「安宿の夜」
友人の先輩の話。
友人の地元にマサさんというとにかく破茶滅茶な先輩がいて、半年に一度くらいは大なり小なり何かやらかす人だったそうだ。
その先輩、マサさんの話。
ある時マサさんはまたいつものごとく何かやらかそうと考えていたらしい。海外に行ったり、肝試ししたりは正直もう飽きていた。
そこでマサさんはひとつとんでもないやらかしを思い付く。
国内でも屈指の治安の悪さを誇るA地区に泊まろうと考えたのだ。
A地区はいわゆる労働者の人々が集まる町で、全国でも名の通った無法地帯だ。町中では朝昼晩を問わず酩酊状態の男たちが寝転び、盗品を路上で販売している。物価は信じられないくらい安く、日本にいながらにしてまるで別世界なのだ。それがA地区である。
そこへ行って一泊二千円に満たない安宿に泊まろうという計画を立てた。うまくいけばそこにたむろするおじさん連中から面白い身の上話を聞けるかもしれない。そんな風に考えたそうだ。
早速マサさんはほぼ手ぶらでA地区に乗り込んで行った。財布や携帯等は持たず、僅かな現金だけ。あくまでも、職を失った若者風にA地区に潜入しようと試みたそうだ。
町中に溶け込むのは容易ではなかったそうだ。何しろかの有名なA地区である。一日中怒号や罵声、アルコールやアンモニアの臭いが飛び交い漂っている。いくらマサさんが小汚い格好をしていっても、身体に染み付いた臭いが彼を周りから浮き立たせていた。
どう足掻いても浮いてしまうのは仕方ない。少しでもここに馴染んでみようと、マサさんは安い飲み屋で一杯飲むことにした。
元々マサさんが飛び抜けて社交性のある人で、人心掌握に長けていたため飲み屋に入って一時間足らずで見知らぬおじさん達と宴会を繰り広げていた。
酔いもふけ、したたかに酔ったマサさんは仲良くなったおじさんにどこか泊まるとこはないか訪ねた。
するとおじさん達はしばらく顔を見合わせた後、何故か意地悪く笑い一軒の安宿を紹介してくれた。
「まあ色々あるで。気をつけなアンちゃん」
そう言って送り出された。
教えてもらった通りの場所にそれはあった。
古ぼけた外見のいかにもという感じの安宿。なんと一泊が千五百円以下なのだ。幸いにも部屋は空いていた。
金を払い薄暗い廊下を歩く。言われた番号の部屋に入ると、畳二畳分くらいのかなり狭い和室にせんべい布団が一枚敷いてあった。部屋全体がカビ臭く、窓はハメ殺しのものだけだった。テレビすらない。
どうせ酔ってるんだ、寝るだけだし十分だろ。とマサさんは思い切ってカビ臭い布団に寝転んだ。裸電球の灯りを目で追っていたらいつの間にか寝ていた。
どれくらい経ったのか。何やら寝苦しさを覚えて目を開けた。そしてその瞬間、全身が凍りついた。
なんとマサさんの寝る狭い部屋の中に、見ず知らずの作業着を着たおじさんがぼうっと立っているではないか。おじさんは虚ろな瞳で辺りを見回しながら無言で立ち尽くしている。
ただただ無言なのだ。その目は漆黒で空虚である。それがなおのこと恐ろしかったそうだ。
生きている人なのか、死んでいる人なのか。どちらか分からないのがまた怖かったが、とにかくその時は声も出せないくらいにその状況に驚いていた。全身から冷や汗が吹き出していた。
いったいこの人はなんなのか。何故ここにいるのか。何が目的なのか。動かないところを見ると泥棒ではなさそうだが、かと言ってあまりに生き生きとして見えるので死んでいるとも思えない。とにかく無言で全く動かないのだ。
状況が変わらないことにマサさんは少しだけ安堵し、そして少しだけ飽きてきていた。
そのうちに眠くなり、一瞬だけ目をつぶってしまった。しかし再び目を開けた時、マサさんはあまりの恐怖に気を失ってしまうほどだった。
目の前、ほんの1センチというところにそのおじさんの顔があったのだ。
次の朝、目を覚ましたマサさんは飛び出す様に安宿を後にした。
後にマサさんはこう語った。
「その前の事が全部吹っ飛ぶくらい怖かった。だか分からないのが本当にヤバいと思った」
それ以来、マサさんは一人でホテルなどに泊まれなくなってしまったそうだ。
友人から、実際に聞いた話。
了
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