第17話

「私ね、札幌の小児病棟で働いていたの」

キララさんと僕は、せっちゃんで落ち合った。

「最後に担当していた女の子にきらきら星の歌を振り付きで教えてあげていたらね、その女の子が私のことを『キララさん』って呼んでくれたの。その女の子は亡くなっちゃったんだけど、その子がいつもチラシの裏に文字の練習をしていて、『キララ』って書いてくれたの。だから、キララで通しているの。あの表札は、その女の子が書いてくれたものなの」

キララさんは、僕に表札の秘密を教えてくれた。あの、黄ばんだチラシの裏紙に書かれたへたくそな字は、高校生が好んで書くへたくそ字なのではなくて、小さい女の子が憶えたてのカタカナで一所懸命に書いたものだったのだ。

「その女の子、私が見習い看護師から正看護師になって初めての患者だったの。それで、ちょっとその病院にいるのがつらくなっちゃって、辞めちゃったの。その後、東京の病院にしばらくいたんだけど、そこも辛くてさ」

僕はさんまの身をほぐしながら聞いていた。キララさんは、冷し中華を啜る。

「ねえ、名古屋の冷し中華って、どこもマヨネーズがのっているよね」

「ええ、おかしいですかね?」

僕はごはんをおかわりした。

「ううん。結構美味しい」

キララさんは、マヨネーズとからしを冷し中華の中で混ぜている。

「臓器移植ってあるでしょう」

僕がさんまの内臓を摘まみ上げると、キララさんは言った。

「そういう現場にいると、医療とは何かっていうことが分からなくなってくるんだよ。移植しないで治すことができれば、それが一番良いわけでしょう。だけど、移植に携わるドクターは移植をしたがるの。治すことが目的なのか、移植することが目的なのか分からなくなるのよ」

「ちょっと、聞いてもいいですか?」

キララさんの話を遮らずにはいられなかった。あら何?という顔で彼女は僕を見た。冷し中華のつゆがひと雫、頬に飛んでいた。

「キララさんは、看護師をしているんですか?」

「そうよ。言わなかったっけ?」

僕が、頬の雫を指さすと、キララさんは左手の甲で拭った。

「全然知らなかったです」

「あらそう」

キララさんは気に止めることもなく、冷し中華に目を向けた。

「札幌にもいたんですか?」

「そう。道産子じゃないんだけどね、札幌で育ったのよ」

キララさんは、札幌にいて看護師をしていた。

「移植を待っている患者さんと家族がいるでしょう」

キララさんは、さんまの内臓を食べる僕に向かって臓器移植の話を続ける。

「その人たちは、移植にすがるしかないからドナーをずっと待っているの。ドナーが見つからなくて亡くなってしまう人もいるの。移植がもっと簡単にできるようになれば良いのにって本当に思うの。だけど、ドナーになる事故や事件で重体になる人にだって家族はいて、まだ小さい子供がいるお父さんとか、新婚旅行から帰ってきたばかりの奥さんとかいろいろな人がいるの」

段々、キララさんは芝居がかった話し方になって、怪談を聞いている感じになってきた。

「でも、移植に携わるドクターにかかるとその人たちは、すぐさま死亡鑑定に持ち込まれてしまう。そして移植が終わると、レシピエントは信じられないくらいの医療体制で診てもらえるの」

彼女は、絶望という感じで箸を振る。

「でも重体だったドナーだって、それくらいの医療体制で診てあげたら助かったかも知れないと思うと、何が医療なのか分からなくなって来ちゃうの」

看護師は、真剣な眼差しで自分の世界に陶酔しきっている。

「レシピエントの中で動いている臓器は、亡くなってしまったドナーのものなの。死んだはずなのに、その臓器だけは動いているの。生きているの。だから、臓器提供に同意した家族は、ひょっとしたら助かったんじゃないかって罪の意識に苛まれるの」

札幌と看護師というキーワードが、僕の頭の中で大きな活字を作った。

「一番嫌だったのは、そういうことが当たり前なことだと割り切れてしまう自分なの」

「それで?」

臓器移植の話よりも札幌の話が聞きたかった。

「それで?それでさ、東京の病院もやめちゃったの。それで、名古屋に戻ってきたの」

「戻ってきたんですか?名古屋に?」

「そう。あれ?言わなかったっけ?私、もともと名古屋生まれなんだよ」

分かっていたはずなのに、そう言われて僕の膝は震えた。

「今はじめて聞きましたよ」

「へえ」

彼女は他人事のように感心した。

「私さ、いじめっこだったの。小学六年生の三学期に転校して、札幌の学校に行ったの。不思議なことに、そこでは何をやっても褒められるの。どうしてかわからないんだけど、みんなが私の言うことをなんでも聞くの」

