「けて」
知り合いが単身赴任先で聞いた話。
その知り合いは五年前にK県へ約一年ほど単身赴任していたそうだ。K県は山と海、両方に囲まれた自然豊かな土地だ。知り合いが暮らしていたのはそのK県の市街地で、大きなショッピングモールが出来たばかりで賑わいを見せていた。とりわけ彼の職場近くにはポツポツと飲み屋などがあり、休日でもその辺りをふらふらしては遊び歩いていたそうだ。
その飲み屋で聞いた話。
知り合いの勤めていた会社には、昔小さな社宅があったらしく会社からほど近い場所にあったそうだ。社宅と言っても貧相なもので、古くなったアパートを会社が買い取り手を加えただけのものだった。
だが今は無い。火事で燃えてしまったそうだ。
飲み屋の常連は知り合いと同じ会社に勤めていたオオキさん(仮)という人から詳しい話を聞いていた。以下はそのオオキさんの話になる。
オオキさんも知り合い同様に単身赴任だったそうだ。見知らぬ土地で当時はインターネットもロクになかったので寂しさからか毎日飲み歩いていたそうだ。
そんなオオキさんがある日こんな事を言った。
「社宅の俺の部屋なんだけど。天井にたくさん足あとがある」
その話を聞いてみんな妙だと思った。
壁や押入れの中ならまだしも、天井になんてどうやって足あとをつける?仮に出来たとしても、誰がどんな目的で?
酒の席での話だったので大いに盛り上がったが、数日もするとみんな忘れてしまった。
しばらく経って、例のごとく常連たちで飲んでいるとオオキさんがすっかり焦燥し切った顔でやってきた。聞くところによるともう何日も寝てないという。理由を訊ねると「どうせ信じてくれないだろうけど」と前置きして話し始めた。
夜寝ていたら何か音がした気がして目を覚ましたそうだ。最初は何の音か分からなかったし、目を覚ましたと言ってもなんとなく意識があるだけで、半分くらい寝てる様な状態だったそうだ。もう一度眠りに戻ろうとしたが音が気になって逆にどんどん意識がはっきりしてきてしまった。
そしてまたすぐに音がした。凄く微かな音だったが、ちゃんと聞こえた。
どうやらそれは人の声らしい。
なんで人の声が?随分遠くから聞こえている様だったが、一体何処からするのだろう。窓のそばで寝てはいるが、相当騒がない限り外の声は聞こえない。
どうしても気になって目を開けて起き上がろうとした時だった。
目が開かないのだ。そう思った瞬間に身体が全く動かなくなった。金縛りにあっていたのだ。
もがけばもがくほど身体が硬直していく。そして気のせいか、声がどんどん近づいて来ている気がした。
「‥て」
確かにそう聞こえた。
この時点でオオキさんは絶対何かしらの心霊現象だと確信したのだが、こうなってしまってはどうにも出来ない。何せ身体が全く動かないし助けを呼ぶ相手もいない。
とにかくこの声に耳を傾けてみようと思ったらしい。ずいぶん肝の座った人だ。
なんとか身体を動かそうとしつつ、オオキさんは徐々に大きくなるその声に集中していた。
「‥けて、‥けて」
もう少し。後ももう少しで聞き取れるとこまできた。身体はまだ動かない。
「‥あけて、‥あけて」
あけて、と確かにそう聞こえたそうだ。何かをあけて欲しいのだろうか。蓋?窓?何を開ければ良いのか?
この辺りから少し息苦しくなってきて、身体の上に何かが覆いかぶさっている様な気がしたらしい。
「‥をあけて、‥をあけて」
もう少しだ。早く言ってくれ。そうしたらその通りにしてやる。オオキさんは心の中でそう思ったそうだ。
そして、ついに声が耳元にきた。
「めをあけて」
その瞬間、身体がフッと軽くなった。
オオキさんは勇気を振り絞って目をカッと見開いた。
そこには天井から身の丈ゆうに二メートルはあろうという大きな女が逆さになってぶら下がっていた。目を開けた瞬間、その女の虚ろな瞳と目が合った。
にぃやぁ
と女は笑ったそうだ。
オオキさんは叫び声もあげず気を失った。
それからは社宅で寝るのが恐ろしくて、会社のソファで寝ていたのだがどうにも眠れない夜が続いているそうだった。
「きっと気の迷いか寝ぼけたんだよ。オオキさん怖いビデオでも見たんじゃない」
飲み屋の常連連中はそう言って茶化したが、当の本人はまったく笑えていなかったそうだ。
「今日は久しぶりに家に帰ってみるよ。もしかしたら何も起こらないかもしれない」
オオキさんはそんな風に言って帰っていったそうだ。
その夜、オオキさんの住む社宅から火が出た。アパートは全焼。幸い、お盆の休暇中で人がいなかった為に怪我人は出なかったそうだ。オオキさんも詳しいことは定かではないが無事に救出されて病院に運ばれたらしい。
「そういうワケで、キミの会社の社宅は無いんだよ」
そう言って知り合いはみんなに笑われたそうだ。知り合いからしてみればまったく笑える話ではなかったが、少なくともそこに住むハメにならなくて良かったと心底思ったらしい。
念のために会社の先輩にその話をしてみたが、まったく知らないし恐らくデマだろうと一蹴されたそうだ。
幸い知り合いの暮らしたマンションではそういった現象は起きなかったそうだ。
知り合いが単身赴任先で聞いた話。
了
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