夏休み3日目 - 1

 ここ数日の蒸し暑さに限界を感じた僕は大学に行くことを決意した。


 実家から持ってきた扇風機が起こす風は頼りなく、バイト先からもって帰ってきた団扇がなければ、日中のむせ返るような暑さとは向き合えなかっただろう――だがそれももう限界だ。僕は冷房の効いた図書館で過ごす時間を想像した。この部屋と比べたら、さぞ快適なはずだ。


 僕はシャワーを浴びてポロシャツに着替えると部屋を出た。自転車にまたがり、丘の上にある学校をめざした。


 僕の大学は小高い山の上にあり、最寄駅と呼ばれるものでも歩くと一時間はくだらない、という辺鄙な場所に建っていた。当初はスクールバスで通っていた生徒達も時間と定員の限られた交通手段を諦め、大半が車かバイクでの通学を選択していた。


 そもそも僕も車で通っていたのだが、大学近くのアパートに住むことになったこともあり、母に車を返していた。


 自宅から徒歩二十分の距離と言えども坂を登るのはしんどかった。僕は顎からしたたる汗をぬぐってペダルを必死に漕いだが、傾斜がきつくなったところで素直にギブアップして自転車を降りた。


 僕は道路脇のアスファルトで少し休むことにした。意地になってここまで漕ぎ続けてきたせいでふくらはぎと太腿がパンパンになっていたからだ。太陽に熱されたアスファルトが焼けるように熱いが立ち上がる気力もなかった。


 車のクラクションが響いた。はじめのうち、僕に向けたものだと思っていなかったので無視していたのだが、もう一度クラクションが鳴ったので僕は頭を上げた。


 そこには、白いマツダのRX-7がハザードをつけて止まっていた。あの車はゼミで世話になっている先輩のものだ。とても気さくで面倒見の良い人である。その彼が珍しいものを見るかのように僕を見ていた。


「あれ、バイトじゃないのか?」

「今日は休みで……先輩こそ、帰省しなかったんですか?」

「早めに論文をまとめる準備をしようと思ってさ。先生きょうじゅもいるし」


 先輩は、じゃあ後でな、と言い残して去っていった。

 バイト漬けのはずの僕がこんなところにいたのが珍しかったようだ。普段の自分を知っているなら、そんな風に思うのかな、と僕はひとり首を捻った。


 どうせなら乗せてくれたらよかったのに――と先輩への恨みを原動力に変えて、僕は残りの坂を登った。



 Ⅱ



 坂を登りきった僕は汗だくだった。不動産屋の資料では徒歩二十分と明記されていたが自転車でも十五分掛かっている事実を考えると絶対にそんなものでは済まないだろうことは想像に難くなかった。


 僕は、駐輪場ではなくエントランスに自転車を止め、水道水で喉の乾きを潤した。そして、研究室には寄らずに一直線に図書館に向かった。


 学生証をかざしてゲートをくぐり、定位置である窓際の席を目指したが、そこはすでに埋まっていた。机の上には放り出された筆記用具と夏休みの課題である資料集が広げられていた。僕も同じ課題をもらっているので同学年らしかった。あまりジロジロ見るのも感じが悪いと思った僕は反対側の席に座ることにした。


 僕の定位置――と勝手に呼んでいる席は、この夏の時期、見るからに暑そうな場所にあることもあり、とても人気がないはずだった。誰も寄りつかないので一人の時間を持てることを僕は知っていた。


 僕は残念に思いながらも、集中するためにイヤフォンをして本を開いた。

 流れてきた曲がセンチメンタルな気分にさせたのか、集中するどころか父と母のことをぼんやりと思った。


 ――どうして父と母が離婚に至ったのか、未だに僕はわかっていなかった。二人が言い争っている姿など見たことはなかったし、家庭内でぎくしゃくした様子もなかった。子どもというのは、家庭の些細な雰囲気の変化に敏感なものだと思うが、当時の僕には何の違和感も感じられなかったのだ。その結果として、夏休みの終わりとともに環境と苗字だけが変わった。


 僕は父と離れ、母とともに暮らすことになった。父とは、中学の入学式で会ったきりであり、すっかり疎遠になってしまっていた。


 父は――どうしているだろうか。家族で過ごした最後の夏休み以降、はじめて僕は父のことを素直に心配できた。


 不意に視線を感じて顔を向けると、僕の定位置に座った眼鏡の女子が不思議そうな顔で、僕の顔を見ていた。頰に触れて僕は自分が泣いていたことに気づいた。手元の本を見ると、頰を伝った涙が数滴落ちてしまっていた。ハンカチで慌てて拭いたがすでに染みてしまっていたため紙がぼこぼこになってしまった。


 そしてはっとする。どれだけの時間かはわからないが、彼女にじっと見られていたことに恥ずかしさを覚えた僕は思い立ったように席を立った。


 この出来事は、彼女――真瀬優李まなせゆうりと僕に共通の話題を与えた。だがしかし、この時の僕は、彼女のことがよく見えておらず、眼鏡の女子=真瀬だということに気づいていなかった。

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