第7話 がんばれ
生まれたばかりの赤ん坊がそこにいる。
このかわいらしさを見る限り、きっとこの子は女の子だろう。彼女ができることはまだ、その小さな柵付きのベットの中で寝っころがることだけだ。でも起きている間に顔を近づければ笑ってくれるし、指を差し出せば強い力で握り返してくる。彼女は柵の中の天使のようだ。
そんな天使が外の世界へ飛び出す。
最初は何をして良いのか分からなかったのだろう。明らかな困惑の表情から、それは泣き顔に変わった。見かねた母親は手を差し伸べて抱きかかえ、ゆらゆらとあやし始める。
泣く、あやす。
泣く、あやす。
そんな繰り返しを見ているだけでも愛らしい。ずっとだって見ていられる。けれどもそうしているうち、天使は外の世界に慣れてくる。
泣かなくなる。
一人で世界を観察し、感じるようになる。それはとてつもなく大きな変化で、大きな変化は突然起きたように感じる。でもそれは突然に思えてしまうだけで、振り返ってみればそこへ至るまでには長い道のりがあった。天使は自分の力で起き上がり、よつんばいになって小さな全身を力強く支える。
私は生きるんだ。
そういう意志がほとばしる。
這い這い。
親が我が子の這い這いに、初めて遭遇したときのような気持ち。ライブ会場が共有した感情の高ぶりはそれによく似ていた。
お世辞にもよくできたパフォーマンスだったとはいえない。けれどこれまで画面を通して見てきたものとは比べものにならないくらい、良かった。
初めての這い這いに華麗さは必要ない。私達が這い這いに感動するのは、それがぎこちないからでもある。すんなりできてしまえば感慨は少ないかもしれない。這いつくばりなどせず、急に二本足で立ち上がりなどすれば感動している暇もない。成長はいつも緩やかに、焦らすようにしてもらうに限る。彼女達の成長を感じるには、このステージは十分すぎるものであった。
ステージの中央には美少女が2人、横に並んで立っている。横一列になっている6人の中でも1,2を争うといわれる、頭一つ抜けて整ったお人形さんのような容姿。パフォーマンスも申し分ない2人をセンターに据えたのは、見栄えを考慮した最適な配列だといえる。
向かって左、色白ですらっと長い手が、マイクを口に近づける。
「皆さん、はじめまして!F・O・R・T・E、…」
”FORTE(フォルテ)です!”
ぴったりと揃った6人の声からは、先ほどまでの息が詰まるような緊張が、少しだけ和らいでいるのが分かった。
「はじめましてと言っても、ネット上では何度もお会いしている方もいらっしゃるかもしれませんね。へへ。」
最年長の石川でさえまだ10代ではあるが、ただ一人高校を卒業している年代だ。そうしたこともあってか、他のメンバーよりもいっそう大人びて見える。その姿は既に大人の色気のようなものも醸し出すのだが、時折見せるあどけなさとのギャップが彼女をより魅力的にしている。
石川の自己紹介が終わった後、それぞれのメンバーにマイクがリレーされる。
「鳥海結衣です。今日はわざわざ会場まで足を運んでくださいまして、ありがとうございました。まだまだ未熟な私達ですが、応援よろしくお願いします。」
言葉だけでなくその身なりからも、真っすぐ一本通った軸を感じる。石川とは対照的に最年少の中学3年生。今どきの中学生はこんなにしっかりしているのか、と思うと自分のことがいたたまれなくなる。見た目だけなら完全に中学生で、若さの魅力よりもむしろ、まだ残る幼さの方が勝っている。
ただ続く自己紹介で、そんな気持ちを少しだけ安心させてくれた。
「日下みなみです。元気と笑顔は誰にも負けません!」
「元気だけはあるもんね。」
「そ、それだけじゃないもん!」
この日初めて、会場に自然な笑い声が起きた。ずっと息をしてはいけないような時間が続いていたが、ようやく呼吸ができるようになったように、安堵のやわらかさが広がった。
元気だけは、と言った彼女が半ば強引にマイクを引き継いだ。
「大野希美です。」
おーーー??
