ハローエレノア
「エレノア!」
美咲は叫んだ。
それは、部屋にあった日誌に書かれていた名前だった。
猫猿達は、まだ騒ぎ抵抗する美咲に驚いた。
だが、水槽の中に反応は無い。
「エレノア! 起きて!」
美咲の叫んだ言葉は日本語だったが、今度は水槽内に反応があった。
培養液が抜けて、コポコポと空気が入り、外の音が聞こえる様になったからだった。
叫びに、名前を呼ばれ、それは確かに反応を示した。
猫猿の一匹が、騒ぐ美咲の髪の毛を掴むと、もう一本の手で顔面を殴った。
それでも、美咲は鼻血をドクドクと出しながら、叫び続けた。
「助けて! 起きてよ! お願いだから!」
エレノアが何なのかは分からない。
それでも美咲は、それを呼び続けるしか事しか出来ない。
もう一度、猫猿が美咲を黙らせようと拳を振りおろした。
拳は美咲の頬を殴り、口の中が切れた。
「ぐっ、たす・・・・・・っ!?」
どんなに殴っても叫ぶのをやめない美咲に、猫猿は口を鼻ごと無理やり抑え込んだ。
これでは、美咲もモゴモゴさえ言えない。
と言うよりは、息さえ出来なかった。
いくら水泳をやっていて肺活量があると言っても、肺一杯に空気を吸い込まないで我慢できる時間には限りがある。
美咲の意識が酸欠で遠のく中、美咲が拭った水槽のガラスを覗き窓にして、美咲とエレノアの……
目が合った。
その瞬間だった。
水槽の中で何かがガツンガツンと動く慌ただしい音が、部屋に響き渡った。
すると、水槽のガラスに入っていたヒビが蜘蛛の巣状にドンドン広がっていく。
猫猿達は騒然とした。
水槽のガラスが一気に決壊すると、残った培養液に押し出され、水槽のガラスが床に散らばると同時に、水槽から何か巨大な物体が飛び出した。
美咲には最初、黒い塊に見えた。
黒い塊は、美咲を殴って口を押さえていた猫猿に勢いよく飛び付くと、美咲から猫猿を引き剥がし、美咲を飛び越えてそのままの勢いで猫猿を自重で床に押し潰した。
押し潰された猫猿が、驚きの中で乱入者を見ようと目を見開いた。
その目を、乱入者は長い鎌の様な物を振りおろして、一突きに潰してしまった。
ギャア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!
突然の乱入者に、他の猫猿達も驚愕した。
目を潰された猫猿は乱入者の脚を掴むと、力任せに投げつけたが、乱入者は壁と床に脚をついて難なく着地すると、間髪入れずに今度は別の猫猿に掴みかかった。
床に倒れたままの美咲には、何が起きているのか殆どわからなかった。
だが、自分は、何に助けを求めていたのか、その正体を見ようと目を凝らした。
黒い塊は、細長い脚が生え、そこにはいくつかの節があり、細かい毛が生えていた。
それは、虫の脚に見えた。
その前脚を、最初に飛びついた猫猿の目に突き刺したのだった。
水槽から出てきたそれは、鎧の様な外殻に包まれた巨大な蜘蛛だった。
よりにもよって、美咲が一番苦手とする生き物に、美咲は助けを求めていたのだ。
さらに、エレノアが普通じゃないのは、大きさだけでは無かった。
蜘蛛の顔が本来あるべき部分から、人間の上半身が生えていたのだ。
長い髪の毛で顔も胸も隠れているが、それは美咲よりも少し年上ぐらいの少女に見えた。
葵や兄が見たら、アラクネと呼ぶだろうが、蜘蛛嫌いの美咲には醜悪なモンスターにしか見えていない。
美咲がエレノアと呼んだ半分蜘蛛の少女は、猫猿達が武器を拾い構えて威嚇しても怯まず、牙をむき出しにして『ふううぅ』と野生動物の様に、姿勢を低くして猫猿達に対して威嚇し返した。
エレノアの巨体と跳躍力、それと仲間の片眼を奪った外殻で覆われた脚を警戒して、猫猿達が美咲を放置し、エレノアから距離をとった。
するとエレノアは、猫猿から奪った美咲を、人の腕で軽々と抱き上げた。
人の部分は、美咲と同じぐらいの大きさだが、蜘蛛の下半身のボリュームで結構な高さがあり、美咲の足は宙に浮いた。
骨折した腕が抱き上げられた拍子に傷んだが、美咲はそれどころでは無かった。
「……た、食べるの!?」
美咲の目には恐怖が浮かんでいた。
モンスターから助かろうとすがった先が、またモンスターだったのだ。
見方によっては状況が悪化している。
エレノアは、美咲の言葉に返す様に、髪の隙間から美咲の目を見た。
濡れて肌にはりつく金髪の隙間から見える碧い目は、美咲ではない、別の誰かを見ていた。
だが、それは美咲には知りようも無い事であった。
エレノアは、おもむろに言葉を発した。
『××××××』
美咲は、全くエレノアの言葉の意味が分からなかった。
視界では、翻訳失敗と表示が出ている。
だが、この状況の中でエレノアについて分かった事があった。
言語らしき物を喋るのだから、彼女とは意思の疎通が出来る。
そして、抱きかかえたからには、この状況で猫猿達から美咲を奪うつもりである事だ。
今の美咲には、それだけで十分過ぎる助っ人だった。
『×××××××××』
エレノアが美咲を見ると、また何かを言った。
美咲には言葉の意味が分からなかったし、視界には変わらず翻訳失敗の表示が出た。
エレノアは、蜘蛛の前脚四本を高く掲げ、威嚇の構えを取り、戦闘態勢を整えると猫猿達を威圧した。
エレノアに抱えられながら、美咲は息を飲んだ。
先に仕掛けてきたのは、猫猿の一匹だった。
槍を持って、正面からエレノアに襲いかかってきた。
エレノアは、蜘蛛の腹を股の下から猫猿に向けて曲げると、糸くぼから糸を吹きかけた。
その不意の目つぶしに、猫猿は顔面を糸で覆われ、その場で槍を振り回し始める。
蜘蛛の前脚が槍を払い除けると、天井に届く程に高く、もう一本の脚をあげ、猫猿の脳天に一気に突き刺した。
美咲は思わず目を閉じた。
猫猿は頭を刺されて、ビクンビクンと痙攣すると、力無く首から下がダランとなり、やがて動かなくなった。
エレノアは、猫猿を脚で刺したまま、他の猫猿達に向かって脚を蹴り上げた。
頭蓋に大穴を開けた猫猿の死体が、脳漿と血をまき散らして斧を持った猫猿の一匹にぶつかった。
猫猿が転倒すると、エレノアは蜘蛛の脚で転倒した猫猿の足首を一突きにし、自分の方に一気に引き寄せた。
激痛に騒ぐ猫猿が足元に来ると、もう一本の脚で猫猿の胸を床に縫い付けた。
