ハローモンスター

 しばらく歩くと、幾らか寒さはマシになった。

 森に入ると、目印の屋根は見えなくなったが、iDの方位磁石が機能したので、一方向にひたすら歩いていた。


 だが、それらとは別に、美咲が抱える問題があった。

 競泳用の水着姿で森を進むのは、他に誰もいないと分かっていても気恥ずかしさがあるのだ。

 非常時に何を贅沢なと思うかもしれないが、せめて胸から腰に巻く大きなタオルが欲しかった。

 ほんの少し前までは、パンツさえあれば心が満たされたのに、パンツだけでなく着替え一式が欲しい事態になるとは思いもしなかった。


 そうして、何十回目かの「夢なら早く覚めて」と思った時だった。

 森が開け、ついに目的の場所に到着した。

 そこは、森と洞窟の巨大な柱の間に作られた町だった。


「すごい!」


 目の前に広がる広大な町に、美咲の鬱屈とした気持ちは少し小さくなる。

 見えていた建物の屋根は、町の中でもひと際大きく、例えれば教会の様に見えた。

 ヨーロッパの田舎にありそうな、西洋建築っぽい建物以外に、石柱をくりぬいて作った建物もあった。

 巨大な壁の様な天井を支える石柱の表面には、よく見れば所々に人工的な四角い窓が開いていた。

 美咲には、自然を利用した超巨大な高層ビルに見えた。

 実際、窓は柱の上の方、高さで言うと150メートル程度までポツポツと開いている。


 どこに投稿する訳でもないのに、美咲はその光景をiDの写真機能で保存した。


 ただ一つ、この町には決定的な問題があった。

 目の前に間違いなく人のいた大きな痕跡があるというのに、人の姿がどこにも見当たらないのだ。

 更に、町の至る所で物が壊されていたり、血の乾いた形跡が見られた。


 立ち直りかけていた美咲の気持ちは、急速に焦りを帯び始めた。


「あの! すみません! 誰か! いませんか!」


 美咲は、呼びかけながら建物を覗き込み、人を探し始めた。

 広場にも市場にも誰もいない。

 何か事件があったにせよ、生活臭は残っているので、つい最近までは普通に暮らしていた筈であった。


 美咲は、この町で何が起きたのか、当然不安に思っていた。

 だが、そんな事よりも、とにかく人に会う事を優先させてしまった。

 藁にもすがりたい美咲には、この町の現実は受け入れられていなかった。


 助けを求めて人を探し、彷徨っていると、建物の窓の中に人影が見えた気がした。

 美咲は、ようやく人に会えたと思い建物に駆け寄った。

 すると、確かに建物の中に何かがいた。


 町の住人を期待したが、それは真っ先に裏切られる事となった。

 気配が人とは、そもそも違うのだ。


「あのっ……!?」


 美咲は話しかけようとした言葉を飲み込んで、足を止める。

 グルルルと、唸り声も聞こえてきた。

 ここまで、森の中で野生動物との遭遇は、運良く、一度も無かった。

 なので、何が出てくるのか想像も出来なかった。

 あの巨大な魚を見た後だと、そこに何がいても不思議ではなかった。


 美咲は、静かにその場を離れ始めた。

 しかし、もう手遅れだった。


 その場を離れる前に、開いている扉からゆっくりと現れたのは、一匹の猿だった。

 いや、美咲が第一印象で猿と思っただけである。

 どう表現するのが正しいのかは、今の美咲には分からない。


 iDの自動検索では未登録生物と表示され、勝手に自動登録された。

 そのまま、クラウドへの自動共有が始まるとエラーが表示される。

 サムネイルを見ると、さっきの魚も勝手に登録されていた。

 普段なら便利なのだろうが、今は、その利便性を享受する暇も環境も無かった。


 その猿らしき生物の身長は、美咲の胸程の高さで、一見大きくない。

 猫背に撫肩で、手が異様に長く、全身がかなり筋肉質に見える。

 その体表は、黒い毛で深く覆われ、顔に覗かせる素肌は血色の悪い白に近かった。

 大きな黒目がちな目をしていて、大きな猫耳がついている。

 鼻も猫の様だった。

 この瞬間もクンカクンカと、鼻を動かして臭いを嗅いでいるのがわかる。


 見ようによっては、大きくてまん丸な瞳が、可愛く見えない事も、ない。

 美咲も人並みには猫が好きである。


 だが目の前の猿は、ゲーム好きの葵や兄なら、間違いなくモンスターと表現するであろう風貌である。

 しかし美咲の価値観からは、単純な見た目から危険性や狂暴さをすぐに判断出来なかった。


 その見た目から、美咲は仮に“猫猿”と呼ぶことにした。




 結果的には良かったのだが、猫猿の持ち物が、どうにも良く無かった。

 猫猿が戸口から出てくると、引きずる様にだらんと垂らした長い手には、地面を引きずって、赤いラインを引く何かが握り絞められていた。

 その手には、人の上半身ほどの大きさの、肋骨が剥き出しになった動物の死体が握られていた。

 美咲が、それが何なのか、何の動物か分からなかったのは、その死体に頭も手足も既に無く、猫猿が食べたのか、あまりにも激しく欠損していたせいだった。


「……ぁ」


 美咲は、猫猿と目があってしまった。

 猫猿は嬉しそうに笑うと、その口から赤く染まった牙が見えた。

 ヤバっと思ったが、身体が恐怖に強張って動こうとしなかった。


 ギャッギャッギャッ!

