第19話

「ミーシャをもらってくれないかな?」

初めてここにミーシャを連れて来た時のように、彼女はミーシャを抱いて扉の向こうに立っていた。

「札幌のマンションに、君たちのような親切な人がいるとは限らないし、ミーシャも君たちに懐いているし」

「どうしても、札幌へ帰っちゃうんですか?」

兄をもう少し待ってあげて欲しかった。キララさんが吉田美和子さんだということは、兄にはわかっているに違いない。もどれない時間がある。埋められない空白は、埋められないのではなく、それぞれの人生があったことの証明なのだ。手紙を出せない事情もある。好きな男の子に会えないほど、みじめな自分を思い知らされる場合だってある。兄がそのことをわかるまで、もう少し待ってあげて欲しかった。

「どうしてもってわけじゃないんだけど、でもここにいつまでいても仕方ないじゃない」

彼女が頭を撫でると、ミーシャは満足気に目を細めた。

「ミーシャに会いにまた来るよ」

「いつ?」

「引越の荷物もまだ残っているし。部屋はまだ解約していないの」

「いつ、発つんですか?」

「明日の昼の予定。札幌なんて近いんだよ。君たちも遊びにおいでよ」

「今度は、ちゃんといますか?」

「私は、いつでもいるよ」

兄にとって、吉田美和子さんは永遠の女性だ。きっと兄は、一生、吉田美和子さんを追いかけてゆくのだろう。それは、理想の女性像を想い描くこととは違う。実際に出会い、心惹かれた女性を人生の最大の目標にしてしまったのだ。吉田美和子という影に翻弄された彼の人生は、傍目から見れば無謀かつ滑稽だ。それで自分の人生を棒に振ることになろうとも、きっと彼は後悔したりはしないだろう。吉田美和子さんを想う自分を美化してしまった兄は、そうあり続ける自分を人生という物語の主人公にしてしまったのだ。もしも、キララさんが吉田美和子さんなのだと分かったら、兄の永遠の恋はどうなったのだろう?

叶わないから追い求める。追い求めるから忘れられない。忘れられないから愛し続ける。愛し続けることができるから、幸せだということもあるのではないだろうか。手に入らない幸せもあるのだろうと僕は思う。

兄はきっと、これからも彼女を追い続けるだろう。彼の人生の最後に立ち会うことが出来るのならば、その人生は幸せだったかと聞いてやりたい。幸せだったと彼は答えるに違いない。その時も兄は、たった一人の女性を追い続けているからだ。それは兄が自分で選んだ人生だ。誰に擦り寄ることもなく、自分の価値観を持ち続けたのだ。兄には人生の目標があったのだ。誰よりも明確に、そして強烈に。静かにその想いを抱き続けている。そんな兄が僕は心底羨ましかった。

どんなに頑張っても、あの頃には戻ることはできないことを、兄は悟ってしまったのではないだろうか。キララさんが本当に吉田美和子さんなのかどうかはわからないけれど、兄は現在の兄であり、吉田美和子さんにも現在の彼女のあり方があるはずだ。彼女との出会いで、兄にもそれが分かったのではないだろうか。

僕は携帯電話を握った。

「おい、なにやってんだよ。キララさん、札幌へ帰っちゃうよ」

「しょうがないじゃないか」

兄は能面のように表情のない声で言う。

「止められるよ」

「そんなことできるわけないだろう」

「小学生の頃の兄さんならどうしてた?」

兄は何も返さない。

キララさんは、嘘をついている。東京から男の人を追いかけて来たなんて嘘だ。七月二十日、花火大会があったあの日、キララさんは札幌に行っていたことを僕は知っている。

キララさんを尋ねて来た女性が、うちのチャイムを鳴らしたのは一週間ほど前の夜のことだった。ジーンズに白い無地のカットソーを着て、小さなリュックサックを背負った女性は、札幌からわざわざ彼女を尋ねて来たと僕に説明をした。