心臓を一突きにしたらしく、脚を引き抜くと血がダムの決壊の様に傷口からドクドクと溢れ出し、猫猿の瞳孔が開き目からは速やかに生気が失われ、だらしなく舌を出して絶命した。
エレノアの戦闘力は、圧倒的だった。
美咲を抱きかかえたまま、前脚だけで猫猿を立て続けに二匹も倒してしまった。
間違いなく、頼もしい存在なのだが、美咲にはそれ以上に恐ろしかった。
このまま猫猿が全滅したら、エレノアが美咲をどうする気なのか、そんな不安が湧いてくるのだ。
糸で巻かれるのか、生きたままかじられるのか、それとも内臓をとかされるのか、結局食べられてしまうのではないかと、悲惨な最期ばかり想像してしまう。
敵の残りは、大きさと態度から見てこの中ではリーダー格の、美咲を特に目の敵にしている片目になった猫猿と、その手下が四匹だった。
だが、全てが槍や斧で武装している上に、仲間を失った事で蜘蛛の脚や糸を警戒しながらも、階段を塞ぐように陣取って、かなり厄介な相手だった。
その時、猫猿達がギャアギャアと声をあげ始めた。
この猫猿達は、仲間同士で会話が出来る事が分かった。
しかし、視界には自動翻訳が起動する気配が無く、会話として認識していないのが分かった。
二匹がエレノアを足止めする為に残って、残り三匹が地下牢へと登っていった。
逃げたのなら良いが、あの執念深そうなリーダー格の猫猿が外に行った時に見せた笑いに、嫌な感じしかしなかった。
残った二匹は、近くにあったテーブルを倒して、即席の盾にし、蜘蛛糸に気を付けながら、槍でエレノアの脚のリーチの外からチクチクと突いて来た。
けれども、エレノアの脚は八本あり、槍とテーブルを退けて残った脚で攻撃する事など簡単に出来る筈だった。
美咲も、猫猿達もそう思っていた。
ところが、猫猿の突いた槍が美咲に当たりそうになると、なぜかエレノアがそれを嫌がって守ろうとする事に、猫猿達がいち早く気付いた。
すると、猫猿達は連携して、隙あらば美咲を狙い始めたのだ。
エレノア一人でならどうにでもなりそうだが、理由は分からないがエレノアは、美咲を守る事を選び続けた。
猫猿達の思わぬ頭の良さに、血が抜けて気持ちが良くなってきている美咲は、素直に驚いた。
もちろん、そんな感心している場合ではなかった。
これは間違いなく、見え見えの時間稼ぎである。
エレノアの焦りを感じ取ったのか、猫猿の一匹がもう一匹から徐々に距離を取り、そのままエレノアを挟む様に陣取ろうとした。
エレノアは、後ろから挟まれない様に、自身が入っていた水槽ギリギリにまで後退した。
事態が悪くなっているのが、エレノアに抱えられているだけの美咲にも分かった。
こうなると、猫猿が全滅した時の心配なんてしている場合ではない。
とりあえずエレノアには勝って貰わなければ困る。
ギャギャギャア!!
その時、地下牢に凱旋の声が響いた。
階段を下りてきた三匹の猫猿達は、それぞれリーダーはクロスボウを、手下二匹は弓矢を持っていた。
どうやら、槍と言い斧と言い、今回の飛び道具と言い、猫猿達は砦の武器庫を見つけていた様だった。
これには、エレノアも驚き、美咲の顔も一気に青ざめていった。
猫猿の手下二匹が、順に弓矢でみさきエレノアを狙い撃とうとする。
それに対して、脚四本を身体の前に盾の様に構え、エレノアは自身と美咲を守った。
矢が飛んでくるのなんて、薄暗い中で、動体視力で止めたり避ける事は、簡単には出来ない。
エレノアの脚の、装甲の様な外殻が鏃を難なく弾いたが、守りに徹した瞬間に、エレノアの蜘蛛の腹に、リーダー格の猿が放ったクロスボウの矢が命中した。
弓矢とクロスボウの矢では、太さも威力も桁違いだった。
外殻の当たった角度が良かったのか、小さなヒビが入るだけで貫通せずに矢は床へとそれた。
リーダー格の猫猿は舌打ちした。
リーダーに続けと、隙を突いた猫猿の一匹がエレノアの人間部分の腰に槍を突き刺した。
傷口からは、赤い血があふれ出し、エレノアは悶絶しながらも蜘蛛の足を使って槍が深く刺さる前に素早く退けた。
猫猿達は、またギャアギャアと嬉しそうに騒ぎ始めると、情報共有をしたのか、途端に弓矢で美咲を狙い始めた。
エレノアは、前脚全てを使って盾を作るが、今度はクロスボウの矢が前脚の一本、右前部の外殻を貫通して突き刺さり、血が飛び散った。
『ふうううぅ、ふうううぅ』
エレノアの呼吸は、痛みに荒くなった。
攻めようと前に出ても、テーブルの盾と槍で押し返され、どれかの相手をしていると、別の攻撃が飛んできた。
エレノアが攻めようとすると美咲が狙われ、無理やり防御姿勢を取らされ、そこから狙い撃ってくるクロスボウは、基本的に防御不能だった。
硬い外殻にも傷やヒビが入り、角度が悪いと貫通して刺さるのだ。
美咲を抱えながらでは、どう考えても飛び道具と数の暴力を相手にしては、エレノアに分が悪かった。
ここまでハッキリと美咲が狙われると、美咲の中で曖昧だった疑問に一つ答えが出た。
美咲は、ようやくエレノアが自分を猫猿達から守っている事に確信が持てた。
同時に、会って間もないエレノアが命がけで美咲を守ろうと死力を尽くしている事に、新たな疑問と申し訳なさが生まれた。
美咲がエレノアに感じた第一印象は、知っての通り良い物では無かった。
蜘蛛の下半身を見ると、抱きかかえられて守られている今でさえも抵抗を感じる。
無意識でも、全身に鳥肌が立ってしまう。
こんな状況で無ければ、蜘蛛嫌いの美咲はエレノアに近寄りもしない筈だった。
そんな相手とは知らないとは言え、初対面の他人を命がけで守っているエレノアの動機が気になった。
だが、それ以上に、エレノアに対して失礼で最低な自分が何も出来ない状況に、いてもたってもいられなかった。
美咲としては、助けてくれているエレノアを、既に裏切っているのだ。
エレノアが助けてくれようとしているのならば、自分も何とかしなければならないと思った。
それが、美咲とエレノア、二人の窮地なら、なおさらである。
だが、武器を持たず、既に傷だらけの美咲には、何も出来ない。
そんな事は百も承知だった。
それでも美咲は、何が出来るか必死に考えた。
ここまでずっと猫猿達は、執拗に美咲を狙ってきていた。
それは間違いなかった。
つまり、美咲を囮にすれば、確実に食いつく筈である。
その隙に、エレノアは何が出来るだろうか?
