俺は新刊の本とともに、言い知れない不安を抱えていた。

 ――優衣が来ない。

 普段なら、もうとっくに優衣の来ている時間だ。今日は中学校で何か行事があった様子もない。

 別に、彼女は毎日ここに来ることを約束しているわけではない。真冬だし、風邪をひいて寝込んだという可能性もある。もしかしたら、今日は風が強いから外出したくないだけなのかもしれない。

 しかし、俺は優衣が来ないことに異様な不安感を覚えていた。たまたま来れないというだけでなく、何かあったのだと。

 ただの勘だ。何の根拠もない。

 俺は抱えていた本を本棚に並べていく。

 クラウンもいない。

 俺は何かがおかしいということに気づきながら、どうすることもできずに平常業務をこなしていった。

 事態に進展があったのは、日暮前だった。

 店に来たおばさんの言葉を聞いたとき、俺の単なる不安が形を持ったものへと変わった。

 買い物帰りらしいそのおばさんは、食料品が入っているのであろうバッグを持って店に入り、俺に話しかけてきた。

「さっきねぇ、中学生たちが『黒魔女を捕まえたぞ』なんてごっこ遊びをしてたのよ。中学生って言っても、まだまだ子供ねぇ」

 黒魔女。中学生。そして来られない優衣とクラウン。

 いくつもの点がつながって、一本の線になる。

「おばさん、その話、どこで聞きましたか。誰が……」

 俺はおばさんに尋ねる。

「い、いやね。見ただけよ。詳しいことは知らないわ」

「そうですか……」

 優衣が同級生たちによって何かされているということは、もはや間違いない。だが、それがわかったところで、俺にはどうすることもできない。

 これだけの情報では、警察は動いてくれない。

 しかし、自分で探したところで、見つかるとは思えなかった。そもそも問題の中学生たちの家の場所も、フルネームも知らないというのに。

「くっ……」

 優衣に何かあったということを知りながら、何もできない自分に歯噛みする。俺は仕事に身が入らず、本の配列やら発注やらでミスを連発した。

 そうして時間が過ぎていき、日が沈み、星空が広がろうとする頃。

 仕事に集中できない俺は早めに店じまいをしようとしていた。

 そこへ、夜の闇より黒い影が飛び込んできた。

「クラウン」

 優衣の飼い猫、クラウンだった。

 店に駆け込んできたクラウンは、ついて来いとでも言いたげな素振りを見せる。

「優衣か」

 クラウンは優衣の居場所を知っている。そう確信した俺は、店を出ていくクラウンを追って走り出した。

 強く冷たい風が吹く中をしばらく走っていくと、クラウンは住宅地の中の、ある一軒家の敷地内へと、塀を越えて入っていった。塀をよじ登るわけにもいかない俺は、門を探して敷地内へと入る。表札には「橘」と書かれていた。

