ハローワールド

  2040年。

 人工知能の急成長、火星移民計画、軌道エレベータ建設、ダイソンスフィア計画の始動と、人類は自らの予想を上回る速さでの進歩を遂げていた。


 バイオナノマシンの一般化は、電話とパソコンの境界を曖昧にしたように、人とデバイスの境界を曖昧にした。

 しかし、それは文明の話である。


 どんなに科学が発展しても、人間の悩みはいつの時代も大きく変わる物ではない。

 ホモサピエンスが地球上に誕生してから今まで、ただの一度も愛に悩まぬ人類は地上からいなくならなかったし、この先も消える事は無いだろう。




「あんた……まさか、また下に水着、着てきたの? 雑って言うか、ズボラって言うか……ははぁ、昔みたいに下着忘れたりして無いでしょうね?」


 親友の葵は、軽い冗談で言ったつもりだった。


「そんな小学生じゃあるまいし」


 美咲は、そう言いつつも不安にかられて「はっはっは、まっさかぁ」と言いながらロッカーに入れた自分のスポーツバッグの中を探った。

 すると、小さい声で「あれ……」と言った。

 先ほどまで明るかった顔色は、途端に曇っていく。

 その顔には“うそでしょ”と書いてあった。


「どうかした?」


 制服のリボンを外しながら“まさか”を聞いた当の葵が、浮かない顔をしている美咲を見た。


「……パンツ忘れた……」




 水着を家から着て来て自宅に下着を忘れるなんて失敗も、簡単には無くならなかったようだ。

 これから中学生水泳全国大会の大事な予選を控えているのに、美咲は思わぬ事態に困惑したのだった。




 本当に下着を忘れてきた美咲に、着替えの途中で下着になったまま葵が大爆笑した。

 笑い声に、女子更衣室内の視線が葵に注がれるが、そんな事は気にしない。


「あはははははは、おかしい。本当に小学生かあんた。その歳で家から水着着て来て、パンツ忘れるって!」


 周囲の同情の視線が美咲に「あの子パンツ忘れたんだ……」と突き刺さった。


「返す言葉もないです……」


 美咲は、頬を染めて恥ずかしそうに、少しシュンとした。

 家で忘れ物チェックをしようとしたら、兄からメッセージがあって返信に気を取られているうちに忘れ物チェック自体を忘れた事を思い出し「お兄ちゃんめ、ぐぬぬ」と恨めしく思う。


