アイドルになる

第9話 ひとり

 窓の外は暗く、雨が降っている。こういう天気のときは、外に出なくてもいいのだと許されているようで、心が休まる。朝の8時でこの暗さなので、部屋の中の蛍光灯がいつもよりも眩しくて、輝度を一つ下げた。本当はテレビも消したほうが楽なのだけど、何も展開されていない空間にいる自分に、ふと気付く瞬間がこれ以上なく悲しくなることを知っているので、映像だけは流しておいている。画面の右上で、“消音”の文字がひっそりとこちらを伺っているようだ。


 平日だから学校の授業はある。それでも私がいなくても授業は始まるし、何事もなかったように終わる。それが、たった数日続いているだけのことだ。

 何が嫌だったわけじゃない。きっかけがあったといえばあったのだろうが、それが大きな原因だったとは思っていない。遅かれ早かれ自分がこんな感じになることが、昔から分かっていたような気がする。

 もともと学校は苦手だった。仲のいい友達はいたし、勉強も嫌いじゃなかった。先生のことだって、好きではないが嫌いでもなかった。私はただの小学生だった。ただ学校という場所が苦手なだけの。




 毎日気持ちが暗くなるときは決まっていた。朝、正門に近づいていくと、大量の生徒たちが学校へ吸い込まれていく光景を目の当たりにする。仲の良い友達とそれまでどれだけ楽しいおしゃべりをしていたとしても、私は口をつぐんだ。その場にうずくまりたくなるのを必死でこらえた。

 授業の始まりにチャイムが鳴る。甲高い振動が頭に響くと、周りの生徒はバタバタと席につき始める。机はみんな同じで、当たり前だが全部前を向いている。自分の机だけは専用のものにしようと、鉛筆で必死にデコレーションするのだが、テストの前には全部消さなければならなくなるから、テストのときだけ、私は私の机で受けることができない。だからきっと点数が悪かったのだ。

 学校というものは、やたらと大勢の前で発表させたがる。書いた文章を読み上げさせたり、せっかくポスターでまとめた調べものを口でも伝えさせたりする。あとテストの成績がいい人も発表される。まあ悪い人の発表じゃなくて助かるのだけど。

 給食の時間になると、近くの席の人達と机を向かい合わせて食べることになる。一緒になる子達によっては楽なときもあるのだけど、たいてい食事の時間には会話をするはめになる。おしゃべりするのは好きだけど、周りの人の話すスピードに、私は着いていくことができなかった。他の人達にすれば私は、何も考えていない子のように見えただろう。元気よくスラスラと話せる人達が羨ましかった。そのペースに、頭も口もついていかなかったから、自然と私は無口ということになった。無口じゃない私を知っていて、私が追いつくのを待ってくれる子とだけは、饒舌におしゃべりすることができた。そこまで気の利く小学生は、私の周りでは梨花ちゃんだけだったのだけど。




 梨花ちゃんといつも一緒だった小学生の頃、ちょっとしたことで私は男子にからかわれていた。たしかに良い気分はしなかったけど、耐えきれないほど苦しかったわけじゃなかった。このくらいの年齢だと男の子は、まだどこか子どもっぽいところがあって“可愛らしいな”くらいにしか思っていなかった。そのたび苦笑いで済ませていたし、梨花ちゃんがいるときは私をどこかへ連れ出してくれた。


「うるせえ。」


 いつものようにからかわれていて、私も、その周りの人も、休み時間が終わるまで続くんだろうと思っていた。梨花ちゃんはいなかったので、私は自分の席で絵を描いていた。


「え?」


 からかっていた男子が驚いている。まさか味方であるはずの同じ男子に、自分の遊びが遮られるとは思いもよらなかったのだろう。一瞬の沈黙は教室を包み、すべての視線が癒されフォルムのメガネ男子にそそがれていた。


「アハハハハハ!」


 からかい男子が笑い始めると、彼の後ろでまとまって座っていた別の男子たちも、それに乗っかるように笑った。


「なになになに?」

「かっけーーー!」


 ぼんやりとしていた気持ちの悪い火種が、あらぬところに飛び火して、火力を増してくる。燃え盛ろうとする炎の前では、最初と同じボソッとした声が、余計に小さく聞こえた。


「うるさいから、うるさいって言ったんだよ。」


 言ったんだよ、と火の粉達が口々に繰り返す。


「この子は僕が守る!って?」


 言って言ってー、と、それまでにも増して大きな声が、柔らか輪郭のメガネ男子に降りかかる。彼はその言葉には反応しなかったが、持っていた本を閉じてカバンの中にしまった。漫画だった。ブックカバーをしていたから気になってみなければ分からなかったのだが、後ろの席の私は確かに見た。私の好きな作者のものだったし、それだけでなく学校でそういうものを堂々と読んでしまうようなところに、どこか好感が持てたのを覚えている。


 チャイムが鳴った。

 固まっていた男子の中には同じクラスじゃない子達もいたので、それぞれの教室へ走って戻り始める。やべー、と言っている。からかっていた男子もそれに混じった。それと入れ替わる形で先生が入ってきたから、その後で彼と話すことはできなかった。




 授業中もずっと、言おうと思っていた。これが終わったら帰りの会だから、それが始まる前に言おうと思っていたのだけど、そういうときに限って帰りの会はいつもより早く始まってしまう。だから帰りの会が終わったら言おうと思う。でもやっぱりそういうときに限って、彼は足早に帰ってしまう。他の男子だけでなく、私からも逃げるように教室を去った。だから、明日言おう、と思った。


 気が付くと、“からかい”の的は私から彼に入れ替わっていた。言わなければいけない言葉に限って、そうするタイミングがない。だからというわけではないが、それができない代わりに何かしたかった。でも私が彼に何かをすれば、彼がもっとからかわれることは明らかだった。だから私が彼にできることは、できる限り彼に近づかないことだった。もともと周りとよく話すわけではない私にとって、それはとても簡単なことであるはずだった。でも、なぜだか分からないけれど、いつもと同じはずのそれは、いつもよりも何倍も難しくて、苦しかった。


 私たちの周りには、他の人達とは違う空気が流れているようで、“からかい”を目的とする子達以外は、近寄ることができなくなってしまったようだった。

 顔を合わせば一言二言話すことのあった友達が挨拶をしてくれなくなったのも、きっとそのせいだった。でもいつの間にか梨花ちゃんが一緒に学校へ行ってくれなくなったのは、少し堪えた。学校で会えば挨拶くらいはしていたけれど、そのうち廊下であっても目が合わなくなった。どうやらこのおかしな空気に包まれると、人の目にも映らなくなってしまうらしかった。




 給食が終わった後の休み時間、いつものように絵を描いていたときにチャイムが鳴った。お昼休みをいっぱい使って描き切った。

 はつらつとした女の子が、太陽の光に照らされて目を細めている。いつもなら1日の合間を縫い続けてやっと完成させるほどの絵を、この時間だけで終わらせた達成感がみなぎると、なぜだか涙が溢れてきそうになった。

 鉛筆で描いた女の子の顔が、まあるく滲んだ。それ以上感情が氾濫するのをなんとかこらえ、体を鋭角にして走り出す。ほとんど立ち上がることのない前の席の生徒が引いたイスが、自分の机に勢いよくぶつかる音で、机に突っ伏して寝ていた坊主頭が飛び起きる。途中がぼやけて何だか見えなかったけれど、どこかのトイレに駆け込んだ。せき止めるものを失った洪水の中で、自分の状態を少しずつ理解していった。



 わたし、一人になっちゃった。



 次の日、私は学校を休んだ。

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