第12話

「じゃ、掛けてみて」

携帯電話の番号とアドレスとを教え合うと、キララさんは赤と白とピンクをブロックみたいに配置したデザインの四角い電話を見つめた。彼女が買ったのは、オシャレなストレートタイプの携帯電話で、とても似合っていた。今日は携帯を買い換えたいという彼女にお供しているというわけだ。

ショップにずらりと並ぶ小さな携帯電話は、皆同じ形をしていて建売り住宅のようだ。彼女は散々悩み、五軒もショップを渡り歩いた挙句、今手にしている機種に心を決めた。

「どうせ番号変えちゃうんだから、携帯メーカーも変えたっていいじゃん」

そう言うと、ドコモやauやボーダフォンを取っ替え引っ替え手に取った。店のお姉さんの説明も真剣に聴いた。どこにこのパワーがあるのかと、華奢な体のキララさんを僕は眺めた。キララさんと一緒になって店員さんの話を聞いている兄は、とても楽しそうだった。兄と彼女が仲良く寄り添う姿は、むかついたが微笑ましかった。この人が僕たちと一緒にいることと、兄が静かにキララさんを好きになっていることが、いつか見た昔の懐かしい思い出のような気がした。兄は初めて携帯電話を買った。折りたたみタイプで、パネルを交換できるのが売りになっているものだった。僕の携帯には、自宅と実家以外の番号が初めて登録された。

彼女との出会いは、僕たちを変えた。彼女といると過去の嫌な思い出も、会社の嫌なことも、デブであることも僕は忘れることができた。

携帯電話が鳴るのが僕は待ち遠しかった。携帯を買って以来、兄の電話には頻繁にキララさんからのメールが届いていることを僕は知っていた。彼の携帯電話の着信音を、キララさんと僕からの時だけ、他の人からの着信とは違う音がするように設定しておいたのだ。二人からしか電話もメールも来ない彼は、もちろんそんなことをされているとは思ってもいないようだ。

慌てて通話ボタンを押した兄は、神妙な顔で画面を眺めていた。

「誰から?」

と、とぼけてみるものの、兄の浮ついた態度に僕は苛立っていた。

「いや、ちょっと知り合いからだ」

嬉しそうに小さな画面を眺める兄が羨ましかった。穴が開いてしまうのではないかと思うほど、画面を見つめている兄に鼻白んだ。

携帯電話は、兄とキララさんとの距離をあっという間に縮めた。それまで発信も着信もしたことがなかった僕の携帯電話にもキララさんからの履歴が残るようになった。彼女からメールが届くと、即効で返信した。キララさんからのメールが来ないと、何度もキララさん宛のメールを書いては消して、ためらいメールを繰り返していた。

「ねえ、女の子からはメール来ないの?」

キララさんは、小鹿のような目で聞いてきた。悪気は無いのだろうが、その質問に僕は傷ついた。僕の携帯にも、兄とキララさん以外のメールは届かないのだ。

「キララさんのような人には分からないかもしれないですけど、デブには昨日無かったことは今日もないんですよ」

「そんなことないよ。太っていたって、ちゃんと違う今日はやって来るよ」

キララさんはコロコロと笑いながら言う。ミーシャがキララさんの膝の上であくびをした。

「何食べる?」

まるで家族のような会話に僕は不安になった。キララさんはいつまで僕たちと一緒にいてくれるのだろう。いつか、僕たちの前から彼女はいなくなる。僕はなるべくそのことを考えないようにしていた。けれど、その不安は雪だるまのように日に日に大きくなっていた。

誰にだって別れは訪れる。それがどんな形であれ、再び兄が受け止められないような別れ方はあって欲しくはなかった。兄が彼女のことを好きになればなるほど、彼女が僕たちに近づけば近づくほど、僕の不安は大きくなった。

キララさんは、花火観賞会以来、僕たちの部屋にいることが多くなった。もともと三人で暮らしているのではないか、と錯覚するほどだ。

「出会い系とかやらないの?」

「あれ?さっき何食べるって言ってませんでしたっけ?」

「だって、トッちゃん全然考えてくれないじゃない」

少し拗ねた小鹿ちゃんは、一段とかわいかった。

「普通、やらないでしょう」

「何が?」

「出会い系ですよ」

「ふうん、男の人はみんな興味があるのかと思ってた」

小鹿は残念そうに口を尖らせた。

「ねえ、アーニには、女の子からメールは来ないの?」

今日はやけに長い間ここにいるなと思っていたら、どうやら彼女はそれが気になっていたらしい。そうと分かったら、少し意地悪をしてやりたくなった。

「ああ、この間誰からかは知らないけどメールを見て、ニヤけていたなあ」

「へえ」

中学生のときはどうだったのか、高校生のときはどうだったのか、彼女はいたのかいなかったのか、兄の過去を僕を通して知ろうとするキララさんは、本当に兄のことが好きなのかもしれないと思うほど、兄のことを熱心に聞きたがった。好きまでいかなくても、気にはなっているはずだ。