その時だった。
美咲がいなければ、エレノアは自分だけを守れば良いし、両手だって使えると思った。
気が付けば美咲の思考は、目的が当初のそれとは別の何かにすり替わっていた。
この世界に来てからずっと、家に帰る事、生き残る事を求め、願った。
エレノアの名前を叫んだのも、ただあの場で助けてくれる存在にすがりついただけである。
それが、ここに来て、エレノアに身を挺して守られて、それよりも求めているものが生まれた事に気が付いた。
エレノアは、美咲を助けなければ、ここを生きて出られるのでは、と思った。
そもそも、エレノアを巻き込んだのは美咲なのだ。
勝ち目が無いのなら、何も一緒に死ぬ必要は無い。
言葉も通じないのに、助けてくれた。
名前も知らない他人の為に、目覚めたばかりで身体を張っているのだ。
それも、助けようとした相手は、心の中で恩人の身体を気持ち悪いと感じていたら、救われる筈がない。
エレノアには、美咲を守らなければいけない義務も責任も無い筈である。
美咲は、エレノアの腕の中で、エレノアに話しかけた。
「わ、私が、囮になる」
声が震えていた。
『××××××!』
エレノアが何を言っているか分からないが、通じたのだけは分かった。
エレノアも、美咲の今にも泣きそうな、思いつめた表情で察した様だった。
きっと、諦めるなって言ってると美咲は思った。
言葉の通じない二人は、気が付けば言葉以外の全てで対話していた。
美咲とエレノアは、お互いの目で、声で、行動で、息遣いで、お互いが何を考えているのか感じる事が出来ていた。
「行って」
美咲は、そう言うと素直には動かない自身の身体をよじった。
不意を突かれたエレノアの腕から、美咲が崩れ落ちる様に逃れた。
怖いが、動かずにはいられなかった。
猫猿も、武器も、エレノアの蜘蛛の部分も、全てが怖かった。
でも、それ以上に怖かったのは、食べられる事でも、殺される事でも無い。
さっき会ったばかりの、名前しか知らないエレノアと言う少女の期待を裏切る自分のままで死ぬ事の方が何倍も怖かった。
それをエレノアが、知らないし、知る術がないとしてもだ。
そんな事エレノアは求めていないし、独りよがりなのは分かっていた。
それでも、美咲は、エレノアに対して不誠実なまま死ぬ事だけは、許せないと思ったのだった。
美咲が辛うじて前のめりに体制を維持すると、猫猿のリーダーがエレノアが美咲を誤って落としたと思い、嬉しそうにクロスボウを向けた。
クロスボウのリロードには、時間がかかる。
エレノア一人なら、クロスボウが再発射されるまでの間に、状況をひっくり返せるかもしれない。
それに、矢が狙いを外せば、美咲だって生き残れるかもしれない。
そう自分に言い訳をして、美咲は賭けた。
本当は、エレノアだけでも、生き残る事を願いながら。
「巻き込んでごめん……」
狙いを定めた猫猿のクロスボウから、矢が発射された。
美咲を狙った矢は、美咲の胸目がけて飛び出した。
避けられない。
美咲は、死を覚悟し、目を閉じた。
ここまでかと思った。
最後の言葉が、伝わる事の無い謝罪で終わる人生だなんて……
目を開けると、美咲は、まだ生きていた。
当たる直前に立ちはだかったエレノアの脚に突き刺さって、クロスボウの矢は止まっていた。
エレノアは、黙って美咲を拾い上げると、猫猿達の攻撃に再び耐え始めた。
「なんで!?」
意図は通じたはずなのに。
言葉が通じないのがもどかしかった。
エレノアにとって、美咲には助ける価値が無い事を伝えたい。
それは、不思議な感覚だった。
エレノアの事を、嫌われたいぐらいに嫌いなら、利用して助かって、永遠に別れれば良い。
それに、エレノアが負けると決まった訳ではない。
今の美咲にとって、一番楽な選択肢は、エレノアが勝手に助けてくれるのを、ただ待つ事である。
なのに、それを選ぶことが、どうしても出来ない。
美咲は、頬を涙が伝うのを感じた。
今まで流したどの涙よりも辛かった。
エレノアが美咲を抱きしめる力は、さっきよりも強くなっている。
そこに息苦しさは無く、美咲を二度と落とさない意志が感じられるのだ。
それが伝わると、美咲は余計に辛くなった。
この感覚は、美咲も知っていた。
それでも、こんなに強く感じたのは生まれて初めてだった。
『×××××××××、×××××……』
エレノアが呟いた。
意味は分からないが、美咲に向けられるエレノアの目には葛藤が見えた。
美咲の涙を見て、エレノアは、自身の顔にかかっていた髪を、フルフルと首を上へ伸ばす様に顔を揺らして左右に分けた。
美咲はエレノアの髪に隠れていた顔を、まっすぐ見つめた。
ずっと日の当たらない水槽の中にいたのか、シミ一つない透き通る様な白い肌で、人形の様に整った顔立ちの少女だなと、美咲は思った。
エレノアは、美咲の目を見た。
『エレノア』
そう、自分の名前を言って、おでこをコツンと美咲のおでこに当てた。
この時、エレノアは猫猿達に対して、反撃も含めて一切の攻撃を止めた。
猫猿が隙有とばかりに弓矢でエレノアの上半身を狙い撃つが、守りにだけ徹する事を決めたエレノアに前脚で防がれ、傷を負わせられなかった。
こんな状況なのに美咲は、目の前の少女と友達になろうと思った。
どんな姿形であろうと、友達になりたいと思えた。
エレノアの全てを受け入れよう。
下半身が何でも関係ない。
そう思えた瞬間、美咲は救われた気がした。
これは、助けてくれたエレノアに相応しくない自分を変える、エレノアに与えられたチャンスだと思った。
「み、美咲」
それが、どんなに残り少ない時間だとしても。
エレノアに対して恥ずかしくない人間でありたいと思った。
『ミサキ』
エレノアは名前を繰り返した。
「美咲」
美咲は首を縦に振った。
エレノアの目には、一つの決意がある事が美咲にも見て取れた。
『ミサキ、×××××××、×××……』と、美咲には分からない言葉を囁いた。
美咲には、ごめんと謝っている様に聞こえた。
「え、ええ!?」と美咲が言い終える間もなく、エレノアの唇が美咲の唇に触れる寸前まで近づいた。
唇の隙間からは、鋭い牙が顔を覗かせるが、不思議と怖さを感じない。
全てを受け入れると腹をくくったからか、それともエレノアの牙が八重歯の様に可愛く見えたからか、美咲は分からない。
近づいたエレノアの身体は培養液のにおいがしたが、それとは別に、遅れてエレノアのにおいを感じた。
美咲は、思わずスンスンと嗅いでしまい、甘い、良いにおいだと思った。
そのまま美咲は、空気に飲まれて目を閉じてしまった。
今置かれている危機的状況とは別の理由で、胸がドキドキした。
そして、これが最初で最後のキスかと思った。
ちなみに、口の中は血の味でいっぱいである。
しかし、エレノアの唇は美咲の血まみれの唇には一切振れずに軌道を下に変える。
エレノアからすると、なぜか唇が震えている美咲。
その、喉元に噛みついたのだった。
エレノアの牙が、深々と美咲の皮膚に突き刺さった。
「あ、れ?」
思っていたのと違った美咲の手足は、一度驚きに痙攣すると、すぐに大人しくなった。
エレノアは、血を吸っている訳では無かった。
美咲に、牙から何かを注入している。
それが何かは、説明が無くてもすぐに分かった。
