「生臭いお客」

昔かかっていた鍼灸師の先生から聞いた話。


百物語製作に際してお世話になっている先生から何か今まで怖い事はなかったかと聞いた事があった。


先生は二十代の時に病気で全盲になられてから勉強して鍼灸師の資格を取り、以来この世界で働き続け、七十を超える今日でも現役である。


そんな先生だから怖いものなど余りないと言っていたが一度だけ、冷や汗をかいた事があったそうだ。


こんな事があった。




先生の仕事場は自宅で、いつも大体奥さんと二人で過ごしている。奥さんは鍼灸師の資格こそ持っていないが、先生の目となって手伝いや細かい雑務などをこなしている。それゆえ鍼灸院と言えど治療できるのは先生しかいない。それでも、先生の腕がかなり良いので評判が評判を呼び予約の電話はひっきりなしにかかってくる。


そんなある日のこと。


その日は珍しく昼の予約がなく、奥さんも買い物に出かけていたのでラジオをつけながらのんびり過ごしていた。何しろ家の中なら見える様に動き回れるので不自由はなかった。


最近忙しかったから今日くらいゆっくりしててもバチは当たらない。そんな風に考えてソファでタバコを燻らせていたそうだ。


すると、玄関のドアがゆっくり開く音が聴こえた。奥さんにしてはやけに早い。さては忘れ物でもしたか?と思って声をかけた。


「やあどうしたい?なんか忘れたかい?」


しかし返ってくるはずの返事がない。


おかしいな。


「おうい」


ともう一度声をかけても返事がない。しかし、確実に部屋の中に気配は感じるのだ。


自分から一メートルくらい離れた場所に人のいる気配を感じる。


もしかすると来客だろうか。奥さんがうっかり鍵を閉め忘れたんだな。たまにあることなので先生も不思議に思わなかった。


「あの、治療でしょうか?本日は予約されていましたか?」


先生が声をかけると相手の気配に僅かに変化があった。


「治療を。していただきたいんですが」


やはり客だった。しかも飛び込みの。一応表に看板は出しているが基本は要予約制である。声から察するに三十代から四十代くらいの女だった。


しかし、それよりも何よりも気になったのは彼女が喋る度に感じるにがとにかく生臭い事だった。歯磨きとかの話ではない。半端ではない臭気を感じたそうだ。まるで、真夏のゴミ捨て場の様な臭いだった。


目が見えない分、他の感覚が鋭敏になっているのでこういう状況が一番辛いそうだ。


「ウチは基本紹介と予約制なので。飛び込みはやっていないんですよ」


そう言って断ろうとしたが相手はあくまで食い下がる。


「お願いします。もう痛くて痛くて。我慢できないんです」


目の前で患者が困っていると流石に先生は断れない。


「分かりました。よくなるか何とも言えませんが、見るだけ見てみましょう」


ひとまずそういうことになった。


先生のところは鍼灸院だが、初めての患者にいきなり鍼は打たない。鍼は人によって合う合わないがとても激しい為、まず手で施術をして様子を見る。その人の身体の造りや血流を見て、二回目以降から鍼を始める。その時もいつもと同じ様にマッサージから始めた。


いつもなら世間話でもしながらゆっくりほぐしていくのだが、今回の客は会話が続かない。何しろ喋っても喋ってもまるで響かない。返事がほとんど返ってこないのだ。


早く買い物から奥さんが帰って来てくれないだろうか。先生は施術しながらずっとそんな事を考えていた。


それにしても妙な客だった。


身体はブヨブヨしていて太っているような触り心地なのだが、声は痩せた女性のものだ。手触りもまた妙で、単に太った人のそれでなく、まるでパンパンに膨らんだビニール袋の様な感じである。しかもそれを押す度に、例の生臭い臭いがするのだ。とにかくそれが辛かったそうだ。


「ひと通りみてますが、自分ではどちらがお悪いと感じてますか?」


と先生が聞くと


「右側です。右の方が」


というのである。


言われたところを触ってみるがイマイチ分からない。こんな事は初めてである。


しばらく施術を試みたが先生の腕をもってしても手応えがなかなか感じれない。一時間ほどやっていて、先生もほとほと疲れてきてしまった。


「いかがでしょう?なにか変化はありますか?」


するとその人が


「いいえ」


という。困ったな。いよいよどうしようかと思っていた。その時ふいに、その人がこんな事を言った。


「先生。先生はお一人でここに住まわれてるんですか?」


突然世間話をふられたので少し驚いたそうだ。


「いいえ。妻がおります。買い物に行っておりますが、おっつけ帰ってくるでしょう」


「そうですか‥」


相手は何故か残念そうにそう呟いた。


突然、その辺りからまた生臭い臭いが強くなってきて先生は我慢の限界になってしまった。


「少々失礼します。トイレに行ってきます」


今にも吐きそうだったが何とか誤魔化してトイレに立った。


どうしよう。何しろ妙な客だし手応えもない。それに、あの臭いのせいかどんどん具合が悪くなっている。このまま続けられるだろうか。というより、正直続けたくない。


トイレの中で右往左往していると外から声が聴こえた。


「先生、まだでしょうか?」


マズイ。待たせている。


「すみません。すぐ出ますから」


そう答えても相手は一本調子だった。


「先生、まだですか?」


「先生、まだですか」


「先生」


「先生」


声はどんどん距離を詰めてきていた。先生はにわかに怖くなってきて出るかどうかいよいよ迷ってしまった。


「先生、先生」


臭いで吐き気が戻ってきて立っていられなくなるほどだったそうだ。声が先生を呼び続ける。


「先生、大丈夫ですか?」


突然、聞き慣れた声がした。


「先生、気分でも悪いんですか?帰りましたよ」


奥さんの声だった。途端に、あの臭いが薄らいで身体が軽くなったそうだ。


トイレから出て奥さんを探した。


「いやお前、大変だったんだよ」


そう言って奥さんに今あった事を説明した。


「なたそんな言って。先生、それよりなんか臭いですよ」


そう言って奥さんがさっきまで先生がいた施術室に入っていった。次の瞬間、奥さんはさけび声を上げた。


「なにこれ!ベットが!ゴミだらけじゃない」


先生には見えなかったが、さっきまであの妙な客が横たわっていたベットが様々なゴミで溢れかえっていたそうだ。確かに物凄い臭気で部屋全体が包まれていた。


あの妙な客は、奥さんが帰ってきた時には影も形もなかったそうだ。


結局それがなんだったのか、今でも分からないままだそうだ。


最後に先生は笑ってこう締めくくった。


「帰ってきた奥さんと話していて、『先生一体何をマッサージしてたんですか』聞かれましてね。答えられなかったのはあの時でした。それともうひとつ。不思議なことに奥さんは、間違いなく鍵をちゃんと閉めていったそうですよ。不思議ですね」


かかりつけの鍼灸院の先生から、実際に聞いた話。


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