第21話 神に捧げる天使の華

 建物の周囲を取り囲んでいたものたちが、屋根に上り始めてきた。よじ登ってくる彼らの目は、充血したように、真っ赤に染まり、無表情だった。

 フレイは、ユリア嬢を背後に守りながら、屋根の端から、アンダンテとヴラン・カァンのいる。屋根の中央に空いた穴の近くににじり寄った。形勢は、かなり不利な状態に置かれている。いきさつはどうなっているか知らないが、ケティル3世も、その他の人間も、完全に、操られているようである。もしくは魂を売ってしまったのか。アポォリオンに、取り付かれてしまったのか。どちらか、だろう。

 アポォリオンは、大剣の先を引き摺るように、地面にこすらせながら、フレイとユリア嬢の方に歩みを進めた。

 フレイは振り向かずにユリア嬢に言った。

「ヴラン・カァンの側から離れないでね」

 それだけ言うと、フレイは、アポォリオンに突撃した。エレボスの干渉領域を最大限に広げる。そうすることで、収拾するエレボス量を上げる働きがある。現在のフレイは、イドによって精神の主従が逆転している状態であるため、暴走することなど、構いはしなかった。

 アポォリオンが、大剣を担ぎあげ、フレイに切り下ろしてくる。

 一撃目は、易々と回避したが、大剣の勢いを力尽くでねじ曲げたアポォリオンは、続けて、二撃、三撃と、切り結んできた。

 フレイは三撃目の太刀を、エレボス波で弾き返し、アポォリオンの胸に飛び込んだ。そして、両手を鎧に添えて、溜めたエレボスを、一気に放出する。エネルギーの奔流となって、両手から出力された、エレボスは、軽々とアポォリオンの体を持ち上げて、吹き飛ばした。

 斜めに打ち出されたアポォリオンは、空中で、体勢を戻し、浮遊したまま、エレボス波をつかまえると、その流れを天空に投げ飛ばした。

 出力を押さえていたから、当然の結果である。フレイはそれを見ても、なにも同様はしなかった。鎧を破壊すれば、精神体を鎧から解放させてしまう。攻撃の手を弱めておくのは当然だ。あくまで、ユリアや、ヴラン・カァンたちがこの場から離れるための、延命にしかならないと、はじめから予定をしている。しかし、いつまでもそれが通用することもないだろう。フレイは、エレボス波を放ちながら、思考を巡らせていた。

 アポォリオンは、大剣を振るい、フレイのエレボス波をことごとく切り裂いた。

 フレイは、跳躍して、空中に浮かび上がった。一瞬ヴラン・カァンの様子を見るために目配せする。建物の屋根の上では、ケティル3世の身体から放出した黒いもやが大きく立ち上り、両手を突き出して、何か見えない呪いでもかけているような姿勢をとっていた。応戦しているヴラン・カァンは、よじ登ってくるファイターを一気に吹き飛ばしたが、その中のひとり――赤い刃を持ったファイターが、ヴラン・カァンに詰め寄っているところだった。

 ルイーゼは赤い刃を突き立てるように、ヴラン・カァンを攻撃した。彼女は、それを右の手の平で、受け止めた。左手を突き出し、エレボスの波動を、ルイーゼの腹部に当て、屋根からはじき飛ばす。街に残っていたファイターのほとんどが、操られているようだった。

「よそ見している余裕があるのか」

 フレイの間近で、声がして、振り返ると、アポォリオンが、大剣をフレイの首もと目掛けて、突いてきていた。フレイは、両手に空気を圧縮した厚い膜を作り、大剣の先を掴んで、クッションにする。首に突き刺さる前に、空気の膜を圧されて、フレイは、上空まで押し出された。

 アポォリオンは、ゆっくりと浮上して、フレイと同じ高さになると、感慨ぶるような態度で話し始めた。

「久しぶりだな、フレイ。“あのときの大戦”で、精神体をズタズタに引き裂かれて、エレボスの海に沈んだはずだったが、こんな形で合うことになるとは思わなかったぞ」

 フレイはその言葉に眉をひそめた。

「何を言っているんだ、こいつは?」

 アポォリオンはフレイのつぶやきなど、完全に無視して、話を続ける。

「気づかぬと思っているのか、エレボスの干渉領域を通じて、貴様の精神体が、器の中に溜まっているのが、十分に感じ取れるぞ」

 そう言ってアポォリオンは不適に笑い声を上げた。

 フレイの視界が一瞬ブラックアウトして、次の瞬間、フレイの体は、自分のものではなくなった。

“借りる”一言だけ、頭の中に響く。

「1000年を越える時の流れを越え、最初に合うことになるのが、貴様だとは思いもよらなかった。世界の潮流さえ私には、すでに過去のものになり、なぜここに、貴様がいるのかさえわからない有様だ」

 フレイの口が動き、フレイの意識とは別の記憶――もうひとりのフレイの記憶が、肉体に接続された。フレイがその話を聞いているのは、主になっているフレイの気まぐれだろうか。

 アポォリオンは、大剣を肩に担ぎ、もうひとりのフレイの言葉に楽しそうに声を上げた。

「美しかった貴様の姿を知っている俺とて、その薄汚れた器が、貴様だとわかったときは、驚いたぞ」

「いつ気づいた?」

「貴様が鎧を破壊したあとだ。貴様を取り込み、俺のエネルギー源にしようと試みたが、上手い具合に逃げられた。残念だったな。精神体であれば、意識化の中で抱いて可愛がってやるのに、ククク」

「相変わらず下品な奴め。ゼェイルス神に滅ぼされずに地上におり、惨めにも人間に、肉体を破壊され鎧に封じられたそうじゃないか。そんな奴が、私を抱こうなどと口にするなど、夢の見過ぎも良いところだ」

 従フレイは、話しが飲み込めず、いったい自分のなかにいる主フレイが誰なのか、わからなかった。

“知り合いなのか?”

