第5話

小学六年生のときに兄は人が変わった。兄の異変は、二つの症状をもっていた。ひとつは、もうすぐ中学生になるという三学期に、急に引きこもりのように無口になり、友達付き合いが少なくなったこと。もうひとつは、とにかく食べるようになり、あっとう間にデブになったことだ。食べ盛りの息子が良く食べることに、母は何の疑問も持たず、食べ物を与え続けた。それが兄の心の変化によるものだとは、誰も気が付かなかった。異変が起こる以前の兄は、今からは想像もつかないくらいスマートで、スポーツマンで、クラスの人気者だった。兄は体重が増えるのと反比例して、笑顔と口数とが減っていった。

兄は高校一年生の時、北海道へ旅行に行ったことがある。その頃の彼は、人付き合いはほとんどなく、孤独な高校生だった。体型も今と変わらないくらい巨漢になっていた。

「北海道なんて遠いところに一人で行くなんて、ダメに決まっているでしょう」

母は一蹴した。

「小学校の時から仲が良いやつがいるから、そいつと行く」

そう言って兄は母を説得した。その頃つき合いのあった唯一の友人を説得し、小学生時代からのお年玉を貯めた預金を全て下ろした。夏休みに兄とその友人は、六年生のときに札幌に引っ越して行った女の子を訪ねて行ったのだ。けれど、札幌にその女の子はいなかった。女の子と再会することだけを考えていた二人は、初めて訪れた北の地で途方に暮れたに違いない。

「札幌にいる子が案内してくれるから大丈夫だよ」

何しに札幌なんかに行くんだよ、と尋ねた僕に兄はそう言った。会えなかったときにどうするのかと僕も聞けば良かったのだが、久しぶりに見る兄の楽しそうな笑顔と、活き活きした目とに圧倒されて言えなかった。兄もそんなことは、考えたくなかったに違いない。他に当てもない二人は、女の子を探し出すことは出来ず、札幌に一泊しただけで帰って来た。母も父も、どうして行く前にその子に連絡をしなかったのか、と兄の浅はかさを責めた。

「その子からは引越のはがきが送られてきただけで、それ以来音沙汰がないんだよ。こちらから何度も出したんだけど、返事が無かったんだ。だから、どうしているのか確かめたくて行ったんだよ。もしも、会えたらその子がビックリするだろうなと思ってさ、内緒にして行ったんだ」

小さな子供のように俯いた兄は、涙目で弁解をした。

札幌の住宅街を歩き回って探したのだと兄は言った。何度見ても、はがきに載っている住所は、目の前にある家なのだけど、表札には全く違う名字が書いてあったらしい。その夜、兄たちはホテルの部屋で札幌の地図を広げた。それらしい住宅街を探したけれど、再会するはずだった女の子の家の住所は、違う家族の家だったのだ。次の日、最終の飛行機を予約した兄たちは、千歳行きの電車に間に合う時間まで札幌で女の子の家を探した。兄はきっと必死だったのだと思う。

兄はその女の子のことが忘れられない。

小学生の時も、女の子がいなくなってしまった後の中学生時代も好きでい続けたに違いない。何度手紙を出しても返事のないことに疑問を持ちつつも、出会えれば、昔のような二人になれると信じていたのだろう。

同じような家が立ち並ぶ、迷路のような住宅街を何度も歩いた兄たちは、もう目を瞑っても歩けるほどになっていたに違いない。けれど、彼女の家は見つからず、二人とも無言で帰って来た。

捨て猫事件のとき、夜の団地で兄と女の子とが会っている横にいた僕は、何も分からず退屈をしていただけだったけれど、この時には兄の気持ちが少しは分かる中学生となっていた。差し詰め兄は、その女の子に再会できたら小学生時代の自分を取り返せるとでも思っていたのだろう。すっかり変わってしまった自分を、兄は捨て去りたかったに違いない。スポーツマンで、クラスの人気者だった自分を取り返しに行ったのだ。変わり果てた自分の姿をその子に見られても、その子に会うことで、自らかけた魔法を解こうと思っていたに違いない。

魔法を解くことができなかった兄は、それまで以上に症状が悪化した。一緒に行った友達とも交流が途絶え、ますます孤独になった。クラブにも入らず、アルバイトもせず、かといって家の中に引きこもるわけでもなかった。まるで、夢遊病者のように不思議な存在だった。映画やテレビドラマや本に夢中になり、人との交流は最小限にしていった。学校では、オタクとして位置付けられ、特別仲が良い友達もいなかったようだが、いじめられることもなく、話題が合えば話し掛けられていたようだった。その話を担任から聞いた母は、溜息をもらしながらも安心していた。

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