毒である。
ただでさえ血を流した上に、何も食べていない美咲は、毒が身体を巡ってくると貧血も手伝い視界がグルグルし始めた。
視界の端では、iDが解析不能の異物混入を警告していた。
「人体に多大な影響が出る場合があります。最寄りの病院で治療を受けてください」
ロッテがそんな事を言っているが、病院なんてどこにもない。
美咲は、諦めずに足掻いた結果が、これかと思った。
でも、猫猿達に嬲り殺されるよりは、かなりマシなのかな、とも思った。
最後に出来た友達の手で、苦しまずに殺してもらうのだから。
苦しくない。
痛くない。
不快さも無い。
寒さも感じない。
ただ、走馬灯……みたいなものが見えた。
「学校、クラスのみんな、葵ちゃん、お母さんとお父さん、お兄ちゃん……って、なんでお兄ちゃんがトリなんだろ」
ぼんやりと、そんな事を思った。
「私、ブラコンなのかな? どっちかと言えば、お兄ちゃんの方がシスコンだったと思うけど」
そんな事を思っていると、走馬灯なのに長居する兄が、何か言った。
「美咲が×××××××××××」
夢でも言っていたなと思った。
「もう一回、ゆっくり言って、そしたら思いだせそう」
「美咲が、強く願えば」
「うん」
「絶対、叶うよ」
「なんだぁ、いつもの気休めだなぁ」
美咲は、思い出してしまえば、こんなものかと思った。
「大丈夫だから、いつもみたいに、声に出して」
兄は続けた。
声に出してと、美咲に兄はいつもそう言っていた。
言わなくてもいつも美咲を心配してくれたが、言えば何でも相談に乗ってくれた。
「うん、ありがと」
「どうしようもなくなったら、助けを呼ぶんだぞ」
「うん」
お兄ちゃんは、本当に心配性だなと思った。
「絶対、駆け付けるからな」
「うん」
でも、それはちょっと無理かもしれないと思った。
「最後に来てくれてありがと」
「最後じゃないさ」
兄は走馬燈の中で、美咲に優しく笑いかけた。
「……生き、てる?」
美咲が目を覚ますと、エレノアに首を噛まれてから、僅か数秒しか経っていなかった。
首の傷からは、そんなに血が出ていない。
既に出血自体が止まり始めていた。
エレノアは美咲の首から牙を抜いてからも、変わらず美咲を抱え、守りながら、必死に猫猿達と戦い続けていた。
『××××!ミサキ、××××』
戦いながらエレノアは、美咲に呼びかけた。
すぐに視界では翻訳失敗と表示される。
何を言っているのかも、言葉の意図も、美咲には通じなかった。
だが、それで問題無かった。
ただ美咲の生存を確かめられれば、エレノアは、それでよかった。
美咲は、ただただ目の前の光景に目を見開いていた。
体感時間が遅くなるのを感じ、音が遠のいていく。
そして、美咲を除く全てが、スローモーションに見え始めた。
さらに、白っぽい靄が部屋を満たし始めた。
それは煙では無い。
美咲の目には、お馴染みの絶望的な状況に重なって、部屋中に幽霊の様なビジョンが見えていた。
美咲の意識が落ちていた僅かな間に、エレノアは追加で前脚に矢を何本も受けているし、槍にも何度も刺されて傷だらけで、疲労からか動きも精彩を欠き始めていた。
さっきまで対処出来ていた事に、エレノアの処理が追い付かなくなってきて見えた。
美咲の目には、輪をかけて絶望的な状況が、スローになった事によって客観的に見えていた。
その光景に重なって、部屋中に幽霊の様な“何か”が見えるのだ。
世界がスローに感じる体感時間の変化と、視界に広がる異常な光景。
原因は、どう考えても一つしか考えられなかった。
それがエレノアの毒なのは、すぐに分かった。
体感時間にiDがついて来れず、極端な処理落ちみたいに、iDの挙動もスローだ。
しかし、スローな中で自分だけ動ける訳では無く、あくまでも体感時間が変わっているだけの様だった。
一種のトランス状態なのか、幻覚を見ているのか、美咲は幽霊のビジョンから目を離せなくなっていた。
身体がスローの中では自由に動かないのだから、全神経を観察に集中させるしかない。
見えている幽霊のビジョン、それが何なのか最初は分からなかった。
スローの中で暫く見ていると、見える幽霊のビジョンは、この部屋を使っていた過去の人のようだった。
声は聞こえないが、スローの中なのに目まぐるしく動いている。
どうやら、この場で起きた事がそのまま、高速の残像の様に、美咲の目の前で再現されているみたいに見えた。
ただし、無数の残像が重なっているのか、像がぼやけて、性別さえハッキリとは分からない物も多い。
部屋中に無数の重なった人影が蠢いているのは、様々な時間の再現が同時に見えているかららしい。
物も当時の物が、現在と重なって見えた。
「……場所の、記憶?」
この幽霊全てが推測通り場所の記憶なら、この部屋の過去に何があったのだろうと思った。
すると、ビジョンは絞り込まれ、大人が様々な年齢と人種の幼い子供を、この部屋に連れてくるのが見えた。
子供は手術台に寝かされると、様々な注射を打たれ、苦しみ悶えては動かなくなった。
大勢の子供が苦しみ、暴れ、動かなくなる姿が、同じ台の上で同時に見える。
子供達の苦しむ残像が重なり加速する。
10人はすぐに超え、100人なのか200人なのか、あまりにも像が重なっていて何人かは分からない。
それは終わりが見えない、人体実験の光景だった。
「やめて、こんなの見たくない!」
美咲が思うと、別の場面に切り替わった。
同じ台に拘束された子供の身体が徐々に変化を初めた。
それも、やはり重なって見えた。
下半身が蛇や蠍の子供もいれば、美咲には何に変わっているのかさえ分からない物に変わっていく子供もいた。
多くの子供は身体の一部が別の生き物に変わっていくが、中には不定形の何かに変化していく子供もいた。
その中に、台に拘束具で縛り付けられ、苦しみ悶え暴れながら下半身が長い時間をかけて何かに変わっていく一人の少女がいた。
最初は尾てい骨から尻尾が生える様に背骨が伸び初め、やがて人の足と尻尾が外骨格で覆われると、その中で内臓や脚が形成されていく。
そのどれか一つとっても、成長痛では済まされない激痛なのだろう。
少女は暴れようとするが拘束具のせいでそれさえも許されず、身体の変化も止まる事は無い。
やがて背中の皮膚が割れると、脱皮をして中から現れた少女の下半身は蜘蛛へと変化していた。
「あの子が……エレノア?」
エレノアらしい子供に注目すると、注目したビジョンが目の前で繰り広げられ始めた。
どうやら、美咲が気になるビジョンへとチャンネルが切り替わるらしい。
意識の集中は、iDで慣れているせいか、ぎこちないがどうにか出来そうである。
身体の一部が別の動物に変化した子供達は、揃いの服を着せられ、金属製の首輪をはめられ、大人達の言う事を聞かされている様だった。
逆らった子供は、いともあっさり殺されたり、実験に使われて死んでいった。
逆らわなかった子供達も注射を打たれ、薬を飲まされ、結局は実験に使われていた。
それからも下半身が蜘蛛の子供には様々な薬が投与され、台の上でその子は、何度も苦しみもがいたが、ビジョンを見る限り、その全てを乗り切っていた。
下半身が蜘蛛の子供には、大勢の友達がいた。
みんな同じ境遇で、身体の一部が、別の動物だった。