 それから、本日の予定を思い出して気が滅入った。

 仮に、直帰なら濡れた水着を下に着ていようが、ノーパンだろうが、ギリギリ、本当にギリギリだが、イケそうだと考えていた。


 だが、今日は都合が悪かった。

 本日の中学生水泳大会の予選を含め、試合ぐらいでしか実際に会わない他校の友達と、終わったらお疲れ様会をする事になっていたのだ。

 集合は予選会場のロビーで、会場になるお洒落なカフェまで直行である。

 既に参加費を幹事に払っている上に、仲の良い友達の何人かは、昨日渡せなかったと美咲に誕生日プレゼントを用意していそうなので、美咲は是が非でも参加したかった。


 濡れた水着やノーパンで過ごす充実した午後と言うのは、想像するだけでスース―してくる。

 目の前で爆笑している日に焼けた茶髪の少女は、みんなには言わないが、スカートめくりをチョイチョイ仕掛けてくる。

 そういうキャラなのは、長年の友達付き合いから分かっていた。

 美咲は、かなりの精度で到来する未来をシミュレーションし、どうにか回避せねばと思った。


 それから、短い黒髪を指で弄り、モジモジしながら葵に対して安易なお願いを持ちかけようとした。


「……ねえ、葵ちゃん。パンツ」

「貸さないわよ。気持ち悪い」


 まだ言いきってもいないのに、即却下された。

 葵は帰り用の綺麗な下着を用意しているので、そっちを借りればと思ったのに、早速当てが外れた。

流石に安易すぎた。

 だが美咲も、ここで引き下がる訳にはいかなかった。


「昨日、私ね、誕生日だったんだ。葵ちゃん……」


 美咲は、ウルウルと上目遣いをしてみた。

 相手が男なら、騙されずとも、しょうがない奴だと甘やかす所だが、葵には通じない。


「……普通に覚えてるけど。聞くがあんたは、それで良いのか? せっかく親友がプレゼント用意してきたっていうのに」


 葵は、ジトッとした視線を美咲に送ると、ロッカーに入れていたカバンを出して、中を開いて見せた。

 そこには、可愛いリボン付の包み紙が見えた。


「ううっ」


 まっ、眩しい!? 美咲は親友の回復魔法で大ダメージを喰らった。

 そんな気分になった。

 アンデッドか私は、と思った。


「……そうだ。じゃあ、サキッチが全国に行けたら、買ってあげる」


 自身の卑しさで心に傷を負った美咲に対して、葵は何かを思いついたのか、譲歩の姿勢を見せた。


「パンツのハードル、高くない!?」


 美咲は抗議した。

 もちろん、そんな立場じゃない事は分かっている。


「じゃあ、午後はノーパンで頑張るのね。せっかく昨日iDも導入した事だし、パンツの画像でも貼れば風が吹いても大丈夫だしね」


 iDとは、iDEVICEの略で、一般的なナノマシンタイプのデバイスの事だ。

 体内に常駐させて使う、高性能なスマートフォンを想像してもらいたい。

 葵の言葉に、美咲は思わず想像してしまった。

 iDの皮膚モニター機能を使えば、自分の皮膚に画像を映し出せるのだ。

 たしかにボディペイントに見えない事も無いが、絶対にやりたくない。


「それじゃ変態だよ!」

「あんたなら平気よ」

「何を根拠に!? ううっ、わかった。わかりました。全国に行きますよ!」


 言ってから美咲は、ダメだったら母親に買って来てもらおうと思った。

 いや、今、メッセージをたったの一本送れば解決するのでは?

 美咲がそんな事を考えていると、葵は美咲の表情を見て、まるで心を読んだのでは無いかと言うタイミングで美咲の脇をくすぐり始めた。


「約束したからね」

「はははははははっ、や、やめて、お願いだから!」


 おっと、墓穴を掘ったぞと、美咲は気付いた。

 全国に行けなかったらノーパンで半日過ごすみたいな、おかしな流れに誘導され始めている。

 葵は、くすぐる手を止めずに、ニンマリと人の悪い顔をしていた。

 昨日iDを導入したばかりの美咲は、誤作動防止機能の自動ロックをオフにしていないので、視界に浮かぶ画面が固定されてしまう。

 葵が確信犯なのは、間違いなかった。


「やめて、やめて、ください……」

 思わず「ください、だろ?」と言われる気がして自分で付けてしまった。


「しょうがない……」


 葵がくすぐるのを止めると、美咲は早速、iDでメッセージを送ろうと視界に出ているウィンドウに意識を集中し始めた。

 慣れれば簡単に操作できるのだが、意識を集中させてiDに命令するのにはコツがいる。

 今の美咲は、自転車で例えれば、地面を蹴りながら進んでいる様な状態なので、一々操作がぎこちない。

 すると、そんな美咲を見ながら、葵が言った。


「サキッチ、あんたまさか、自信無いの?」

「なっ!?」


 美咲は、あと一歩で母親に「パンツ忘れた、届けて」と言う情けないメッセージを送信出来たのに、送信ボタンを押す寸前で意識の集中を止めてしまった。

 葵は、美咲の負けず嫌いな性格を的確に突いて来た。

 美咲のiDに搭載されているサポートコンシェルジュAIであるメイド少女のロッテは、情けない文面の手紙をどうすればいいのか、美咲の命令を視界の端で待っている。


「全国、行くつもりでしょ? 今年は優勝するんでしょ?」


 更衣室は、気が付けば二人きりになっていた。


「ま、まあ、そうですけど……」


「じゃあ、大丈夫じゃない。自分を信じて!」


 葵は、ガンバレみたいな感じで言うが、明らかに楽しんでいた。


「ぐっ、じゃあ、私が全国決まったら、葵ちゃん本当にパンツ買ってくるんだからね? 約束だよ。終わったらすぐだよ!」


「よし。ダメだったら、一日ノーパンね。約束だからね」

 葵は面白そうに、早口で言った。


 術中にハマっている事は分かっているのに、我慢できずに無用な約束をしてしまった。

美咲は心の中で「私のバカバカ」と思った。

 すると、葵は美咲に手の平を見せた。

 別に、皮膚モニターによる画像も何も表示されていない。


「握手?」


 美咲は、間の抜けた顔をして葵の手を握った。


「パンツ代」


 美咲は素直に「なるほど」と思った。

 葵は買ってあげるとは言っても、自腹でとは一言も言っていない。


 それから美咲は、バッグから小学生の男子が使いそうなボロい三つ折り財布を出すと、マジックテープをビリビリと剥がして開け、自分で見た後に無表情でそっと葵に中身を見せた。