キララさんは、お茶を啜りながら遠く昔の札幌時代を話しはじめた。

「それで、私もその気になっちゃって、お姫さまのように振る舞うようになったの」

お姫さまになったキララさんを、僕は上手く想像できなかった。

「私があの子とは口をきいちゃダメっていうと、みんながそれに従うの。そんなのおかしいと思うんだけど、止められないの。止めたら、お姫さまという地位が奪われるような気がして、止められないの。いけないことだって良く分かっているんだけど、止められないの。いじめていた子がいなくなると、次の子を探すの。誰のどんなところをけなしてやろうかと見渡しちゃうの」

彼女の顔が険しくなった。何も無くなった皿を僕はじっと見つめた。

「誰にでも欠点はあって、誰でもいじめの対象に出来ちゃうの。転校する前には、そんなこと絶対になかったのに、どうしてそうなっちゃったのかわからなくて、昔の学校の仲間には言えなかった」

彼女の目に涙が浮かんでいた。おばちゃんがテーブルの箸置きに割り箸を足して回っている。

「だから、すごく仲が良かった友達にも、手紙も出せずにそれきりになっちゃったの。その時の自分には、みんなに書いて報告するような楽しいことは、何一つなかったの。友達だっていなかったの。みんな、意味も分からず私の言うことに従っていただけなの」

ジグソーパズルの最後の一ピースが埋まった。キララさんは、吉田美和子さんだ。それでも僕は、彼女の本名を聞き出せなかった。それは、兄が自分で本人に聞くべきことなのだと思ったし、僕にとって彼女はキララさんのままでいて欲しかったからだ。

「立場が人を変えるっていうことがあると思う。私の立場は、転校して変わった。みんなが私を敬ったから、その立場になろうと努力して、いじめっ子になったんだと思うの。精神的にボロボロだった。高校に進学するときに、親が中学時代の子がいない高校に通うように家を引っ越してくれたの」

キララさんは、やっと顔上げた。冷し中華の麺が伸びて太くなっている。

「高校に入ったら私のいじめ癖は、もともとそんなものなかったように消えたの。それは、私を敬う人が誰もいなかったからなの。自分の上にのっていた何かが一瞬にして消えたように軽くなって、視界が明るくなったようだった」

もしも、彼女が吉田美和子さんならば、今年で三十五歳になる。あの木箱の中にあった吉田美和子さんの姿を思い出そうとしてみたけれど、面影を見つけるのは難しかった。時間は残酷だと思った。

「それから名古屋の友達に手紙を出せばよかったんだけど、もうみんな私のことなんか忘れていると思って出さなかったの。だから、昔の友達が今はどうしているのか、すごく知りたかったの。それで、こっそり名古屋に戻って来たの。でも、もうみんな元の家には住んでいないんだよね。誰にも会えなかったよ」

「男の人はどこで知り合ったんですか?」

僕は、思いきって聞いてみた。

「男の人?」

キララさんは目を大きく開いておどけてみせた。

「ほら、花火を観た日にキララさんが会いに行った男の人ですよ」

「あはは。嘘ついてもばれちゃうね」

キララさんは、椅子の背もたれに体を預けて笑いながら言った。

「嘘なんですか?」

「ごめんね」

「何が嘘?」

「あはは。名古屋へ来た理由よ」

キララさんは観念したようにあっけらかんとしている。

「本当は、東京で好きになった人を名古屋まで追いかけて来たの。すごく好きだったの」

兄の顔が浮かんだ。キララさんに想いを寄せる兄。キララさんが吉田美和子さんじゃないかと思っている兄。本当は、吉田美和子さんが自分に会いに来たのではないかと期待している兄。

「でも、君たちに会えて嬉しかったよ」

「え?」

「あまり落ち込まずに済んだもん」

「そうですか」

僕は力なく答えた。テレビが本日の万博の入場者数が十五万人だと報告している。

「兄ではダメですか?」

少し微笑んだキララさんの目は、どこか遠くを見ていた。

「アーニは、私なんてダメだよ。あんなに心がきれいな人に私なんて似合わないよ」

彼女はそう言うと、札幌へ帰ることを宣言した。

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