 猫猿は大きな目を更に見開くと瞳孔をカメラのレンズの様に調整し、耳障りな甲高い声で叫んだ。

 それは、本来なら獲物を見つけた喜びを表す叫びの筈だったが、美咲には結果的に助けとなった。

 美咲には、ある種のスタートの合図に聞こえていたのだ。

 無意識に脳の回路がスイッチされ、身体の自由が戻ると、足の痛みも忘れて全力で走り出した。


 一瞬振り向くと、さっきの猫猿が死体を投げ捨てて、叫びながら追ってきているのが見えた。

 身長が美咲よりも小さいのに、長い腕も使ってかなり走るのが早い。

 あの形相で威嚇する生物に追いつかれたら、酷い目に遭う事だけは、想像できた。


 美咲の逃走を追いかける猫猿の叫びに呼応し、周囲の建物から猫猿と似たような声が聞こえてきた。

 この町は、あの猫猿達に襲われて、放棄されたのか壊滅したのかもしれないと美咲は思うと、気付くのが遅すぎると悔やむ。

 逃げながら、美咲は思わず二度見をした。

 さっきまで追って来ていたのは一匹だけだったのに、気が付けば十数匹の猫猿が全力疾走で追って来ていたのだ。


 それからは振り向かずに、声も出さずに、涙目になりながら、息を切らせて必死に走った。

 町中の建物からは、ゾロゾロと猫猿達が湧いて来た。

 全部で何頭いるのか数えたくも無い。


 美咲が、身を守れる建物が無いか探すと、町の外れに堅牢な砦が見えた。

 猫猿達は町中に集中しているので、砦に町の人が籠城している事を美咲は期待した。


 茂みをかき分け、林を突っ切り、すぐに砦が目の前に見えてきた。

 周囲には広く深い堀があり、脆そうな吊り橋が正門に向かってかかっているのが見えた。

 思わず渡る事を躊躇するが、後ろの猫猿の群を見ると、一気にボロボロの吊り橋に向かって駆け出した。

 こんな時に、いちいち橋を叩いて渡る暇など無い。


 美咲がもう一息で橋を渡り切りそうなところで、猫猿達がワラワラと吊り橋を渡り始める。

 美咲しか見えていないのか、橋の強度を考えているとは思えなかった。

 大きく揺れる橋を渡っていると、橋を形作っていた縄がキリキリと悲鳴を上げ始めた。

 まずい、と橋を渡っていた全員が思った時には、もう遅く、美咲が渡り切る前に橋の縄が切れてしまった。


 美咲は、足元の浮遊感に嫌な汗をかきながらも、急速に沈みゆく橋を泣きながら走り切り、ギリギリ向こう岸の崖にしがみつくと、どうにか必死によじ登った。

 そんな不幸中の幸いの中、不幸にも、よりにもよって、吊り橋を支える町側の柱付近で縄が切れた。

 砦側の縄支えの柱を軸にして、橋が空中ブランコの様に砦側に落ちて、ドガシャッと堀の壁面と橋の踏板がぶつかる音が響く。


 美咲が、ぶらりと落ちた吊り橋の下の方を除き見た。

 そこには、数が七匹にまで減っていたが、猫猿達はしぶとく吊り橋の残骸にしがみつき、我先にと、お互い押しのけ合いながら、かなりの速さで上に登って来ていた。

 橋を渡る前だった猫猿達は、堀を挟んだ先にいる美咲の事を、なおもうろうろと追いたそうにしていたが、広く深い堀を渡る術がない様子だった。


 事実上、一対七になった。

 一対百よりは、まだマシである。


 美咲は、垂れ下がった吊り橋のロープを切れれば、ぶら下がり組を一網打尽に出来るのではと考えた。

 それは、可能ならば良い考えではあったが、美咲の持ち物は、水着の肩紐に引っ掛けたキャップと首にかけたゴーグルだけで、縄を切れそうな物は周囲には無かった。

 水着も崖に飛びついた拍子に、腹の部分が少し敗れて丸い穴が開いていた。


 そこで、とにかく建物の中に逃げようと、砦の正門に走る事にした。

 砦の正門には、大きな扉があった。

 だが、扉は押しても引いても開く気配すらない。


「開けて! 助けて! 誰か!」


 叫び、何度も扉を叩くが、中に人の気配は無かった。

 鍵がかかっているのか、重いだけなのか、とにかく扉はビクともしなかった。


 後ろを振り向くと、一匹目の猫猿が吊り橋をのぼり切ろうとしているのが見えた。

 美咲は、猫猿の視界から逃れようと、当てもなく砦の壁伝いに走り始めた。

 しばらく砦と堀に挟まれた細い通路を走っていくと、背の低い裏口の扉があった。


 今度こそと扉を開けようとするが、今度も開かない。


「冗談! きついよっ!」


 必死に扉の引き手を引くと、その扉は少し動いた。

 どうやら鍵がかかっている訳では無く、ただ古くなって固いだけらしい。


 無理やり引っ張ると地面をガリリと削りながら少し扉が開いたところで、扉の引き手が風化していたのか、ポロリと取れてしまった。

 勢いづいて美咲は地面に尻もちをつくが、すぐ後ろには深い堀の闇。

 堀の底に、美咲の手から零れた扉の引き手が落ちていき、少しすると底で着地の音が聞こえてきた。

 どうやら底無しではないらしいが、結構な深さがあり、落ちれば大怪我は避けられないし、美咲には登る術も無さそうだった。

 堀の底の暗闇にゾッとしつつも、すぐに立ち上がって扉の隙間に手を入れて、全力で扉を開けにかかる。


 やっとの思いで出来た隙間から身体を無理やり滑り込ませると、今度は逆に全力で扉を閉じ始めた。

 扉には、内側からかける大きな閂がついていた。

 これさえ閉じてしまえば、猫猿は入って来れない筈である。

 全体重をかけて、全力で扉を引いて閉じようとする。


 バキッ!

 引き手を扉に固定している金具が劣化していて、一本折れた感触が手に伝わって来た。

 屋内側の引き手が取れたら、扉を閉じきる事も出来ない。

 それでも美咲は、引き手の強度がもつ事を祈りながら、全力で閉じ続けた。


 あと少しで扉が閉じそうな所で、一匹の猫猿が扉の隙間に指を入れて引き始めた。


「うわぁ! ダメダメダメ!」


 美咲は思わず叫びながら、扉にかけられた猫猿の指ごと閉じる勢いで、壁に足をかけて必死に引いた。

 力は、指先だけで引く猫猿と、壁に足をかけて全体重と全力を持って閉じようとする美咲で、良い勝負だったが、扉の引き手をちゃんと使っている分、まだ美咲がギリギリ勝っていた。


 あと少し。

 扉に猫猿の指が挟まれて、猫猿が扉から指を離した隙に扉を閉じようと言う、ギリギリの時。


 扉にかかる猫猿の指の数が倍に増えた。


「ちょっ!? ずるい! うわっ!?」


 一対二になり、このままだと一対七になる事は目に見えていた。

 美咲は、精神的に追いつめられ過ぎて頭の芯が痺れるのを感じた。

 このままでは、猫猿が入ってきて美咲は食べられてしまう。


 窮地に立たされた状況で美咲は、扉を必死に引きながら薄暗い砦の中に目をやった。

 そこは砦の厨房の様だった。

 美咲は、すぐそこにあった作業台の上に何かを見つける。


 あれだけ開けるのに苦労したのだ。

 手を放しても、この扉はすぐに開ききらない“筈”である。

 思い切って扉から手を放し、台の上に捨てる様に置かれた錆びたナイフを手に取った。


 猫猿達も抵抗が弱まったのを見逃さず扉を一気に開けようと、三匹に増えてグイグイと力を入れている。

 しかし、猫猿達の思い通りにもならず、扉は重い上に蝶番も錆びていて、すぐには開かない。

 猫猿達は美咲よりも屈強な上に、美咲とは違って直前まで腹一杯食べていた為、身体を滑り込ませるには、もっと扉を開ける必要があった。

 最初は敵だと思ったが、今は開かない扉が美咲の味方をしていた。


「はなして!」


 すぐ扉に戻った美咲は、猫猿の指をナイフで片っ端から切り付けた。

 錆びてこそいるが、ナイフの刃は所々生きていた。

 猫猿達は、突然死角から切り付けられて驚き、大した傷ではないが、傷口が空気に触れて遅れてくる痛みに怒りだした。

 一際身体が大きな猫猿の一匹が、ナイフによる切り付けが大した事は無いと判断したのか、扉の隙間に腕を入れて反撃してきた。


 ミサキは腕を掴まれかけるが、ギリギリの所で身を引き、なんとか避ける。


「いつっ!?」


 しかし、猫猿の爪で腕に怪我を負った上に、バランスを崩して転倒してしまった。

 そのまま一匹の猫猿が扉を開けるよりも、美咲を掴んで引きずり出そうと手で部屋の中を探って来た。


 美咲は、地面に落ちたナイフを拾うと、慎重に猫猿の死角へ移動してから、両手で握り締めたナイフを一気に猫猿の左腕に突き立てた。


 ギャアアアアアア!?


