第11話、急転直下の数奇な運命
如何に強者であるゼルベルトとて高所から落下し、そのまま地面に叩き付けられれば死は免れない。だが運命神は懸命にあがく彼にまたも微笑みかける。
気を失った巫女をかき抱いた状態で落下を続けるゼルベルトはかなり焦ってはいたが、窮地にあって何かないかと考える冷静さも持ち合わせていた。すると、大きく張り出した岩が現れたのだ。まさしく神の采配に違いない。
これ幸いとゼルベルトは全力で張り出した岩を蹴りつけると、一時的に落下速度を大幅に減じることに成功した。そのまま対岸の切り立つ斜面に空中移動すると、さらに壁面を激しく蹴りつける。いくどかそれを繰り返すと、気を失った巫女を抱いたまま底を流れる渓流に盛大な水しぶきを上げて飛び込んだ。
いくら泳ぎの達者なゼルベルトでも、気を失った女一人を抱えたまま急流に飛び込んでは自由も利かない。そのまま必死に巫女を抱いて庇い、川の中の岩に体中を激しくぶつけながら流れに身を任せ翻弄された。その間、ひどい打ち身や骨にまで影響を与えるような怪我を負ってしまうが、痛みを無視して惚れた女を全力で守る。彼の胸中はただ彼女を守ることのみに傾注されていた。
幸いにも急流は短時間で脱し、穏やかな流れに差し掛かると、川原に這い上がって巫女の様子を確かめる。
「・・・・・・大丈夫そうだな」
気は失っているが、大した怪我もない巫女の様子にほっとする。擦り傷や軽い打ち身までは避けられなかったが、高所からの落下の結果がその程度であれば奇跡的といえるだろう。ゼルベルトの方がよほど重傷であるが、彼がそれを気に掛ける様子は全くない。
そしてこれまた幸いなことに、彼は自前の荷物を背負ったままで、防水の利いた黒革の鞄は何の問題もなく中身を保護してくれていた。履いていた草履も失われてしまったが、鞄の中には予備がある。彼ならば裸足でも困らないし、そこらにある渓谷の資材で自作することさえ可能だったが、楽が出来るに越したことはない。
ゼルベルトは惚れた女のために自然と献身的に働き始める。布で水気を拭き取り、巫女の濡れて冷えた体を温めるべく火をおこし、擦り傷や打撲の箇所には辺境のオババ特製の貴重な傷薬を惜しみなく塗りつける。大怪我を負った彼自身の治療は全て後回しにして。
稀代の癒し手である巫女に対して、合理的に考えれば貴重な薬を使ってまで治療をすることは必要ないだろう。目を覚ましたあとに自分で治癒させればいいのだから。
だが、怪我を負った惚れた女に対して、後で自分で治せなどといって放置することなどできようか。治療の手段が一切ないならばともかく、それが可能な状況において、例えそれが無駄に終わろうともやらねばならい時もある。自己満足だと言いたい奴は言えばいい。無駄だと言い切る奴も好きにすればいい。ただ彼はそうしたかっただけなのだから。ほかの合理的な意見など、なんの参考にもなりはしない。余計なことなど考えず、ただ惚れた女のために今できることを全力でやり尽くすのだ。
巫女への処置が一通り終わると、ゼルベルトは一気に疲れと痛みを感じ始めた。だがまだ何も終わったわけではない。むしろこれからが大変になる。今のところ周囲に魔獣の姿は見えないが、必ずどこかには存在する。気を失ったままの女を放置してまさか自分が気を失っていいはずはない。周囲への警戒を怠らないまま、ようやく自身の治療を始めるゼルベルトであった。
巫女はこれまでの疲れでも溜まっていたのか、気を失っているというよりは、今はぐっすりと眠っているかのようだ。ゼルベルトはその様子を微笑ましげに見つめながら優しく美しい黒髪を
望外に訪れた至福の時間だ。名も知らぬ彼女に対して、どうしようもない愛しさが込み上げる。決して紳士ではない彼は、ちょっとだけ悪戯をしようと考えてしまうが、そこで巫女が意識を取り戻した。
「んっ、ううん」
薄っすらと目を開き始める彼女にゼルベルトは努めて明るく振舞い声を掛けた。
「よぉ、聖女様。気分はどうだ?」
はっと目覚めた巫女はとっさに自分の体を確かめる。意識を失っている間に痴漢野郎がそばにいたのだ。そうするのが当然であろう。ゼルベルトは己の所業を自覚しているので、不満そうではあるが怒ったりはしない。
そして不満を押し殺し、彼には珍しく真剣な顔で問いかける。
