幕間
宇宙子と母
炎天下の日差しの中、線の細い黒髪の女性が傘を差して歩く。
所々穴の開いた、黒いコウモリ傘を日傘の代わりにして歩く。
黒い大きな傘は、一部骨だけになったりしていたが、深く被るように差した傘から、覗き穴のように外を見る。
風に吹かれて飛びそうな細い体はふわふわと軽快な足取りで、海を漂うクラゲのように人通りの少ない道を
突然、女性はふわりと足を止め、腰を直角に折る。
地面に手を伸ばすと何かをつまみ上げ、体を起こしてまじまじと眺めた。
それは銀色に輝いた小さな丸い板。
コイン、硬貨と呼ばれる万能に物品と交換する事ができる品。
今彼女がとても必要としている物だ。
だけど同種の銀色硬貨の中では二番目に高価な物。いわゆる百円玉と言うやつだ。
だが彼女にとってそれだけでも十二分に価値がある。
それだけで少しの間命を繋ぎ留めておく事ができる。
しかしこれは彼女の物ではない。
黙って自分の物にしてしまっては拾得物横領罪という罪になってしまう。
罪は犯してはいけないものだ。
それは彼女の信念でもあるので、交番に届けなくてはならない。
交番に届け、そのくらいの額ならそのまま持って行っていいよ、と警察官が言う。
まあ、なんていい人なんでしょう。この御恩は一生忘れません。
という寸劇を頭の中で済ませた女性は、ありがたく硬貨を頂戴した。
太陽光を反射するコインを手にふわりふわりと歩く彼女は、一階建ての四角いガラス張りの建物に入る。
この街には出来たばかりの、前に立つと自動的に開くというハイテクな扉をした建物だ。
住んでいる場所からはかなり遠いが、彼女はこの場所が好きだった。
ここには何でも揃っている。
何でも手に入る。
しかし普段彼女は手に入れるすべを持っていない。ただ眺めるのは
それに空調設備も整っている。暑い日は涼しく、寒い日は温かい。
あまり気温を気にする
だけど今日はただ見るだけではない。
彼女の手には硬貨がある。
これを何と交換しよう、とウキウキしながら店内を軽い足取りで歩く。
しかし百円玉では大した物と交換できない。
自分だけ何か食べていい物か。まだ小さい娘にも分けてあげようか。
だけど娘は強い。娘は娘で何とかする。
それよりはこれで力をつけ、より大きな収穫を得る方が、自分にとっても娘にとってもいいはずだ。
よし、そうしよう、と心に決めて店内を歩く。
人の少ない店内をふわりふわりとクラゲのように周回する。
何週目かのレジの近くを通った時に、小さな男の子の声がした。
「あれぇ? 百円あったはずなのに~」
男の子はカウンターに置いたアイスを前に泣きそうな声を出す。
店員も「それじゃ、置いといてあげるから」と帰そうとするが、いよいよ男の子は泣き始める。
困ったような顔をする店員と、泣く男の間に、女性はそっと百円玉を差し出した。
途端に男の子の顔は明るくなり、何度も何度もお礼を言う。
店員もお金があるなら、とさっさと会計を済ませた。
店を出て、何度もお辞儀をする男の子に、女性はにこやかに手を振り、店を後にする。
女性は炎天下の中、黒い傘を日傘代わりに、ふわりふわりと
女性は小さなパン屋さんの前を通る。
店の外でドーナツなんかを売っているが、その横に「ご自由にお持ちください」と書かれた小さなビニール袋が目に留まった。
まあ、これタダで頂いてよいのですか? と問う女性に、店員は「どうぞ」と促す。
これはパンの中でも特に栄養素が凝縮された部分。
これをタダでくださるなんて、なんて大判振舞な方でしょう、とお礼を言って受け取る。
これだけあれば、当分お腹をすかせなくていいわね、と公園のベンチに腰掛ける。
半分は娘に持って帰ってあげなくては、と袋の封を開ける。
ハタハタと羽音がすると、彼女の周りにはハトが集まっていた。
女性は手にしたパンの耳と、キョトンと小首をかしげるハトを交互に見比べ、パンをほぐすと地面にバラ巻いた。
途端にバタバタと鳥の数が増える。
