ミーシャがいた夏

桜本町俊

第1話

 彼女の本名を、僕も兄も知らない。「キララ」という文字が書かれた紙が、彼女の部屋の表札プレートに挿み込まれているのを知っていただけだ。

彼女に初めて会ったのは、五月のよく晴れた土曜日の夕方だった。僕たちが少し早めの夕食を済ませて帰って来た時、これから出かけようとする彼女とマンションのエントランスで出くわしたのだ。オレンジとブルーのグラデーションを描いた空には、小さな雲がひとつ、寂しそうに浮かんでいた。

ジャージ姿で、赤いルコックのスニーカーを履いていた彼女は、高校生のように見えた。肩甲骨の辺りで切りそろえられた黒いつやのある彼女の髪は、エントランスの淡い照明に照らされてとても綺麗だった。大きな目を瞬きもせずにこちら見ている彼女の顔は、思わぬ再会に驚いているように見えたけれど、彼女の顔に心当たりはなかった。

 目の前の小柄な女性をやり過ごそうとして、マンションの住人がよくするのと同じように、僕たちは取りあえず会釈をした。

「君たちは、このマンションに住んでいるの?」

こぼれそうなくらいの大きな瞳をこちらに向けて、大人が子供に話しかけるように彼女は言った。

「はあ。このマンションに御用の方ですか?」

「私、今月のはじめにこのマンションの二階に引っ越してきたばかりなの」

この女性と知り合いだったのだろうかと、僕は自分の記憶を辿ってみたけれど、僕の記憶にこの女性の顔は無かった。

「僕たちも二階ですよ」

女性から親しげに話しかけられることに、今年三十五になる兄は慣れていなかった。

兄は体重百六十キログラム、身長百八十センチ。僕は、体重百五十五キログラム、身長百七十八センチ。僕たちは巨漢だ。二人で名古屋場所の相撲部屋を見学に行った時、取り巻いていたおばさんに、サインを求められたくらいだ。階段を上がればふうふうと息を上がらせ、肌寒い季節にも汗をかく。僕たちに気さくに話しかけてくれるのは、良く食べる人を見ると無意味に喜ぶおばあちゃんと母だけだ。二人で並んで歩くと、僕たちはどこへ行っても周りの人々の好奇の視線を集めた。そして、誰もが僕たちから慌てて視線をそらす。会社の女子社員は、一歩引いて話をする。この間行ったショッピングモールでは、小学生になるかならないかくらいの女の子が、防犯カメラが追尾してくるように、僕たちが通り過ぎるのを目で追っていた。口につけたままのハーゲンダッツのチョコアイスが溶けだしていた。一緒にいた父親は娘のチョコだらけの手元を見て我に返り、小声で注意をしていた。

 そんな僕たちの体型にも兄の不審そうな顔にも、エントランスの女性は全く動じていないようだった。

 兄は独身だ。家で内職をしている。どの製品のどの部分かもわからない小さな部品を、それ専用の機械で組み立てるのが彼の日課だ。他人に対して決して心を開かない引きこもり人間だ。他人と話すときは、いつも伏し目がちだし、相手が女性だと俯いてしまって、まともに相手の顔が見られないのだ。

 けれど、そのときの彼は堂々としていた。顔を上げ、背筋を伸ばして会話をする姿に僕は驚いた。何が彼にそうさせたのかは分からないけれど、それは絵本の中の太ったお父さんのように滑稽だった。ひょっとしたら三十五歳で童貞の兄は、彼女を異性として意識していたのかもしれない。

「同じ階なの?」

確かめるように、ジャージ姿の彼女は言った。それから少し微笑むと、満足げにうなずいて「よろしく」とだけ言って、エントランスを出て行った。

 僕の心は踊った。僕たち二人に初対面の女性が声をかけてくるなんて奇跡だ。僕は今年三十三歳になる。やはり独身だ。兄とは対照的に、僕は社交的な人間だと見られることが多い。そりゃ、そうだろう。そう見られるように振舞っているのだ。平たく言えば、お笑い担当だ。みんなも僕にそれ以上の活躍を期待していない。子供の頃からそうだった。みんなから飽きられないように新鮮なネタを探すことを日課として、僕の学生時代は過ぎた。三十路となった今も、それは変わらない。

 エントランスから彼女を見送ると、僕たちはお互いに顔を見合わせ、大急ぎで彼女の部屋の前まで行って表札の名前を確かめたのだ。それがキララさんとの最初の出会いだった。

「これが表札?」

表札プレートに挿み込まれているその紙を見て、僕はひとりごちるように言った。

「これ、スーパーの広告だよな」

九十八円という大売り出しの朱字が透けている表札は、スーパーのチラシの裏紙だった。

 紙が黄ばんでいるのか、プレートが黄ばんでいるのか分からなかったけれど、それは色褪せてみすぼらしかった。

「まさか、これが本名でもないだろうしな」

吸い込まれるように表札に見入っていた兄が言った。

「今どき手紙なんか来ないんだから、これでいいんじゃないのか?」

高校生が好んで書くような、アンバランスでへたくそな文字で手書きされた「キララ」という文字を、僕たちはどこまでも透き通った水中奥深くに沈む何かのように、不思議な気持ちで見つめた。その向こう側に、大人が住んでいるとは思えなかった。

「いや、郵便は一階の郵便受けに入るんじゃないのか?」

兄にそう言われて、一階の郵便受けも探してみたけれど、彼女の名前はそこにもなかった。彼女の名前に関する情報はそれだけだった。結局、僕たちは彼女をキララさんと呼ぶしかなかった。彼女とは随分仲良くなったけれど、本名は聞いたことがない。たぶん聞いても、「キララでいいよ」とはぐらかされるだけのような気がしたからだ。僕もそれでいいと思っている。ジグソーパズルの最後の一ピースのように、疑う余地がないくらい、その名前は彼女に合っていた。

 出会ったばかりの頃の彼女は、いつもジャージの上下を着ていた。普通の女の子がするようなオシャレをしている彼女を、僕は見たことがなかった。何種類かあるジャージは、よく見ると同じ色でも違うデザインのものだった。アディダスやナイキのものを着ている時もあるし、どこのメーカーだか分からないジャージの時もあった。靴はスニーカーのことが多く、赤や白や何種類も持っていた。近所のコンビニや本屋で、クロックスを履いている彼女を見かける時もあった。夕方くらいになると、ジャージ姿のままでどこかへ出掛けて行った。どこへ出掛けていたのかは、全然知らなかった。

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