 猫猿はナイフを腕に指したまま、扉口から腕を引っ込めた。

 思わぬ反撃に怯んだ猫猿達が、全ての手を放したその瞬間を、美咲は見逃さなかった。


 激しい行き来で蝶番が少し動くようになった扉を、力いっぱい引っ張って一気に閉じる。

 どうにか閉じ切る事に成功すると、そのまま間髪入れずに、震える手で閂をかけた。


 猫猿達が叫びながら扉を叩き、引っ掻き、体当たりし続ける音が部屋の中に響き続ける。

 美咲は、その場で、急に力が抜けて、ペタンと尻もちをつくと、そのまま地べたに倒れこんでしまった。


 全身の震えが止まらなかった。

 人生で初めて、殺意を伴った敵意を向けられた経験だった。

 それも、いきなりあんな沢山の相手からである。


 生き物を刃物で切り付けたのも初めてだった。

 簡単な料理なら出来るが、カレーを作る時に切る肉とは、全然違った。

 心に、罪悪感の一言では言い表せない棘が刺さったような、複雑な気持ちが抑えられない。


 それから、全身の緊張が一気に解けたせいか、急激な吐き気に襲われ、床に朝食と胃液を吐いてしまった。

 しかし、すぐに吐く物が無くなり、ぜぇぜぇと息を切らす事しか出来なくなった。

 喉が胃酸に焼け、口の中が酸っぱい。

 唾の粘度も見た事が無い程に濃く、涎が糸を引いた。

 綺麗な水でうがいをしたいが、そんな物はここには無い。


 こうして、先ほどまで自分を支配していた恐怖が薄れると、心の隙間を埋める様に別の感情が顔を見せ始めた。

 寂しい、痛い、辛い、帰りたい。

 他にも言語化が美咲には難しい、様々な感情の濁流が一気に押し寄せた。

 なんでこんな状況になってしまったのかと思った。


 逃げながら流したものとは、別の種類の涙がとめどなく溢れてきた。


「ぐすっ、わたし、なにか、したぁ?」


 納得が出来なかった。

 理不尽だと思った。

 誰でもいいから、答えて欲しかった。


 しかし、どこからも誰からも、答えは返ってこなかった。


「どっかいってよっ! いなくなってっ! 死んじゃえっ! バカっ! あほっ!」


 美咲は扉の外で騒ぎ続ける猫猿達に、思いつく限りの罵詈雑言を浴びせた。

 それでも胸を締め付ける感情は、消える事も、薄まることも無かった。


 扉の隙間を削り引っ掻く音の横で、ひとしきり声を出して泣いて、叫んで、地面を叩いた。

 その場で、その姿勢のまま、思いつく事を一通りやった。


「もう、許して……死にたくない、よぉ……」


 そう、まどろみの中で呟くと、そのまま疲れ力尽きる様に眠りに落ちた。




「お、目ぇ覚ました」


 兄の声が聞こえた。

 そこは、予選会場の医務室、そこにある固いベッドの上だった。


 家族が心配そうに、美咲の顔を覗き込んでいた。

 最後の記憶が酷く曖昧だった。


「覚えてるか? 足がつったってお前溺れだして、大変だったんだぞ」


 父親は、安心した表情をしていた。


「足は床につくし、レーンの仕切りにだって掴まれるのに、プカッって浮かんで来た時はみんな驚いたわよ」


 母親も、笑っているが、呆れながらも心配してくれていた。


「ほら、撮影してたの。もう完全に事故だよ。勘弁してくれよな」


 そう言って兄がビデオカメラの画面を見せてきた。

 最高画質で3D動画が始まると、そこには盛大に溺れる美咲がうつっていた。

 画面の中では、すぐに撮影していたビデオカメラを、隣で狼狽える父親に渡して、兄まで客席から飛び降りてプールに駆けつけていた。

 そのまま画面の中で兄がプールに飛び込んだ。

 どうりで、兄の服が売店で売っているアロハに変わっている訳だと思った。


「投稿していい?」

「やめてよぉ」

「冗談よ」


 母親の下らない冗談が嬉しい日が来るとは、と思った。


「皆さんが助けてくれたんだから、後でお礼言っておきなさいよ」


 急に真面目ぶった母親に言われ、とりあえず近場の人に礼を言おうと思った。


「うん、お兄ちゃんも、ありがと」

「一番じゃ無いのが、かっこ付かないけど、ミサキチが無事でよかったよ」

「うん。でも、十分かっこよかったよ」


 美咲の目から、自然に涙があふれ出した。


「おい、急にどうした。どこか痛むのか?」

「先生呼ぶ?」


 家族がオロオロと心配した。

 考えてみれば馬鹿らしいが、怖い夢から目覚めた事が、心底嬉しかった。

 どんな夢を見ていたのかも覚えていないが、酷い悪夢だった。


「やっぱ、大会に出れないのが悔しいのか?」


 父親に聞かれた。

 予選で負けた事なんて、気にもならなかった。

 途中棄権になったのは悔しいが、不思議と負けた実感がわかない。


「違うの、大丈夫」

「そうだ。ほら、葵ちゃんがプレゼントって、これ置いていったわよ」


 そう言って母親が渡して来たプレゼントは、更衣室で見せて貰った物だった。

 早速開けると、中には可愛い財布が入っていた。


「あ、あと、これも葵ちゃんがプレゼントだって」


 兄が通販会社のロゴが入った宅配用の紙袋を渡して来た。

 袋を開けると、中には下着が入っていた。

 父親と兄は、美咲が中身を広げるのを見て、なんとも居心地悪そうにソワソワし始めた。

だが、美咲は別の事を考えていた。


「……水色……それも……セクシーじゃ、ない……」

「「「え?」」」


 美咲を除いた家族三人の声が綺麗にハモった。

 美咲は、嫌に冷静になっていた。

 冷めたと言って良かった。


「美咲」

「なに、お兄ちゃん」


「美咲が××××××××××××」


「うん」




「う……ん……」


 目を覚ますと、変わらず、どこかの洞窟の中にある町はずれの砦の厨房、その床だった。

 あの後、誰かが助けに来たり、結局夢だったという事も無かった。


 見ていた夢も、ぼんやりとしか覚えていない。

 思わぬ事で夢と気付いて、目が覚めた事だけが感覚として残っていた。

 それと、兄が最後に、起きかけている美咲に対して、滑り込みで何か一言を、最後に場違いに言った様な気がした事だけは残っていた。

 兄も、あれが夢だと気付いたように。


 しかし、肝心の台詞は忘れてしまった。


 唯一の救いは、扉は猫猿達の攻撃に耐え、引っ掻く音も叫び声も、とりあえずは聞こえない事だった。


 扉の隙間から外の光が見え、一応今は昼間の様だった。

 視界の端の時計を見ると、2040年8月18日午前7時3分と表示されていた。

 半日以上眠っていた事になる。


 美咲は、そこが異世界のままである事に対して「冗談でしょ」と床を手で強く叩いた。

 だが、手が痛いだけだった。

 身体を起こそうとするが、今度は節々が痛んだ。

 硬い床で寝すぎたせいもあるだろう。


 堀の淵に打ち付けた腹は、大きな青あざになっていて、薄暗い中でも、水着の穴から見えた。

 しかし、触らなければ、大した痛みは無い。

 それよりも辛いのは、全身を襲う酷い筋肉痛の方だ。

 それに加え、猫猿の爪で引っ掻かれた腕は、流れ出た血がそのまま固まっているが、傷口はジュクジュクと膿んで、腫れていた。

 普段なら、動物に引っ掻かれたら、どんなバイ菌を持っているかも分からないと真っ先に洗って消毒する所だが、ここに救急箱がある訳が無い。

 薬が欲しくても、この世界に薬があるのかさえ分からなかった。

 歩こうと立ち上がろうとすると、足の裏は、土を踏む部分だけ薄皮一枚無くなって、血と体液が寝てる間に固まっていた。

 立ち上がって、一歩を痛々しく踏み出すとカサブタが割れて血が滲みだした。

 とてもじゃないが、痛くて普通には歩けない。

 