ハトだけでなく、スズメ、カラスとその種類も増えていった。
大きなカラスが小さな鳥を追い払うように威嚇すると、女性は「めっ」と叱る。
気が付くと袋は空になっていた。
空っぽになった袋を振り、あはは……と笑うと女性は鳥達に手を振って公園を後にする。
女性は炎天下の中、黒い傘を日傘代わりに、ふわりふわりと
軽快な足取りで歩く道の先から黒い車がやってくる。
その高そうな黒い車は、女性の行く先を塞ぐように停車するとドアが開き、数人の男が降りて、女性を囲むように立ちはだかった。
男は皆大柄で高いスーツに身を包み、顔に傷を持つ者もいる。
「水無月 永遠湖だな」
「いえ違います」
女性は臆する様子もなくしれっと答える。
男達は呆れたように顔を見合わせ、一人が写真を取り出して女性に見せる。
「まあ素敵なお方ですね。わたくしもこんな風に美しくなりたいものですわ」
「どう見てもアンタにしか見えねぇんだが」
そんな、と女性は頬に手を当てて照れたような仕草をする。
「世の中には、自分に似た人が三万人はいると言われていますから。あなた達だって、わたくしには皆同じ『強面の人』に見えますもの」
男達は互いを見合い、一瞬「あながち間違ってはいないが……」という顔をしたが、
「まあとにかく一緒に来てもらおう。人違いだったらその時に謝るからよ」
と一人が腕を掴む。
羽根のように軽い体はなす術なく引かれ、女性はあ~れ~と声を上げた。
その体が車に押し込められようとすると、一団の前に別の車が乗りつける。
新たに現れた車は更に高級だ。
分厚いガラスのはまったドアが開き、こちらも数人の黒い服を着た男達が降りてくる。
だがその男達は、先の者達に比べれば細身で威圧感がない。
その物腰から道を塞いでいる事に文句をつけに来たのではない事は察したようで、
「同業か? 悪いがこっちのが先なんだ。こっちの用が済んだら引き渡してもいいぜ」
女性の腕を掴む男が目配せすると、仲間が連絡先を書いた紙を取り出そうとする。
「いくらだ?」
細身の男は端的に聞いた。
「ああ?」
男達は怪訝そうな声を上げたが、やがて面倒そうに答える。
「50万だ。なに、一か月もあれば回収できる」
細身の男は溜息をつき、懐から封筒を取り出した。
封筒の中身を引き出し、分厚い紙の束が全て本物である事を証明するようにパラパラとめくって見せる。
言った額の倍はあろうかという封筒を受け取った男達は、怪訝そうに互いの顔を見合わせたが、回収さえできればそれでよい――とやや釈然としない様子ながらも大人しく立ち去っていく。
「さ、お嬢様」
細身の男は女性を自分達の乗ってきた車に促す。
「いえ違います」
女性は先程と変わらぬ様子でしれっと答える。
「お嬢様……」
男も同じ調子で繰り返す。
「違います」
男はじっと女性の顔を見つめる。
「だからわたくし、もうお嬢様と呼ばれる歳ではありませんし、もう水無月の人間ではありません」
女性はコウモリ傘で男の視線を遮るようにぷいっと横を向いてしまう。
困ったような顔になる男を横目でちらりと見ると、女性は観念したように溜息をつく。
「あなたも仕事ですものね。仕方ありませんわ。今回だけですよ」
とさっさと車の後部座席に向かう。
車で待っていた男がドアを開けると、ありがとうと言って乗り込んだ。
車の中は外から見るよりも広い。
柔らかいシートに明るい照明、冷蔵庫にグラスなどの設備が充実している。
「水無月には、こんな田舎町を走れるような小さな車は少ないのですよ」
向かい合うように配置されたシートに座っていた男は、穏やかだが通る声を出す。
迎えに降りてきた男達とは雰囲気が違う。線は細いが鋭い眼光は、見る者を切りつけるような静かな威圧感があった。
女性は男の方を見もせずに内装に目を這わせ、
「テレビはありませんの?」
男はそのようなものはありません、とグラスに飲み物を注いで女性に差し出す。
それを無視して女性は言葉を続ける。