 ボロ財布は美咲の兄が小学生の時に使っていた物で、当時かっこいいと思っていた美咲がおさがりで貰った物だった。

 物は基本的に壊れるまで使う派なので使い続けているが、糸がほつれていたり、かなりガタが来ている。


「あの、あのですね、実は、言いにくいんですけど、見ての通り今、余分なお金が無いといいますか、その、財布に余裕が……」


 葵は、美咲の財布と財布の中身を見ると、何か入れたくなるぐらい切ない気持ちになった。

中学三年生の財布とは思えないのは、見た目だけでなく中身もである。

 試合終わりにジュースの一本も買えない。

 電子マネーで支払いをする為の家族カードの支払い能力の残高表示は、たったの80円で、クレジットカード機能も無い。

 iDに登録されている支払いカードと共通なので、ネット通販も出来ない。

 財布の中身で一番価値があるのは、一駅区間一ヶ月の通学に使っているチャージ式の定期カードなのは、間違いなかった。

 ちなみに、その定期カードの期限は、しっかりと切れている。


「……はぁ、パンツと、あとブラも揃いのプレゼントしてあげるから。本当に勝ちなさいよ」


 そう言うと葵はiDで通販のウェブページを開いて、美咲にも見える様に腕に表示した。


「ありがとっ! 私頑張るね!」


 美咲がわざとらしく、着替えている葵に抱き着くと「ちょっと、わかったから、美咲、邪魔!」と邪険に引きはがされた。

 美咲は抵抗して、葵のパンツを引っ張り始めた。

 これは完全に、ただの調子に乗った悪ふざけだった。


「ゴムが伸びる! こらっ、やめっ、やめろっ!」


 美咲は、葵に頭を殴られた。

 急に声にドスをきかせるのは、まだ怒ってはいないが、それ以上は本当にやめろの合図である。


「葵ちゃん痛いよぉ。脳細胞が死んだらどうするの」


 もう、と言いながら葵は着替えを続ける。


「コブの分有利になったと思いなさい、まったく」

「頭からゴールしたら、またコブになっちゃう」

「ほら、脳細胞はまだ大丈夫そうよ?」

「ううう」


 口では勝てない美咲は、頭をさすりながら気を取り直した。


「しかたない。今日は、葵ちゃんのご要望に応えるとしますか!」

 と、ワザとらしく気合を入れてみせた。


「……パンツの為だろ、さ、お待たせ、行こう」

 と、水着に着替え終わった葵は、仁王立ちする美咲のお尻をパチンと叩いた。

 美咲は、葵の不意打ちに「ひゃん」と変な声を出し、恥ずかしそうに叩かれた所をさする。


「気合入れなさいよ。とびっきりセクシーなの買ってあげるから」


 葵が美咲に腕を見せた。

 表示されている画面には、かなり際どいデザインの黒いレースの下着がネットショッピングのカートに入れられていた。

 間違いなく勝負下着である。

 値段もお高い。

 美咲の順位が決まった瞬間に注文し、会場に宅配してもらえば、店に買いに行くよりも遥かに早いので実に合理的である。


「そこは、可愛いデザインのにしてよぉ」


 美咲は、内心その値段に心が揺れ動いたが、悟られぬように文句をつけた。

 黒レースの下着など、見せたい相手などいないし、美咲には早すぎるのだが、自分が買えない物となると途端に魅力的に見えるのも事実である。

 しかし、必要ない物は、やっぱり要らないと言うのが美咲の考えだった。


「じゃあ、今日一位だったらね」

「そんなぁ……」

 こうして美咲は、今日の予選で負ける訳にいかなくなったのだった。


 これが美咲にとっての日常であった。




「サキッチ、呼ばれてるよ~」


 プールサイドで他の競技を面白そうに見ていた美咲は、葵に指で背中をなぞられてビクッと気付いた。


「ああ、うん」


 ようやく順番が来たかと、すっくと立ち上がる。

 すると、その引き締まったお尻を、また葵がペチンと叩いた。


「ちょっと!?」


 素直に驚く美咲に、葵は「かっこいい所見せてよ!」とエールを送った。

 美咲は、親指を立てて満面の笑みで答えた。


 プールのスタート地点まで歩いていると、声が聞こえてきた。


「ミサキ! ガンバ!」

「ナキリ! 期待してるぞ!」


