第16話

実家で兄の小学校の卒業文集を見つけた。当時六年生だった兄や同級生たちの将来の夢や思い出が、筆圧が高くてバランスのとれない字で書かれている。兄の作文は真ん中くらいにあった。将来は野球の選手になりたいという書き出しは、あの頃の男の子の定番だ。小学生時代の兄は、野球ばかりしていた。四番でピッチャーの座を守り続けた。明るい兄の字が躍る。

「甲子園へ行って、中日ドラゴンズにドラフト指名され、プロ野球選手になります。この小学校から出た有名人として活躍します。みんなの家やこの小学校にもテレビや新聞社の人たちが取材に来ることでしょう」

力強い筆跡で自信に満ち溢れ、今の兄と同一人物とは思えない。吉田美和子さんの将来の夢も載っていた。文集用の作文だけを書いて転校して行ったのだろう。小学校時代は公団に住んでいたので、動物が飼えなくて残念だと書いてある。札幌は一戸建てなので、猫を飼う約束を家族としているとも書いてある。そうか、あの時、捨て猫を空地に返しに行った後に会った女の子は、吉田美和子さんだったのだ。僕の中で記憶の断片が繋がって、大きな一枚の絵が完成しつつあった。その次の文章に目を移した。

「猫の名前はクラスの子と相談して、ミーシャにすることに決まりました」

目玉が落ちるとはこういうことだったのかと思うほど、僕は驚いた。難しい数学が解けた気分だった。ミーシャは兄が心の中で追い続けた女の子が考えた猫の名前だったのだ。偶然なのか?兄はだからミーシャを喜んだのか?キララさんは一体誰なのか?きっと兄もこうして何度も読み返したのだろう。そのページには、酸化したポテトチップスの小さな欠片が油染みを作っていた。

「猫を飼ったら、みんなを札幌の家に呼びたいです。そしてみんなで遊びたいです。それまでに、札幌の街を案内できるようにしておきます」

キララさんのことを兄はどう思っているんだろう?

「将来は看護婦さんになりたいです」

細い丸い文字が続く。あの猫は吉田美和子さんが兄に気づいてもらいたくて用意したのではないだろうか?だから、図々しくも猫を預かって欲しいなどと言って来たのではないだろうか?だとしたら、ミーシャは、兄と吉田美和子さんとの六年二組時代へのメタファーだ。ジグソーパズルの最後の一ピースまで辿り着いた気がする。キララさんが、もしも兄が追い続けた女の子ならば、どうして自分の名前を兄に言わないのだろうか?もしかしたら、吉田美和子さんも兄を追い続けていたのではないか。三十五歳の兄と吉田美和子さん。二人が大事にしまった思い出は、壊せなくなってしまったほど美しく神聖化されてしまい、二人は出会いそのものを躊躇ってしまったのではないだろうか。そんな疑問が僕の考えの中をよぎる。キララさんは、兄に小学生だった頃のように「吉田」と呼んで欲しかったのかも知れない。二人とも、お互いの正体を知りながら気がついて欲しいという気持ちと、もう自分のことなんか忘れてしまっているのではないかという不安と、正体を明かしたとたんにすべてが風化してしまう運命とに怯えているのではないだろうか。二人が通り抜けて来た時間はとてつもなく長く、そして重い。

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