「あまり余計な事はしないで頂けませんか。これはストーカーという立派な罪ですよ」
借金取りの待ち伏せ現場に都合よく現れるなど、普段から彼女の行動を監視していなくてはできる事ではない。
そんなやり取りは過去に何度も繰り返し、もう彼女には付き纏わない事は既に約束させているので、関わった金融機関の動向を監視していたのだろう。
「借りたお金を返さない事も罪だというのを知っていますか?」
「それはいつかお返しします」
女性はツンと答える。
「あれは僕が個人的にあなたの娘さんにあげたものです。戸籍上は、一応僕の姪に当たるのですから」
女性は憮然とした顔つきになる。そう言われては黙るしかない。
「今日も悪質な取り立てをするという金融業者を、個人的にマークしていた所にあなたの方が現れたのです。これは奇遇だ、と可愛い姪っ子にお小遣いをあげただけですよ。借金の名義はあなたでも、借りたお金は姪にも使っているはずですからね」
何の問題もない、と澄ましてグラスを傾ける全く血の繋がりの無い男を、やや疎まし気な目で見やる。
「そこで奇遇ついでにお話ができればと思いましてね。生活保護だけでは満足のいく生活は難しいでしょう」
女性は露骨にまたか、という顔になる。
「いやいや、誤解しないで頂きたい。テレビをご希望されたので、お見せしようと思っただけですよ」
男は大きめのタブレットを取り出すとスイッチを操作する。
平たい液晶にノイズ画像が表示されると男は画面を自分の顔の前に持ってくる。
画面はザリッと大きなノイズを発すると老人の顔になった。
時折ノイズで歪む所を見ると電波状況が悪いようだ。老人は鼻にチューブを差している所から見て、医療機器に囲まれていると想像できる。
「やあ永遠湖」
「はいお爺様」
女性は素っ気なく答える。
「空湖ちゃんはいくつになった?」
「ご存知でしょう」
老人は咳なのか何なのか分からない笑いを漏らす。
「それで何の御用ですの?」
「いやなに、儂ももう歳だからの」
「そうですね。お爺様の顔を見るのもこれが最後かもしれません。次は培養器の中に脳だけ入っているかもしれませんわ」
老人と女性は同時に笑い声をあげる。
「儂の主治医の知り合いでな。腕のいいカウンセラーがいるという話だ」
「失礼な。わたくし達は病気ではありません」
老人は高笑いし、途中で咳に変わった。
息を整えた老人はぼそりと呟くように言う。
「どうも間男との繋がりがあるようでな」
女性の顔がピクと反応する。
それを見て老人がいやらしい笑みを浮かべた。
女性は小さく咳払いする素振りをして澄まし顔に戻る。
「そんなハッタリは通用致しません」
「どうかな?」
老人はなおも笑みを崩さない。
女性はもう相手にしない、と言わんばかりにそっぽを向いた。
老人は笑うと、久しぶりに元気な姿を見れて良かったと当たり障りのない事を言うと、また近いうちに会おうと話を終える。
液晶にノイズが走ると、画面は眼光鋭い男の顔に変わる。
女性はしばらく呆気にとられたように見ていたが、ぷっと吹き出し、
「どければいいでしょう」
一応、という感じに突っ込みを入れると外へ出ようとドアを開ける。
先程まで晴れていたのに、車の外はいつの間にか雨が降っていた。
「おや、近くまで送りましょうか?」
男は目の前にタブレットをかざしたまま言う。
「いえ、結構。わたくし、雨は好きですの」
女性は構わず、外に出て穴の開いた傘を差す。
ふわりふわりと僅かに水しぶきを上げながら、女性はアスファルトの道を行く。
その途中で足を止め、腰をかがめるとそこには一匹のアマガエルがいた。
雨で道に出てきたのだろう。
こんな所にいては危ないですわよ、と女性が尻をつつく。
カエルはピョンと跳ね、またつついて更に跳ねる。
道の隅まで追いやると、女性は立ち上がり、いつもの飄々とした調子で歩き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます