俺は毎日のように、書架の本の入れ替えをしては店の掃き掃除をし、何人もの万引きを取り押さえたりして、月日が経っていった。

 店主のじっちゃんは体調を崩すことが増え、その度に俺は店長代理となった。

 じっちゃんは多少の不調があっても店に出てくる。

 その無理が祟ったのだろう。ある日、じっちゃんは突然倒れ、救急車で運ばれた。命に別状はないし意識もはっきりしていたが、しばらくは入院生活になるということだった。

 そして。

 次の日、俺は新店長に就任した。二十三歳の秋だった。


「馨くん、店長就任だってねぇ、おめでとう」

「はい、ありがとうございます」

 土曜日の昼下がり。俺は本屋で顔見知りのおばさんに声を掛けられる。

「あのころはまだまだ子供だったのにねぇ」

「始めたのが高校生の時でしたからね」

 そう、この店で働いて七年が経つ。いろいろあったが、名札から「見習い」の文字がなくなったのは意外なほど最近のことだ。それが、すぐに店長に就任することになるとは思いもしなかった。

「じゃあ、また来るからね」

 そう言っておばさんは本屋を出ていく。買い物バッグを持っていた当たり、これからスーパーにでも行って食料品の買い出しでもするのだろう。

 俺はおばさんを見送ると、書架に立ち直る。

「さて」

 最近は、先代店長のじっちゃんがいないことのほうが多かった。だから店長就任とはいってもやることはほとんど変わらない。それでも、やはり店長ともなると身構えてしまう。

「どこから取り掛かるかな」

 俺は本棚を上から下まで眺めながら、手を付ける場所を選ぶ。他にも、掃き掃除をしたり本の発注をしたり、意外と忙しい。

 そうしていつも通りの作業をこなしていると、三、四人の中学生グループが入ってきた。土曜日の午後だ。学生も来る。

 ――しかし。

 中学生が集まって、集団で本屋に来る理由はない。普通に本を買いに来たのなら。

 俺は彼らの目的を察し、注意を飛ばす。

 男子三人、女子一人。ただ一人の女子がリーダー格のようだ。

 本棚の陰を使って隠れ、彼らの行動を観察する。

 七年の月日で得た経験が、俺を鍛えあげていた。逃がすつもりはない。

 彼らは新書のコーナーに入ってく。

 俺は彼らの手元から目を離さずに、出ていくタイミングを見計らっていた。

 男子生徒が本を一冊取って、自分のバッグに入れる。

 それを見た瞬間に、俺は飛び出した。

 少年は流れるような手つきで隣の少年にバッグを回す。相当慣れていないと出来ない動きだ。しかし、このタイミングなら逃れようがない。

「お前ら、万引きの現行犯だ」

 俺がそう言った時。

 バッグを受け取った少年が、残り二人の頭上を通して入口へとバッグを投げた。

 それを受け取ったのは、どこかから現れた別の少女。バッグを受け取って勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

