第11話

「さっき、下にキララさんがいたよ」

「へえ」

キララさんと会った話題に、兄は気のないような返事をした。いつもと違う格好をした彼女が、僕は気になった。彼氏とデートか?営業か?ひょっとしたら、就職活動かもしれないけれど、この時間から就職活動するところにスーツは必要ないと思った。

「スーツ着て、どこかへ出かけたみたいだった」

「スーツ?どこへ行くんだろう?」

さっきは気の無い様子を見せていた兄は、キララさんがスーツ姿だったことが気になったようだ。スーツ姿が見てみたかったのか、いつもと違うところへ出かけるというところが気になったのか、僕には分からなかった。

「そうか。出掛けちゃったんだ」

兄はポテトチップスを口に運びながら言った。

「ああ、出掛けちゃったみたいだ」

兄の言葉を繰り返してみた。そしたら、二人きりの花火観賞会が陳腐なものに思えてきた。誘ったわけでもないのに、キララさんがここで一緒に花火を見ることを期待していた自分に気づく。兄もスーツ姿の彼女や、いつもと違うところへ行くキララさんが気になった訳ではなくて、今日ここに彼女が来ないと分かってがっかりしたのだろう。キララさんを誘いたくて、誘いたくてたまらなかったのだろう。兄は断られるのが恐くて、一緒に花火が見たいと、ただそれだけの言葉を彼女に伝えられなかったに違いない。母の言葉を思い出す。「動物を飼うのは、大変なことなのよ。動物は言葉が話せないから、お腹が空いたとか、どこかが痛いだとか、悲しいとか言えないのよ」僕たちは、動物嫌いの母のこんな言葉を何度も聞いてきた。けれど、自分の想いを口に出せないのは、動物だけじゃない。無言のまま、兄はポテトチップスを食べ、ビールを喉に流し込んでいる。空は暗くなり、いよいよ花火が始まる。僕は花火が始まる前の大きな夜空に願いを込めた。誰にお願いすればいいのかは分からなかったが、僕は手を合わせた。サンタクロースを信じている子供が欲しいおもちゃをお願いするように、星に願った。

花火はなかなか始まらず、無言の時間が流れた。ビールを啜る音やポテトチップスを齧る音と、外の喧噪とが部屋の中で混ざり合った。ビールもつまみも揃った、花火が始まるのを待つだけの暗い部屋は申し分無かった。けれど、物足りなかった。僕たちは、花火が始まるのを待っているのではなかった。キララさんがいて欲しい。その想いを止めることはできなかった。キララさんが登場するのを待っているのだ。兄も絶対そう思っている。僕たちは行き場のない苛立ちと悲しみとを、お互いに悟られたくなくて声を出せなかった。

いったい何のために花火観賞会なんてやっているのか。そんな疑問が浮かんだ。その時、玄関のドアが開いた。

「来ちゃった」

スーツを着てポニーテールにしたキララさんが立っていた。手にはビールやチューハイが入ったビニール袋を下げている。

神様は本当にいるのかもしれない、と僕は思った。さっきまでの陳腐な光景が一転する。暗い部屋の中で呟くように光るオーディオやハードディスクレコーダーの液晶パネルが、妙に神秘的に見えてくるから不思議だ。なかなかこの部屋もムードあるじゃん、と思えた。部屋全体が呼吸を始めたように生命感が沸いてきた。

パンツしか履いていない自分の姿に気がつき、慌ててスウェットのズボンを探した。兄は椅子から落ちた。腰骨を手で擦りながら短パンを探していた。

「そのままでいいよ。私そういうの全然気にしないから。私が勝手に来たんだから、君たちは裸のままでいてよ。私も着替えてくるね」

キララさんは、ビールを置いて自分の部屋へ行った。

何かの駆け引きに勝ったような誇らしげな顔を兄はしている。体中の毛穴から何かが湧き出ているように、体毛が逆立っていた。ミーシャのしっぽを思い出した。この展開を兄は期待していたに違いない。母に言ってやりたかった。動物は、嬉しい気持ちは隠すことはできないんだよ。動物は嬉しさだけを精一杯表現するから、飼う人は動物を愛し続けられるのだと。

兄は、好きだった女の子への気持ちを閉じ込めた囲いの中から、キララさんという外の世界へと一歩踏み出したのだ。もう、元には戻れないかもしれない。女の子への想いを過去へと追いやってしまうかもしれない。それでも兄は、キララさんという刺激的な世界を見ようとしているのだ。