 グギュルルル。

 猫猿の唸り声では無く、美咲の腹の虫が鳴った。

 自分が吐いた物が床で固まって、異臭を放っているのが目に入った。

 食欲は大幅に減退したが、何か食べないと身体がもちそうになかった。


 グギュルルル。

 また腹が鳴った。


「はは・・・・・・」


 傷だらけで、泣き疲れて、身も心もボロボロである。

 こうなると、本当にもう空虚に笑うしか無かった。

 だが、笑っていても何も起こらない。

 美咲は、砦の中を壁伝いに、身体を支え歩きながら、使える物が何か無いか探索する事にした。




 真っ先に調べたのは厨房と、隣接する倉庫だったが、そこに食べ物は無かった。

 あるものと言えば、割れた皿の欠片以外は、焼き釜と言った備え付けの調理器具以外見当たらない。


 厨房を出ると、すぐに大きな食堂があった。戸を閉じられた窓からの光しかないので、外ほど明るくない為、よくは見えない。

 だが、昔火事があったらしく、所々が煤けていた。


 壁には、大きな地図が張られていた。

 いわゆる古地図の類で、所々に怪物の絵が描かれ、どこまで正しいのかも怪しかった上に、一部が焼けおちている。

 地図には印も何もないので、どこが現在位置なのかも分からない。

 美咲にとって現在位置と言えば、自動でピンが刺されている世代である。


 それよりも美咲の目を引いたのは、書いてある文字が、日本語や英語では無い事だった。

 美咲は薄暗い中で地図を眺めて、首をひねった。

 知っている文字と同じ形だったり、似た形の文字もあるが、既存の略字や筆記体とも違った。

 これは地図と合わせて、いよいよここが異世界である事に疑いの余地が無くなって来た。

 この調子だと、人と会っても話せない可能性の方が高い。

 そんな事を考えながらiDの翻訳機能のデータ解析を選択すると、目の前の未知の文字のパターンを調べ始めた。

 しかし、すぐに情報不足とエラー表示されてしまった。


 食堂を出ると、窓が全て閉じられた廊下を進み、とりあえず鍵が開いている部屋を片っ端から見ていった。

 そこら中が火事の爪痕で煤けていて、砦の広い範囲が火事にあった事が分かった。


 探索を続けていると、火事の被害が見られない寝室らしい簡素な部屋を見つけた。

 同じ形のベッドが沢山ある大部屋で、美咲の苦手な鼠やゴキブリが普通にいるが、その部屋を避けている余裕さえなかった。

 美咲はビビりながらも、足もとの生物を踏まない様にだけ気を付けて部屋に入った。

 何か無いか探すが、ベッドは上に藁を敷き詰めているだけのもので、布が一切使われていない為、どうやら階級が低い人達の大部屋である事が分かった。

 ベッドの他には、それぞれのベッドの足元に木箱が置かれていた。

 美咲は、宝箱を開ける様な気持ちで木箱を開けると、中にはボロ切れの様な服が仕舞われていた。

 かなりのアンモニア臭がし、吐き気がしたが、胃の中に吐く物が無い。


 美咲は、指で鼻と服をつまむと、服を床に投げ捨て、他に何か無いか箱の中を探した。

 何も使えそうなものが無いと、別のベッドの足元の木箱も物色し始め、三箱目にして綺麗かは別にして、飛びぬけた異臭がしないボロボロの男物の服を見つけた。

 持ち主の一張羅だろうと思った。


 コスプレみたいだなと思いながらも、水着の上から早速着ると、それだけでほんの少し心が満たされた気がした。

 複数の箱の中の物から推測するに、どうやらこの砦で、住み込みで働く男性の使用人が使う部屋らしく、女物の服も下着の様な物も見つからなかった。

 仮に女性用の下着を見つけても、誰の物かも分からない上に洗っていない下着を着けるのには、さすがの美咲も抵抗があるので、下には水着を着たままでいる事にした。


 他にも木箱を物色し、状態がマシな布を見つけると、無理やり裂いてから足や腕に包帯代わりに強く巻いた。

 痛みは消えないが、これで壁を使って身体を支えずに歩ける程度にはマシになった。

 服を拝借して一息ついた美咲は、次は武器が欲しいなと思った。


 心の余裕が、少しだけ生まれたのを感じた。

 昔、兄がやっているのを隣で見ていたRPGなら、真っ先に武器や薬草が手に入りそうなものなのにと思った。

 もっとも、そのRPGなら、もう少し安全で人のいる町から旅が始まっていたが、美咲は自分ではやっていないので記憶に無い。


 木箱の確認を終えた美咲は、一旦ベッドに腰をかけ、余裕ついでに状況を整理しようと思った。

 美咲が分かっている範囲で、状況を整理すると、こうなる。


・プールで泳いでいたら、突然、鍾乳洞の地底湖に移動していた。

・地底湖には、見た事の無い巨大な魚。

・無人の町には、見た事の無い凶暴な猫みたいな猿の群れ。

・逃げ込んだ町はずれの砦は無人で、中では見た事の無い地図と文字を見つけた。


 と、こんな所だった。

 テンションが上がって昨日撮影した写真を見ても、今はまるでテンションが上がらない。


「はぁ……」


 自然と溜息が出た。

 グギュルルル。

 探索で忘れようとしていたのに、腹の虫が空腹を思い出させた。

 立ち上がるのも億劫だった。


 iD内の写真を切り替えると、次に新しい写真は一昨日の誕生日を家族で祝う写真だった。

 兄がメッセージアプリで送ってくれたもので、ケーキにお寿司、ローストビーフがテーブルの上に並んでいる。

 余計に腹が減った。


「会いたいよ……」


 ポト。

 家族の写真を見て、思わず泣きそうな美咲の頭に、何かが落ちてきた。

 驚いて手で頭を掃うと、床に大きな蜘蛛が着地した。


 iDは美咲のパニックをキャッチして、自動ロックされる。

 美咲は声も出なかった。

 それは、美咲にとって蜘蛛が一番苦手な存在だったからである。


 蜘蛛の形状や動きが生理的に苦手で、ゴキブリとは戦えても、蜘蛛には近づく事さえ抵抗があった。

 美咲の気持ちも知らずに、蜘蛛はカサカサとベッドの下へ逃げて行ってしまった。

 美咲はベッドの上に足をあげて避難した。


 安心は出来ないが一息つくと、ロッテに命令して設定で自動ロックをオフにさせた。

 また蜘蛛が出たり、驚くたびにiDが操作不能になっていては、この世界では生き伸びられるとは思えない。


 グギュルルル。

 また腹が鳴った。

 そういえば、大きなタランチュラは、エビっぽい味がすると兄が言っていたのを思い出した。


「エビに、見えない事も……ないか」


 形状的には、まだカニである。

 自分で言っておいて、絶対無理だと美咲は思った。

 蜘蛛だけは、本当に勘弁して欲しかった。


 ミサキの視線が、部屋の隅をウロウロしている鼠に向かった。

 いきなり哺乳類は、ちょっとと思った。

 どんなウィルスを持ってるかも分からないしと、自分に必要の無い言い訳をする。


「はぁ……」


 どうせなら本物のエビを食べたい。

 その時、エビの尻尾とゴキブリの羽の成分が近い事を葵が言っていたのを思い出した。

 葵の人の悪い顔が思い浮かんだ。

 床をゆっくりと這う大きなゴキブリを見た。

 問題の羽は無いが、大きさが20センチはあって、食べ応えだけはありそうだった。

 羽が無く動きが遅いだけで、家で遭遇する奴らよりも気持ち悪さは少ない。


「エビ、と言うより六本足のダンゴムシか……」


 それ以前に、ここは異世界なので、ゴキブリかも怪しい。


 グギュルルル。

 腹は鳴るが、実際に行動に移す勇気は沸かなかった。

 餓死には、まだ相当の余裕がある筈だし、何よりも生理的に受け付けない。


 ほんと、家に帰りたいと思った。

 しかし、いくら願って妄想しても、状況は好転しない。

 今は、とりあえず砦の中で使えそうな物を集めないと、どうしようもない。