 応援席に同じ学校の友達数人が応援に来てくれていた。

 美咲は、大きく手を振って返した。



 友達には、まあまあ色々な呼び方をされるが、初対面の半分には「ヒャッキさん?」と疑問符で呼ばれる。

 百鬼と書いて“なきり”と読む。

 これが美咲の苗字である。

 年齢は、昨日で15歳。

 背の高さと成績は、クラスで真ん中ぐらい。

 肩に届かないぐらいまで伸びた髪は、今は水泳キャップの中に納まっているが、キャップを外せば黒のストレート。

 目鼻立ちも悪く無く、黙っていれば清楚な美少女に見られない事も無い。

 だが、自他共に認める「ずぼら」な性格が災いして、清楚なんて誤認は日々の生活の中で既に正されている。


 中学に入ってから親友の葵に誘われて始めたので、水泳の経験はまだまだ浅い。

 だが、今では葵よりも早く泳げるし、こうして大会の予選に出る事も出来る。

 兄がいるせいか、人に頼ったり、教えてもらう事が上手く、そこに負けず嫌いな性格が合わさって、部内では一応の有望株だし、友達も多い方だ。




 友達の声援に応えながら美咲がプールに向かって歩いていると、変な音が聞こえた気がした。


「?」


 美咲が音の原因を探して、首をキョロキョロとする。


「百鬼どうした、大丈夫か?」


 美咲の異変に気付いた顧問兼コーチの木村先生が、心配そうに声をかけてきた。


「何か聞こえなかったですか?」


「あれ以外でか?」


 木村先生は、スタートの電子銃声を指した。

 美咲は、首を小さく縦に振った。


「いんや、耳鳴りか? 気圧がおかしいとかは無いか? 耳抜きは?」


「えっと、たぶん気のせい、だった……のかな? うん、もう大丈夫です」


 美咲は、そう言うと気にしない事にした。


「いいか、練習通りにやれば十分狙えるんだ。集中していけよ、同時にリラックスだ」


「はい!」


 木村先生の漠然としたアドバイスを素直に聞き、気を取り直す。

 ゴーグルの明度を調整し、最適にして着用しプールに入った。


 視界に見えるiDのウィンドウには、利用制限の文字が出ていた。

 こういった競技会場では、不正に使おうとする者がいるので、インプラントナノデバイスの類は強制的に利用制限される。

 具体的には、競技における最適解のモーションを表示してガイドする事で、本来の実力以上の動きをナビゲーション出来てしまうのだ。

 練習時には大変有用だが、本番では一切の使用が認められていない。


 なので、美咲のiDも一時的に緊急連絡でしか電話をかけられない様に自動的に制限されていた。

 美咲は、もしかしたらノイズは、この利用制限のせいで聞こえたのかもと思った。


「はぁ……ふぅ……」


 深呼吸をした。

 葵は、一位になれなかったら本当にセクシーな下着を買うし、予選に落ちたら買ってもくれない事は、長い付き合いから分かっていた。

 それはどの道、家に帰ってから面倒な事になる。

 特に、親からのセクシーな下着に対する興味本位の見当外れな質問を受けるのは、想像するだけで億劫でならない。

 だが、それよりも単純に、美咲は負けるのも諦めるのも、人一倍嫌いだった。


 そんな事を考えていると、そう言えばと思い出したように美咲は客席を見た。

 そこには美咲に手を振っている両親と、兄の姿があった。

 兄は美咲にビデオカメラのレンズを向けている。

 美咲が小さく手を振ると、兄も撮影の手を維持したまま手を振り返した。


 美咲は思った。

 みんなの「期待に応えたい」と。

 期待を裏切らない為に、努力をしてきた。

 そしてこれから、その力を出し切るのだ。


 美咲は目を閉じた。

 大会の為に日々練習も重ねて来たし、今朝も自宅の水風呂でわざわざイメトレをして来た。

 準備に抜かりもなければ、今日は快晴で絶好の試合日和である。

 負けたら他人のせいに出来ない状況で泳げると言うのは、勝ち負け関係無く気持ちが良い。


 目を開け、会場にある時計を見ると、時間は11時。

 丁度分針がカタンと動くのが見えた。

 すぐにスタート用意のアナウンスが流れ始める。


