第5話 壁に顔が
誰にも話せないまま、穴を掘る日々が続いていた。あるいは、話してしまえばよいのかとも思った。私の名前を呼ぶ、見えない誰かに向かって問い掛ければ、私がこれからどうすればよいのか、その答えを教えてくれるのかもしれない。
初めはとても異質に感じたその声も、毎日聞いているうちに、それが日常になってくる。私は徐々に、こっちの世界より、あっちの世界へと近づいているのだろうと感じていた。その声は、一体どこまで私を連れていこうと言うのだろうか。
ある日、ゼミの新歓コンパに招かれた。私の研究室では、男女合わせて六名が手伝ってくれている。今年は、新たに三名が加わることになった。
大学から程近い居酒屋に呼び出されると、全員がすでに到着してグラスを持って待っていた。
私の仕事の虫は学内でも有名だったので、飲み会に遅れてくる事は折り込み済みだと軽く批難されながら、私は乾杯の挨拶を済ませた。
「先生! 二次会は先生のお宅でやりましょうよ! お金もないし、先生んち近くでしょ?」
「うちかぁ、散らかってるからなぁ」
「そんなの当然でしょ? どうせ、本が山積みされているんでしょ?」
「な、なに!? なぜお前、それを知っている!? さては……エスパーか!」
「そんなわけないでしょ! そんなの、学校の机を見たらすぐに予想がつきますよ――そうそう、僕はエスパーじゃないんですが、新しく入った麗奈は、なんと、霊感があるんです……」
「霊感……」私は自分の顔色が変わるのを自分で感じていた。楽しい宴の席で忘れていたが、例の霊の声を思い出してしまった。そうだ、私は霊感のある人間から見たらどんな状態なのだろう……何かに取り憑かれているとか、ただの思い込みとか……何でもいいから誰かに何かを言って欲しい……いや、言われるよりも聞いてほしい……抱え込んだ、もやもやしたものをさらけ出して楽になりたいと言う気持ちが沸き上がってきた。
「な、麗奈、麗奈、お前霊感あるって有名だよな?」
「先輩……やめてくださいよ、そういうの、高校生までにしときたかったんですけど……確かにうちは代々続く
「麗奈さん、ご実家は祈祷師をされているんですか?」
「はい……先生まで食いつかないで下さいよ、私は普通の大学生ですよ」
「そうか……そうだな、いや、すまなかった……少し――興味があってね……」
飲み放題の時間が終了すると、学生達は早速、家飲み用の酒を買いに走った。女子学生は一足先に私の部屋へ行き、片付けを手伝うことになった。片付けると言っても、収まりどころのない書籍が山積み――いや、棚も何もない部屋に、とめどもなく平積みされているだけなので、片付けようもないのだが……。
自宅への道すがら、数人の女子学生を連れて歩きながら、何か見せられないものを広げていなかったかと苦悩していた時、私よりも辛そうな顔をしている学生に気が付いた。
「ん……? 麗奈さんどうかした? 気分が悪そうだけれど……」
「ちょっと……酔ったかも知れません……」
「そうか……うちはもうすぐだから……大丈夫かな?」
「あの……やっぱり帰ろうかな……?」
「今から? もう見えてる、あのアパートだよ、少し休んだ方がいいよ」
「はい……」
麗奈の様子はかなり辛そうだった。おぶってあげたほうがいいかとも思ったが、まだ何度か顔を会わせた程度だったので、遠慮した。
もう、ドアノブに手をかけようかと言う時だった。
「やっぱり……先生……帰ります」
「いや、もう着いたよ、ほら……」
――ガチャリ
「さあどうぞ、な? 散らかってるだろ?」
生徒達を部屋に招き入れると、やれ汚いだの、めんどくさいだのと、だから言ったのにと言いたくなるようなことをグチグチと言いながら、部屋を片付け始めた。
しがし、気が付くと、気分を悪くしていた麗奈の姿が見当たらない。
「あれ? 麗奈さんは?」
「ほんとだ、おかしいな、まだ玄関で休んでいるのかな?」と、他の生徒が見に行くと、どうやらドアの外にいたらしい、外から話し声が聞こえる。
「私……この部屋には入れない! 帰るから!」
「ち、ちょっと、麗奈!?」
どういうことだろう? この部屋には入れない? 一体この部屋に何があるのか――ふと、見えない誰かの事が思い浮かんだ。麗奈には、もしかしたら何かが見えるのかもしれない。そう思うと、確かめずにはいられなくなった。