 食べ物が見つからないと、最悪本当にゴキブリや鼠、そして蜘蛛の味を確かめる羽目になってしまう。

 そんな現実的かつネガティブな状況整理をしていると「そう言えば……」と、砦を囲む堀にかかった橋が崩れていた事を思い出した。

 そして、他に出口はあるのだろうかと思い、同時に嫌な予感に襲われた。


 美咲は、部屋を出ると砦の上の階へ続く階段を探し始めた。

 どこにも案内図など張られていなかったが、階段はすぐに見つかった。

 一段一段が高い上に、傾斜が急で登りにくい階段を、なんとか登っていく。


 辿り着いたのは、砦の中で一番高い所にある物見の塔だった。

 そこからは、監視所らしく砦の周囲を全て見渡せた。

 しかし、そこから見えたのは、絶景と言うよりは、絶望だった。


 砦は、広く深い堀に囲まれた陸の孤島にあり、周囲には森と草原が広がっていた。

 少し離れた場所にあるさっきまで美咲が彷徨っていた町には、猫猿達と思しき影が遠くからでも確認出来た。

 見た所、堀を超える橋が架かっている所は見当たらなかった。

 つまり、状況的に「詰んでいる」のが見えた。

 出口無し、暫定だが食べ物無しの砦に、狂暴なモンスターと閉じ込められていた。


「はは・・・・・・ははははは」


 美咲は、塔の屋根を支える柱にもたれかかった。

 何もおかしくないが、本当に笑うしかない。


「こんなの、もう……」


 死ぬしか無いじゃないかと思った。

 そんな考えが一度頭をよぎると、それは頭の中で反芻され、それしか無い様にさえ思えてきた。

 そのアイディアを掻き消したのは、今や、よく知っている不快な唸り声だった。




 グルルルル。


 美咲が唸り声のする方を塔の上から見下ろすと、猫猿達が七匹、仲良くワラワラと砦の壁や屋根をのぼってきているのが見えた。

 しかも、都合の悪い事に美咲に気付いていて、一直線に塔を目指していた。


 美咲を見た猫猿の一匹は、腕に怪我をしていて、口に錆びたナイフをくわえていた。

 そいつは美咲を見て、歯茎を剥き出しにしてキシキシと笑っている様に見えた。

 復讐に燃えているのが、種族の壁を越えて伝わってきた。


 美咲は、急な傾斜の階段を全速力で駆け下りた。

 身体の痛みなど、気にしている場合では無い。

 閉じられる扉は閉じ、鍵があればかけ、物があれば倒し、少しでも時間を稼ごうとした。


 猫猿達は外壁を登れるが、美咲は登れないので、外に逃げても堀の底以外に行く場所が無く、完全に追い詰められていた。

 全ての部屋を見た訳では無いので、籠城に適した場所など、今の美咲には思い浮かばなかった。

 なにしろ、一階の探索も途中だったのだ。


 それでも美咲は、必死に、身を隠す場所を求めて階下へ下りて行った。

 当てもなく砦の中を走り逃げていると、まだ行った事の無い地下へ続く階段を見つけた。

 美咲は、一抹の不安を覚えたが、未踏の地下へと思い切って駆け下りていった。

 辿り着いたそこは、地下牢だった。


 堀として掘られた事で、地下にもかかわらず壁の窓から外の光が見えた。

 牢の中には誰もいないし、牢の鍵も開いていない。

 そこは、袋小路だった。

 問題は、閉じこもる扉が無ければ、籠城もままならない事である。


 少しでも猫猿達から距離を取りたい気持ちに従ったのが、裏目に出てしまった。

 町で漠然と助けを求めて彷徨った結果、猫猿達と遭遇した時と同じ失敗であった。


 美咲が慌てて上の階へ戻ろうとすると、猫猿達が上の階から階段を下りてくる影が見えた。

 美咲の臭いを追って一直線に向かって来たようだった。

 美咲の事を猫猿達は気付かれていないが、今出ていけば鉢合わせしてしまう恐れがあった。


 静かに地下牢に戻ると、まさか牢屋に入りたい日が来るなんてと思いながら、何か打開策が無いか、起死回生の一手を探し始めた。


 そこには看守が使っていたテーブルがあった。

 だが肝心の牢屋を開ける鍵は、どこにも見当たらない。

 ただ、テーブルの上には、囚人を殴るのに使っていたであろう、他に使用用途が思い浮かばない、使い込まれて赤黒くなった棍棒が無造作に置かれていた。

 美咲は、試しに棍棒を手に持ってみた。

 見た目に反して軽く、これで猫猿達を片っ端から撲殺していくには、力も技術も足りなそうである。


 他に何か無いか探すが、壁にある松明を設置する台座には、肝心の松明が無かった。

 床の一部には、藁が大量に詰まれていた。

 囚人の寝床用だろう。

 藁の中に身を隠せるのでは、とも思ったが上手くいくイメージが沸かなかった。

 想像の中で、藁の隙間から猫猿と目が合ってしまった。


 いっその事、藁に火でもつければ煙で撃退をとも考えた。

 だが、松明も無ければ火おこしの道具を持っていない。

 美咲は、火なんてライターか電気コンロでしか点けた事が無い現代っ子である。

 せめてマッチが欲しい。


 そんな事を考えていると、藁の隙間から見える地面に何かあるのが見えた。



 なんと、それは地下室への扉だった。



 この扉だけ、他よりも新しく設置されたのが見てわかった。

 火事の後で設置された物の様である。

 美咲は、藁は扉を隠す為に置かれていたのだろうと思い、藁をかき分けて退かした。


 すると、扉には大きく丈夫そうな南京錠型の鍵がかかっていた。

 美咲は地下牢の中を再び見て回った。

 しかし、どこを探しても、南京錠の鍵は見当たらない。


 この扉が開かないと、美咲が猫猿達の最後の晩餐になるのは間違いなかった。

 美咲は、全力で扉を開けようと引くが、南京錠のせいで少しも開く気配が無い。


 手の平のマメが潰れ、足の裏と腕の傷からは包帯代わりの布越しに血が滲み、腕の傷からは血が垂れて腕を伝った。

 試しに南京錠を棍棒で叩くが、鈍い音がするだけで、表面に傷しかつかない。


 血と汗を現在進行形で流す力技の努力も空しく、扉はビクともしない。

 また扉を引くが、手の平の汗と血と体液で手が滑って、尻もちをついてしまった。

 石の床が尾てい骨に当たり相当痛いが、声を我慢して一度手の血を服で拭った。

 もう一度扉を引くが、やはりダメだった。


 いつ猫猿達が来てもおかしくない。

 すぐにでも南京錠を開けないと、見つかったら食べられてしまう。

 大きな南京錠の鍵を……


「南京錠……」


 美咲は、もしかしたらと思った。

 南京錠の輪に棍棒の柄をツッコむと、南京錠の輪に対してテコの原理が働くように棍棒に力を加えた。

 単純な構造の南京錠は、輪に固い棒を入れてテコの原理で引っ張れば開く事があると聞いた事があったからだった。

 遊びの部分が多少動くが、簡単には開かない。


 それでも、力任せに引っ張るよりは意味がありそうだった。

 この地下牢にはピッキングの道具も用意されていないようだし、手元の道具で出来る事は他に思い浮かばない。

 美咲は、南京錠の輪に入れた棍棒を、渾身の力を込めて一気に引っ張った。

 使い古された上に風化している木の棍棒なので、そんなに何度も持ちそうも無い。

 それでも鍵は開かなかった。


 美咲は、手のひらを、もう一度服で拭った。

 それから、筋を痛めるのでは無いかと言う力を込めて南京錠の輪に通した棍棒を引っ張った。

 だが、それでも駄目だった。

 輪は遊びの部分が動くのだが、もっと力を込めないと開きそうにない。


 焦ってくるが、焦る程に思考は狭まる。

 美咲は、まるで大会で泳ぐ前の様に、リラックスしろと自分に言い聞かせた。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 脳に酸素を送る。