「真面目に聞くがよ、状況は理解できてるか?」
巫女は瞬時に崖からの落下の場面に思い至ったのか、彼女は上方を見上げる。深く切り立った渓谷の底からは、上の様子は全く分からない。
続いて彼女は無事である事実に驚く。足元が崩れて空中に投げ出された時、確かに死を覚悟したのだ。だが目を覚ましてみれば体のあちこちが少し痛むが、それだけだ。まともに落下した結果でないことは明らかで、その結果を導き出せるのはこの場において二人きりとするなら、目の前の男の仕業であるとしか思えない。少しだけ痛む体も良く見れば手当ての跡がうかがえる。
確かにかなりの強さを誇る男ではあるのだろう。だが如何にして絶体絶命の状況を切り抜けることが出来たのか想像することもできない。濡れていることからして、川に落ちたのであろうが、まさか川に落ちたからといって助かるものではない。ましてや丁寧な怪我の手当てなど、彼のやったこととは到底信じられない。聖女にして巫女たる彼女は、大いなる驚きと猜疑をもって、目の前の男を見ざるを得なかった。
「そんな目で人を見るもんじゃねぇよ。俺だって傷つくぜ」
「あっ、その、そんなつもりじゃ」
「いいけどよ。おめぇが無事ならそれでいい。それより問題はこれからだ。もう一度聞くぜ。聖女様よ、状況は理解できたか?」
「正直に言えば完全には理解できません。ある程度の想像はできますが、説明していただけるとありがたく思います」
ゼルベルトは嘘のような真実を淡々と伝える。崖道から投げ出された彼女を空中でキャッチして、切り立った崖の壁を蹴りながら渓流に落ちたこと。しばらく川に流されたこと。彼女に対して一通りの手当てを施したが、治療の専門家ではないので自己診断と必要ならばさらなる治療をして欲しいこと。そして崖を登って上に戻ることは不可能なこと。
「そんなところだぜ。まだ疑問はあるかよ? 聖女様」
彼女は黙って聞いていたが、あの状況の自分を助けるのは途轍もない困難を伴うものだと自覚している。だが、それを可能とすることが、どうしてできたのかが説明されても分からない。
それでも分かることはある。それは、目の前の無礼な男が命を賭けて自分を助けてくれたいう厳然たる事実だ。手当てを受けていることもある。服が乱れた様子もない。彼はただ純粋に己の全てを賭けて、自分を救ってくれたのだと、彼女は考えざるを得なかった。しかも、危険を告げる忠告を無視した愚かな自分をだ。ましてや冷たい態度を取っていた自分に、その様な義理はないはずだったのに。
彼女の痴漢野郎に対する態度が少しだけ軟化する。
「・・・・・・信じられないことですが、あなたが嘘をついていないことは分かります。救っていただいたことには感謝いたします。それと怪我の手当ても。ですが、聖女様と呼ぶのはやめてください。あなたに言われると馬鹿にされているような気がしてしまいます」
「そんなつもりはねぇがよ。俺はおめぇの名前を知らねぇんだ。今更なんだがよ、名前を教えてくれねぇか?」
そう困ったように言うゼルベルトが彼女はなんだか可笑しくなってしまい、少しだけ笑みを見せる。
「クスッ。名前も知らない女のために、あなたは命を賭けたのですか?」
「分かってるんだろ? 惚れてるんだよ、おめぇによ。それこそ、命を賭けても惜しくねぇほどによ」
真っ直ぐに彼女の藍色の瞳を見つめながら、ここでまたゼルベルトは爆弾を容赦なく放り込む。
「ちょ、調子に乗らないでください! 助けていただいた事には感謝していますが、わたくしはまだあの事を許したわけではないのですよ!」
「あの事だって?」
「あの事はあの事です! わ、わたくしに、あ、あのような事をしておいて、忘れただなんて言わせませんよ!?」
動揺する彼女が言っているのは、もちろん唇を奪ったことだ。それに出会ってすぐに胸を揉まれたことも彼女は忘れていない。自分で言い出したことだが、鮮明に蘇ってしまったいやらしい行為の記憶と初めての愛の告白に彼女の心は千々に乱れ羞恥に染まる。
急激に体温が上がって、ぼっと赤くなるが、そこで彼女はゼルベルトの状態に初めて気がつく。彼は全身怪我だらけなのだ。落下の途中や急流に翻弄されるうちに負ったものだ。頭から足の先まで、擦り傷に切り傷、あちこちに痣もあるようだし、服に隠れているが不自然に腫れ上がっている箇所まである。癒しの女神の巫女たる彼女は、見ただけでもおおよその怪我の具合を察知して青ざめる。自分で少々の手当てはしていても、怪我の程度からすれば気休めにもなりはしない。
「その怪我・・・・・・どうしてもっと早く言ってくださらないのですか!?」
彼女は大急ぎで癒しの女神の代行者たる力の行使を始める。彼女が祈りを捧げながら手を触れると、すぐに傷が塞がりはじめ痛みが薄れていく。
今のゼルベルトの容態であれば、彼女は銀色に輝くオーラを纏うまでもないのだ。彼女の実力を持ってすれば、死に瀕した重傷者でもなければ、わざわざ最上級の女神の奇跡を使うまでもない。素の状態で瞬く間に怪我を完治させてしまった。
軽口を叩いていた自分を救った男の思わぬ怪我の具合にかなり慌ててしまったが、無事に治療が済んでほっとする彼女であった。
「相変わらず凄ぇもんだぜ。ありがとよ。前にも言ったが改めて言うぜ。俺はゼルベルトだ。ゼルベルト・クリーガー。それでよ、おめぇの名前を教えてくれ。頼む」
真摯な態度の彼には少し弱いと思ってしまった彼女は、なぜか照れる顔を急いで隠しながら初めて自己紹介をしたのだ。
「申し遅れました。わたくしは、アーゼルハイド・アイブリンガーと申します。アゼルとお呼びください」
思わず彼女は愛称で呼ぶことまで許してしまって密かに慌てるが、その隠したままの表情はなんだか嬉しそうであった。
不幸な過去のことは水に流して仲直りを果たした彼らであったが、人間関係を別にして困難な状況はなにも変わらない。奇跡的に命は助かったが、山中の谷底で戻るための道も分からない遭難中であるのだから。
ついでに言えば助けも期待できない。どことも知れぬ山のどことも知れぬ渓谷に落下したのだ。港町の人間や教団関係者では地理に詳しい者も人手もおらず捜索のしようがない。
「もう一度状況の整理といこうじゃねぇか。いいか、俺たちはまず現在地も分からねぇ。手っ取り早く上に登れればいいんだが、それも無理だ。俺たちに残された道は、この渓谷の底を進むしかねぇってわけだ」
「はい、ほかに道がない以上、そこを行くしかありません。当初お願いしていた護衛の範囲を大きく逸脱してしまいますが、どうかお願いします」
「なに、惚れた女を守るのは男の本懐ってもんよ。心配すんな」
「そ、そういうことを軽々しく言うのはやめてくださいっ」
二人は話し合うと、まず進行方向は下流と定めた。一番近くの町は港町であったのだから、海までの距離は楽観的に考えなくても近いはずだ。もちろん、まっすぐに進めるはずもなく、曲がりくねった道であったが、下流に進めばいずれは海に出る。海まで辿り着いて町に戻る道があればよし、そうでなければ最後は泳いででも港町まで戻る覚悟を決めていた。
この状況においてはゼルベルトの辺境での生活スキルが大きく役に立つ。彼は遠出の狩りにおいて、山中でのサバイバル生活はお手の物で慣れていた。それこそまだ少年の頃から何度も経験していることだ。枯れた冬山でもない限り、彼にとってはナイフ一本あれば、どうとでもできる。
辺境の狩人であったゼルベルトにとってサバイバル生活など日常の一部だったのだ。何するものでもない。渓谷には魚だけではなく食料となる魔獣もいるし、いくつかの野草や木の実だって取ることができる。食料に困る環境にはない。水は渓谷の清流が飲料としても申し分ない。
食料調達や寝床の確保だけではない。彼は強者である。辺境に比べれば雑魚しかいない、普通の山の魔獣など物の数ではないのだ。ただ生きていくだけなら、それこそ何の問題もなかった。
さらにアーゼルハイドは聖女ではあるが日頃の節制とボランティア活動などで家事には慣れていたし、その立派な立場とは裏腹に贅沢者ではない。次代の巫女頭という立場にあっても、料理に洗濯は得意としていたし、何よりも癒しの女神の巫女としての卓越した能力がある。苛酷な環境においても怪我や病気に怯える必要が全くないのだ。
奇しくも二人は互いの不足を補い合う、完璧なパートナーであったのだ。
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