「ちょっと、先生は……麗奈さんの様子を見てくるから……」
麗奈はさっきまで具合が悪そうにしていたとは思えないほど、足早に先を急ぐ。追い付くには駆け足でないと無理だ。もしかすると、彼女の具合が悪くなったのは、うちに原因があるのかもしれない。入れないほど嫌な場所だった部屋から遠ざかれば遠ざかるほどに、彼女は元気を取り戻しているのではなかろうか。
では、もし、そうだったとして、それではうちには何があるというのだろう。気になる……彼女には悪いが、少し詳しく聞かせてもらうことにしよう。
「麗奈さん、大丈夫かい? 具合が悪そうだったけれど?」
「――大丈夫です、どうぞ、お構いなく……」
「そうかい……では、ちょっと質問があるんだけれど……いいかな?」
「……なんでしょう」
「麗奈さん、君、うちで何か見ただろう? 具合が悪くなった原因はそこじゃないかい?」
「……そんな事……ありませんよ。何も見ていません」
「そうかな? じゃあ、なぜ、『この部屋には入れない』って言ったの? 何か特別な事情がないと出てこないセリフだと思うよ」
「そ、それは……先生……私、こういうのしたくないんです。前に、失敗した事があって……気にしないから正直に言ってと言われたので正直に答えたら、すごく気にされるようになってしまった方がいて、余計にストレスを感じさせてしまったんです……その後、結局、私にも話しかけてくれなくなりました。だから、こういうの、したくないんです」
「なるほど、でも、もう半分言ったも同じだよね? 見たけど言いませんって言ってるんだよね?」
「あ……そうなります?」
「そうなりますね……では教えてくれますか?」
「……わかりました。でも、先生、私、霊能力なんて、ほとんどないんです。ちょっと見えるぐらいで……お祓いとかはもちろん、何のアドバイスもできません。言ってみれば、素人のたわごとです。それを踏まえた上で聞いてくださいね」
「あ、ああ」何だか
「先生……あの部屋には私は入ることができません……だって、足の踏み場がないんですもの」
「ふっ、そんな話じゃごまかせないよ、散らかっているのは申し訳ないけどね、他の子は先に部屋に入っていたじゃないか、足の踏み場もないって
「先生! 違うんです。足の踏み場がないのは、散らかっているからじゃなくって……あの部屋……いっぱいなんです。床、天井、見えた壁にはびっしり、隅から隅まで、苦しそうな表情をした顔が並んでいるんです……埋め尽くされているんです……あの部屋の全部が、霊の顔で埋め尽くされているんです!」
「ん? え?」私はまだ、良く理解できなかった。
「すると……え? 部屋中に霊がいるってこと? 僕が毎日寝ている床にも、積まれた本をよけて、寄り掛かる壁にも、仰向けになって眺めている天井にも、霊の顔がびっしり敷き詰まっているってこと?」
「はい……恐らく、トイレの中も、お風呂場も、浴槽の底でさえ、少し、緑色がかった、半透明で苦悶の表情をした霊達が、いつも先生を見つめています……お気の毒ですけど、先生が動くと、彼らの目がギョロりと一斉に動いて……追いかけるんです……先生を……私、もう見ていられなくて……もう、帰りたくて帰りたくて……ゴメンなさい」
私はどうやら、霊に囲まれて、いや、霊に埋め尽くされた部屋で生活していたらしい……。
霊感など無いと思っていたのが、しばらく前から声が聞こえるようになり、このままどんな世界に連れていかれるのかと不安だった。しかし……。
「ふ、あはははは! そうか、埋め尽くされてたんだ、あははは!」
「先生……やっぱり、話すべきじゃなかったですよね? また、失敗したなぁ」
この時、麗奈さんは、私の気が狂ってしまったのだと思ったそうだ。しかし、実際はちょっと、違った。単純に嬉しかった。霊感がどんどん成長していくのかもしれないと思っていたが、何のことはない、私は沢山の霊の集合と一緒に暮らしていても、全く気が付かないほどの、鈍霊感の持ち主だったのだ。
なんだか、笑えてくる。笑うしかなかった。
おしまい
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