 美咲は息を整えると、今度は棍棒の上に、ペダルを踏む様に足をのせた。

 手だけでダメなら、全身を使う以外に無い。


 棍棒がミシミシと音を立てるが、他の手段がもう思い浮かばなかった。

 お願いだから開いてと願った。


 一気に足に全体重をかけると、ガチャっと南京錠が音を立てた。

 棍棒は筋に沿って割れて折れてしまい、美咲はバランスを崩して転びそうになるが、今度は堪えた。


 美咲が南京錠を確認すると、鍵が開いていた。

 すぐに南京錠を外して床の扉を開く。

 すると、扉の下には地下へと続く暗い階段があった。


 その時、地下牢へ続く上階からの階段を下りてくる猫猿達の気配が近づいて来た。

 美咲は、床に現れた階段を急いで降りて行った。


 美咲を探しに来た猫猿達は、地下牢へ到着したが、美咲を見つけられないと、地下への扉には気付かずに上の階へと戻っていった。

 クンカクンカと臭いを嗅ぎ、地下牢が獲物のニオイが一番濃いのに、おかしいと思いながら。


 地下室へ続く扉の裏では、息を潜めて扉が開かない様に引っ張っていた美咲が、音を殺して深く息をついた。

 そう言えば、この開錠の知識をくれた恩人は誰だっけと思い出した。

 沖縄で旅行鞄の小さな南京錠の鍵を無くした時に、兄がドヤ顔で教えてくれたのを思い出した。

 あの時は、こんなの二度と使う事の無い無駄知識と思っていたのにと思った。


 美咲は、扉の内側に備え付けられていた金属製の閂を手探りでかける。

 それから、持って来てしまった折れた棍棒と、大きな南京錠を手に持ったまま、ゆっくりと真っ暗な階段を下りていった。




 階段を降りていくと、そこは、上の階と比べて異質な空間だった。


 学校の体育館よりは狭いが、実習教室よりも広い、柱の無いかなり広い部屋で、何かの研究室に見えた。

 建物の下にあるのに砦の重さに耐えている所を見ると、部屋自体相当丈夫なのだろう。

 作りが上の階とは、明らかに時代が違う。

 例えるなら、レトロフューチャーと言う雰囲気があった。


 窓は無く、上の階の様に外の光も見え無い。

 だが、見た事も無い生き物のホルマリン漬けが沢山飾られており、その中の何体かが、漬けられた生き物それ自体が発光していて、部屋を妖しく照らしていた。

 他にも、壁には様々な生き物や、その部位に関する手描きの解剖図や、骨格標本がいくつも飾られていた。


 階段を降りきると、部屋の奥に何かがあるのが見えた。

 美咲には、大きなガラスの水槽に見えた。

 それは水槽には違い無いが、本来は培養槽と呼ばれる物で、部屋には天井までの高さがある巨大な物がいくつも設置されていた。

 水槽の一つは、既に割れている。


 天井を見ると、照明器具らしき物があるのだが、スイッチの場所が分からない。

 照明器具や水槽に付随する機械類を見て、ここには電気なのかは分からないが、なんらかのエネルギーが利用されているのがわかった。


 壁に、上で見たのと同じ地形を描いた地図があるのが見えた。

 食堂で見た物よりも地図が小さいが、遥かに精巧に描かれ、所々にマークが記入されている。

 美咲は、地図や解剖図を撮影し、横目に通り過ぎる。


 地図は、ここを出られた時に役立つと思った。

 現状出られるのかも怪しいが、諦めていられない。

 解剖図は純粋に興味をそそられたのと、今はどんな物でも情報が欲しいと思ったからだ。

 この世界で、何が役立つか分からないのなら、情報のストックは多いに越した事は無い。


 そのまま怪しく光るホルマリン漬けや、何かの臓器、生き物の身体の一部の瓶詰を避けて通り過ぎ、恐る恐る巨大な水槽に近づいた。

 中に何がいるのか目を凝らしてみた。

 しかし、水槽はひどく埃をかぶっていて、中身の全体像を正確には捉えきれなかった。

 だが、確かに中に何かが入っている影が見えた。


 美咲が服の袖で埃を丸く拭って中を見ると、培養液につけられた、長い毛の様な物が見えた。

 水槽の台座には、管理用のプレートがはめられ、そこに文字が書かれていた。

 それも見覚えのある文字で、である。


「英語?」


 視界の端で、自動翻訳と文字が表示された。


「……プロト……ギフト?」


 文字は所々かすれているが、プロト、それとギフト、二つの英単語だけが辛うじて読み取れた。

 プロトもギフトも翻訳が無くても何となくわかる。

 翻訳には、それぞれ「試作」と「贈り物」と書いてあった。


 他には、数字の羅列「906ー144ー7755」を読み取る事が出来たが、意味が分からなかった。

 何かの管理番号なのかなぐらいしか思い浮かばないが、法則が分からない。


 他の水槽の管理表には、アジャスティング○と、○の中に数字が入るプレートを持つ水槽が三つあるが、一つは割れ、後はどれも中に培養液が満たされているだけで空だった。

 アジャスティングの翻訳には「調整」とあった。


「試作と調整? 贈り物の?」


 他に何か無いかと見ていくと、沢山並ぶテーブルの上に虫食いだらけの日誌が置かれていた。

 どうやら他の地図や解剖図と同じく、羊皮紙で出来ている。

 手書きの文字だが、やはり文字は英語だった。


 置いてあった日誌には、繰り返し「エレノア」と言う名前が出てきた。

 それぐらいは翻訳が無くても美咲にも分かったし、逆に言うと虫食いが酷すぎて、自動翻訳では、それぐらいしか分からなかった。


 一度、自動翻訳をオフにすると、虫食いだらけの英語の日誌が目の前に現れた。

 未翻訳の古い洋ゲーを葵がプレイしているのを横で見ている時の気持ちが蘇り、説明係が欲しいと葵を思い出した。


「ほんと、会いたいよ……」


 学校での英語の成績が良くない美咲だが、分からないなりに調べると、名前の主は日誌を書いた人間とは別人の様だった。

 他には、実験の記録らしい記述が延々と続き、日誌は途中で終わり、後半のページは白紙である。


 日誌の表紙を見ると、プロジェクトナンバーと言う文字と、数字の羅列があった。

 まさかと思い、日誌を持って水槽の前に移動した。


 すると、プレートのナンバーと日誌のプロジェクトナンバーは、「906ー144ー7755」で合致していた。

 脱出ゲームの謎解きにも似た小さな達成感を感じていると、地下室に続く扉の外で物音がした。

 外の気配に息を潜めると、扉を壊そうと何かで叩く音が聞こえてきた。


 美咲は、今は謎解きをしている場合では無いと、何か武器になりそうなものが無いか、部屋を改めて探索し始めた。

 どうせなら大きな剣や、出来れば銃みたいな物は無いかと、とにかく武器になりそうな物を探すが、こんなに色々な物が置いてあるのに美咲の期待に応える様な物は見当たらなかった。


 バキバキッ!

