第8話 誓いの握手会

「今日のステージは、残念ながらここまでです。」


 えーーっ


 図らずか計算通りか分からないが、最後のクライマックス冷めやらぬ中、石川の台本通りの進行が観客を少しずつ現実に引き戻し始める。


「ステージはここまでですがー…」


 おーーーっ?


「会場を別室に移して、握手会を実施します!」


 わぁーーーーー!


「今日の握手会では、皆さんに私達FORTEのファンであることを誓っていただきたいと思います!たった一人の推しメンとだけ、誓いの握手をしてくださいね。」


 すかさず日下の無邪気な声が割り込む。


「みんな、私のブースに来てくれるよね?」


「行くか!」


「ひどーーい!」


 大野の鋭いツッコミを受けて、無邪気な少女は叱られた後の子犬のように悲しそうな顔をしている。心なしか犬の耳が垂れ下がるように、きれいな黒髪がしなだれているようにも見える。


「行くか、はないんじゃない?」


 苦笑いでされた石川のフォローに、大野はマイクを持たない方の手で頭をかいた。


「そうだね。ちょっと間違えたな。」


 ごめんねー、と言いながらステージを横切るようにして日下をなだめに行く。日下は頬を膨らませ、しかめっ面をしながらも、喜んでいるのが分かる。




「決まってますか?」


 久しぶりに聞く男の声に、我に返った。微笑ましい光景を前にして、いつの間にか頬が緩んでいたことに気づくと、自分の顔が赤らむのが分かった。


「え、何がですか?」


「握手するメンバーですよ。」


「ああ。」


 今日ここにきている人は、特に最初の頃からネット上で応援し続けている人ばかりだろう。そんな人たちが実際の彼女たちの姿を見て、心を奪われないはずがなかった。

 だからこそ、この後のささやかなメインイベントを楽しみにするのが自然だ。けれども私は、どうしても気が進まなかった。


「握手会はいいかな、と。」


 アイディさんの眉間に少しだけシワが寄ったように見えた。何か物思いに耽っている人の表情に近い。


「そうですか。」


 本当は行きたいと思っていた。実際に面と向かって、一瞬でもいいから言葉を交わしたい。けれども体がそれを拒んでいる。いや、本当は拒んでいるのは体ではなく、自分の中の見えていない部分に潜む何かが、体を抑えつけているような気がする。


「アイディさんは、誰のところに行くんですか?」


 会話の穴を埋めるように、私は尋ねた。何かを考えているような顔のまま、アイディさんは答えた。


「求めているのが、アイドルの完成形じゃない。いわゆる、最初から何でもできてしまうような優等生ではない。そこに近づいていくまでの過程を、一緒に共有していきたい。そう考えているのだとしたら、修ちゃんはどの子だと思いますか?」


 尋ねる前から分かっていることを、時間つぶしのように聞いてしまう癖がある。

 おそらく彼のような人達は、一つ一つのパフォーマンス自体を見に来ているわけではない。もっと長い物語の中でアイドルを応援している。だとすれば、その条件の中でこの中から1人を選ぶのは容易だった。


「一番右端の子じゃないですか?」


 一瞬にやりとしながらも、まだステージを見ている。


「やっぱりね。修ちゃん、見る目ありますよ。」


 やっぱり、の意味は分からなかったけど、この人には自分の心の中を見透かされていそうで、あまり近くにはいたくないと思っていた。

 別に嫌いなタイプだというわけではない。ただこのままずっと一緒にいれば、今のままの自分を保っていられそうにないことが怖かった。




 ステージが終わった。

 会場が明るくなる。握手会は別のホールで行われるそうだ。左右の入り口から、順々に人が列を作って流れ出ていく。


「僕は今日のライブで、ひとまずFORTEを贔屓することに決めましたよ。」


 ゆっくりとした人の流れの中で、大きな背中が明るく語る。


「だからきっと、修ちゃんにもまた会える。」


 半分だけ振り向いた気持ちのいい顔とは対照的に、アイディさんの言葉は最後までずっとカーテンのようだった。その後ろに続くはずの本当の言葉を、いつも隠しているように思えた。


「握手会、今度は一緒に行きましょうね。」


 それでもこの人は言わない。

 ファンのあり方の多様さを知り尽くしているのだろう。

 色んな種類のファンがいて、それぞれの考え方がある。今の私のようなファンも、何人と目にしてきたかもしれない。

 人は自分の考え方が一番正しいと思いがちで、アイディさんもそれは同じはずだ。でもアイディさんが他の人と違うのは、それを押し付けようとしないところだ。


 私の中にある奇妙な葛藤も、彼にとっては日常の光景なのかもしれない。それでも彼には、それを否定したり卑下したりする様子は全くなかった。それについてはただ、何も言わなかった。まるで私が何かに気づくのを、待ってくれているかのように。


 決して優れた容姿とは言えないが、信念のある男の去り際はかくも格好がいい。

 背を向けながら右手を上げて、こちらに別れの挨拶をする。お前もそのうち分かる。そんな声が聞こえてきそうだ。

 今この時の熱狂や期待を、言葉よりも雄弁に語る背中は、汗でぐっしょり濡れていた。

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