再び現れたキララさんは、ピンクの少し大きめなTシャツにデニムのショートパンツ姿で、髪はポニーテールのままだった。僕と兄の間に用意した椅子に座り、夜を見つめた。

「あっ」

キララさんが花火を見つけた。見損なった僕と兄は、次に咲く花火を見損なうまいと遠くの夜を見つめた。遅れて花火の打ち上げ音が低く響く。

「もっと、右の方だよ」

彼女が得意気に言う。

「あっ」

今度は兄が言った。

「ほらっ」

彼女の声が兄の声に重なった。小さい輪が浮かんで消えた。

街の灯りでほのかに明るい夜空に、小さい輪が灯って消える。次の輪が開く頃、夜空全体を覆う透き通った膜を大きな鉢で叩いたような、重低音が真上から落ちてきた。

「花火を水槽に閉じ込めたみたい」

キララさんは、椅子の上で膝を抱えて座っている。兄は白いお腹を突き出して寝そべっている。三人の秘密ができたみたいで、僕は嬉しかった。来年もこの行事が三人で行われますようにと花火に向かって祈っていた。

「今日、私、ここに来ちゃって良かったの?」

キララさんは、ひざを抱えたまま言った。

「キララさんこそ、こんなところでこんなことをしていていいの?どこかへ行くんじゃなかったの?」

「えっ、どうして?」

「スーツ着てたから……」

少し俯く彼女に戸惑いながら、僕は言った。

「おかしい?」

僕と兄の間で、彼女は短く答えた。

床に置きっぱなしにした携帯電話や、この間買ったipodが暗闇の中で静かに呼吸をしている。キララさんは、左手で膝を抱え、右手でピンクのマニキュアを塗った足の指をいじっている。僕も釣られて足の指をいじる彼女の指先を眺めた。兄は黙っていた。いつものキララさんみたいに「似合うでしょう?」とか、「どこそこで買ったの」とか、「安かったの」とか、人の返事を待たずに話し続けるのだと、僕は思っていたのかもしれない。

「おかしくなんかないですよ」

僕に代わって兄が返事をした。今日の花火観賞会に誘う勇気が無かった兄は、キララさんが来てくれて舞い上がるほど嬉しかったはずだ。けれど、それをうまく言葉にできないでいる。その不器用さは、見ているこちらがイライラするほどだった。ひょっとしたら、彼女だって、来て欲しかった、と言ってもらいたいのかもしれないのだ。できることなら、兄の背中を押してやりたかった。「今日、来てくれて嬉しかった」という一言を上手く伝えられない兄と、何かを言って欲しいキララさんとの想いの渦が、部屋の中を回り続け窓の向こうへ蝶々のように羽ばたいてゆき、やがて遠くで広がる小さな輪となった。

赤や黄色や青色に瞬く花火は、その後十分くらい続いて終わった。キララさんは、しばらくそのままの姿勢で、夜空を眺めていた。僕たちもそのままいた。目覚まし時計の時を刻む音が小さく聞こえた。もう何も出てこないことに納得したのか、彼女は合図をするように僕たちを交互に見た。

「こういう花火もいいね」

彼女は、部屋に干してある僕たちのパンツを眺めながら言った。

「ええ」

僕も自分のパンツを見ながら言った。

「なんか、線香花火をやっているような秘めた感じがする」

「線香花火かあ」

ホルスタイン柄を見ながら、僕は呟いた。さっきまでの俯いたキララさんはどこかへ行ってしまっていた。

「秘密の花火を内緒で楽しんでいるって感じがして、ドキドキしちゃう」

笑顔で言うキララさんは、天使のように見えた。

「赤のハート柄はアーニの趣味なの?」

「ええ?」

不意を突かれた兄は、照れてしまって言葉が出なかった。

「全部、僕がインターネットで注文したんですよ」

インターネットでは、何でも買える。ネット通販を使うために、僕はネットバンクに口座を作った。キララさんはちょっと唇を尖らせると、感心したように顎を突き出して何度も頷いて見せた。

「遠くでやっている花火をベランダから見たことは何回もあるけど、こうやって部屋の中を暗くして、準備してみるのは初めて。やっぱり秘密っぽいよ」

話を花火に戻した彼女は、僕たちの演出に満足したように言った。胸の中で花火のような重低音が鳴った。こういう例えは変かもしれないけれど、初めてエロ本を買ったときのような興奮と嬉しさに似ていた。

「ねえ、トッちゃんはどんな仕事してるの?」

「普通の営業マンですよ」

「ふうん」

小動物が見たことがないものに出会った時のように、少し首をかしげてキララさんは部屋のあちこちを見て回った。

「何売ってるの?」

例えば、僕の営業成績が突然トップに躍り出ることが絶対にないのと同じように、昨日まで無かったことが今日起こることは、すごく稀なことだ。こうやって、キララさんが僕たちの部屋へ来て、花火を見て、どうでもいい話をするという日が僕たちに訪れるとは思ってもみなかった。感動に浸りながら、僕は答えた。