友達と話をするのと、食事だけが唯一の楽しみみたいだった。
部屋の中で、大人達がいない時は、今は置かれていない檻の中で笑っている姿があった。
この部屋では、皮肉にも人種も性別も姿形も超えて、子供達は固い絆で結ばれていた事がわかった。
しかし、その数は次第に減っていき、気が付けば大勢いた下半身が蜘蛛の子供の友達は、たったの三人になっていた。
「なに、これ……」
美咲は、あまりにも悲惨な過去の出来事に言葉を失っていた。
子供の数が減ると、部屋にある瓶詰の数が増えていた。
あの大人達は、何が目的で、こんな酷い事をやっているのだろうと思った。
すると、またビジョンが切り替わり、場面が変わった。
生き残った四人の子供達が、この部屋から一度逃亡を図ったビジョンが見えた。
部屋の中しか見えないので、どれだけの時間を自由に過ごせたのかは分からない。
次の場面では四人共捕まって、例の水槽の中に眠らされて、裸で入れられていた。
水槽の中で四人の意識は無く、ただ栄養を与えて生かされている様に見えた。
やはり、入れられた水槽の位置から見ても下半身が蜘蛛の子供がエレノアの様だった。
大人は水槽の台座にある装置を操作して配管から水槽内に薬を注入したり、何かを日誌に書いたりしていた。
時々、機械を調整して、水槽から子供達を眠らせたまま出すと、身体から様々ンサンプルを取ったり、牙等から毒を採取しては、また水槽に戻す事を繰り返す。
場面が変わると、無理やり連れて来られたらしい大人達が、腕に注射を打たれていた。
注射は、ギフトナンバー○○と手書きで書かれた薬品保存用の瓶と、様々な大人の腕の間を行ったり来たりしていた。
水槽にもギフトと文字があった事を思い出した。
「ギフト……」
場面がまた変わると、水槽に入れられていた下半身が蛇の子供が、水槽の外に出された時にどうやってか目覚め、拘束から脱出していた。
それから、大人に巻き付いて、次々と絞め殺すと、誰もいないうちに他の子供達を助けようと水槽を開閉する機械を操作し始めた。
しかし、どうやらそれが上手くいかなかったようで、今度は水槽を割ろうと、長い身体を水槽に巻きつかせた。
大人を軽々と絞め殺した蛇の胴体は、ガラスをギリギリと締め付けて、ついにはヒビが入っていく。
だが、その中の子供達は眠っていて反応がない。
ようやく一つの水槽のガラスが割れたが、最初に水槽から出された下半身が蠍の子供は眠りから覚めない。
次の水槽を壊そうと、下半身が蛇の子供が別の水槽に巻き付くが、騒ぎを聞いて駆けつけて来た武装した大人達に捕まってしまった。
せっかく水槽の外に出る事が出来た下半身が蠍の子供は、目を覚まさぬまま、あっさりと回収されてしまう。
また場面が変わると、下半身が蛇の子供が手術台の上に拘束されていた。
下半身が長いので、手術台が五つも並べられ、その全てが床に固定されていた。
大勢の大人が台の周りを囲み、子供の身体を文字通り尻尾の先から、胸の上まで“開き”始めた。
この場面では、三つの水槽の中の子供達には意識があり、どうやら見せしめと実験を兼ねた、ここの大人達による子供達への躾の様だった。
水槽がさっきの場面とは別の、現在と同じ物に全て変わっていて、頑丈さが向上している様に見えた。
台の上で解体されていく子供の臓器が、この部屋の中で既に見た瓶の中に保管されていくのが光景に、美咲はゾッとした。
台の上の子供は、中々死ねずに友達の方を見て何かを言おうとした。
大声を出せる筈も無いのに、うるさかったのか、大人の一人が蛇の子供に猿轡をはめて黙らせる。
大人達も、わざと死ねない様に、また、子供の意識を失わせない様に、急所を外し、痛みを消して実験をしている様だった。
その光景を目の前にして、まだ幼いエレノアが必死に水槽を叩いていた。
下半身が蠍の子供は、辛そうに目を背けていた。
美咲が、何に変わったのか分からないと思っていた四人目の、他の子よりも年上の子供は、水槽のガラスに手をついて、反対のガラスを足で踏ん張って、全力で押していた。
しかし、頑丈な物に交換された水槽のガラスは割れない。
大人達は、台の上の子供の頭部を切り取って、他の瓶と同じように保存しようと道具の準備を始めた。
それは台の上の子供を物として扱い、壊そうとしているようにしか見えない。
どこまでも胸糞の悪い光景である。
水槽のガラスを叩き続けるエレノア。
その時、手足をついて水槽を破壊しようとしていた子供の全身が限界を超えて力を出し過ぎたのか、自壊し血が溢れ出した。
培養液が子供の血で赤く染まっていく。
それでも、その子供はガラスを押す事をやめなかった。
真赤に染まり、中が見えなくなった水槽は、手の平だけが変わらずにガラスに張り付いていた。
それを見ていた大人達は、子供の無駄な努力を嘲笑う。
しかし、大人達の余裕はすぐに消え失せた。
ついに水槽のガラスに大きなヒビが入ったのだ。
慌てた大人達は、水槽の中の子供達を眠らせようと水槽に繋がる配管に薬を注入したが、薬が到達するよりも早く、その四人目の子供は水槽を破壊した。
割れた水槽から降り立ち、大人達の前に立つ血まみれの子供。
美咲の目には、エレノアや他の子供とは違い、普通の少年に見えた。
少年は体内の培養液を吐き出すと、息を大きく吸い込み、大人達を見た。
その目は、獲物に狙いを定めた獣のようだった。
それから先は、凄惨な光景だった。
水槽を破壊した少年が、次々と“素手”で大人達を生きたままバラバラに引きちぎり始めた。
部屋の中は血の海に変わっていった。
友達の解体に絡んだ全ての大人を友達と同じ目に遭わせ、少年は台の上で死を待つだけの友達に駆け寄った。
台の上の友達の猿轡を外し、友達に何か言われると、少年は泣きながら、友達の首を絞めて殺してしまった。
台の上で殺された子供の顔は、少年に向かって笑いかけたままだった。
水槽の中で蠍の子供は既に薬が効いて眠らされていたが、エレノアは薬にまだ耐えていて水槽の中から友達が友達を殺す場面を見ていた。
エレノアは培養液の中だが、美咲にはエレノアが泣いているのが分かった。
『ミサキ×××××』
スローでも、着実に時間は経っていた。
エレノアの語り掛ける言葉は、美咲の耳に届いているが、美咲はビジョンに集中していて聞こえていなかった。
ビジョンでは、水槽から脱出した少年が、死んだ友達から牙を抜くと、自分の首に刺した。
すると、少年に異変が起き始めた。
見た目の変化では無く、少年が手をかざすと、その手の中に炎が現れ、勢いよく燃え始めたのだ。
美咲には、その光景が魔法か超能力にしか見えなかった。
少年は、手の中の火を試しに投げたり、見るだけで周囲の物を手当たり次第に、不思議な力で燃やし始めた。
自分の力を試し終えた少年は、台の上で亡くなった友達の亡骸を見ると、一気に焼き尽くした。
すぐに部屋は火の海になり、火をつけた少年は、自分を止めようと部屋に入ってきた武装した大人達を片っ端から焼き始め、エレノアに何か言うと、そのまま部屋を出ていった。
火を操る少年が、エレノアに何と言ったのかは分からない。
だが美咲には、必ず助けに戻る事を伝えている様に見えた。
美咲は、これが砦の火事の原因だろうと思った。
