本当の私
自分が作ったキャラに意識を飛ばして、仮想世界での日常を満喫するゲームが流行っている。RPGでの冒険や魔物との戦いに疲れたプレイヤーたちが、憩いを求めてこのゲームに流れてきていた。かくいう俺もその中の一人な訳で、現実世界とは程遠い、金髪ツインテールのスタイルの良い美少女キャラに身をやつして、他のプレイヤーとの交流が主目的の平和な世界を満喫していた。
木の幹を連ねて立てたような木造の小さな喫茶店。カウンター席の他にテーブル席が二つある程度の広さだ。訪れる客の大半は常連で同じ顔ぶれ。気さくなマスターと和やかな雰囲気に居心地良さを覚える。
「コーヒー、お待たせしました!」
注文の品を客席に運んでにっこりと微笑む。すると客も満たされたように笑顔を返してくれた。トレイを両手で抱えてカウンターのマスターの元に戻る。マスターは女性客からの注文を受けて、鼻歌を歌いながらフレンチトーストを焼いていた。俺がこの喫茶店「G-LOW」で働くきっかけになったのは、マスターであるジローさんからのスカウトがあったからだ。それまでは俺も常連客の一人としてマスターや店員の女の子との会話を楽しんでいたのだが、その店員の子がリアルが忙しくなったらしくて辞めてしまい、代わりとなる白羽の矢が俺に立ったのだ。マスターとしては明るく可愛い女性キャラの店員が欲しかったようで、常連の中で条件に一致しているのは俺だけだった。マスターには常連サービスとして日頃から割引やら何やらと世話になっていたので、その誘いを快く引き受けた。そんなわけで、小さな喫茶店のウエイトレスとして毎日ほどほどに忙しい日々を送っている。接客する側に回って分かったが、同じ空間に居ながらまるで話をしなかった他の客との交流も増え、客だった時とはまた一味違った心地良さが楽しめる。誰かに奉仕するというのも悪くないものだと感じた。
「イチコちゃん!トースト蜂蜜増し増しを、ニコさんの所に!笑顔増し増しでね!」
「はーい!イチコ、いっきまーす!!ニコニコー!」
出来上がった料理の皿をトレイに載せ、マスターのテンションに合わせて陽気に振舞いながら常連の元へと運ぶ。現実と違い、軽快にスキップしても手の上の皿が落ちることがないので運びながらのパフォーマンスも可能なのだ。
「お待たせしました!マスターの愛情たっぷりのトースト蜂蜜増し増しです!熱いので気を付けて食べて下さいね!」
「ありがとう。イチコちゃんもすっかりウエイトレスさんが板についてきたみたいね!エプロン姿、とっても似合うし!」
「えへへ、ありがとうございます!私がこうやって仕事に早く慣れることができたのも、マスターの人柄は勿論ですが、ニコさんみたいに温かく見守って接して下さる常連の皆さんの存在も大きいですよ!」
「ふふ、社交辞令も上手になっちゃって!」
「違いますよー!本心です!」
二人で顔を見合わせて笑い合い、手を振ってカウンターへと戻っていった。注文がひと段落着いたようで、マスターは椅子に座りながらカウンター席の男性客と話をしていた。見たところ、青い髪に整った顔立ち、マントを羽織っていかにも冒険者という装いをしている。見知らぬ顔なので常連客ではないようだ。
「マスターただいま!ニコさんすごく喜んでくれましたよ!」
「そうか!愛と情熱を隠し味にトッピングして正解だったな!ははははは!」
「ニコさんに気があるなら、もっと積極的にアプローチしないと駄目ですよ!」
「こりゃ手痛いところを突かれたか!っと、気があるといえば、こちらの方、イチコちゃんとお話したいとか。」
「え?」
マスターが席を空けて譲ってくれる。初めての顔に戸惑いはあったが、話せばすぐに打ち解けられるだろうと、その席に着いた。顔を合わせて軽く会釈をすると、相手も優しい表情で頭を下げた。
「初めまして、僕はイチロウっていいます。イチコさん…ですよね?」
「はい!イチコっていいます!常連の方からは、ちゃん付けで呼ばれることが多いですが、呼びやすいもので呼んで下さいね!私も『イチロウさん』って呼ばせてもらいます!」
