第15話
「歩こう、歩こう、私は元気♪」トトロの着信音が鳴った。携帯電話が光っている。
「空港が見られるお店見つけたんだけど、行ってみない?」
キララさんからのメールだった。
「暇だから問題ないですよ。兄には伝えておきます」
僕はそう返信して、兄にもそのことを伝えた。
キララさんが連れて行ってくれたのは、空港が見える和風の料理屋だった。店に着いたのは、午後七時を過ぎていた。陽が沈んだばかりの空は、ほんのり明るい。伊勢湾が一望できるカウンターに三人一列で座ると、視界の右側に空港の灯りが薄ぼんやりと浮かんでいた。遠くに三重県の街が霞んで見える。空港に着陸する飛行機が、ランプを点滅させながら夜になり立ての空に滑り込んでくる姿は、とてもロマンチックだった。グラスに盛り付けられた海老のしんじょを木製のスプーンで突付きながら、運ばれてきたワインを口に含んだ。後ろの個室で、家族連れの客が騒がしい。
「結婚なんて制度がなかったらいいのに」
ゆっくりと滑り込んでくる飛行機を眺めながらキララさんが言った。
「どうして?」
キララさんの言葉の意味を考えるように兄は言った。近頃の兄は、物思いのうちに引きこもることが少なくなった。キララさんと会うときは、見違えるほどよく喋った。
「結婚なんてない方がいい」
「それじゃ、男と女はどうすればいいの?」
だだっ子のキララさんを兄はあやすように言った。
「自由でいいじゃない」
「でも、自分の子供に会ってみたいって思わないの?」
「じゃ、みんなが私のことを好きになればいいんだよ」
「じゃ、一妻多夫制だね」
「うん、そう。それがいいよ」
二人は笑っている。こんなにも意気投合して話せるようになった二人の仲に驚いた。僕は何となく一人きりだった。個室の家族連れの笑い声が響いて来た。まだ言葉を話せない幼い子供がやること一つひとつに、大人たちが喜んでいる。
「アーニは好きな女性いるの?」
「そんな真顔で訊かれると困るけど、いるよ」
「そうなんだ。その女性と上手くいきそう?」
「どこにいるのかも分からないんだ」
「捜さないの?」
「捜したいんだけど、手掛かりが全然ないんだ」
「じゃ、一生会えないかもしれない女性を好きでいるの?」
「そうなるのかな」
「捜しなよ」
「え?」
「その気になれば、絶対に見つかるよ」
キララさんはワインのお代わりを頼んだ。兄はチョキを差し出して「二つ」と付け加えた。僕はなかなかお酒が進まなかった。家族連れのおばあちゃんらしき人が孫に何かをもらったらしく、大げさにはしゃいでいる。母の顔が浮かんだ。母も、あのおばあちゃんのように孫を抱きたいと思っているだろうか。少し心が痛んだ。兄がキララさんと結婚したら、彼女は僕の義姉になる。生まれてくる子供は、きっとキララさんにも兄にも少しずつ似ているのだろう。男の子だったら、兄と同じように野球少年になるかもしれない。母は、婆バカになって、毎日のように顔をだすのだろう。
「ダメだよ、きっと」
「どうしてそう思うの?」
「俺さ、会いに行ったことがあるんだ。だけど、住所も電話番号も変ってた。俺のことなんか、忘れちゃったんだよ」
キララさんは「ふう~ん」と言って、刺身を口に放り込んだ。
結局、彼女が言いたかったことは分からなかった。お互いに言って欲しいことと、言いたいこととをはぐらかしているだけのように僕には見えた。彼女も、それからその話はしなかった。キララさんは結婚という制度がなかったら、どうしたいと言いたかったのだろう?
大事な人を追いかけたけれど、その先には誰もいなかった兄とキララさん。兄には彼女が言おうとしたことが分かるのかもしれない。一機が着陸すると、待っていたかのように次の一機が、遠くの空でランプを点滅させながら浮き上がってくる。兄とキララさんは、飛行機が離陸する姿が見えないけど、どちらに向いて離陸するのか、とか、一体一日に何本くらい着陸するのかといった、どうでもいいようなことを話し合った。
キララさんの体は、兄の大きな体に包まれてしまうほど小さい。彼女は、何も言わない兄をもどかしく思っているのではないだろうか?兄の気持ちを確かめたかったのではないだろうか。そうじゃないだろうと叱咤したくなる。キララさんは、兄の気持ちを確かめたかったんだよ。僕は心の中で毒つく。
二人が話し込んでいる間、僕は高度を下げる飛行機を見つめながら、せっちゃんのおばちゃんと話したことを考えていた。会社は辞めた。後悔はない。このまま便利に使われていくより、自分の価値を認めてくれる場所を探したかった。出世したいのか、そうじゃないのかもわからない。そうじゃないなら、どうして誰かの機嫌を損ねないように振舞うのか?どうして、他人よりもいい仕事をしようと努力してしまうのか?コピー一枚、見積書一件、企画書一枚書くのにも、他人よりも少しでも良いものを出そうと思う自分がもどかしかった。自分で自分が分からなかった。そのくせ、他人と比較されて烙印を押されるのはいつも自分だった。母だって、父だって、兄だって、もちろんキララさんだって僕に出世を望んでいるわけではないだろう。きっと、結婚してくれる人がいたら、その人だって同じだろう。みんな僕の輝かしい人生を期待しているわけじゃない。慎ましく、真面目に生きてくれればいいと思っているのだ。でも、その現実は、接待のときだけ活躍するお笑い社員だ。もっと存在意義が欲しかった。そんなものすら手にすることができなかった自分に愕然とした。だから、会社を辞めた。何かをやる目的があるわけじゃないけれど、自分が夢中になれることがあるわけじゃないけれど、このままでいいわけじゃない。大きな成功を得るために賭けになんか出ることはできないけど、自分を認めてくれる場所を探したい。何のために会社で辛い思いをするのか?母のためか?兄のためか?まだ見ぬ家族のためにか?孤独な自分の老後のためにか?自分らしく振舞える場所が、僕は欲しかった。二人の会話に適当に相槌を打ちながら、自分の存在価値を自問自答した。後ろの個室で、子供が鴨の肉をカモメ、カモメと連呼している。孫に媚びを売るようなおばあちゃんの笑い声が響いていた。
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