第14話 動物園と遠足と
1年生のときの遠足は動物園だった。昔から、人間とうまく付き合うのが苦手だったけれど、その反動なのか動物が好きだった。ただ定番となっている学校遠足の動物園では、いい思い出は一つとしてなかった。
遠足ではきまって、自由行動の時間がある。私にとって自由行動は、むしろ心を強く締められるように苦しい時間だった。
グループ行動はまだいい。同じグループになってしまえば、嫌いな人でも一緒に行動する理由ができる。自由行動は違う。自由行動の中では個人の希望が優先される。個人の希望が優先された結果、人には私と行動する理由がなくなり、私には人と行動する理由がなくなる。それぞれの希望通り、自由に動物園を楽しむことができるはずだ。
ただ現実はそう単純ではない。自由行動には、自分勝手行動もセットで付いてくるのだ。本来の自由には、“自分以外の者の自由を損なわない”という条件がある。自分勝手は、この制約を簡単に突破してくる。一人で動物園を楽しもうとする人間を、集団で眺めて楽しむ者たちが現れる。そんなことは気にとめないような人間でも気になる眺め方で楽しもうとする。一人で訪れる動物園では檻を隔てて動物を眺める人間だった私は、遠足ばかりは同じ檻の中にいる動物に眺められる動物でしかなかった。
高1での動物園はなんと、ほぼ一日自由行動だった。さらに中学までと違ったのは、出欠を事前に取る形になっていたことだ。何だか自分の意思を尊重されているようで、大人として扱われているような気持ちになった。遠足の概要が書かれたA4の用紙の一番下に、出欠確認表があり、私は何のためらいもなく欠席に丸をつけていた。
「うおい!」
ドスの利いた、しかし可愛らしい声とともに、私の丸に赤が入る。太い赤色の油性ペン。“欠席”という文字の上に大きくバツが下され、“出席”のうえに同じ色で、私が書いたものよりもずっと大きな丸印が描かれた。
「あ、え!?」
「奈緒ちゃんの分も出してきてあげるね!」
左目のウインクとともに、出欠確認表は先生に手渡された。いたずらな顔がこちらを振り返る。天使のような姿をした悪魔。いや、悪魔のような天使なのか。このときの私はまだ、美鈴のことを何も知らなかった。
私が自分の写真を見て、楽しそうだと思ったのは初めてだった。
「いい写真だと思わない?」
どや顔の天使が私を見下ろしている。
両手を柵にのせて、身を乗り出すようにしている私の横顔は、大きな前歯を露わにしていた。多分この後すぐにそれを隠してしまうだろうから、本当に奇跡の瞬間を捉えたようなものだった。
「ダンスしてるときもね、奈緒はこういう顔するんだよ。ホントはそういう写真も探したんだけど、どうしても動いてる時の写真はよくなくてねー。」
スマホをスクロールしてみせる。静止画の私がたくさんいて、そのほとんどが私が見たことのない私だった。
「アイドルはダンスだけじゃないけど、ダンスもできるわけでしょ?アイドルが一番良いのかはわかんないよ。でもね、奈緒がそこで楽しそうにしてるのは、想像できたの。」
また、この子はこういう目をする。
「私は奈緒と一緒にいるだけですごい楽しいけど、奈緒が楽しそうにしてる方がもっと嬉しいの。奈緒はダンス好きじゃん。好きなのに踊らないのは、ダンスのせいじゃないじゃん。」
心の中で言葉にできていなかったものをなぞられているようで複雑な気持ちだった。もう言わないでほしいと思う反面、自分の代わりに答えを出してほしいと寄りかかる気持ちが交錯していた。
「学校でしょ。奈緒が嫌いなのは。」
一本の槍で一突きにされると、ものすごく痛いはずだ。それなのにその激痛は、同時に心地よくもあった。痛みを感じることで初めて、自分がちゃんとそこにいることを感じることができた。
「奈緒、学校来ないんだもん。部活も勝手に辞めちゃって、余計に一緒にいられないじゃん。それに学校来なくなったって全然楽しそうじゃないじゃん。どうせ一緒にいられないんだたら、楽しそうにしてる顔をずっと見られる方がいいに決まってるじゃん。」
彼女の瞳が潤んでいる。別に泣き出そう、というわけではないのだろうが、煌々とした室内の明かりが反射して、目が優しくきらきらと輝く。その光はゆっくりとゆらゆら揺れている。
「でも、アイドルって…」
「学校休めて好きなダンスができて、一石二鳥じゃない!」
この子は自分の出した答えに自信を持っている。だから自分の意見をはっきりと相手に伝えることができる。
私はそうじゃなかった。自分はアイドルになんかなれない、という意見にさえも自信を持つことができない。遠足のときと同じ。だとすれば、本当に同じだとすれば、私の意見より美玲の意見の方が正しいことになる。だって、あんなに楽しい動物園には行ったことがなかったのだから。
美玲はずっと喋ってて、私はうんうん唸っていた。虹色だった液体は、氷が溶けて色が薄くなっている。色が混ざりあった後、絵の具には絶対入っていないような、見たこともない色になっていた。最後に確認したメニューには“レインボウ”とあった、その液体の成れの果てはもはや虹色ではないが、私はそれはそれできれいだと思った。
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