「では…イチコちゃん、で。イチコちゃんはこの店は長いんですか?」
「いえ、店員を始めてから数週間ぐらいで、まだまだひよっこですよ!」
「そうですか。それでもすぐに他のお客さんと仲良くなれるのはすごいですね。」
「それはお客様方、皆常連さんなんですけど、彼らの優しさと親しみやすさに依るところが大きいんですよ!おかげで私もすぐに打ち解けられました!ここまで話してみて、イチロウさんともすごく話しやすいですから、きっとすぐに仲良くなれると思います!宜しくお願いしますね!」
「はい!こちらこそ宜しくです。」
手を差し出して握手を求めると、イチロウは笑顔でそれに応じてくれた。と、マスターが俺の腕を小突いてくる。
「『お店の方もご贔屓に!』って言わないと!」
「もう、マスターってば!」
カウンターでのやり取りが聞こえていたのか、当人たちだけでなく、店中に大きな笑い声が沸いた。
その日から、イチロウは店に毎日のようにやってきた。初めのうちは俺やマスターだけとカウンター席で会話をしていたが、次第に店の雰囲気に慣れてくると、他の常連客との交流も楽しむようになった。新しい風が常連達に受け入れられて、マスターもホッとしているみたいだ。俺自身も彼のことを心から受け入れられるようになっていた。珍しく団体客が来たときには接客を手伝ってくれたし、買出しや宅配に出た時には荷物持ちを買って出てくれたし…彼はとにかく優しい。誕生日の日には店の外で、安物だが俺に似合いそうなおしゃれ用のアイテムをプレゼントしてくれたこともあった。休日にも待ち合わせて会うようになり、遊園地や絶景スポットへのハイキングに行ったりもした。当然、恋愛感情というものを抱いた訳ではないが、良き友というか頼れる兄というか…普通よりも親密な気持ちを彼に持つようになっていた。
ある日、いつものように営業時間を終えて店の外に出て、現実世界に帰ろうとメニューを開いていると、帰りを待っていたのか、イチロウが近付いてきた。今日は特に約束の類をしては居ないはずだが…。
「あれ?イチロウさん!私に何か用ですか?」
「…これ。」
どこか緊張した面持ちでイチロウは一枚の手紙アイテムを寄越す。疑問に思いながらも中身を読んでみると、そこには地名が書かれていた。それを見て思考が停止する。
「えっ…現実の地名…え?」
夕涼ヶ公園…俺の家の近所にある小さな公園の名前だった。今まで抱いていた彼への信頼感が、音を立てながら崩れ落ちる。
「場所は分かるよね?明日の夕方、そこに来てくれないかな?勿論、向こうで。」
この男、俺の所在地を絞り込んだ上でリアルで会おうというのか?「自分はストーカーです。これから会いませんか?」と言っているようなものではないか。ただこれまでの彼の態度を演技だったと思えるほど、俺とこの男の関係は浅くはなかった。
「リアルで、会いたいってこと…?」
「うん。」
ここで拒めばどうなるのだろう。更に特定を進めて有無を言わさずに会いに来るかもしれない。通報するか?しかしもしこの男のアカウントが捨てのもので別アカウントを持っていたら意味がない。この男が俺に会いたいという感情を抱いた最大の原因は、仮想世界での女性キャラとしての俺の演技。つまり相手は俺を中身も女性と勘違いしているのかもしれない。それならばいっそ…。
「あの…期待を裏切るようで悪いけど、俺って向こうだと男だから。」
「…それでも構わないよ。向こうの君に会いたい。」
躊躇することなく、俺の最終兵器を軽く流すイチロウ。まあここで何を言っても、相手からすれば自己防衛のための演技にしか見えないか。
「絶対に後悔はさせないから。明日の夕方、ブランコのところで待ってる。」
「あっ、ちょっと!!」
一方的に約束を取り付けて、イチロウは現実へと帰っていった。突然のストーカーじみた誘いに不信感はあったが、それでも僅かに彼への信頼感は残っていた。彼の中身に興味が無いわけではないが、仮想世界同様に向こうでも上手く接することができるかという不安もあった。
