第2話

 マンションから駅の方へ坂道を下る途中にある、「せっちゃん」という古い定食屋を僕たち兄弟はよく利用する。昼間はワイドショー、夜はドラマばかり観ているおばちゃんが一人でやっている小さな店だ。キララさんと出会った明くる日、せっちゃんでの僕らの話題は、彼女のことばかりだった。ニキビだらけの高校生が告白の作戦を練るように何度も同じ話を繰り返していた。

「キララさん可愛かったな」

僕たちは、キララさんの登場に舞い上がった。嬉しさのあまり、兄はごはんを5杯もおかわりをしたほどだ。

「生命保険の人かな?」

僕たちに話しかけてくる女性といったら、それくらいだった。けれど、それだって少し考えれば無理だってことはわかる。僕たちの健康診断の結果はいつも最悪だ。会社で行われる健康診断の結果シートは、どの項目も土砂降りマークだった。晴れ、曇り、雨、土砂降りマークで四段階に健康状態が表されているそれを手渡すとき、必ず部長は僕を呼び止める。

「人事からお前には残業をさせるなと勧告が来ているんだよ。もっと痩せてくれよ」

毎回、人事から届く勧告文を部長は声を上げて読み上げる。残業をされて突然死でもされたら、社会から何を言われるかわからない。つまり、会社が困るというわけだ。けれど、そうする部長を特に恨めしく思ったことはなかった。むしろ、残業をしなくて済む大義名分が公表されて助かっているくらいだ。

 きっと僕たちは健康診断書で引っかかってしまって、普通に生命保険の契約をすることができないだろう。もちろん、わざわざ健康診断なんてしなくたって、体型を見ればわかる。どこから見ても糖尿だ。

会社によく来る保険会社のおばさんは、男性社員のほとんどを契約させていた。なかなかやり手だと評判のそのおばさんは、加入者のほとんどを新入社員の時に契約をさせているというもっぱらの噂だ。うちの会社に入社する男性は、最初に彼女の洗礼を受けるというわけだ。だから、おばさんの契約の手口をみんなはよく知っている。洗礼を受けたことがなかった僕は、一体どんな手口なのか興味があった。

その手口を聞く機会は意外と早く訪れた。同期会で話題になったのだ。話を聞けば、大したことはなかった。

「えっ?お前保険入ってないの?」

「俺?入ってないよ。こんな不健康じゃ入れられないんだよ」

「じゃ、保険のババアのこと知らねえんだ」

「ババアのことは知っているけどさ、申し込みを迫られたことはないよ」

「いいなあ。俺なんかよ、十秒でダウンよ。十秒だよ。すぐに判子押したって」

同期の田中は既に泥酔状態で、自分の武勇伝を披露し始めた。

「それがさあ、部屋まで来やがってさ、あのババア」

「そうそう。人の家まで来るんだよな」

串盛り合わせの砂肝を右手で振りながら、鈴木が合いの手をいれた。

「それでよ、散らかっているからとか、出かけるところだとか言い訳をするんだけどさ、通用しないわけよ」

田中は唾を飛ばしながら怒鳴るような声で話す。

「そうそう。無理やり上がり込んで来るんだよな」

鈴木が割り込んで喋る。まだ一口も食べていない砂肝を、相変わらず振っている。

「『散らかっていることくらい分かっているわよ。何年この仕事してると思ってんの』とか言っちゃってさあ」

全然似ていない物マネで、田中と鈴木は盛り上がっている。

「そうそう。『おばさんさ、あんたたちが赤ちゃんのときからやってんだから、そんなこと気にしなくていいわよ』とか言っちゃてよ、部屋の中とか、浮気の証拠見つけるように眺め回すわけ」

それだけなら単なる名物おばちゃんで済むのだが、彼女の場合これだけではないらしい。

「それでさあ、まるで恋人みたいにさ、ベッドの上とかに座り込むんだよな」

「そうそう。そんで、上着とか脱ぐんだよな」

「ウッゲー。なんか思い出しちゃったよ、俺」

「あははは。その下、何だと思う?」

鈴木は砂肝を一気に食べると、ビールで胃袋に流し込んだ。

「胸の大きく開いたスケスケのブラウスだよ。ブラジャー丸見えだよ」

僕の頬に顔を目いっぱい寄せて、田中はポン引きの兄ちゃんの口調で楽しそうに言った。

「そうそう。なんかさ、鎖骨の辺とか干からびててさ、萎れてるって感じすんの。ブラジャーしててくれて本当に良かったよ」

「あんなもの無理やり見せつけられてさ、そんでもって、急に上目づかいになって、しなだれかかって来られてみー」

「ギャハハハ」

鈴木が突然、切れたように笑い出した。

「判子押しちゃうって、フツー。十秒だよ。十秒。それ以上は耐えられねえよ。鈴木は何秒もったわけ?」

「俺?おれは一分は耐えたと思うよ。でもさ、一分が限界だよな。抱きつかれっちゃったりしたら死んでたよ、俺」

「まだオカマの方がいいよな」

本当に全員がそんな目に遭っているかどうかはわからないけれど、経験した者たちによって語り継がれ、社内では口さけ女のように伝説となっている。

 そんな干からびたスケスケも、僕のところには勧誘にはやって来るが、迫ってはこない。健康診断でダメ出しされるから、と僕が言うと「大丈夫よ。うまいことやってくれる医者を紹介するから」といつも言うのだけれど、その先に話を進める気はスケスケにはないみたいだった。

 僕たちに生命保険は無理だ。ひょっとすると、とろけるようなドラマが僕たちを待っているかもしれない。そう思うと、僕の体の一部がピクリと動いたが、ごはん茶碗を左手に持ったまま、口を半開きにしてテレビに熱中している兄を見て、僕たちには関係ないか、と思い直した。ただ、このマンションに住む女性と交流ができたことが、僕は嬉しかった。

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