第3話
彼女のドアだけが違って見えた。今度会ったときには彼女を何と呼べばいいのかと思いを巡らすことは楽しかった。彼女の黒いつやのある髪や大きく人懐こい瞳を思い浮かべて、似合う名前を考えるのは悪くなかった。
五月だというのに、日曜日の夕暮れ時の部屋の中は息苦しいほど蒸し暑かった。そのサウナのような部屋の中で、服を脱ぎ捨ててコーラを啜るのが僕は好きだった。気がつくと、彼女のことを考えていた。彼女はどこから来て、そして何のために来たのか。考えるだけで溜め息が出た。トランクス姿で彼女のことを考えていると、玄関のチャイムが鳴った。
物思いから引き戻された僕は、スウェットを探した。月に一回やって来る換気扇フィルターのセールスか、町内会費の集金がやって来たのだろう。そう思って扉を開けると、そこに立っていたのは、猫を抱いた女性だった。スウェットのパンツを履いていてホッとした。
「こんにちは。お願いがあるんだけど、少しいい?」
そこに立っている女性がキララさんだと気づくまでに少し時間がかかった。部屋の照明に照らされた彼女の顔は、まるでコラージュ写真のように浮き上がって見えた。彼女の後ろに広がる紫色に染まった空と、彼女の顔とがアンバランスだった。彼女が換気扇フィルターを売りに来たのではないことはすぐに分かった。ついこの間ここに引っ越して来たばかりの彼女が町内会費の集金にやって来るはずがない。猫が彼女の腕から逃れようと、肩に爪を立てている。宗教の勧誘なのか?ひょっとしたら、彼女は本当に生命保険の加入を迫りに来たのだろうか?だとしたら、やはりうまいことやってくれる医者を知っているのだろうか?
どう考えても、彼女がここへ来た理由が僕には思い当たらなかった。無理矢理腕の中に引き戻された猫は、何ごとも無かったような顔をしている。
「この猫ね、ミーシャっていうの」
訪ねられた理由を推し量っている僕に気を使うこともなく、彼女は話しかけてきた。まるで大学時代の友達が家にやって来たのではないかと思うほど親しげだった。そういうことに、僕は免疫がなかった。キララさんを見ていいのか、抱いている猫を見ておけばいいのか、わからなかった。猫のグレーの毛並みが、部屋の照明で白く光っていた。猫は、ちょっと物欲しげな目を僕に向けて、すぐにそっぽを向いた。少しあどけなさが残る体からすると、きっとまだ成猫ではないのだろう。
「君はサラリーマン?」
言葉の最後をツンと持ち上げるような声で、キララさんは喋った。僕の返事を待たずに、彼女は話を続けた。
「だったら夜は家にいるよね?私、夜はいないの。いることもあるんだけど、ほとんどいないの。この猫ね、昼間は私がいるから大丈夫なんだけど、夜は誰かがいないと寂しがるの。夜だけ預かってもらえないかな?」
「はあ?」
まだどこを見ていれば良いのか分からない僕は、Tシャツの上から少し透けるブラジャーに吸い寄せられた。どうして猫の預け先にうちを選んだのか聞いてみたかったが、口から出すことはできず、兄に相談してみないとなんとも言えない、という内容のことを煮え切らない態度で答えていた。僕が話している間、彼女は猫に顔を近づけ、話しかけるようにしていた。頭の中は、ブラジャーの中に隠されている柔らかい膨らみを想像していた。
彼女の親しげな態度で、僕は興奮した。僕たちに気があるのではないか?僕だろうか?兄だろうか?キララさんの胸の膨らみが頭から離れなかった。二人で生活する姿を思い浮かべると、口元が緩んだ。
「じゃ、今晩だけでも預かって」
彼女のツンとした声に、僕は空想から引き戻された。戸惑う僕のことは全然おかまい無しに、彼女はミーシャを置いて行った。猫を抱き上げると、しゃがれた声でミーシャが鳴いた。こんなものどうするんだ、と言う兄の顔が浮かんだ。兄は昔から僕以上に誇り高き肥満だから、出会ったばかりの女性と親しくすることにあまりいい顔をしないだろうとも思った。その場で突き返すことだってできたが、僕はそうしなかった。猫が死ぬほど好きだと言いたいところだが、猫がいればまたキララさんに会えるという打算が勝ったというのが本当のところだ。置き去られた猫を見つめ、口元が緩んでいる自分に気がついた。
キララさんには彼氏はいるのだろうか?と気持ちを揉んでみたが、そもそも独身かどうかも知らなかった。兄の顔がまた浮かんだ。もう一度、ミーシャを見た。部屋の中の様子を窺っているミーシャは、少し寂しそうに見えた。「預かれない」と兄は言うに違いない。生き物を飼うことは大変なことだ。昔、母がよく口にしていたことだった。
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