 仲間がもう一人いたというわけだ。

「オレらはそんなもの知らないぜ? なぁ」

 最初に本を取った少年が挑発してくる。逃げる少女を追おうにも、狭い本棚の間の通路に中学生が四人もいれば通り抜けられない。

 ――万事休す。

 俺は諦めかけた。

 その時。

「きゃぁっっ」

 入り口で少女の悲鳴が聞こえた。

 中学生グループは俺の進路を妨げることをやめ、入口へと走る。俺も彼らを追って入口へと出た。

 そこで見た光景に、俺は強い既視感を覚えた。

 店先で倒れた少女。

 そして、その上に乗った黒い猫。

 俺はこの光景を六年前にも見ている。六年も前のことだが、はっきりと憶えていた。

「こ、この黒猫って、確か……」

 少年の一人は、この猫に覚えがあるようだった。

 黒猫は少女の上から降り、店から出てきた中学生たちにも跳び掛かろうとした。

 しかし――。

「やめて、クラウン」

 どこからか、少女の声が聞こえた。その声に従って、クラウンというらしい黒猫は攻撃をやめる。

「こ、この声、黒魔女じゃね?」

「マジかよ」

「ほら、あいつの使い魔に黒猫がいるって……」

 中学生グループの慌てること数秒。声の主が現れる前に、散り散りに逃げていった。

 残ったのは黒猫と、黒猫に襲われた少女のみ。

 そこへ、さっきの声の主らしき少女が現れる。

 黒いロングヘアに、黒いブラウス、コート。そして黒いスカート……。

 全身を黒で包んだ、肌の白い少女。

 なるほど、男子生徒の間での通り名は「黒魔女」というわけだ。

 俺は逃げていった少年たちを追うのも忘れ、この二人と一匹の対峙を見ていた。

「葵日、またあたしの邪魔をする気?」

 黒猫に襲われたほうの少女が、服に着いた汚れをはたき落としながら立ち上がって言った。

「早く帰って、絵理華」

 葵日と呼ばれた黒の少女の目は、感情がないようにも、強い怒りに燃えているようにも見えた。

 黒猫が、葵日さんの隣で牙をむく。

 不利を悟ったのだろう。絵理華というらしいその少女は、仲間たちと同じように、秋の街の中へ消えていった。

 それを見ていた俺は、追いかけて万引きを問いただす気にはなれなかった。

「クラウン」

 葵日さんは黒猫の名を呼んで、黒いコートを翻し、帰ろうとした。

「葵日さん」

 俺は彼女を呼び止める。

「はい」

 振り向いた彼女の、感情がなくて、色白な顔を見て、俺は思い出す。時々この店に来てくれている子だ。

「ちょっと奥まで来てくれないか?」

 黒猫のことが気になって仕方なかった。六年前に出会ったあの黒猫。同じ猫のように思えてならない。そして俺は悟る。この出会いが、運命的なものであると。

「さっきの人たちのことですか」

「いや、そのこともあるが、葵日さんの連れている、その猫のことなんだ」

「クラウンですか」

「あぁ、六年前にな。同じように万引きした子供が逃げたときに、同じような黒い猫が現れたんだ」

 葵日さんは少し考えて言った。

「クラウンは五年前に、怪我しているところを拾ったんです。六年前なら、まだ野良猫だったはず」

「あぁ、あの時は首輪はついていなかった……」

 同じ猫だと断定するには情報がなさすぎる。しかし、俺の第六感が、あの時の猫はクラウンなのだと言っていた。

「賢い猫だな」

「もう歳なのに、まだまだ元気なんです」

 クラウンのことを語る葵日さんの表情は、少しだけ笑っているように見えた。

「では」

 彼女は黒いコートを翻し、去っていこうとする。

「葵日さん」

 俺はふと、言うべき言葉を思い出して、彼女を呼び止めた。

 彼女は黙って振り向く。

「また来てくれ」

「はい」

 数秒、沈黙する。

「あ、あの」

「ん?」

 沈黙を破った葵日さんは、何か言いたげだった。

「優衣、でいいですよ」

「優衣か。いい名前じゃないか」

 俺は片頬をあげて笑った。

「双葉 馨だ」

「馨……馨、兄さん?」

 呼ばれたことのない呼び方に一瞬戸惑う。

「まぁ、いいんじゃないか」

 表情は変えないが、優衣が少し嬉しそうだった。

「じゃあな、気をつけて帰れよ」

 そういって優衣とクラウンを見送る。辺りはすっかり、夜だった。

 黒い服を身にまとった優衣と、優衣に付き従う黒猫、クラウン。

 黒魔女とその使い魔と呼んだ少年たちの感覚も、理解できる気がした。

 優衣とクラウンが闇の中に溶けていく。

 いつのまにか、夜は深まっていた。



 俺が言ったからか関係ないのかは知らないが、その後、葵日さん……改め優衣は、この本屋をたびたび訪れてくれるようになった。店先で言葉を交わすことも増え、気づけば優衣はいつものようにこの店にいるようになった。彼女の、黒に包まれた姿はこの店の看板として定着していた。

 それだけではない。彼女の選書は間違いなく当たりを引く。俺は追加発注する本の選択を優衣の感覚に頼ることとなった。

 そしてクラウン。彼は必ず優衣についてくるというわけでもない。優衣とともに来ることもあれば、優衣だけのこともあるし、時にはクラウンだけで来ることもあった。

 いずれにしても、彼の現れた日には間違いなく売り上げが伸びた。彼がいるから売れるのか、売れる日に彼が現れるのか……。俺は前者な気がした。彼は招き猫と呼べるような毛並みではない。やはり、クラウンは魔法の猫と呼ぶべきだ。

 あまりにも頻繁にというか、ほぼ毎日この店に来るものだから、俺は心配になって優衣に一度聞いてみたことがある。

「優衣、学校の勉強は大丈夫なのか?」

 すると優衣は、相変わらずの淡々とした口調でこう答えた。

「学校で教えられることなんて大したことじゃない。わかりきったことを覚えるだけなら簡単だしわざわざ勉強しなくてもいい」

 そんなことのために必死になる人の気持ちがわからない、とでも言いたげだった。だから軽蔑するわけでもなく、ただ無関心なだけという様子だった。

 優衣がそう言うのなら優衣にとってはそうなのだろう。いらない心配をするくらいなら、本の売れ行きを心配したほうがいい。

 俺は優衣とクラウンの不思議な力に、大きく頼ることとなった。

 優衣とクラウンが来るのが、当然のこととなっていた。


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