「猫の爪」
母の友人から聞いた話。
その人の友達に変わった人がいたそうだ。
彼はとりわけ地方の出身というわけでもないのに時々妙なことを言う時があった。どうやらそれは、お祖母さんに育てられたことが原因だそうだ。
世間では夜に爪を切ってはいけない事になっている。切ると親の死に目に会えなくなるそうだ。
しかし彼は違うことを口にする。
「猫の爪、って言えば切って良いんだよ」
始めて聞く話だった。
何故かと理由を聞くと、分からないけど子供の頃に夜爪を切るなら
「誰の爪?猫の爪」
と唱えながら切れと教わっていたそうだ。不思議な習慣である。
他にも、「夜口笛を吹くと蛇が出る」と一般的には言われているが彼は違う。
「夜口笛を吹くと山犬が出る」
と言うのだ。
「山犬なんぞ東京にはいない」
と笑った人間がいたが、その彼は大真面目に
「それでもお前、もし口笛を吹いて山犬が出たら、責任とれるのか」
と言った。
それきり、その彼の前で口笛を吹く者はいなかった。
他にも
「山で夜を過ごすなら無闇に知らない人間と口をきいてはいけない」
だの
「朝も夜も蜘蛛を殺してはいけない」
だの
「葬式の帰り道で蛇に会ったら殺さなくてはいけない」
だの不思議なことを次々と口にする。
そんな彼からある時話があると呼び出された。なんでも、仕事を辞めて田舎に移住し農業をやって暮らすと言いだしたのだ。
「なんでまた?」
と聞くと
「東京は肌に合わない。人との関わりに自信が持てない」
と言うのだ。
東京生まれの東京育ちが、東京は肌に合わないと言う。なんとも不可思議な話だ。彼はその行きたがっている田舎に行ったこともない。
そう言えばかねてより、彼の祖母が故郷に帰りたがってことあるごとに東京の悪口を彼に吹き込んでいたと聞いた。そういうわけで、彼は行ったこともない田舎にすっかり染まってしまった。
彼が田舎に引っ込んで数年経ったある日。突然、結婚するからという理由で呼ばれて行ったそうだ。
久しぶりに会った彼はすっかり日焼けして妙にたくましくなっていた。口ぶりもすっかり田舎の人で、時おり何を話しているか分からなかったそうだ。
再会の喜びとめでたい日が重なって、お互いにしこたま酒を飲んだ。花嫁は素朴で可愛い人だったらしい。
その夜、酔った彼が不思議なことを言っていた。
「田舎でも、やっぱり人の住むとこは肌に合わねえ。山に住みてえ」
遠い目をしながらそんなことを言っていたらしい。
それからしばらく、その人も身の回りが忙しくて彼のことを忘れていたが何かの折に思い出して連絡をとってみたそうだ。
しかし彼とは連絡がとれず、代わりにいつかの奥さんが電話口に出た。
彼女はこんなことを言ったそうだ。
「しばらく前から頻繁に山に入る様になり、一日置きが毎日になり、ついに家に帰る日が週に一度になりました。今では畑にも出ていません。私も子供も私の実家で暮らしています」
と言われとても驚いたらしい。
その後二十年以上経つが、今だに彼とは音信不通だそうだ。
風の噂では山に入り天狗になってしまったという。
母の友人から、実際に聞いた話。
了
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