その時、プールで聞いた音が聞こえた。
より正確には、走馬灯から目覚めてから、ビジョンを見ながらずっと聞こえていたのに、ようやく気付いた。
あの時、確かに聞いたノイズと似た音だった。
音に集中したらビジョンが乱れてクリアに見えなくなり、すぐに無数のビジョンが重なっている状態に戻る。
するとノイズが酷くなって聞こえた。
美咲は、この音は、ビジョンとも、この世界に自分が飛ばされた現象とも関係があると思った。
では、またどこかに飛ばされるのか? どうせなら帰りたい。
正直に帰りたいけど、だけど今はまだ駄目だと思った。
スローの中、猫猿達がエレノアにとどめを刺すつもりなのか、連携をして一斉に襲いかかり始めた。
それでもエレノアは、美咲を強く抱きしめ、身を呈して庇い、守ろうとしている。
ビジョンを見た美咲には、エレノアが本当に助けようとしているのは、きっと自分じゃない事が分かっていた。
なぜ助けてくれているのか、これで合点がいった。
最初から、美咲を助けようとしているのではなく、エレノアは、過去の自分が出来なかった事を代替品でもいいからやり直して、エレノア自身を救う事に必死だったのだ。
美咲は、エレノアにとっては、偶然にも過去をやり直すチャンスであった。
スローの世界の中で、声が聞こえた。
「それでも、エレノアを助けたいの?」
「助けたい」
そう思った。
「まだ、会って数分だよ? 半分人間じゃないんだよ? 嫌いな蜘蛛なんだよ?」
「もう、関係無いよ。それでも」
「助けてくれたから?」
「それだけじゃない」
「過去を知って、同情しちゃった?」
「したかもしれない、けど、そんなのじゃない」
スローのビジョンの中に、もう一人の美咲が現れ、心に直に質問してきた。
これは、毒の作用か、貧血のせいか、美咲には分からなかった。
「私のせいで死なれたら罪悪感があるから?」
「あると思うけど、ちがう」
「じゃあ、一番大事な理由は?」
「……きだから」
「自分に言うのに、恥ずかしがるの?」
「気が付いたら、好きになってたの!」
そう、強く思った。
正直それが、どの好きなのかは分からなかった。
恋人なんて、いた試しが無いのだ。
それに、この短い時間で、いつ好きになったのかも、自分では覚えていない。
それでも、エレノアの笑顔を、もっと明るい場所で見れたら素敵だなと思った。
もし叶うなら、自分に向けてくれたら、どんなに嬉しいだろう。
それは、どんなに幸せな瞬間だろうか……
「声に出して」
美咲は、また兄の声が聞こえた気がした。
「助けを呼ぶんだぞ」
「絶対駆けつけるからな」
兄の言葉を思い出した。
「わかんない、わかんないけど、エレノアを助けて!」
美咲は、声に出して助けを求めた。
それが誰に向けた言葉なのかは分からない。
それでも、もし誰かに届いたら。
そう願わずにはいられなかった。
一際大きなノイズが聞こえた。
そのノイズは最後の瞬間にだけ、ノイズでは無く知らない言葉の歌声に収束して聞こえた気がした。
更に、その歌はプールの時とは違い、その場の全員に聞こえていた。
ノイズが消えた瞬間、美咲を中心に周囲の空間が、シームレスに切り替わった。
突然、部屋の中に一人増えていた。
水槽を割った少年のビジョンの形をした影が一人そこに現れ、他のビジョンは全て消えていた。
今の状況に、過去の少年の形をした影だけがレイヤーを重ねた様に突然現れたのだ。
ノイズがその場の全員に聞こえた様に、少年の影が、その場の全員に見えていた。
少年の影が、エレノアに振り向いた。
美咲は、それが全然違うのに、一瞬自分の兄に見えた。
『ジャック!?』
エレノアは、少年の影の暗い瞳に見つめられて息を飲んだ。
少年の影は、少し驚いた表情を浮かべたが、エレノアに気付くと優しく笑いかけた。
美咲には、少年がエレノアを迎えに来たように感じた。
エレノアが美咲を見ると、美咲はエレノアを見返した。
二人共、混乱していた。
少年の影は、猫猿達に向き直ると、ビジョンで見たのと同じ様にゆっくりと手をかざした。
猫猿達は、突然現れた少年に驚くが、ただの子供と判断すると、次には食べ物としか見れなくなっていた。
そんな猫猿達を少年の影は、過去のビジョンで大人達に見せた顔をして見つめた。
獲物を見る目である。
猫猿達は、どちらが狩る側なのか気付きはしなかった。
すると少年の影の、手の平の中に小さな炎が宿り、それは中心に収束し始め、光を放った。
それがヤバい何かだと分かっていても、猫猿達は何も出来なかった。
『××』
少年の影が呟いた。
美咲でも、何と言っているのか今のは分かった。
間違いなく「死ね」の一言である。
少年の手の中で圧縮された炎は、一気に爆炎となって砦の中にある空間という空間を、その炎で埋め始めた。
目の前から炎が迫り、咄嗟にエレノアは美咲を炎から庇った。
すぐに爆炎が晴れると、少年の影は跡形も無く消えていた。
まるで、全てを焼き尽くす為だけに現れた様に。
エレノアの腕の中で、美咲は目を開けた。
絶対に焼け死んだと思ったのに、火傷一つ無かった。
まるで、エレノアの周囲に透明なドームがあったかのように、床には丸く無傷の床が残っている。
爆炎はエレノアと、エレノアに抱きかかえられた美咲を避けていた。
しかし猫猿達は、そうはいかなかった。
突然の出火に、高濃度のアルコールを浴びていた毛むくじゃらの猫猿達は、事態を飲みこむ間もなく火だるまになり、床を転げまわる。
爆炎がぶつかった身体の前面は、一瞬にして炭化している所まであった。
炎に巻かれると、呼吸によって肺が焼け付き、猫猿達は次々と炎で溺れてやがて動かなくなっていく。
火は床で水たまりを作っていたアルコールにもしっかり燃え移っており、爆炎が晴れても火の手が更に増していった。
床に落ちていた日誌は、もう消し炭になっていたし、部屋にある薬品の瓶は、軒並み割れて色のついた煙やら有毒ガスを発生させて部屋を満たし始めていた。
全身が現在進行形で焼け焦げていくリーダー格の猫猿は、他の猫猿よりも大分しぶとかった。
仲間を咄嗟に盾にしてダメージを軽減させた上に、爆炎が晴れるまでは息を止めていたらしく、全身が燃えながらも、まだ窒息せずに立っていた。
ただ一匹燃え残った猫猿は、美咲とエレノアが火傷一つせずに目の前にいても構わずに、身体の火を消そうと、まだ割れていない水槽にクロスボウを打ち込もうとした。
しかし、矢が水槽に届く事は無かった。
エレノアが、その矢を蜘蛛の脚で綺麗に叩き落としたのだ。
炎でこれだけ明るければ、何度も撃ち込まれてタイミングに慣れたエレノアには簡単な事だった。
猫猿は、残った片目をいっそう大きく見開き、エレノアの思わぬ邪魔に、憎しみの表情を浮かべた。
エレノアは、猫猿に対して「いーっ」と歯を出した。
猫猿は、燃えながらもクロスボウに矢を再装填しようとするが、弦が発射体制にまで引く力に耐えられず、猫猿の手の中で焼けて弾けた。
歯を噛み割る程に怒り噛み締めるが、落ちていた斧を拾いあげると、水槽に駆け寄って必死に叩き始めた。
その目は、もはや美咲では無く、今度はエレノアに対する復讐に燃えていた。
だが、物理的に燃える身体でエレノアに掴みかかれば火傷は負わせられても、殺せないと判断してか、生き残る為の道を選んだのだった。