「クリエイティブな商品かな」

社長はいつも「夢を売る商売だ」と訓示をたれる。「限られた枠の中で、どれだけ人々を惹きつけられるかが我が社のポテンシャルなんだ」と檄を飛ばす。僕も最初はそう思った。経営者がそういう訓示を垂れるのも悪くない。でも、その実態は、従業員四十人程度の小さな印刷会社で、企業から直接仕事が取れることはほとんどなく、大きな印刷会社の下請けをしているだけの町の印刷屋だ。部長がいつも繰り返す「これからはデジタルだ」も、もう世間では当たり前すぎて死語になりつつある。今じゃ、デジタルじゃないところなんかないのに、いつまでも「デジタル」が最新鋭だと思っている。僕のいる営業一課は、ついこの間、デジタルソリューション部に名前が変った。仕事の中身は全く変らない。以前も今も、きっとこれからも現場からあがってきたマッキントッシュのデータを大きな印刷会社に届けるだけだ。その印刷会社の担当者は、いつもクライアントから怒られた十倍の勢いで僕を罵る。それも全然変らない。

「なにそれ?」

「おかしいですか?」

「て言うか、トッちゃんがクリエイティブって想像できないんだもん」

デブだと創造的な感性も否定されてしまうのだろうか。

「実は、デジタルプランナーなんですよ」

僕の名刺にはそう刷られている。もちろん、部長の趣味だ。

「えっ?どんな仕事?」

「人の心を癒すことかな」

「誰を癒すの?」

「お得意先の担当者ですよ」

「へえ、楽しい?」

キララさんは、あまり印刷会社のことはわからないようだった。

「癒している間は、辛いですね」

彼女が信じるとは思えなかったが、僕は自分を癒し職人というところに落ち着かせておいた。得意先の担当者のストレス発散には役立っているはずだ。

女の人とこんな話をしている自分が不思議だった。女の人は、もっと綺麗な話ばかりするのだと思っていた。どこの服が可愛いとか、あそこのパスタが美味しいとか、ファッション雑誌やグルメ雑誌のようなことばかりを女性は話すのだと想像していた。

「会社に好きな人はいないの?」

キララさんは、ビールを啜りながら聞く。

「いませんよ」

「アーニはどうなのかな?」

会話に参加しない兄を気遣って、キララさんは矛先を兄に向けた。兄は黙ったまま、笑っている。

「兄にはずっと好きな人がいるんですよ」

僕がそう言うとキララさんは「ふうん」と言って兄の太くてごつい脚を見つめていた。キララさんは、抱えていた脚を投げ出して、背伸びをする。Tシャツが上がり、スッキリと平らなお腹が露になる。ちょこんとついたおへそが覗く。胸の膨らみがとても柔らかそうだった。

「このまま僕が抱きついたら、どうします?」

今度は僕が聞いた。

「信用しているもん。君たちはそんなことしないよ」

僕たちを試すように言うキララさんの顔は、白い歯がこぼれるようなアイドルスマイルだった。僕たちには女を襲う勇気なんかないことを見透かされているようで、少し恥ずかしかった。

昨日までは無かった会話が、今ここで交わされている。今が離れて行かないように何かを必死に掴んでいたいのだけれど、何をどう掴めばいいのか、僕には分からなかった。

「私ね、今日男の人の親に会いに行ったんだ」

彼女はさっきと同じように、足の指をいじりながら言った。

キララさんには好きな男の人がいたのだ。そう思うと、心臓がギュッと締めつけられた。いきなり癌の告知をされたような、明日の存在を否定されたような苦しさだった。兄は、飲み干した缶ビールを指先で潰した。

「え?結婚するんですか?」

「ううん」

「しないんですか?」

そんなことを心配するような間柄ではないことは分かっていた。けれど、僕は聞かずにはいられなかった。

「できなかったの」

「え?」

溶け込んで来た夜は蒸し暑く、湿気が体中に張りつく。背中を汗が流れる不快さに今頃気がついた。

「仲良くしていた男の人にね、親に会ってみるかって言われたから行ったの。そしたら、教えてくれた住所に彼の家は無かったの」

どこかで聞いたことがある話だった。もう少しで零れそうな涙が、キララさんの目にたまっていた。でも僕は、少し安心していた。

「それで、その人の携帯に電話してみたの。そしたら『シャレだよ、本当に行ったの?』なんて言われちゃって。笑ってた、そいつ」

表面張力が切れたコップの水のように、キララさんの頬を涙が流れた。心臓が締めつけられる思いだった。

「そんなの許せないよ」

兄は小さく言った。

「そんなのダメだよ」

もう一度言った。真顔だった。でも本当は、その男に対して言ったのではないことは分かっている。かつて訪れた札幌で、会えなかった同級生に言いたかったのだと僕は思った。

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