優衣は中学校の校門を出ると、無意識のうちに軽く身体を固くしていた。

 学校の敷地内なら教師の目がある分、まだ安全だ。危険なのは、学校から家までの帰り道。

 ――小五の秋から続く、いわゆる「いじめ」

 優衣の場合、十月のその日が始まりだと断言できる。クラスの中心にいたあの子に目をつけられた瞬間、優衣の辿っていく道は定められたといっても過言ではない。中学校に入学しても、二つの小学校が統合されただけのことだ。何かが変わるわけでもない。

「ねぇ、葵日ぃ」

 誰かが粘りつくような声で後ろから優衣の名前を呼んだ。優衣は無視して家まで立ち去ろうとする。

「葵日、何か返事しなさいよ」

 声をかけてきた少女は、すぐに追いついて優衣の制服の後ろ襟を掴む。図書室にこもって日々を過ごしてきた優衣が力技で対抗できるはずもない。優衣は仕方なく、その場に止まって振り向いた。

 ――橘 絵理華。

 クラス内カースト制度の、上から二番目といえる存在だった。肩に掛けたカバンの多くの落書きとストラップが、その権威を象徴している。そのカースト制度において、優衣の立ち位置は最底辺。

「何」

 優衣は感情のない声音で言う。数年の間、他人とまともなコミュニケーションをとってこなかったせいか、優衣はほとんど感情を表に出さない。感情表現が出来ないということでもある。

「葵日の家、近くでしょ。今日遊びに行っていい?」

 絵理華は疑問形で言った。しかし、上位者から聞かれたとき、下位の者にとってそれは絶対の命令を意味する。

 ――普通なら。

「ごめん、今日用事あるから」

 優衣の立ち位置は本当の最底辺。これ以上ランクが落ちることはなく、断ったところで何も失わない。

 そうでなくても、図書室で休み時間の大半を過ごす優衣にとって、クラス内の順位など全く興味がなかった。

「え、友達でしょ?」

 ――何が友達なものか。それに友達だったら、どんな用事があっても遊び相手をしなければならないとでもいうのか。

 優衣は即座にそんな返しを考えたが、もちろん口には出さない。

「だから、用事があるから、今日はダメ」

「そんなこと言って、いつも断るじゃない」

 ――当たり前だ。

 一度家に入れたが最後、何をされるか知れたものではない。優衣の部屋の本棚にある本だけは、何があっても、傷つけられるわけにも、奪われるわけにもいかなかった。

「いいじゃない、一回くらい」

 軽い口調とは裏腹に、絵理華は優衣を鋭く睨みつける。

 遊びの誘い――という名の命令――を断った優衣は困らなくても、クラスの底辺の生徒に逆らわれたとなれば、絵理華の立場が危うくなる。絵理華はクラスの支配者としての権威を保つために、何としてでも優衣を屈服させる必要があった。

 睨まれた優衣は、感情のない目で見つめ返す。

 先に目をそらしたほうの負けだ。

 お互いにそれを知っていた。

 知っていて、優衣は眼をそらす。結局カースト下位の優衣が負けることになる。ならば、対峙せずに負けを認めても変わりはない。

「じゃあ葵日、お金貸して」

 絵理華は優衣の胸倉を掴んで言った。どう考えても恐喝だった。

「今月小遣い使いすぎてさ、来月返すから」

 貸せと言いながら、返す気がないことは明白だった。

「お金なんて持ってないから」

「じゃあ家から持ってきて。ついていくから」

 ほとんどの生徒はすでに下校し、優衣を助けてくれるような人はいない。もはやこれ以上の抵抗はできないだろうと、絵理華は勝利を確信した。

 その時だった。

「みゃぁ」

 間の抜けた鳴き声とともに、黒い猫が絵理華に飛びついた。

「きゃぁっ」

「クラウンっ」

 絵理華は優衣を掴んでいた右手を離し、二、三歩後ずさる。クラウンという名の黒猫は優衣の足元にすり寄った。

「な、何よその猫は」

 戦況不利と見た絵理華は、肩に掛けていたカバンを下ろし、両手で取っ手を握る。振り回してクラウンや優衣にぶつけるつもりだ。

 絵理華が優衣に暴力を振るっても咎められない。それは上位層の特権だった。

 足元を秋の乾いた風が通り抜け、優衣の長めのスカートを揺らした。

「クラウン」

 優衣に名前を呼ばれ、それに応えるように、クラウンは牙をむいて絵理華を威嚇する。

「ひっ」

 いきがっていても、絵理華はただの女子中学生だった。

「あなたがここを離れるなら、クラウンは追わないから安心して。でも、クラウンに手を出すなら」

 優衣は淡々と告げる。

「わたしはクラウンを止めない」

クラウンが跳ねた。

「ひっっ」

 絵理華はクラウンに恐れをなし、少しずつ離れていく。

「お、覚えてなさいっ」

 十分離れたところから無意味な捨て台詞を叫び、背を向けて走り去っていった。

「頼まれなくても覚えてるけど。たぶん」

 優衣は絵理華の背中を見送ってから呟いた。

「クラウン」

 優衣はしゃがんでクラウンの頭を撫でた。

「ありがと」

 クラウンは、五年前に交通事故に遭って怪我をしているところを優衣が見つけ、拾った黒猫だ。真っ黒な中に、額にうっすらと王冠のような模様があったことから、クラウンと名付けた。

 クラウンはいつだって、優衣の強い味方だった。

 優衣を外でいじめると、クラウンがどこからともなく現れる。男子生徒の間では有名な話だ。しかし、それを絵理華は知らなかった。

 女子は大概、陰湿なやり口を使う。

 今日の絵理華は派手にやってくれたけど、ここまで大げさなのはそうそうあることではない。

 だから女子との間にクラウンが関わったことは多くない。中学生だし、男女間の情報共有もあまりなかったのだろう。

 ――わたしには関係ない。

 そこまで考えて、優衣は自分の思考を遮った。

 どんな分析をしたところで、優衣が何かするわけでもない。

「帰ろっか」

 優衣はクラウンを抱き上げて言った。

 クラウンは優衣の意思をくみ取ったのだろう。優衣の胸に抱かれて、みゃぁ、と鳴いた。

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