「困った…。」
とりあえず刻限までには時間がある。じっくり考えてから答えを出すとしようか。
「現実世界で会おうって、無茶苦茶だよな。」
昼休み、高校の教室でゲーム好き仲間の花子と弁当を食べる。結局一人では結論を出せるはずも無く、かといって親に相談してゲームを禁止されるのも嫌だったので、彼女に相談することにした。花子は手作りの卵焼きを小さく噛み切って頬張りながら、俺の話を聞いていた。
「花子が同じ立場だったらどうするよ、これ?」
「私はか弱い乙女だから、ストーカー行為がエスカレートする可能性があっても会いには行かないなぁ。か弱いから。」
「ぶっ!誰がか弱いって?」
ショートヘアで一見すれば小さく華奢な体つきはしているが、これでも花子は女子柔道部の主将。個人競技でも上位に食い込むほどの猛者だ。
「太郎、放課後道場の方に来ようか?」
「きょ、今日は部活休みって言ってただろお前!」
笑っていない笑顔ほど怖いものは無い。一度花子の技をふざけて受けたことがあるが、体格差をものともせずにあっさり投げ飛ばされて、押さえ込みも強固で抜け出せずに、男としての面子を完全に挫かれた時があった。
「…まあ、あんたみたいにそれなりに体の大きい独活の大木君なら、相手が変質者でも力技で対応できるだろうし、会ってみてもいいんじゃない?」
「誰がでかいだけの役立たずだコラ。…でも確かにリスクとしては女性よりは男性の方が少ないのかもな。それでも相手が刃物とか持ってるとヤバイが…。」
「公園のどこにいるって指定されたんでしょ?それなら遠目から確認してみて、大丈夫そうなら出て行けばいいんじゃない?アウトなら通報すればいいわけだし。」
確かに、夕涼ヶ公園は見渡しやすい地形で、植えられた木々や公衆トイレの陰など、様子を見るのに適した隠れる場所も結構ある。
「でも、もし俺が先にやってくるのを相手が物影から逆に観察していたらどうだ?どうしようもないと思うが…。」
「もう、さっきからビビリすぎなんだよ太郎は!男なら、ずっしり構えて『闇に潜む狩人だって返り討ちにしてやる!』って胸を張っていればいいの!ていうか、危機感を感じる一方でそのイチロウ君のこと、気になってもいるんでしょ?」
「まあ、な。」
花子の言う通り、変にビビリすぎていたのかもしれない。別にブランコまで行かなくても、通行人を装って横目で確認するだけでいいはずだ。最悪イチロウが誘いに応じなかったことで暴走しだしたら、一旦ゲームを離れるのも一つの手ではある。それにあの人の良い優しいイチロウが、悪い奴だったと断定することは完全にはできない。現実の俺が男と知ってなお会いたいというのは、演技とはいえやはり俺の人柄を評価してくれたからこそだろう。俺だって人の良いイチロウの現実の姿に興味が無いわけではない。確認だけなら問題は無いだろう。
「サンキューな、花子。俺、行ってみるわ。」
「遅れるなよ。あんたは昔から時間にルーズだから。」
「俺は悪くない!敗北する時間の方が悪い!」
「はいはい、ルーズってそっちじゃないから。」
花子はペットボトルのお茶を斜めに傾けて中身を一気に飲み干した。意を決したように、俺もそれを真似して、パックの牛乳を喉に流し込んだ。
学校が終わり夕方になると、帰宅部の俺は一旦家に帰って私服に着替え、夕涼ヶ公園へと向かった。公園の立て札が見えてくると、顔を真っ直ぐ前に向けたまま、横目で公園内の様子を伺い、道をゆっくりと歩き出す。砂場には子供達、ベンチには彼らの保護者、鉄棒には小学生ぐらいの男女が数名…。狭い公園のあちこちをチラチラと観察していく。今の所それらしい人物は居ない。さて、いよいよ本命だ。ゆっくりと鉄棒の隣に設置されたブランコの方に視線を移動させる。設置されているのは二台。まずは一つ目。…誰もいない。セーフだ。となるとその右隣だが…。
「…え?」