 扉を壊す音が、部屋の中にまで聞こえてきた。


 美咲は慌てて物陰に隠れた。

 その手には南京錠と日誌を握りしめており、折れた棍棒はテーブルの上に置いてきてしまった。

 息を殺して、見つかりませんようにと念じた。


 物陰からそっと見ると、猫猿達がゾロゾロと地下室に降りて来ていた。

 猫猿達は、砦のどこで見つけたのか、斧や槍を持って武装していた。

 扉も斧で破壊した様子だった。


 美咲は「なんであいつ等だけ」と内心抗議した。

 こっちはアウェイなのに、ハンデまでやらないといけないなんて……

 その手の中の南京錠と日誌を見て、絶望が強まるのを感じた。

 こんなので勝てる筈が無かった。

 出口は一ヵ所で、戦っても勝てないなら、美咲に残された道は逃げるしかない。


 ところが猫猿達は、美咲には気付かずに、臭いを嗅ぎながら部屋を物色し始めた。

 美咲が通った順に、律儀に移動しているのだ。

 その時、猫猿の一匹が、ホルマリン漬けの瓶を割ると、臭いを嗅ぎ、中身の得体のしれない生き物を食べ始めた。

 それによって部屋の中が薬品の異臭に包まれた。

 これはアルコール臭だった。

 つまり、ホルマリン漬けではなく、アルコール漬けだった。


 美咲のニオイは、アルコールにかき消され、猫猿達は美咲を完全に見失った。

 これは予想もしていないチャンスだった。


 臭いに味に酔った猫猿達は興奮し、美咲の事など忘れて、瓶詰を次々と力任せに殴りつけ始める。

 一匹の猫猿が、部屋の奥にある大きな水槽を斧で殴りつけた。

 おそらく、それもアルコール漬けだと思ったのだろう。

 金属部分で殴られた水槽には、大きなヒビが入った。

 だが、かなり丈夫に作られているらしく、水槽は形を維持していた。


 美咲は、アルコール漬けにされた生き物や何かの一部が犠牲になっている間に、どうにか部屋の外に出て、地下に猫猿達を閉じ込められないか考えた。

 地下室に続く扉は壊されたが、要は通れなくさえ出来れば良いのである。

 保存溶液に使われている濃度のアルコールなら、もしかしたら火もつくのではと思った。


 その間も、水槽のヒビから溶液がチョロチョロと抜けて、水位と同時に水槽の中身がゆっくりと降りて来ていたが、それを気にする者は誰もいなかった。


 猫猿達は、瓶を次々と床に叩きつけて割っては、浴びる様に瓶の中をムシャムシャ食べていく。

 火さえ用意出来れば、アルコール塗れの猫猿達を部屋ごと焼き殺せるかもしれない。


 正当防衛とか過剰防衛の話では無く、生きるか死ぬかの戦いだと、美咲は自分に言い聞かせた。

 この期に及んでも常識や良心が邪魔をするが、もう生き残る為なら形振り構っていられなかった。

 猫猿達に捕まれば、美咲もムシャムシャと食べられてしまうのだ。


 iDで緊急マニュアルを開いて火おこしを選ぶと、緊急時の火おこしの仕方が、美咲の視界に動画で流れ始めた。


「可燃性の物が無い所で、木の枝を……」

 美咲にだけ聞こえる音声解説が同時に流れ始めるが、そんな説明動画を悠長に見ていられない。

 インターネットが使えれば、もっと早いのだが、無い物ねだりをしていて死にたくない。

 今ある手元の知識だけで対処しなければならない。


 iDに内蔵されている辞書で発火を引いて他には無いかと探す。

 集光発火……却下、落雷……却下、と言う風に役に立つ情報が検索出来ない。

 しかし、すぐにサポートコンシェルジュAIのロッテが、マッチの原料がリンであるという情報をもじもじしながら「もしかして」と出して来た。

 実によく出来たメイドだと美咲は喜ぶが、バケツ60杯の尿を蒸発させて発見したと言う説明をロッテが始めた為「そんな量出るか!」とウィンドウを閉じた。

 そもそも蒸発させる火を起こせた時点で、尿に用が無くなるでは無いか。


 少し混乱したが、この部屋になら、リンぐらいどこかにありそうだし、幸い、瓶の表記は英語書かれているので自動翻訳を使えば読む事もできる。

 マッチやライターの類があるに越した事は無いが、どこかにリンが無いかと、美咲はコソコソと部屋の中を、物陰を移動し、出口に向かいながら探し始めた。


 部屋の隅に、沢山の瓶が並んでいる棚があった。

 視界をiDの機能でズームして見ると、色々書かれたラベルがすぐに翻訳され、リンが入った瓶が見つかった。

 まだ天に見放されていないと思った。

 他にもアルミニウムや酸化鉄等が書かれているが、美咲の目にはリンしか入っていない。


 とにかく、あの瓶を猫猿に投げつければ、うまくすれば火が付き、それが周囲に引火する筈である。

 リンは自然発火するぐらいには燃えやすいらしいし、少なくとも、粉が散らばるだけで終わる事は無い。

 美咲は、学校の授業で、リンは有害と聞いた事があった。

 何の役に立つのか分からずに聞いていた授業だったが、それが今まさに役立とうとしていた。


 コソコソと棚の下まで移動してくると、猫猿達の様子をうかがった。

 まだまだオードブルは豊富らしく、夢中で腹を満たしているのが見える。


 リンが入った瓶は、棚の上の方で、取る時に猿達に見つかる訳にはいかない。

 タイミングを見計らって、一気に手を伸ばして瓶を掴む必要がある。

 持って来てしまった日誌をズボンに押し込み、これも持って来てしまった南京錠をそっと床に置いた。


 どのタイミングで手を伸ばすのか。


 その時、猫猿達が瓶を床に叩きつけ始めた。

 食事を次のメニューに進む気だろう。


 チャンスは、今しかない。

 美咲は思い切って手を伸ばすと、リンの瓶を掴み、すぐ物陰に隠れた。


 見つかった?


