Ⅳ
優衣は学校から帰ると、荷物を置いて私服に着替え、再び家から出てきた。行先はもちろん、本屋。
学校からほど近い優衣の家を出て本屋に向かうとなると、誰かに襲われる危険は高まる。それでも行くのは、優衣の中で、本屋に行きたいという欲望がその危険を上回っていたからだ。
それに、絵理華を中心に情報拡散が行われたのか、今は女子グループもクラウンの存在を知っていた。だから、わざわざ外で優衣に危害を加えようというものはいない。
本屋の常連となり、馨とも会話を交わすようになって、いつの間にか季節が一つ進んでいた。
家を出た優衣は辺りを見回してクラウンを探す。クラウンは家から優衣についてくることもあれば、会わずに一日が過ぎることもある。彼は彼の気分で気ままに行動するが、近くにいれば優衣は呼んでみることにしていた。
今日は家の周りにクラウンはいない。街のどこかに散歩か狩りにでも出かけたのだろう。もともと野良猫だったクラウンは、今でも時々狩りに出かけることがある。
「寒い」
真冬の風が、優衣に強く吹き付ける。気に入っている黒いコートを羽織っているとはいえ、真冬の風は冷たかった。
十分ほど歩き、目的地まであと少しというところだった。
優衣は、塀続きで見通しの悪い十字路を曲がる。
そのまま進もうとしたところで、誰かにコートの襟を掴まれた。
「葵日、最近調子乗ってんじゃないわよ」
「何、絵理華」
「気安く名前を呼ぶなっ」
掴まれた襟を急に後ろに引かれ、優衣はバランスを崩す。
「あんたが調子乗ってるからね、彩乃があたしを捨てたのよっ」
絵理華は、路上に倒れた優衣を踏みつけて言った。
泣きかけているようにも見えた。
絵理華の様子で、優衣は何があったのかを大体察した。
川原彩乃は、クラス内カースト制度の最上位にいる生徒だ。
本屋の一件で、絵理華は優衣に負けたということになり、最高権威を持つ彩乃によって、カースト二位の立場を追われたとでもいったところだろう。
「上から下まで黒い服とか、何それ。ダサいし」
絵理華は優衣を見下して言う。もはやただの言いがかりだ。絵理華の言うことはほとんどが言いがかりではあるものの。
――クラウン、早く来て。
優衣は心のうちでクラウンの助けを求める。いつもならこんな時はすぐに駆けつけてきてくれるのに、今日はなかなか現れない。
いや、絵理華はこの前クラウンを恐れて逃げたのに、また来たということは、何かクラウンに対抗する方策が……。
不安に感じたところに、絵理華がその回答を言った。
「あんたの使い魔の猫なら、男子たちが捕まえたわよ。今頃はきっと檻の中ね」
「嘘……」
「あんたも猫がいなきゃ何もできないってことねっ」
絵理華が優衣の脇腹に蹴りを入れる。抵抗しようにも、起き上がることすらできない。
――その通りだ。
優衣はずっとクラウンに頼ってきた。他に頼る友達もいなければ、絵理華と渡り合えるような体力もない。ずっと本を読んで過ごしてきたのだから。
――だけど。
「あとはやっちゃって」
絵理華は優衣を見下して再度踏みつけ、立ち去る。代わりに十字路の陰から何人かの男子生徒が出てきた。この前の万引きで絵理華に協力していた生徒だ。
――だけど。
彩乃ただ一人に見捨てられただけで不安になる絵理華だって、同じことだ。彩乃がいなくても、絵理華の味方をする生徒は今こうして、何人もいるのに。
自分より強いものに認めてもらえないと、不安なのだ。
優衣はそう思ったが、思ったところでどうなるものでもない。
――ガツン。
優衣は男子生徒に殴られて、気を失った。
気がつくと、優衣はどこか暗い部屋の中に倒れていた。外の風の音が壁に当たる音がする。どうやらここは、部屋というより、倉庫か何かの中のようだ。
立ち上がろうとするが、両足と両腕を縛られていてまともに動けない。さらに口にはガムテープが巻きつけられていて、助けを呼ぶこともできない。コートも奪われたらしく、床の冷たさが伝わってくる。
絵理華とその仲間たちに昏倒させられた後、ここに閉じ込められたのだろう。
――何のために。
面白がってやっただけというには度が過ぎている。それとも、絵理華たちならやるだろうか。
考えながら、優衣は縛られた手足を動かして何とか起き上がる。立ち上がることはできず、床に座った状態にするのが精一杯だった。
『猫がいなきゃ何もできないってことね』
絵理華の言葉が繰り返し聞こえてくる。
その通りだと、優衣は認めるしかない。優衣自身には、何の力もない。それは優衣も認めている。
それなのに。
認めているのに、絵理華の言葉は冷たい氷の矢となって優衣に突き刺さる。何年もの間いじめを受けてきて、ただの悪口や罵倒では傷つくこともなくなっていたというのに。
優衣は自分の中にあるただ一つの感情を自覚した。
認めたくないのだ。自分が無力だということを。
だって、優衣が無力なら、優衣が今まで読んできたすべての本は無力だったことになるから。
外でガチャガチャと金具をいじる音がする。ここから出してくれるのかと一瞬期待したが、今、出してくれるのなら、そもそも閉じ込める必要がない。
しばらくすると金具をいじる音が消え、猫の鳴き声が聞こえた。
そして再度、金具をいじる音が始まる。
――クラウンだ。
優衣には、それがクラウンの鳴き声だとすぐに分かった。絵理華の言っていた通り、クラウンも捕まって檻に入れられたというわけだ。
クラウンはそう簡単には捕まらない。きっと野良猫時代に人間から逃れる術を学んでいるのだろう。彼を捕まえたのなら、わなを仕掛けるとか、かなり計画的にやったとしか思えない。
そして、クラウンは捕まえるのも難しいが、閉じ込めておくのも難しい。簡単な檻なら、自分で錠を開けて脱出してしまうのだ。
今の音は、クラウンが錠を開けよう試みている音だろう。
優衣は、クラウンに希望を託すほかなかった。
『猫がいなきゃ何もできないって』
また聞こえてくる、絵理華の声。
本に力はない。縄に縛られて閉じ込められたところから脱出する物語を数多く読んでいようとも、今ここで実践することはできないのだから、意味はない。
優衣の黒いスカートに、一滴の涙が零れ落ちて、一つのしみを形作る。
金具をいじる音が消え、クラウンが砂利の上を駆けていく足音がした。
これで、誰かが助けに来てくれるだろう。
コートを奪われた優衣には、倉庫の壁の隙間から入ってくる風が、凍えるほどに冷たかった。
それでも、それよりも。
優衣は流れだした涙を止めることができなかった。
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