 スタート位置にあるハンドルを握ると、膝を抱え込み、足の裏を壁につけ、背泳ぎのスタートの姿勢をとる。

 全身のバネが、スタートダッシュの瞬間を、今か今かと待っている。

 美咲自身も、壁を蹴るタイミングを集中して待つ。

 集中、集中、集中……同時に、リラックス、リラックス、リラックス……


 自分の心音に意識を向ける。

 トクン、トクン、トクン……鼓動はリラックスしている。


 その時、また音が聞こえた。

 何の音かは分からないが、確かに聞こえた。


 聞いた事の無い音だった。

 イヤホンからの音楽の音漏れ、とも少し違う。

 何かの音楽、いや、もっと複雑な……

 ノイズの様な……


 こんな事なら、iDは予選が終わってから入れればよかったと、少し後悔した。

 まったくついていない。


 その時、世界がスローモーションになる様な、歪むような、違和感を感じた。

 一番近いのは、何の感覚だろうと思った。

 そうだ、これは知っている。

 デジャヴュである。


 ゾーンとか、そう言うのかな? 泳ぐ前から、興奮でハイなのかな?

 そんな事を内心思うが、すぐに気持ちを切り替える。


 パンッ!


 スタートを知らせる銃声が”ゆっくり”と、会場に鳴り響いた。

 美咲の懐いた不安とは裏腹に、その身体は完璧なタイミングでスタートを切った。


 スローの中、水飛沫の一つ一つが確認出来る。

 その中で視界が広がっていく。

 天井のライト、梁の鉄骨、電光掲示板、巨大モニター、観客席。

 そして水中に顔が沈む直前に、観客席で応援する家族の姿が見えた。


 潜水でイルカの様に身体を動かして全身で水を掻き分け、壁を蹴った勢いで距離を稼ぐスタートは、自己ベストも狙えそうな、良い滑り出しだった。

 水の流れを全身に感じるが、水にぶつかるのでは無く、水を掻き分け、水塊の隙間を縫う様に泳ぐ感覚。

 調子が本当に良いと全身で感じている。

 だが、まだ勝負は始まったばかりだった。

 気を抜いては足元をすくわれる。


 水面に顔が出ると、肺いっぱいに息を吸い、手を動かす。

 ここからが本当に練習の成果が試される見せ場……その筈だった。





「?」


 最初の違和感は、視界の異常だった。

 だが、意識がその前に気付いたのは、においの変化だった。


 プールの、消毒された水独特の臭いは無く、それよりも遥かに複雑な臭いがする。

 水に濡れた岩、土、砂埃、草、樹。

 そして微かに、美咲の通う女子中学校の裏にあった人工の池から臭ってくる、水棲生物独特の臭いに近い”生臭さ”を感じた。


 整備された都会で生きている美咲が感じた事の無いレベルの、濃厚な自然の香り。

 鼻の奥で感じた変化は、美咲に原因を見つける様に促し、こうしてようやく視界の変化に気付いた。


 ゴーグルの色のついたレンズ越しに見ていた視界は、規則正しく配置されたプールを照らす天井のライトでは気が付けば無く、美咲の遥か上空には鍾乳石で出来た無数のつららが天井一面から直下に狙いを定めていた。

 その天井には、不規則に幾つも岩盤が崩落した様な大穴が開いていて、大穴の外には雲が流れる空が見えた。

 穴だらけの天井からは、厚い雲越しに日光が真上から差し込んでいるので、地下だと言うのにかなり明るい。


 美咲は、突然の事態に背泳ぎの手と足を止め、立ち泳ぎをして周囲を見た。

 訳が分からなかった。

 こんな事がありえるだろうか?

 いつ連れて来られたのか、美咲は気付かなかった。


 美咲が泳いでいる場所は、見たまま表現すれば、どこかの地底湖らしい。

 水温がプールよりもかなり冷たく、水の色は旅行で一度行った沖縄の海よりも青く、透き通っていた。

 しかし、湖底は海と違って 珊瑚など無く、凹凸の激しい岩場が広がっているだけだ。

 水質は真水で、口に入ってもせいぜいミネラルの味しかしない。

 漠然と、夢の様な光景だなと思った。


「あの、え?」


 勝手に動揺の言葉が口を出た。


「あ、あの! おーい!」


 喋ってみるが、声が洞窟内の空気をかすかに反響するだけで返事は聞こえない。

 狐に化かされた様な気分とは、こういう事か?