足を止めて公園の方を向く。入り口近くの砂場を横切り、早足にブランコへと近付いていく。ゆっくりと前後に揺れるブランコの腕を掴み、動きを止めて視線を下ろした。
「お前、ここで何やってんだ…?」
「やっときた。」
俺の目の前に座っているのは、紛れも無く昼に相談を持ちかけた花子だった。彼女には確かに相談する上で日時と場所を話したが、彼女も来てくれるとは一言も言ってなかったはずだが…。
「まあ、どうぞ。座りなよ。」
「おっ、おう…。」
彼女に促されて隣の空いたブランコに腰を下ろす。小学生の時ぶりにブランコに乗ったものだから、座る部分が昔に比べて小さくなっていることに少しだけ驚いた。花子は先程までそうしていたように地面に着いた両足を器用に動かして体を前後させ、ブランコをゆっくりと揺らし始める。俺は彼女の言葉を待ちながら、前屈みの状態で膝に両肘をついて、顔の前で手を組んでいた。
「太郎…いや、イチコちゃん。予感はしていると思うけど、僕が…私がイチロウだよ。」
「…マジ?」
「マジ。」
公園の中に彼女の姿を見つけた時、俺の中でイコールが結ばれていた。彼女がイチロウであれば、俺の近所の公園のことを知っていてもおかしくはないし、俺が男だと暴露しても戸惑うことは無い。キャラ名は伏せていたものの、彼女には仮想世界ゲームでの日常について雑談としてよく話していたから、断片的な情報から向こうで俺を探すのは容易だった筈だ。だが、それなら素性を隠したまま接するような真似をしなくても、ちゃんと自分は花子だと明かしてくれれば良いのに。こうやって、来るかも分からない不信感を煽ってまで呼び出す必要も。
「んで、イチロウさんは、何で俺をここに呼んだんですか?」
ゲーム世界での口調を混ぜながら本題を切り出すと、花子は一度小さく笑い、地面から足を離して、ブランコを漕ぎ始めた。
「あんたと私って、幼馴染じゃん?昔から兄弟姉妹みたいに一緒に遊んでさ。」
「ああ、他の連中が混ざることもあるが、大体いつも二人で遊んでたよな。」
ブランコの両腕を握り、俺も体を前後させてブランコを揺する。花子は後から漕ぎ始めた俺に負けじと、一層にブランコの振り幅を大きくした。
「あんたはどう思っているか知らないけどさ、私はある時から異性としてあんたのことを意識してた。」
「…そうか。」
だから改めてここに呼び出したのか…。彼女に負けないようにブランコを漕ぎながら、言葉の続きを待つ。
「でも、この感情に疑問を抱いていた。これは本当に異性同士の恋の感情なのだろうか、それとも兄弟姉妹のような家族を愛する気持ちがそう錯覚させているだけなのか。」
「…だから、ゲーム世界でほぼ0の状態から俺と付き合おうと思ったのか。」
「うん…。」
漕ぐのをやめて、花子のブランコは次第にゆっくりと平衡状態に向けて減速する。彼女のブランコが止まる前に、俺は地に足を着いて急ブレーキをかけた。
「あんたが女の子の振りをしていたのは分かっていたから、釣り合うように男の子のキャラを作って近付いて、それで付き合いだして…。」
「気持ちに確信が持てた。」
「そう。」
花子はブランコを降りると、俺の前に立ち、不安そうな顔で胸を抑えた。
「あんたが私に対してそういう感情を抱いていないって言うのは、こっちでも向こうでも、話をしていて分かってる。でもさ、私、自分の気持ちをはっきり伝えないと気が済まなくて…。」
「花子…。」
花子は頭を下げて俺の方に右手を差し出してきた。この手を取れば、彼女の告白を受け入れたことになるのだろう。
「太郎!それと、イチコ!どうか、私と付き合ってください!!」
人目を気にせずに元気な声で、思いの全てを出し切った花子。彼女との日々を振り返る。昼食は毎日彼女と取るし、週末には一緒に出掛けたりもする。遊ぶ時だって必ず彼女が居ること前提だ。彼女は俺にとっては特別な存在だと思う。では、イチコにとってのイチロウはどうだろう。恋愛というよりも、兄や友人としての親しさが強かった。その強さの原因は、彼の中身が男だと思っていたからに他ならない。俺の答えはすぐに決まった。
