私が一人でいるときがほとんどで、気を遣っているわけではないが、母が帰ってくるとテレビの電源を自然と切るようになっていた。
「たぶんね、」
母はようやく重い口を開き始めた。
「そんなに簡単なお仕事じゃないと思うよ。人に見られるお仕事って。」
「いやまだ仕事なんて、そんなところまで考えてないよ。」
母は、何かを見定めるかのようにこちらをじっと見ている。耐えきれなくなるように、その隙間に言葉を詰め込もうと頑張った。
「お母さんがどう思うかなー、と思っただけ。次の審査も行くって決めてないし、私なんかがそんな簡単に、ね。」
とはいえもともと口数の少ない人間に急にそんなことをできるわけもなく、また音が止まる。私は金縛りを破るようにして、ご飯だけを口にほおばる。喉をスムーズに通っていかないので、お味噌汁で流し込むと余計にむせてしまった。少し落ち着いてから目線だけを上にやると、そんな様子までしっかりと見つめながら、少しずついつも通りの母に戻り始めているような気がした。
「ダンスがしたいの?」
「だから、まだそこまで考えてないって。」
母の肩からすっと力が抜けた。息を深く吐き、大きくはっきりとした切れ長の目でこちらを見つめた。この目で見つめられると自分の中のすべてが見透かされてしまいそうで、私は小さな画面を取り返しつつ、目をそらした。
「決めてなかったらこんなもの見せないでしょ。」
体を縮こませながら、スマートフォンを人差し指で意味もなくなぞる。
「奈緒はいつもそう。決めてから相談に来るから、お母さんは意見もできないんだもん。もう何言ったって無駄、って感じ。」
はあ、とまた息を漏らす。ただ今度のため息はさっきよりもわざとらしい。
人差し指は動かしつつ、またちらっと目線だけを上げてみる。母の箸は、野菜炒めをつついていた。
「やれるだけやってみたら?」
スマートフォンをなぞるのをやめて顔を上げると、そこにはいつもと同じようにテキパキと三角食べをする母の姿があった。
「うん。」
もやしを噛む音がこちらに聞こえるほど力強く食事をしている母に、その声が聞こえていたかは分からないが、私は小さく頷きながらそう言った。
「奈緒がそうしたいと思うなら、そうしたらいいよ。」
もやしに隠れるようにして、もう一度同じ返事をした。気のせいかもしれないが、母の顔が少しだけほころんでいるように見えた。
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