 そんな気持ちのまま、ゆっくりと平泳ぎで岸に向かう。

 それしか、するべき事が思い浮かばない。


 その時、自分の下に、何か大きなモノがいるのが見えた。

 恐怖を感じつつも、見ずにはいられない不安が勝り、ゴーグル越しに水中を見てみた。

 太陽光で湖底には水が影を作っていた。

 そこには、地底湖を悠々と泳ぐ巨大な魚が見えた。


 それが本当に魚なのか、実は蛇なのか、そんな事は、初見の人間に分かる筈がない。

 胴回りを見るに、美咲を丸呑みに十分に出来そうな太さと、20メートルを超える長さがある。

 見た目には、確かに鎧の様な鱗に覆われたウナギかウツボの様な魚だった。

 ただ、その口から行儀悪くはみ出した無数の長い牙から、何を食べるのかは初見でも予想はできた。


 現実離れした事態に魚を見ていると、iDが自動で魚を検索した。

 だが、未登録生物と表示された。

 その魚の頭に、美咲の影が被ると、ゆっくりと口を美咲の方に向けた。


「え、う、うそでしょ!?」


 そんな美咲の独り言は届かず、そのまま水面に向かって泳いでくるのが見えた。

 そして、魚の口がゆっくりと、大きく開いた。

 魚の口の中に広がる吸い込まれそうな暗闇が美咲に迫る。

 本能的な、捕食者と対峙した時に感じる恐怖に、美咲はパニックになりながらも、一番近い岸まで大慌てで向かった。


 どうにか、無事泳ぎきった。


 今の泳ぎなら、種目こそ違うが間違いなく大会の本選でも表彰台に立てる……なんて事は、頭によぎる余裕も無く、岸に這い上がる。

 水面を見ると、大きな影は、美咲を見失った様で再び湖底へと戻って行った。

 美咲は、キャップとゴーグルを外して、辿り着いた岸の大岩の上で大の字に倒れ込んだ。


 一度、目を閉じてみた。

 もしかしたら、予選で溺れて、悪い夢を見ているのかもしれない。

 目を開けたら医務室で、みんなが心配している。

 そんな夢オチと言う事を、全力で期待した。

 だが、目を開けても、やはりそこは見知らぬ、巨大な鍾乳洞だった。


 iDの表示では、2040年8月17日午前11時03分。

 気が付けばiDの利用制限は解除されているが、状態はオフラインで、GPSの使用も不可になっている。


 ダメ元で頬をつねるが、普通に痛い。

 美咲は、自分の身に何が起きたのか、自分はどうすればいいのか、まるで見当がつかなかった。


 これが、精神的には無人島に運よく流れつく以上にきつかった。

 自分がもとの生活に戻る為のパターンが、美咲の脳内には無いのである。

 無人島なら、砂浜にSOSや、狼煙、食べ物の確保と、体験が無くともフィクションでの知識がある。

 そんな知識を生かさずとも、iDが体内にある今なら無数の衛星基地局を利用すれば、地上どこからでもGPSと電話で助けも呼べるのだ。


 美咲は、キャップとゴーグルを拾うと、目に入った地底湖に隣接する小高い岩場に登り始めた。

 小高いと言っても、登りやすい階段がある訳ではないので、登るのは大変だった。

 高さは四階建ての建物ぐらいある。

 岩肌に掴まり、足を踏ん張り、普段使わない筋肉の疲労を全身に感じ、ぜぇぜぇと息を乱しながらなんとか登り切る。


 周囲を一望出来るそこから見えた景色は、生まれて初めて見る物だった。

 顔をあげ、視界が開けた時の第一声は、「きれい……」だった。

 景色だけで、こんなに心が震える事があるとは思わなかった。


 湖の中からも見えていた鍾乳石のつららが地面にまでのびて出来た巨大な柱に、支えられた広大な洞窟。

 柱は、アイスピックの様に先端が細い物もあれば、エアーズロックの様な超巨大な塊まで、様々な大きさがあった。

 所々天井が崩れて日光が真上から差し込んでいる光景は、高所から見れば大地を照らす模様に見えた。

 地下洞窟にもかかわらず、地面や壁面には苔や草花が生え、日が当たる所には、広大な草原や森まであった。

 日が一切当たらない部分は、植物の生育が極めて悪く、場所によっては何も生えていないので、日照環境は一目了然だった。

