第3話 やさしい風

 太陽が姿を見せきっていないこの時間の空は、どこかこれから始まる一日への希望のようなものを感じさせる。そういった気持ちを感じることができていなかったのは、この空を見ることがなかったからなのかもしれない。


 真っ青で明るく澄んだ空は確かに完璧だが、その完璧さのあまり、弱い生き物を威圧するものがある。私は弱い生き物だったから、それに耐えることができなかった。けれど今の空は大丈夫そうだ。むしろ空が私に味方してくれているように思える。


 飛ぶ鳥を落とす勢いのアイドルグループ“SOPRANO”の姉妹グループのデビューが決まった。初めてのライブイベントが行われる今日、気がつくと身支度をしている自分がいた。物入れから取り出したリュックサックは、ところどころカビていた。濡れ雑巾で必死にこすっていると、寒さに震えていた体から嘘のように汗がにじみ出た。何とかカビが気にならなくなって、物を詰め込むのだが、何をもって言ったらいいか分からない。タオルとティッシュと筆記用具だけを乱雑に入れ、ファスナーを閉める。ドアを開けたときのひんやりとした空気は、昨日よりも冷たい。ただ冷たいはずのそれは、いつものように私を押し返すことはなく、優しく外へ連れ出してくれた。


 高橋奈緒。

 私を外へ連れ出してくれた、冷たくもやさしい風。


 SOPRANOには育成制度というものがある。育成メンバーは、SOPRANOメインメンバーのようにアイドルとしてステージに立つことができるわけではない。仕事がなければ給料も払われない。ただ歌やダンスのレッスンを受けたり、ときには看板番組に顔を出すこともできたりするようなサブメンバー達が、彼女たちの背後には大勢いる。その中からまさしく“育成”に成功したメンバー達がデビューしていくという、今となっては大きなアイドルグループにありがちとなったシステムである。


 しかし今回デビューするグループは、このシステムとは異なる。育成メンバーからの昇格ではなく、新たにオーディションをして選ばれたメンバーが、そのまま新しいグループとしてデビューすることになる。高橋奈緒はその中にいた。


 イベント会場は、初めて彼女の姿を見た画面の中のアリーナとは程遠い、ビル群の中に佇む小さな公会堂だった。まだ中には入れないようだったが、既に整理券が配られている。ここまで来ては見たものの、気兼ねしてしまうのは私の性格のせいだけではないだろう。もともと積極的に行動するタイプではないが、それよりもまずアイドルイベントへの参加というものに低からぬ壁があることは間違いない。


「一見さんですか?」


 低くこもった声が、突然横からやってくる。


「初めて、ですよね?SOPRANOファンじゃなさそうだけど…。」


「え?」


 金髪に黒縁の眼鏡。背が高く横幅も大きな体は、それだけで圧力を感じるのに、派手な装飾品がそれを更に増幅させている。


「あ、SOPRANOに来たの、初めてじゃないです?」


「あ、ええ。」


「…いや、怪しいもんじゃありませんよ。あの、いや…」


 こちらの怪訝な眼差しに気づいたのか、突然慌て取り乱し始める。大きな図体で行われる意味のない小刻みな動きは、怪しい人間のそれにしか見えない。


「あー、えーっと、…そうだ!これ!」


 数字の「1」が淡く、ぺらぺらの紙の真ん中あたりに収まっている。


「ね!一緒!一緒ですよね!?」


 この一瞬で吹き出した汗の雫に顔が覆われることで、この厚みのある派手な図体がなんだか愛おしく思えてもくる。


「1番…。」


 自分が1番最初についてしまったらどうしようか、という心配は杞憂だった。


「そう。こういうのはね、なんでも極端が良いんですよ。中途半端よりネタになるでしょ。」


 大きな体が大きなバッグから取り出したハンカチは小さく、拭った汗ですぐに湿ってしまう。けれども汗はさっきよりおさまったようだ。


「ネタ、ですか?」


「そうですよ!今日はメンバーのお披露目が目的だから、どうなるか分からないけど、握手会やらでメンバーと交流できることもあるでしょ。そのときに喜んでもらえるネタを蓄積しておくことは、ファンの務めともいえます。」


 私はこの公会堂に今の彼女を見に来たのだが、彼は違うのだ。今日の彼女たちだけでなく、明日の、むしろそれより先の彼女たちまでを見ている。


「で、整理券はもらいました?」


「いや、実はまだなんです。」


「一応早めにもらっといたほうがいいですよ。」


 眼差しに少し真剣味を帯びさせている。


「例外的とはいえ、腐ってもSOPRANO系列ですから。」


 色の濃くなったブルーのハンカチをおもむろにリュックサックへしまい、私の背中をそっと押す。


 7。


 さっきコンビニでもらったレシートよりも薄く、ぺらぺらの紙。“整理番号”という文字の下に淡く、その数字が印字されている。こすったらすぐに消えてしまいそうだけれど、その7は確かにそこに存在している。手にしているその儚い数字だけが、周りよりも少しだけ温かい風でひらひらと靡いていた。

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