観客と、先ほど突っ込まれた日下が、同じようににやつきながら煽る。
「えーと、私も元気です!」
「同じじゃんー!」
センターの二人をはさんで、ひときわ明るい二人の漫才のようなやりとり。大して面白いことなどないのだが、一生懸命な彼女たちを見ていると、自然と笑みがこぼれてしまう。
へなへななパンチを一発繰り出した日下は、鳥海の1歳年上だが、鳥海よりもどこか幼い。可愛らしい見た目の二人に並んでいると、大野希美のスタイルの良さが余計に際立つ。背が高く、細みできれいな長い脚に支えられた体から発される声は、誰よりもよく通る。なんでもそつなくこなしそうな洗練された見た目とは裏腹に、ダンスでは持ち前の不器用さを発揮していたが、いざトークシーンになってみると彼女の独壇場。会場の誰もが気になっていた、今ひとつ盛り上がりに欠ける、靄がかかったような空気を入れ替えてくれる。
「はい、つぎー!奈緒、お願いします!」
「ちょっと、なんで希美が仕切ってんの!」
すかさず石川が突っ込む。怒った口調だが、ふたりとも笑顔だ。いつも画面を通して見てきた彼女たちにすっかり戻ってきた。
「…高橋奈緒です。高校2年生です。あの…、こうやって、人前で話すのは得意ではないのですが…、応援よろしくお願いします。」
間髪入れずに、向かって右端から次の自己紹介が始まる。視線は自然とそちらに集まる。
「馬場、絵里です…。」
名前を言うのが精一杯だった。もう既に彼女の涙は氾濫している。目の下だけでなく鼻の下も、ライトに照らされて反射し、輝いて見えるものがある。
がんばれー!
会場から応援の声。
ああ、そうだ。忘れていたけれど、初めてアイドルライブの映像をネットで見たとき、こういう光景を新鮮に感じたのだった。そういえば今日はこれまで、こうしたアイドルイベントらしさをほとんど感じていなかった。
「あのう…、正直、こんなにたくさんの人が…、来てくれるなんて…、思ってなくて…」
涙はとまらない。鼻水も止まらない。どちらもキリがないので、隣りの大野が鼻の方だけ拭ってあげる。観客側で一瞬起きた笑い声は、すぐに止んだ。ハンカチを手にする大野の目にも、光るものがあったからかもしれない。
僕が“この程度しか”来ないんだな、と思った人数は、彼女たちにとっては“これほどの“人数だったのだ。
「私は…、ダンスもうまくないし、見た目も地味だし…」
そんなことないよー、というような声が客席から響く。
「誇れるところはそんなにありません。でも…」
がんばれー、の声はさっきよりも多く、大きくなっている。
「えぐっ…、でも、最初はきれいじゃないかもしれないけど…」
しんと静まり返った会場は、彼女の最後の言葉で一瞬に一つになった。拍手と歓声、ときには悲鳴のような掛け声も上がった。
がんばります。
「がんばります」や「がんばれ」、という言葉には、つくづく中身がないものだと思っていた。中身が無い言葉を言っても何の意味もない。あってもなくても同じもの。そんな風に感じていた。でも今、このアイドルライブを成立させているのは、間違いなくこの2つの言葉なのだ。僕の口や耳をこれらの言葉が通過したのは、果たしていつのことだっただろうか。
最後の2人はとても似ていた。他のメンバーとは明らかに違う雰囲気だった。
どちらも人前に出るようなタイプではおそらくない。パフォーマンスだけでなく、トークも、ひいては見た目にも、抜きん出たものがないというところも同じだ。それでもファンの、2人に対する印象は大きく違ったことだろう。
馬場絵里は、まさにアイドルのようだった。今の時代に求められるアイドルだった。今は全然ダメダメかもしれないけれど、この子なら頑張れると思わせられた。背中を丸めて泣きじゃくる小さな体が「守ってあげたい」という気持ちを起こさせる反面、その力強い眼差しと言葉から元気や希望を分けてもらえるような気がした。がんばれ!と声をかけたくなる、応援したくなるような存在。それが馬場の自己紹介が残した印象だった。
対して、高橋奈緒の自己紹介は淡々としていた。掛け声はおろか、馬場の気持ちがはやりすぎたせいで、拍手する間すら与えられなかった。それに、高橋は終始うつむきがちだった。馬場はまっすぐ前を向いていた。高橋奈緒はこわばったままの表情を変えなかった。馬場絵里は泣き、最後にはぐしゃぐしゃな顔で笑った。得意分野でないのは同じはずだが、印象は全く違うものになった。
ただそんな不遇ささえも、私にとっては彼女を魅力的に思わせるスパイスのようなものだった。最後の盛り上がりの中でなんとか見せた笑顔も、少し引きつっている。けれどその表情はどんなに整った顔より魅力的できれいだ。
笑うと強調される白い前歯は彼女のチャームポイントだ。でもそんな大きな歯を、彼女は少しコンプレックスに思っているのかもしれない。ちょっとした拍子で顔を出す美歯は、恥じらいとともにすぐ隠されてしまう。メンバーは馬場を慰め、ファンも馬場に視線と声を送った。向かって右側を照らす会場のスポットライトは、同時に逆側に影を作る。そんな陰影を見ているのは、きっと私だけだ。私だけが、彼女を見ている。あの動画を追いかけたときと同じ、そんな自負心が、高橋奈緒への気持ちをさらに拡張させていた。一度惚れてしまえば冷めさせない。そんな中毒性が彼女にはある。私の中で、彼女だけが輝いて見えることに変わりはなかった。
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