「あのお、あちらの『キララ』と書いてある部屋の方のこと、ご存じないでしょうか?」

恐縮しきった女性は、日に焼けたのか、少し赤い頬をしていた。

「あちらから一軒ずつ順番に尋ねてみたんですけど、どこもお留守で……」

「ああ、知っていますよ。昼間はいるんですけど、夕方からはいないことが多いんですよ」

「そうですか……。申し訳ないのですが、これを彼女に渡していただけないでしょうか?」

リュックサックから取り出した小さな青いビニール袋を、彼女は僕に手渡した。

「娘の命日に来てくださったものですから……」

「娘さんの命日……」

「ええ、七月二十日なんです」

リュックサックの女性は、あの表札は自分の娘が書いたものだということと、お礼を言いがてら家族で万博に来たのだということを教えてくれた。

兄は外にいるのか、受話器から街の喧噪が聞こえてくる。

「また思い出に閉じこめるのか?」

ここまで来て、何もできない兄がもどかしかった。もう一度昔の兄に戻って欲しかった。今なら戻られる。いや、今戻らなかったら、もう戻られるチャンスはない。吉田美和子さんを自分の理想の世界に閉じ込めた兄の人生は、吉田美和子さんの何の役にも立たない。だけど、兄がその人を抱きしめてあげることができれば、その人の人生を変えられるはずだ。兄は自分の理想の世界から抜け出すことで、キララさんを幸せにすることができる。

「何時の飛行機だろう?」

兄の頼りない声が返ってきた。

「知らないよ」

「俺、空港に行ってみるよ」

兄は小さな弱い声でそう言った。

「僕も行くよ」

彼女を帰したくなかった。「久しぶり」と兄に言って欲しかった。僕も彼女にもう一度会う必要があった。リュックサックの女性から預かった青いビニール袋を握り締めた。

空港駅のホームで、僕と兄は落ち合った。そこから搭乗ロビーへの入り口までは随分ある。兄は空港内を走り回った。どこへ走るつもりなのかわからなかった。僕も兄の後を追った。こんなに真剣に走ったのは、いつぶりだろう。お腹の肉が上下に揺れる。肉の上下運動は、前進するエネルギーを奪い取る。あごの肉がのどを圧迫する。暑い。汗が溢れ出る。

「全然前に進まないよ。どうして太っているんだよ」

兄の声が聞こえてくる。兄の背中には、汗でできた模様が広がってゆく。兄は必死で走っているのに隣を足早に歩く女性と速度が変わらない。足が上がらず、一歩一歩が小刻みに進む。きっと、僕も同じ姿なのだろう。僕は兄に追いつけそうもない。あちらこちらから、人々の顔が僕たちを振り向く。全日空や日本航空のチェックイン機の辺りを探し回った。四階のスカイタウンも見て回った。レンガ通りもちょうちん横丁も走って回った。

「くそう」

床を蹴った。どうすることもできない自分が情けなかった。周りにいた人たちの乾いた視線が突き刺さるのが分かった。けれど、そんなことを気にする余裕は僕にはなかった。キララさんはどこにもいない。もう、搭乗ロビーに入ってしまったのかもしれない。滑走路が一望できるスカイデッキに出た。海上に浮かぶ空港のデッキには、抜けるような青色が広がっていた。太陽が照りつけ、汗が吹き出て来る。次々と離陸する飛行機を見送りながら、兄はポツリとつぶやいた。

「俺、痩せるよ。お前も痩せろ」

僕は何も言わなかった。スカイデッキの出入口付近は、大勢の見送り客と飛行機の見物客でごった返している。兄は汗だくだった。僕も汗だくになった。二人のデブが空港のスカイデッキで、汗まみれになって肩で息をして歩いている。きっと、無気味で滑稽に映っているだろう。でも僕たちは、そんなことは気にしない。今頑張れなかったら、もう頑張るときは来ないから。一機の全日空が飛んだ。轟音が響き渡る。機体はみるみる高度を上げてゆき、小さくなってゆくのに、轟音は置き忘れたように耳に残る。轟音をすり抜けるように、出入口の方から聞き慣れた声が聞こえた。キララさんが「戻って来ちゃった」と言ったような気がした。振り返って辺りを見回したけれど、彼女の姿は無かった。兄に何か聞こえなかったか、と聞いた。

「何も聞こえないよ」

飛行機の離陸の音にかき消されないように大声で兄は言った。離陸した飛行機が高度を上げて行った。思っていたよりも広い空は、何でも知っているように見えた。いつかの料理屋で見た、海に浮かぶこの空港を思い出した。兄は吉田美和子さんを再び追いかけることになるのか。いや、吉田美和子さんとキララさんという二人の女性を追いかけるのだ。

「僕は太ったままでいいよ」

僕は、さっきの兄の言葉に答えた。もう一機、全日空が離陸した。機体が青空に吸い込まれて行く。

今度は、兄が振り返った。つられて僕も振り返った。


【了】

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ミーシャがいた夏 桜本町俊 @sakurahonmachi

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