しかし選択も空しく、水槽の丈夫なガラスにはヒビが入るだけで中々割れず、培養液はチョロチョロとしか漏れ出してこない。
猫猿の行動を嘲笑うかのように、炎の熱に部屋に置いてあった、まだ辛うじて無事だったアルコールの瓶も割れていき、火の手が更に強まっていく。
美咲がエレノアの腕に抱かれながら部屋の光景を見ていると、エレノアが美咲の目をまっすぐに見つめた。
その目は、美咲を心配している目だった。
「エレノア……ごめん」
『ミサキ、×××××』
美咲の呼びかけにエレノアは答えるが、お互い言葉の意味は分からなかった。
だが、エレノアは、この惨事を起こしたのが美咲だとちゃんとわかっている様だった。
当の美咲は、何が何だか分からないままこうなってしまっただけで、どうやら自分がやった事というのは分かるが、実感が伴っていなかった。
恐らく、美咲がどうやってか呼び出した少年の影が、エレノアを助けたのだろう。
エレノアは、美咲を肩に担ぎ直すと、猫猿の焼ける臭いを通り抜け、猫猿が水槽を叩き続けている音を後に、部屋を出た。
死に損ないの猫猿に構っている余裕はないし、あの状態で猫猿が助かるとは美咲にも思えなかった。
地下牢に出ると、天井には煙が充満し、床の藁が燃えて足の踏み場も無い状態だった。
エレノアは、火傷も構わずに炎の上を走り抜け、砦のエントランスに向かった。
そこは正門で、美咲が外から試した時には開かなかった扉があった。
内側から見ても鍵の様な物は見えず、エレノアが押してみるが扉はやはり開かなかった。
美咲は煙に軽くせき込みながら、煙を吸わない様に手で口を押さえ、エレノアに上へ行く様に指で上を指した。
意味が分かったのか、エレノアは頷くと壁や吹き抜けを蜘蛛の脚を生かしてショートカットし、一気に砦の上まで登りきった。
炎と煙から逃げる様に塔の屋根の上にまで登ると、エレノアは屋根瓦を一枚剥がし、森の方へと投げた。
かなり距離があるが、森の中に瓦がフリスビーの様に消えていく。
エレノアは、空中をグイグイと引っ張って何かを確認した。
すると、次には、その何かの上に脚をのせてぶら下がってみせた。
エレノアに抱えられているだけの美咲は、宙にぶら下がる感覚に驚き、あまりの高さに目がくらんだ。
高所恐怖症では無いが、予告が欲しいと思った。
だが、言葉が分からないので仕方が無い。
光が当たると、エレノアが塔と森に張った糸の道が揺れてチラチラと反射して見えた。
美咲は、蜘蛛の脚でぶら下がりながら糸をゆっくりと歩いて行くエレノアの腕の中で、思わず小さな拍手をした。
初めて、エレノアの下半身が蜘蛛で良かったと心の底から思えた。
視界がさかさまのまま塔の方を見ると、エレノアの血で糸が染まり道が浮き上がっていた。
でも、これでようやく助かった。
エレノアの腕の中で美咲は、煙からも無事逃れ、ようやく深呼吸した。
徐々に頭に血が上りつつあるピンチなど無視して、砦の中で孤独に死ぬ心配から解放されたのだった。
ギャギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!
今出てきた砦の方から聞こえてきた叫び声に、エレノアと美咲は振り返った。
全身を炎に包まれながら、片目の猫猿が塔の上まで追いかけてきていた。
『「しつこい!』」
美咲とエレノアは、違う言葉だが、意味でハモったのが二人ともわかった。
エレノアは内心、とどめを刺すべきだったと後悔した。
猫猿は、火のついた斧で糸を切ろうと振りかぶった。
美咲は思わず目を閉じた。
だが、エレノアの糸は丈夫で切れる気配も見せず、斧をあっさりとはねのけた。
猫猿は悔しそうに雄叫びをあげながら、斧を口にくわえて、燃えたまま糸を渡り始めた。
その速度は、木から木に飛び移る手長猿の様に、素早かった。
エレノアは咄嗟に猫猿に糸を何発も吹き付けたが、猫猿は糸にぶら下がりながら身体を左右に揺らして糸を器用に避けながらすぐに追いついてくる。
猫猿が糸から手を放してジャンプすると、エレノアに直接掴みかかって来た。
燃える猫猿に抱きつかれ、エレノアは熱に耐えながら脚で強烈な蹴りを入れた。
しかし、相手が近過ぎて足先が使えず、変な体制での膝蹴りになり、猫猿の肋骨を折り、内臓を破壊こそするが、捨て身の猫猿は全く怯まない。
猫猿は血を吐きながら、口にくわえていた斧を手に持つと、エレノアを殺そうと斬りかかって来た。
エレノアは対応する為、後ろ脚二本だけで糸にぶら下がりながら、六本の脚で斧を防ぎ、なんとか猫猿を引き剥がそうと蹴りを入れ続けた。
どうにか猫猿の手から斧を払い落とすが、猫猿は素手になっても執念で掴みかかり、エレノアの前脚に噛みついてきた。
エレノアは、猫猿の頭が動きを止めた好機と捉え、頭を潰そうと別の前脚で狙いを定めた。
「熱っ!?」
猫猿の焼ける脚の指が、美咲の足首を掴んでいた。
エレノアを狙っていると思い込んで、裏をかかれてしまった。
猫猿がエレノアの前脚に噛みついたまま嬉しそうに笑ったのが、二人にも分かった。
『××××!?』
エレノアが驚きに声をあげた。
足首を掴まれた美咲は、猫猿に無理やりエレノアから引き剥がされると、そのまま深い堀へと向かって投げ落とされてしまった。
驚きのあまり声も出ない美咲を、エレノアは掴もうと精一杯手を伸ばした。
しかし美咲の手は、エレノアの手をすり抜けた。
エレノアは、空いている前脚も精一杯伸ばした。
美咲は、手こそ伸ばすものの、その前脚を掴むことを一瞬躊躇してしまった。
それにエレノアも気付いた筈だった。
それだけでなく、美咲の目にエレノアの下半身に向けた、制御出来ない恐怖があるのも、気付いていた筈だった。
エレノアの笑顔を見たいと思ったのに、自分は何をやっているのだろうと思った。
あと少しの所で、手も脚も、どちらも届かない。
美咲は、毒とは関係なく、何もかもがスローに感じた。
これで本当に死ぬんだと思った。
それも、救いの手ならぬ脚を、自ら掴み損ねてである。
美咲には、心残りが出来ていた。
それは、エレノアが救われない事だ。
エレノアは、救えなかった友達の代わりに、美咲を救おうとしたのだ。
また助けられなかったら、エレノアは生き延びても落ち込むだろう。
最後は笑って終わらないと後味が悪い。
それは、エゴかもしれないが、それでも美咲はエレノアの笑顔が見たかった。
そんな事を思う美咲の耳に、エレノアの叫ぶ声が聞こえた。
『ミサキ!』
エレノアが猫猿を纏わりつかせたまま、糸を掴んでいた後ろ脚で、その糸を蹴った。
落下しながら、美咲はエレノアの方を見た。
エレノアの顔には、微塵の諦めも浮かんでいなかった。
「エレノア!」
今度は、ちゃんとエレノアが美咲に伸ばした前脚を握り締めた。
外殻は硬いのかと思っていたが、表面には細かい毛が生え、硬いには硬いのだが思いのほか弾力があった。
火傷した個所が、茹でた甲殻類の様に黒から赤に色が変わっており、戦い続けたエレノアの体温で、爪先まで温かかった。
エレノアは、落下しながらも前脚で美咲を引き寄せると、美咲の身体を、隙間なく密着させるように人の腕と蜘蛛の前脚を使って強く抱き締めた。
ギャアギャアギャアギャア!