 クラウンが跳び越えて入った塀の辺りは、この家の庭になっていた。家主に許可を取っている暇はない。俺は庭へと入り、クラウンが駆けていった方向を探す。

 その先に、白いプレハブ倉庫があった。その倉庫の入り口にいる黒い影はクラウンだ。立ち上がって前足で倉庫の壁を叩いている。

 ――この中に優衣がいる。

 クラウンが言おうとしていることを察し、倉庫へと走る。扉にはダイヤル式の南京錠が掛かっていた。

「優衣、いるのかっ」

 俺は扉を叩いて呼びかけ、扉に耳を押し当ててみる。返事はない。しかし、代わりに風の音ではない物音が聞こえた。

「優衣、いるんだな」

 助けを呼べないように口をふさがれるか何かして、声を出せない状況にあるのだろう。

 俺はこのドアを開ける方法を考える。

 南京錠のダイヤルを一つ一つ合わせていくような悠長な真似はしていられない。

 ではハンマーか何かで扉を叩き壊すか。しかし、ハンマーなど持ち合わせていないし、この扉を壊すには巨大なハンマーが必要だ。

「何か、これを壊せるものが……」

 机でも椅子でもいい。なんならただの木の板だっていい。

 ないものねだりをしても仕方ないが、他にこの扉を開ける方法を思いつかなかった。

 クラウンが不意に扉から離れ、倉庫の裏側へと駆けていく。俺が後を追っていくと、そこには錆びたスコップが置いてあった。

「クラウン、これが要るってわかって……」

 賢いとは思っていたが、まさか俺の言葉を理解したのか。

 いや、そんなことはこの際どうでもいい。俺はスコップを担いで倉庫の入り口へと戻る。

 これが何かの勘違いで、倉庫の中にいたのが優衣ではなく、犬や猫だったりしたら、俺は間違いなく警察に連行されるだろう。

 ――しかし。

 クラウンは賢くて、主に忠実な猫だ。そんな、無駄なことをするとは、俺にはどうしても思えなかった。

 俺は錆びたスコップを振り上げる。

 そして倉庫の扉に叩きつけた。

 錆びたスコップが壊れる。

 それと同時に、倉庫の扉が外れて中へ倒れた。

 倉庫の中に、ロープで縛られて、口にガムテープを巻かれた優衣がいた。

「優衣っ」

 優衣は何かを言おうとしていた。しかし、口がふさがれていて声が出せないようだった。

 俺の足元からクラウンが飛び出して倉庫へ入っていく。その後ろから倉庫に入った俺は、優衣に巻かれたガムテープを剝し、ロープをほどく。

「何があった」

 ロープをほどきながら、俺は優衣に尋ねた。

 しかし、優衣は黙って首を振るのみだった。

「放っておいていいとか、これはそんな話じゃない。誰に閉じ込められたのかはわかってるだろう」

「相手がわかったところでどうするんですか。ちょっと注意したところで、面白がるだけです」

 優衣は一瞬俺を見て、すぐに目をそらした。

「いいんです、このままで」

 優衣は自由になった手足を動かして立ち上がろうとした。しかし、手足が思い通りに動かないらしく、立ち上がることもままならない。

「あっ」

 一度立ち上がったところから、前に倒れこむ。

「おいっ」

 俺は倒れかけた優衣を抱きとめ、座らせた。

「……ありがとう」

「礼なんかいい。それより、お前をこんな状態にしたのは誰なんだ」

 少しばかり、怒りのこもった口調になった。犯人への怒りと、自分のことを後回しにする優衣への怒りだ。

 優衣は下を向いて、黙り込む。

 俺がもう一度尋ねようとしたとき、優衣が口を開いた。

「橘 絵理華。万引きの時にいた子です」

 あの時、優衣とクラウンと対峙していた子だ。そして――。

「――この家の子か。どうせ仲間を連れて捕まえに来たんだろう?」

 優衣がうなずく。俺は少し考えて言った。

「警察を呼んで対処してもらうしかないな。本人が家にいるかはわからないが」

「そこまでしなくてもいいです」

 優衣が拒否する。しかし、放っておくわけにはいかない。

「必要なことだ」

 俺は毅然として言った。

 ポケットから携帯電話を取り出して警察に連絡する。

 一通り事情を説明すると、ひとまず現場に来てくれるということだった。

 俺は優衣が震えていることに気づき、自分の上着を脱いで優衣に羽織らせる。

 クラウンが何を思ったのか倉庫の外へと飛び出していく。彼のことだ。何かを感じ取ったのだろう。

「クラウンが俺のところに来て、ここまで案内してくれたんだ」

「クラウンは、わたしの唯一の味方です」

 唯一の。

 その言葉に、俺はある種の痛みを覚えた。

「きゃぁっ」

 家の門の辺りから、少女の悲鳴が聞こえた。

「絵理華です。きっとクラウンが」

 優衣の言葉を聞いて、俺は立ち上がる。

「待ってろ」

 言い残して、俺は倉庫を出て、門へと走る。


 俺が駆け付けると、クラウンは少女から離れて敷地の外へと飛び出し、そのまま星夜の街へと姿を消した。

 玄関先では、少女が一人、立ち尽くしていた。

「お前が橘 絵理華か」

 少女は俺を見て沈黙する。肯定と受け取っていいだろう。

「さっき警察を呼んだ。お前がやっていることはどう見ても犯罪だ。遊びで済むようなことじゃない」

 俺が言うと、絵理華は泣き叫ぶように言った。

「でも、だって葵日がっ」

「でもも、だってもない」

 俺は言い訳を聞くつもりはない。言い訳なら、警察がたっぷりと聞いてくれることだろう。

 遠くから、パトカーのサイレンが聞こえてきた。

「母親とか、家の人はどうした」

 中学生にこんな夜遅くまで外出させるとは、どういう了見だか。見たところ塾帰りではない。それに、今日は土曜日だ。

 俺の疑問には、絵理華がきちんと答えてくれた。

「父さんも母さんも、旅行でいないわよ」

 なるほど、子供一人を置いて旅行に出かけた両親か。そういう家庭環境だから、どこかで鬱憤を晴らす必要があったのかもしれない。そのはけ口が優衣だったというわけだ。

 もちろん、理由があったからといって許される話ではない。

 サイレンの音が近づいてくる。

 到着した警官に連絡先を伝え、絵理華を引き渡して、俺は優衣のいる倉庫へと戻った。優衣は、俺の貸した上着ではなく、いつもの黒いコートを着ていた。倉庫の中に落ちていたらしい。

 優衣の手足は何とか歩けるくらいには動かせるようだった。

「帰れるか」

「はい」

「明日、また店に来てくれ」

 優衣の姿が闇の中に溶けていくのを見送って、俺は帰路に就く。

 優衣の行く先は、もう暗闇じゃない。

 満天の星空が広がっていた。

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