「気になります?」

「私が?全然、全然」

キララさんは大げさに顔の前で手を振った。

「アーニは女の子の友だちがいるのかなあ、と思っただけだよ」

兄は大抵、本かまんがを読んでいる。映画もよく見る。テレビドラマも大好きだ。きっと、合コンへ行ったら女の子とドラマネタで盛り上がるはずだ。でも、兄はそういうイベントに参加したことがない。街角で女の子に声をかけたこともない。会社に勤めていない彼は、女子社員と飲みに行くということもない。だからと言って、兄は女の子が嫌いなわけではない。エロ本だって見るし、エロビデオも大好きだ。兄は何かを追い求めている。そんな風に見える。自分の中に固く信じた何かがあるのだ。

兄は中学生のときも、高校生のときも、大学生になってからも、小学校の時に転校していった女の子のことを忘れなかった。そのことを知ったのは、僕が中学三年生の時だった。兄が隠し持っているエロ本を見つけようと、兄の留守中に部屋に忍び込んだとき、偶然それを発見した。彼は女の子と一緒によく晴れた公園で写真に収まっていた。その公園は、僕にも見憶えがあった。僕たちが通った小学校の修学旅行のコースにある、三保の松原だ。兄の修学旅行の写真は、母がアルバムに整理して保管しているのに、兄はその写真だけを大事に自分で持っていたのだ。ハガキが丁度はいるくらいの小さな木箱にそれはあった。原色のさまざまな大きさの正方形がちりばめられたどこかの民芸品のような木箱には、少し恥ずかしそうで、とても幸せそうな二人の姿が閉じ込められていた。

兄の隣でピースサインをしているのは、ショートカットで、ボーダーのシャツにデニムのショートパンツを身に着け、日に焼けた活発そうな女の子だった。二人の背には、絵の具で塗ったような青い空が広がっている。兄は痩せていた。

同じような写真が五枚くらいあった。その写真と一緒に吉田美和子という人からのはがきがあった。引越の挨拶とともに札幌の街の感想が書かれていた。きっと、その人は六年生の時に札幌に引越をしたのだ。そして兄が高校生のときに会いに行ったその人なのだろう。

好きな女の子の隣で恥ずかしそうにしている小学生の兄。引っ越してしまった女の子からのはがきを大事に持っている中学生の兄。音信不通の女の子を札幌まで追いかけて行った高校生の兄。楽しいことや仲間を作ることを自ら遠ざけるように本やマンガに熱中し、ただ時間だけが過ぎてしまった大学生の兄。僕は、兄をずっと見てきた。彼は小学生の時から、たった一人の女の子を追い続けている。色鮮やかな小さな木箱に、そのときの心が色褪せることがないように大切にしまってある。それは、静かで激しい。いつか会える。そのことだけを信じて来たのだ。兄はその女の子がいない人生が、自分にはまったく無意味なものだと証明するかのように太り続けた。

最初は、母の実家で祖母が作ってくれたみたらし団子だった。「好きなだけ食べなさい」と言われ、家族全員分の二十本を一人で食べた。例えば、壊れたオートマチック車が暴走するように、あるいは、壊れたエアコンが部屋の温度を下げ続けるように、兄は食べ続けた。母や祖母は心配することもなく、何本ものみたらし団子を与えた。

息子がたくさん食べるのがそんなに嬉しいのか、母はそれ以来、食べ盛りだからと言ってどんどん食べ物を兄に与えた。兄の心の変化に気付くこともなく、太る兄を成長と受けとめていた。兄のことはなんでも羨ましかった僕は、盲目的に兄の真似をした。兄は脂肪で心を被うように自分の心のうちに引きこもっていった。大好きな野球からも遠ざかり、野球仲間も皆彼から遠ざかっていった。

キララさんは兄を少しずつ変えていった。兄が信じる何かが彼女の中にあるのかも知れない。

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