第10話 学校
小学校の教室には、あれからほとんど入ることがなかった。保健室に登校する、なんて日もあったけれど、やっぱり私は学校の正門が苦手だった。
学校の先生は私達にいろいろなことを教えてくれる。基本的に間違ったことは言わないし、間違ったとしても謝って、必ず訂正してくれるような人だった。
でも先生は一つだけ間違っていた。先生は学校は楽しいものだと言った。確かにそれを聞いたときは正しかったから、何とも思わなかった。
でもね、先生。学校って、一人になると全然楽しくないんだよ。
私は絵を描くのも本を読むのも好きだし、意外と体を動かすのも好きだった。好きなことをしているときはとても楽しい。一人でやっても楽しいことが好きなことなのだと思っていたのに、本当に一人になった途端、楽しみが薄まったように感じたのはとても不思議だった。
中学校に上がっても、教室のメンバーはほとんど変わらなかった。それでももう私のことを気にかける人なんていないはずなのに、新しくなった正門をくぐるのもやっぱり気が引けた。
メガネの彼を気にかける人もいなくなっていた。というより、彼自体が学校からいなくなっていた。最初はまさか…と一瞬縁起でもないことを考えたけど、どうやら転校をしたらしかった。彼の家族は転勤族で、4,5年ごとに引っ越してしまうのだそうだ。
彼も私と似ていて、明るく振る舞うタイプではなさそうだった。いつの間にか教室にいていつの間にか去ってしまうような人。
転校をしたと知ったとき、私は彼が羨ましかった。
その場所で彼という存在が固まってしまう前に、次の場所で新しい彼になることができる。そこにいたようでいない。そんな空気のように漂う存在に、私はなりたかった。
いてもいなくても分からないという今の私は、まるで空気のようだけれど、彼とは全然違った。空気はそこになければならないものだけど、私はそうじゃなかったから。
彼は本当に空気だった。
あのときの「うるせえ。」はきっと私だけでなく、あの教室や学校全体にとって必要なものだったはずだ。
そんなことを考えるたび、私はいつも忘れ物を思い出す。明日言おうと、仕舞っておいた言葉を、まだ大事に持ち続けてしまっている。自分のダメな姿を思い返すたび、決まったように憂鬱になるのだ。
そんな私でも高校生になる。
今の時代は便利で、学校に行かなくても勉強がし放題だった。教科書よりもわかりやすい参考書は本屋さんに読みきれないほどあるし、分からないところはネットで調べれば一発で解決する。暇な時間が多かった分、そのときの勉強時間の長さでは誰にも負けていなかった自信がある。
おかげでわりと有名な進学校に合格することができた。
学校の勉強をするのに、教科書も先生もいらないなんて本末転倒もいいところだけど、私にとっては一つの大きな希望だった。
学校へ行かなくても、それなりに生きていくことができるのだという気付きは、確かな光として私を照らしてくれた。
2月にしては太陽がさして、比較的暖かかった。高校の窓口でもらった封筒の中身を開け、通知書に書かれた二文字が目に入ったとき、パパーン、という明るい効果音が頭の中で鳴ったような気がして、久々に笑った。
嬉しくてというよりも、自分の頭のなかで鳴った音や、スポットライトに照らされているようにイメージできた自分が、あまりにも滑稽で笑った。
受け取ってすぐに開けたので周りには別の中学生が大勢いて、緩んだ口元を右手で隠すようにして正門を後にした。
小さい頃にビーバーとあだ名を付けられた大きな前歯は、私の唇だけで隠しきるには力不足だった。家に帰るまでずっと口元を抑えていた私の右手は、汗と吐息でビショビショになっていたから、玄関に入ってから心置きなく笑った。
あの日の天気も良かったけれど、今日は今日で、私にとってはいい天気だ。さっきよりも激しくなった雨音を背に思う。
「これは今日は外に出るな、ってことだよね。」
家の前の脇道を、キャーという悲鳴とカラカラと自転車のタイヤが回る音が、一定の間隔で通り過ぎていく。間に合う間に合う、という低い声がそれに続いた。最悪だー、とも聞こえる。
切羽詰まった彼らの状態に反して、それが全部楽しそうだった。本当に明るいものの前では、そうじゃないものが全部暗く見えてしまって困る。
不思議なことに高校はちゃんと通っていた。
同じ中学からそこに進学する子がいなくて、誰も私のことを知らないということも後押ししたのかもしれない。
友だちもできたし、それがきっかけで部活にも入った。
部活というものは便利で、そこに入るだけでとりあえず仲間ということにしてくれる。系統や種族が全く違う子でも、同じ輪の中に入ることができる。
私が入ったダンス部の子達はほとんど、ダンス部っぽい子達だった。音楽が好きだったり、音に合わせて体を動かすことが好きなのは私も一緒。それを魅せることまで好きだというところが、私と違った。
ダンス部であるためには踊るだけでなく、見られなければいけない。
私は音楽に合わせて体を動かすことを心から楽しんだ。でもそうやって夢中になっているときの自分がどういう姿で、どんな顔をしているか分からない。そういう自分を見られるのは、私にとって苦痛だった。
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