第4話 アイドルオタク

 目の前に広がる光景は、男子校を思い起こさせた。ただワイワイガヤガヤといった感じはなく、そこにいる人間のほとんどは声を発しない。一人で来ている人間がほとんどらしく、顔見知りの間でも会釈程度の挨拶が交わされる程度だ。入り口のスタッフが増えたのに伴い、こちら側の人間も数を静かに増やしていく。


「アイディといいます。」


 小さく猫背の“7”に向かって、大きく胸を張った“1”が言う。


「え。」


 静寂の中でのはっきりとした声は、間違いなく聞き取りやすかったはずなのだが、聞き返してしまう私がいる。聞こえなかったわけではなく、どういう意味なのかを聞きたかったのだ。


「こういう場所ではアイディと呼ばれています。ニックネームみたいなものですね。」


「ああ。なるほど。」


「DDって分かります?」


「ディーディー?」


「DDっていうのは、『誰でも』『大好き』ってことなんです。ファンはファンでも、このグループが好き、このメンバーが推し、っていうのではなくて、アイドルと呼ばれる人たちを幅広く応援しているんです。言葉ができたのは最近ですけど、そもそもの元祖は私なんじゃないか、と言われるようになって。アイドルのアイと、DDのディで、アイディというわけです。」


「なるほど。」


「私がつけたんじゃないですけどね。」


 アイディさんは高い声で笑った。


「すごい、方なんですね。」


「ひと目見てわからなかったですか?」


 微笑みながらもどこか凄みのある目を見つめると、素直に“わかりました”とは言えなかったが、表情筋は嘘をつけなかったようだ。


「笑いましたね?」


 黒縁メガネの向こう側で、にやーっとした目が私を見下す。不思議と嫌な気分にはならない。


「見た目も大事なんですよ。覚えてもらうためには、ね。」


 どこまでが本当なのかは正直分からなかった。この風体がこの人の趣味によるものだけなのか、はたまた全てはアイドルのためのパフォーマンスなのか。けれどやっぱり、この人がアイドルとの付き合い方を長いスパンで見ていることだけは嘘ではなさそうだった。


「あなたのその格好じゃ、…あ、そういえば、なんて呼んだらいいですかね。お名前は。」


「新井、といいます。」


「下の名前は?せっかくならあだ名とかがいいのですが…。」


 アイディさんよりも少しだけ張られた大きな声が聞こえた。あまりアイドルのイベントが行われるようには見えない、少し年季の入った建物の入口近く。散らばっていたそれぞれが、磁石に吸い寄せられるようにして列になる。


 ホール内に入ってみると、座れる席は整理番号と全く関係なかった。入場した人から順番に詰めて座っていく。ここにいる人達はとても従順だ。言われたとおり、一席もあけずにきっちり詰めて腰を下ろしていく。外に並んでいた限り、会場が埋まることのない人数であると、分かっているはずなのにである。


「思ってたより少ないんですね。」


「他の系列のアイドルとかも行ったことないですか?えーっと…」


「新井です。下の名前は、修。」


「あだ名とかはありますか?そっちの方が親しみやすいな。」


 大きな体で可愛らしくニコニコしている姿は、なぜか親しみやすい。


「いや、あんまりあだ名とかでは呼ばれたことなくて。だいたい苗字で呼ばれてましたし…。」


「…あんまり?」


 嫌なところをついてくる、と思った。アイドルをずっと見ている人は、観察力や傾聴力が磨かれるのかもしれない。鋭い嗅覚のようなものを持っている。


「じゃあ、あだ名で呼ぶ人はなんて?」


「いや、あだ名じゃないんですけど。


 言いよどんでいると彼は黙ってこちらを見つめている。こんなはずじゃなかったのにな、と思う。一人で見て、何事もなかったかのように家に帰るつもりだったのに。まさかこんなことになるなんて。これだけ詰めてホールに入れば、このまま最後までこの人と一緒にいることになるだろう。私は諦めたように、口を開いた。


「修ちゃん、とか、ですかね。」



「修ちゃん、とか。」


 顔がパーっと明るくなる。閉ざされていた扉が初めて開いたかのように、目と口と、鼻の穴が大きく開かれている。


「いいじゃないですか!修ちゃん!」


 強引さはないけれど、自分の意とは違う方向へ転がされているような気がする。


「修ちゃんって、呼んでもいいですか?」


 嫌だと、本当はそう言いたかったけれど、口は簡単に嘘をつく。


「はい。いいですよ。」


 笑みを浮かべる自分が嫌になる。これから先に会うかどうかも分からない人にさえ、悪く思われたくないからと余計な気を遣ってしまうのは、昔からの悪い癖だ。


「修ちゃんは、こういうの来るの初めてですか?」


「アイドルのイベントに来ること自体、初めてです。他のコンサートとかにも行ったことないですね。」


「でも何でこんなコアなイベントから?入りやすいイベントなら他にいくつもあるでしょ。」


 この人は、相手を言葉に窮させる天才なのかもしれない。触れられたくないところをズバズバと射抜いてくる。そんな私を見透かすように、アイディさんは続けた。


「まあでも、修ちゃんの見立ては間違ってませんよ。」


 前方のステージに目を向けていると、彼もその方向へ向き直るのがわかった。


「このグループはもしかすると、凄いことになるかもしれません。」


 これまでになく低い声が、内臓まで響いた。


「ちなみに推しは誰ですか。」


 アイディさんが目を離すのと同じタイミングで、ちょうどその場所にスーツを着た小綺麗な男性が現れる。よく聞き取りやすい声がスピーカーに乗り、拡声する必要もないくらい前方に集まっている人達の視線を独り占めにする。


「お待たせしました。これより本日デビューしますアイドルグループ“FORTE”のお披露目会を開催致します。」


 その声に促されるように、アイディさんもゆっくりと前方に顔を向けた。

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