第9話
名古屋駅のツインタワーの展望台にキララさんと上った。小粒な名古屋の街を見て、彼女ははしゃいだ。キララさんと僕は、アウトレットモールで会って以来、たまに二人で出かけるようになった。「矢場とん」が食べたいと言われれば矢場町まで連れて行き、「ひつまぶし」が食べてみたいと言われれば熱田神宮まで連れて行った。
「なんか、トッちゃんとデートしているみたい」
「え?デートじゃなかったんですか?」
「えー、トッちゃんとデートお。じゃ、何か奢ってよ」
「そう来るか」
彼女は最初、僕のことをオトウトくんを略してオットットくんと呼んでいたが、その後、トットくん、トッくんと変化し、最終的には「トッちゃん」で落ち着いたようだ。兄はアニくんから「アーニ」と変化した。僕たちは「キララさん」のままで通した。だから、お互いに本名を知らないままだった。
「植田の方はどっち?」
「あっちですかね?」
僕は、緑区の給水塔が小さく霞んで見える方角を指差した。
「へえ。私たちのマンションは分からないね」
彼女は子供のようにガラスに顔をくっつけて見ている。
下を覗くと航空写真のような街に豆粒のような自動車が動き回っていた。
「万博会場はどっち?」
「あっちだと思いますよ」
東側を指差して見せた。
東山の森の辺を見て、キララさんは頷いている。万博はもっと向こうの方だと言いかけて、どうでもいいことに気がつき、言葉を飲んだ。眼下には、おもちゃのような名古屋城が見えた。
「ねえ、今度万博行こうよ」
遠くを見るのが飽きたのか、彼女はくるりと室内に向いた。
「きっと、混んでますよ。何も見られないですよ」
「いいじゃない。せっかく名古屋に住んでいるんだから、行っておかなきゃ」
「そんなもんですか?」
「そんなもんだよ」
呆れるほどあっけらかんとしたキララさんにそう言われると、本当に行きたくなるから不思議だ。けれど、口から出たのは思ってもいない言葉だった。
「兄を誘ってやってくださいよ」
「アーニ行くかなあ?」
ミーシャのしっぽのように素直になれたら、もっとキララさんに近づけるのかもしれないと思うと、そうできない自分が恨めしかった。この真昼の超高層ビルの中で時間が止まってしまったら、それはどんなにか幸せだろう。さっきまでキララさんが眺めていた東山のタワーは、青い空に突き刺さすように建っていた。
毎年、七月の下旬に花火大会が催される。一時間半くらいの時間をかけて大小さまざまな花火が夜空で開くのだ。丘の上に建つこのマンションからは、ちょうど障害物がなく窓の真ん中にに小さな輪が浮かぶのが見える。光って消える色とりどりの輪は、小さいけれど何か惹きつけるものがあった。一瞬起こる化学反応は、宝石のように綺麗だ。忘れてしまっていた子供の頃の夢や決意を、一つひとつ思い出させてくれる。遅れて届く打ち上げ音が、ここが遠く離れた丘の上のマンションだと気がつかせてくれた。
僕たち兄弟は、この花火を毎年マンションの部屋で鑑賞することにしていた。窓枠の真ん中に小さく浮かぶ遠くの花火を、パンツ一枚でビールを飲みながら楽しむのだ。
夕方、僕が窓をサッシから外して花火観賞会の準備をしていると、キララさんが道路からこちらを見上げていた。彼女は、いつもとは違う雰囲気だった。どこへ行くのか、髪を後ろでとめて茶色いリボンで飾っている。それにスーツを着ている。紺色の上下に胸が少し開いた白いブラウス。靴は良く見えないけど、踵がある黒い靴を履いていたと思う。
「何やっているの?」
窓枠を持った僕を、彼女は不思議そうに見上げていた。
「もうすぐ花火が始まるから、鑑賞会の準備をしているんですよ」
「へえ、そこから花火が見られるの?」
僕に声が届くように、キララさんは声を張り上げた。僕が頷くと、道路にいる彼女は、ニッカと唇の端を引っ張ったような笑顔を作り、手を振って駅の方へ歩いていった行った。そう言えば、今日はミーシャを預けて行かなかったな、と思いながら坂を下りて行く彼女の後ろ姿を見送った。
空には、少しずつ闇が落ちてくる。早々と裸になった兄は、椅子に浅く座って脚を投げ出している。僕も裸になって、ビールとポテトチップスとカラムーチョを用意した。照明を落とすと、夜が溶け込んでくるように部屋の中は暗くなった。僕たちだけの空間と夜の闇とが一体化する様子は、宇宙遊泳を連想させた。
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