「花子。」
「たろ…あっ。」
俺は花子の手を取らなかった。立ち上がり、彼女を包み込むように優しく抱き締めた。これが俺の思いの全てだ。
「俺って馬鹿だからさ、そういうのに気付けないし、ビビリで告白する勇気も無い。」
「うん…。」
「でもさ、花子とこれまで過ごした時間、お前に対して感じた心地良さ、それって本物だと思うから…。イチコだって、本当はイチロウさんが好きですよ!」
「ううっ…!」
「俺も、花子が大好きだ!これからも、宜しく頼む!」
「うあああああああ!!!!!たろおおおおおおおおーーーーーーー!!!!!!」
花子は俺の背中に手を回して、シャツをビショビショに濡らすほどに大泣きした。俺は花子の頭を優しく撫でて、彼女が落ち着くまで胸を貸した。その様子を見ていたベンチの奥様方や鉄棒の少年少女から祝福の拍手が送られ、嬉しくもどこか照れ臭かった。
「というわけで、長い交際期間を経まして、僕たち、恋人関係になりました!」
いつもの喫茶店、イチロウが俺…私との正式なお付き合いを発表すると、常連客たちからは大きな歓声と拍手喝采が返ってきた。現実世界で恋仲が成立したのだからと、花子の提案でこちらでも付き合うことになった。その際、日頃から世話になっているマスターや常連さんたちには報告だけでもしておこうと、この場を設けたわけだ。勿論リアルに結ばれたことは隠している。あくまでゲーム世界での恋愛だけの報告だ。
「美男美女の大カップル成立かぁ!イチコちゃん、末永く幸せにな!」
「ありがとうございます!サブロさんも、いつか素敵な方と巡り会えると良いですね!」
「言ってくれるねぇ!そいじゃ、ニコちゃん!早速俺と、どうだい?」
「ごめんなさい!私、心に決めた人が居るので!」
「ぶはは!!サブロさん盛大に振られたな!!」
「ちきしょー!マスター、コーヒーおかわり!」
「了解!」
シローさんに茶化されながら、サブロさんはニコさんやマスターたちと楽しそうに笑い合っている。彼らのやり取りに、こちらもつられて、イチロウと顔を見合わせて笑い合った。この日は一日、喫茶店を貸し切っての祝福パーティーとなって、参加者一丸となって盛り上がった。質問コーナーでは、告白はどちらから切り出したかとか、どんな愛の言葉を紡いだかとか、互いに好きなところを言い合ってとか…誓いのキスを見たいという無茶ぶりもあったな。全部やったけど。大盛況のままに楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
閉店後、イチロウと共にネオンの灯る夜の街を並んで歩く。現実世界では深夜帯になる頃だ。アイテムや食材、アクセサリーを取り扱うショップはほとんど閉店時間となって店の光が消えている。今営業を続けているのは、宿屋や飲食系の店ぐらいだろう。ゆっくりと歩きながら夜の町の風景を眺めていると、不意にイチロウが手を握ってきた。彼を見ると、顔を合わせようとせずに真っ直ぐ前を向いている。私も彼に倣って前を向き、手の温もりをより強く感じられるように絡んできた手を同じくらいに握り返した。彼の体が一瞬ビクッと跳ねたのが分かった。
「…イチコちゃん、これからも宜しくね。」
「うん、こちらこそ宜しくね!イチロウさん…ううん、イチロウとなら楽しい毎日が過ごせると思うよ!」
「あはは、何か恥ずかしいかも。もう少し、歩こうか?」
「それなら手じゃなくて、腕でも組む?」
「調子に乗るな!」
「えへへ!」
ふと街に響き渡る大きな音。どこかでイベントでもあったのだろうか、空には綺麗な大輪の花が咲き乱れていた。天を彩る鮮やかな花々の祝福を受けながら、明るい夜道をゆっくりとまた歩き出した。
解けることが無いように、互いの手を強く握り締めながら。
短編集:本当の私 夕涼みに麦茶 @gomakonbu32hon
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