 博物館で見る恐竜の化石の様な、巨大な生物の骨らしきものが遠くの地面から生えているのが見える。

 更に遠くの森の中で、巨大な木々を揺らして何かが動いているのも見えた。


 後ろを振り向くと、美咲がつい先ほどまで泳いでいた地底湖が広がっていた。

 地底湖を照らす天井の大穴からの光が反射して、地底湖の天井は幻想的な雰囲気に包まれている。

 改めて見上げてみるが天井までの高さは、iDで測ると、低くても200メートル、高い所だと500メートルを超えていた。

 その地底湖の水中では、巨大な複数の影が変わらず悠々と泳いでいた。

 地底湖は、対岸まで推定数キロの大きさがあり、地底湖の向こうには、反対側と同じように鍾乳石の柱や、森や草原が延々と広がっていた。


 地下にも関わらず、高い天井の下を飛ぶ鳥の群も見えた。

 この広大な地底空間では、美咲の位置からでは、どの方向にも果てが見えなかった。


 美咲は、iDの撮影機能を使って、全天球パノラマ写真を撮影した。

かなりテンションが上がっているのを感じる。


 くしゅんっ!

 くしゃみが出て、途端に現実に引き戻された。

 この程度の高さだが、遮るものがない分、吹けば風は強くて寒かった。

 現実に戻ると、ここは一人でいるには広すぎる。

 そんな事に気付くと、途端に心細くなってきた。


「おーーーーーーーい、誰かいませんかーーー!?」


 森の中から、美咲に答える様に獣の呻き声や鳴き声が聞こえてきた。

 美咲は、自分の口をつぐんだ。

 背を低くして周囲を見回すが、何も変化したようには見えない。

 ホッとしつつ大きな溜息をつくと、美咲はその場にへたり込んでしまった。


 黄昏る。

 そんな表現がピッタリだった。

 事態を受け入れる勇気が湧くまでに、その場で景色を眺め、体感で1時間の時を必要とした。

 実際は、時計を見ると10分程度だが、とにかくえらく長くに感じたという事だ。

 どうやら、一向に夢から目も覚めないし、誰かが目の前を通りがかる事も、お迎えに来る事も無いらしい。


 メッセージは、相変わらずのオフラインで誰にも送れない。

 視界の端で、ロッテがメールを持ち帰ってくる演出も見飽きてしまった。

 マップに至っては表示をしても日本を指したまま、現在位置が分からないと衛星を探し続けている。

 利用制限時でも使える緊急連絡も、まったく繋がらずに、試すたびに視界の端でロッテが困っていた。


 これは、異世界だろうか?

 どうやって、いつ移動したのか?

 どうして私が、なんでこんな所に?


 考えれば、似たような疑問がループするが、答えは一つも出ない。

 身体は、すっかり乾いていたが、美咲の身体はとても冷えていた。

 寒さに耐えられなくなった美咲は、重い腰をあげて移動を決意した。

 とにかく人を探そうと思ったのだ。


 ここにいても、きっと何も起きない。

 起きるとしても、獣の呻き声を聞く限り、良い想像が出来なかった。

 間違っても、ここで夜を迎えたくはない。


 本音を言えば、とにかく、誰でもいいから、誰かに助けて欲しかった。

 そもそも部活の大会と高校受験を控えた日本の女子中学生に、サバイバルなど無茶ブリも良い所である。

 なのに、現実はチラチラと無茶ブリを強要して美咲の様子を見ている。


 こうなると、助けを求めて移動するにしても行く当てがないと動きようがない。

 森の中で遭難したら、人を探す以前の問題である。


 周囲を注意深く見ると、さっきは気付かなかったが森の向こう側に人工物が見えた。

 iDのカメラ機能を起動すると、視界を十倍にズームできた。

 それは、建物の屋根に見えた。

 人の痕跡を見つけただけで、こんなに救われるとは、美咲は想像したことも無かった。

 他にも何か無いか周囲を観察し、何も見つけられない事を確認した。


 腹を決めると、岩場をトントンとジャンプして降りていき、獣と遭遇しない事を祈りながら屋根が見えた方向へと歩き出した。

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