猫猿はエレノアの脚から口をはなし、落下しながら「道連れにしてやった」とでも言いたげに、勝ち誇って叫んだ。
しかし、猫猿にとどめを刺さないで砦を出た美咲とエレノアにだけ、詰めが甘いと言う後悔が降り注ぐものではない。
油断大敵が適応されるのは、平等である事を猫猿は思い知る事となる。
突如、ガクンと反動が身体を襲った。
みんな揃って一緒に深い堀の底へ落ちている筈なのに、エレノアの落下だけが急に止まったのだ。
自由落下からの急停止による反動は、油断していた猫猿の手がエレノアを逃がすのに、十分な衝撃があった。
急停止の衝撃にも、エレノアは掴んだ美咲の身体を離さなかった。
今度は、猫猿の見ている世界がスローになった。
エレノアは、猫猿に向かって懲りずに「いーっ」と歯を出した。
美咲は、結構良い性格しているなと思った。
猫猿は、最後の最後で何が起きたのか訳が分からないまま、歯を出すエレノアと、抱えられたまま猫猿を複雑な表情で見つめる美咲を見上げながら、絶望の表情を浮かべて落ちていった。
暗く深い堀の底へと吸い込まれ、鈍い音が響くと静かに底を炎で照らしていた。
エレノアは、塔から森に通した自身の血で染まった横糸に、猫猿が近づいて来た時に、その手を糸で固定しようとした。
糸の狙いは猫猿の手は外したが、横糸には当たっていた。
それを、そのまま命綱に利用してバンジージャンプまがいの事をしていたのだった。
『××××?』
「だいじょぶ」
『××××……』
お互い言葉は分からないが、何となく会話が成立した。
エレノアは、スルスルとバンジージャンプに使った糸を登ると、横糸を血で浮き立たせながらなんとか森まで渡りきった。
糸は、森に生える木の太い枝に繋がっていた。
エレノアの脚が、しなる枝に降りると、指に糸くぼから出した体液をつけて、渡って来た糸を指でピンと弾いた。
すると、斧の刃も弾いた糸が指で弾いた所でいとも簡単に切れ、風で塔の方にさらわれ、赤い糸はすぐに景色に溶け込んでしまった。
美咲は、その光景を見ながら、今度こそ助かった実感を噛み締めた。
ところが、噛み締めるには少し早かった。
ギャッギャッギャッ!
聞きなれた声に、二人は町の方に目をやった。
そこには、猫猿の群が全速力で向かって来ているのが見えた。
数は、優に百匹を超えている。
エレノアの目には、驚きと動揺が浮かんだ。
こんな事エレノアには想定外であった。
七匹でも大苦戦だったのに、いくら何でも多すぎる。
ところが、猫猿の群は、そのまま二人がいる木を素通りし、堀の淵にまで走っていってしまった。
どうやら、片目の猫猿が落ちる時にあげた叫びを聞いて、砦から出る煙を目印に様子を見に来たようだった。
二人はその場を、すぐにでも離れたかったが、足場の枝の下にも何匹も猫猿がいて、動く事が出来ない。
木の枝の上でエレノアに抱えられている美咲は、そもそも移動する事が出来ないし、エレノアの巨体が不用意に動いて音でも出せば、猫猿達はすぐにでも気付くだろう。
そうなれば、百匹では済まない相手を、たったのニ人でする事になってしまう。
堀の底を覗き込む猫猿達は、そこで燃える仲間を見つけたのか口々にギャアギャアと会話していた。
そのうち、一部の猫猿達がゾロゾロと町の方に戻り始めた。
どうやら、このままやり過ごせそうと二人が思った時だった。
ギ?
真下で声が聞こえた。
エレノアが下を見ると、二人のいる木の枝の下に、ほんの数滴の血が零れ落ちていて、一匹の猫猿がそれに気づいたのだ。
美咲もエレノアも傷だらけで、おそらく二人の血だろう。
猫猿が上を見ると、生い茂る枝葉の上に、確かに何かがいるのが見えた。
ギャギャア! ギャギャア!
見つかってしまった。
町に帰ろうとしていた猫猿達も鳴き声の方に注目し、視線がその上に集中した。
居場所がバレたと悟ると、エレノアは木の上の方に登り始めた。
美咲が下を見ると、森中の木を猫猿達がのぼり、枝と枝の間をジャンプしながらエレノアの方に向かって来ているのが見えた。
逃げ場は無いし、囲まれてしまっている。
美咲は、地下室で見たみたいに、ビジョンが見えないか集中した。
だが、世界がスローに感じる事も無ければ、ビジョンもノイズも現れない。
そんなタイミングで、空気を読まずに視界にあるiDのウィンドウが点滅していた。
美咲が視線を合わせて意識すると「深刻なエラーが発生しました」と表示される。
どうやら、失血やエレノアの毒の混入によってインプラントナノデバイスを構成するバイオナノマシンの何割かが失われてしまったらしい。
お手上げ状態の中、勝手にエラー回復の為にiDの再構成をしますと表示が出た。
進捗表示バーが左から右へと満たされると「失敗」と表示された後に「再起動します。それでも問題が解決しない場合は、サポートセンターに連絡してください」とロッテが言い美咲はイラつく。
一匹目の猫猿がエレノアの脚を掴んできた。
美咲は、何も出来ないとしても、今はiDの事を心配している時では無かった。
エレノアが猫猿の顔に糸を吹き付けて、なんとか逃れようとするが、すぐ近くにまで別の猫猿が迫って来ている。
そんな中でiDを当然放置していると、自動で強制再起動がかかった。
見覚えのある製品名のロゴが表示されると、すぐに起動が終了し、どうやら再構成が成功した様だったが、まったく喜べない。
迫る猫猿の数は増え、エレノアは木のてっぺん付近まで登ってくるが、これ以上は逃げ場がなかった。
上に逃げようにも、鍾乳石のつららまでの距離は100メートル以上あり、飛ぶ事でもできないと不可能だ。
猫猿達に対して糸を出し続けるエレノアの蜘蛛の腹は、出し過ぎで痩せてきている。
いよいよ打つ手が無くなって来た。
『××!』
突然、人の声が森に響き渡った。
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