 猫猿達の方に、変化した様子は見られない。

 美咲は「よしっ!」と思った。

 心の中でガッツポーズし、南京錠を拾うと、そのまま静かに出口に向かった。


 そんなに、身を乗り出したつもりは無かった。

 油断したつもりも、自分では無かった。


「いっっっ!?」


 美咲は視界で火花が弾け、その場に受け身もとらずに倒れ込んだ。

 突然の事に混乱するしかない。


 リンの入った瓶は、そのまま握っていたが、南京錠が床に落ちた拍子に、床石とぶつかり、本物の火花を散らした。




 美咲の頭を襲った突然の鈍痛。


 猫猿の一匹が、美咲に気付き、アルコール漬けの瓶を絶妙なコントロールで投げていた。

 実に良い肩をしている。

 音も無い飛び道具は、美咲も予想できなかった。


 瓶は美咲の頭に大きなコブを作り、床で割れて中身が散らばった。

 瓶の主だった不細工な魚の死体と目があった。

 美咲がアルコールの水たまりに浸かりながら見上げると、嬉しそうに美咲を見下ろす猫猿達が近づいて来てくるのが見えた。


 足掻こうにも、美咲の身体は、素直には言う事を聞かなかった。

 軽い脳震盪を起こしている。

 あと、アルコールの、ニオイで少し酔っていた。


 猫猿の一匹が、美咲が握っていた南京錠とリンの入った瓶を遠くに蹴り飛ばすと、腕を踏みつけて動けない様にした。

 直後、錆びたナイフを美咲の左腕に突き立てた。


「-----っああああ!?」


 美咲は、あまりの激痛に言葉にならない叫びをあげた。

 酔いも一気に醒める。


 iDが自動で緊急連絡を入れようとしているが、圏外なのでどこにもかからない。


 刺されたのは、美咲が猫猿の腕に刺した個所と、律儀にも同じ所だった。

 猫猿は、ナイフを、グリグリを奥へ刺し込んでいった。

 錆びていて切れ味が良くない為、肉を切るのに抵抗があり、一気に深くは刺さっていかない。

 床には濃い赤色が広がり、濃厚な鉄の臭いが加わった。


「ぐっ、うううう……」


 iDによる使用者の状態表示で、視界に人の形の図が表示され、左腕が真っ赤に点滅している。

 左腕、重傷、感染症、破傷風の恐れありと、怖くて知りたくない情報が次々に表示された。

 美咲は、歯を食いしばり、痛みに涙が流れる目を閉じた。


 iDの表示が消え、視界が暗闇に包まれる。

 これが夢なら、覚めるチャンスは、きっと今しかない。

 お願いだから、夢なら覚めてと願った。


 しかし、悪夢は覚めず、開けた瞳に映ったのは、すぐ近くにまで顔を近づけた猫猿の凶悪な笑顔だった。

 始めて聞く、ケタケタと楽しそうな笑い声を響かせ、他の猫猿達も楽しそうに仲間が美咲を嬲る光景を見ていた。

 そこにあるのは、一方的な暴力だった。


 iDが自動で緊急連絡のリトライを発信するが、それはどこにも届かない。


 猫猿達は舌なめずりをすると、美咲の服を無理やり破き始めた。

 下に着ていた水着には服と言う認識が無いらしく、猫猿は水着に少し戸惑っていた。

 だが、食べやすい様に皮を剥いている感覚だろう。

 腹にあいた水着の穴を見つけると、爪を引っ掛けてジワジワと穴を広げて楽しみ始めた。

 もう少しで胸が露になるが、美咲は抵抗出来ず、されるがままに脱がされていくしかない。

 穴が広がっていく水着と、ボロを辛うじて纏った状態で、美咲は動かない身体で、本格的に嬲られ始めようとしていた。


 美咲があまりの恐怖に失禁するが、猫猿達はケタケタと笑い、余計に興奮して構わずに続けた。

 この状況でも、美咲はまだ諦めていなかった。

 仮に見物客がいたら、その誰の目にも、猫猿達は美咲の身体を、たっぷりと時間をかけて楽しんでから、食事を楽しもうと考えている外道、下種の類だとわかるだろう。

 しかし、美咲には、そういった発想自体が思い浮かんでおらず、殺される事、ただ純粋にそれだけを恐れていた為、自尊心では無く生存本能に突き動かされていた。

 塔の上では楽に死にたいなんて考えが浮かんでも来たが、この状況で殺されるのは、正直まっぴらごめんだった。

 意地でも足掻いて、こんな奴らの思い通りになんて絶対になってやるものかと思っていた。


 美咲は、言う事を聞かない身体を、アナログに確認した。

 ナイフが刺さっている左腕は、痛むが指先の感覚まであり、神経も腱も無事だった。

 しかし、痛みで力が入らない。


 まだ大怪我を負ってはいない右手で、辛うじて脳震盪から回復してきた指を使って床を弄った。

 手に、割れた瓶のガラス片が当たったのを感じた。

 猫猿達は、気付いていない。


 ガラス片を手の平の中にそっと隠した。

 相手は七匹もいるのだから、怯ませたらすぐに逃げ出さないといけない。

 美咲に馬乗りになっている猫猿が、美咲の顔を舐めまわそうと顔を近づけた。


 今しかない。


 ガラス片を握りなおすと、美咲は力を振り絞って、猫猿の目を一気に突こうとした。

 しかし猫猿は、寸での所で今の美咲が持てる全力の攻撃を、腕を掴んで止めてしまった。


 猫猿の大きな目が忌々し気に細められた。


 すると猫猿は、そのまま美咲の右腕を力任せに握り絞めた。

 鈍い音を立てて骨が折れると、美咲の手からガラス片が零れ落ちた。


「っああ!?」


 そこで、美咲の策が尽きた。


 馬乗りに抑え込まれ、両腕は使えず、もう殆ど動けない。

 なのに、まだ意識だけは、はっきりしていた。


 しかし、美咲の心は、この期に及んでまだ折れていなかった。

 意識がある限り、諦めるなと自分に言い聞かせた。

 噛みついてでも、最後まで抵抗してやると思った。


 美咲の反抗的な態度など、微塵も気にせず、猫猿の一匹がナイフが刺さったままの美咲の腕をつかむと、高くに掲げた。

 美咲は、力無くエビぞりの様な状態のまま無理やり起こされ、猫猿の腕に体重を預けていた。

 折れていない方の左腕がミシミシと悲鳴を上げ、刺された傷口からはどす黒い血があふれ出した。

 プツプツと、ナイフで切れかかっていた腕の筋肉が千切れていくのが分かった。


 視界の端では、赤い文字で止血してくださいと点滅表示が出るが、もはや邪魔でしかない。


「ああああああっ!」


 激痛に思考が支配され、早く地獄から解放されたいと本能が騒いだ。

 猫猿は、呻き叫ぶ美咲を、水槽の前にある開けた場所へ引きずっていくと、そこに置いてあった手術台の様な作業台を、邪魔そうに乱暴に倒した。

 猫猿達が、お楽しみを始めようと下品に笑うと、美咲を乱暴に台が置いてあった場所に投げとばした。


「がっ」と、美咲は床に叩きつけられ、呼吸が乱れた。


 拍子に、刺さったナイフも抜け、血が勢いを増して一気に流れ出ていくのが分かった。

 iDには、失血の致死量を警告するメーターが表示され、何ミリリットルが流れ出たかが死へのカウントダウンの様に表示されていた。


 床に叩きつけられた拍子に、美咲の鮮血が水槽の台座にある装置に付着すると、装置が勝手に動き始めた。


 猫猿達は、さっそく宴を楽しもう美咲の身体に群がった。

 美咲の柔肌を舐めまわし始め、美咲が動く手足をバタつかせると、猫猿の四匹が美咲の四肢を押さえた。

 息の荒い猫猿達は、大したチームワークを見せた。

 美咲は、耐えがたい不快感にも、痛みにも、歯を食いしばる事しかできなかった。


 美咲の足を押さえていた猫猿達が、その足を無理やり広げさようと引っ張って来た。

 力が強くて、とてもじゃないが抗う事が出来ない。


 その時、破られた服と一緒に、床に落ちた日誌が目に入った。

 美咲は、倒れたまま上を向くように、後ろを見た。

 希望の光を失いかけていた美咲の瞳に、小さな光が戻る。


 瞳には、ヒビが入った水槽が。

 そしてプレートのプロジェクトナンバー「906ー144ー7755」の数字が映っていた。

 すでに、水槽内の培養液の半分が抜け、巨大な中身が床にまで降りてきて、影を作っていた。


 その時、水槽の中の巨大な物が動いた。

 その事に、その場でただ一人、美咲だけが気付いていた。

 水槽の中身は、アルコール漬けの怪しい生き物達とは違って、まだ生きていた。


 美咲は、勇気を振り絞った。

 これは、美咲の出来る最後の悪あがきであり、正真正銘の一か八かだった。

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