 従フレイが尋ねると、主フレイは、声に出して応えた。

「アポォリオン神は、太古の神々の戦争で、敗北した邪神のひとつ。私自身もその戦争で、殺された神のひとり――フレイ神だ。バラバラに引き裂かれた、私のエネルギーや、精神体は、神の住む6次元の世界から、4次元の人間界に流れ落ち、長き時を漂っていた。その中で、エレボスを操れる総量が、人間の限界を超えた貴様に出会い、私は、その器の中で、精神体の再構築を始めた。エレボスの総量が大きいと言うことは、器の中に溜めることの出来る、精神体の量も増えることになる」

“すると、一度バトルアリーナで、フレイ神が目覚め、体を乗っ取られたあと、エレボスのコントロールが、容易になったのは、精神体としてのあなたが、別の領域――つまり僕の精神の上位に移動したと言うことか?”

「そうなるだろう。器に溜まっていた私がいなくなったのだから、エレボスの注がれる速さが、急になる。空っぽの容器と、すでに中身が液体で満たされている容器を、水の中に入れたとき、水が流れ込むスピードが違うのと一緒だな」

“しかし、神様なのか? それなのに、力を暴走させて、人を殺しまくって……”

 従フレイは、主フレイの話をそのまま鵜呑みにはしていなかったが、それでも、“神”と言う言葉を聞いて、人間を簡単に殺していては、疑心が芽生える。

「あれは澄まない。あやまっている時間はないが、神と言っても、それは貴様たちの概念でのことだ。我々にとっても、さらに高次元――7次元や、8次元に、神とあがめるものがいる。4次元の人間にとっての神は、6次元の人間の人間でもあるのだ」

“話が、飛躍しすぎているなぁ。話を戻すと、いまあなたに入れ替わっているが、アポォリオンを止めることが出来るのか? それが、重要だ”

 主フレイは、応える代わりに、身構えた。

 アポォリオンは、剣を構え、自分の闘気をみなぎらせるように、エネルギーを溜める。鎧の隙間に埋め込まれた呪皮が、赤く変色し始める。正確には、呪皮に書かれた呪印が、赤くなっているのだろう。鎧の中のアポォリオンのエネルギーを封印するために、その呪印の力が最大限に発揮されている。反対に言えば、アポォリオンの力が増大していると言うことにつながるだろう。

「話が済んだのなら、その身体、真っ二つに引き裂いて、貴様の精神体を、この鎧の中に取り込んでやろう。俺とひとつになれ、フレイ神。俺の快楽に悶え、6次元に昇り、すべての神の滅びを与えよう」

「愚か者め。4次元の肉体に封印されていれば、次元を越えることなど不可能だ。そんなことも忘れたのか!」

 アポォリオンが動いた。いままで以上のスピードで、主フレイに突っ込んでくる。鎧の重さなど感じさせない。圧倒的な速度だ。

 しかし、主フレイも、従フレイ以上に肉体とエレボスを上手く活用して、それを迎撃する。エレボスの干渉領域の密度を変えて、振り落とされる太刀の軌道を強引にずらしながら、体の方もエレボスで押し出して、通常の飛行の3倍以上の速さで、飛行した。従フレイは、肉体の神経と接続が切れているため、体に掛かるGを感じる事はなかったが、視界に映る風景の速度からすると、かなりのスピードで、ふたりは飛翔しているように感じた。

 そんな中で、従フレイは、主フレイのエレボスの使い方を見て感心していた。主フレイに体が乗っ取られているいま、従フレイには見るくらいしか、することがなかったのだ。

 応戦する主フレイは、エレボス波を、小さい豆粒ほどの大きさに凝縮して、空中に散乱させる。アポォリオンがそれに突っ込んでくると、エレボスの粒が炸裂した。ひとつひとつの威力は、かなり大きく鎧に亀裂が走る。主フレイは、干渉領域を命いっぱい広げて、アポォリオンを取り囲み、領域の中にいるエレボスの粒を、一気にアポォリオンに集中させた。

 連続して、炸裂する粒に、アポォリオンは、悲鳴を上げる。鎧の外角が剥がれる。

“鎧を破壊すれば、封印が解けるよ!”

「構わん。鎧に包まれて、エレボスの制御が出来ない今なら、鎧もろとも、精神体を、一気にバラバラにしてくれる」

“ダメだ。それをしてしまえば、ルマリアの戦力が落ちて、他国から侵略される可能性が出てくる”

「邪神に守ってもらおうなどと考えるな。所詮奴は、人の悪意を食べる。人間と共存など、あり得ないことだ!」

“しかし!”

 視界が、主フレイに乗っ取られている以上、ヴラン・カァンたちの様子を見ることは出来ない。従フレイは、歯がゆい思いをしたまま、アポォリオンの鎧が破壊されていくのを見守った。

 エレボスの干渉領域が、押しつぶされ、主フレイと、アポォリオンの体の周りと、それを繋ぐ一本の線にまで、圧縮された。密度は、限りなくアポォリオンの方が、高い。主フレイの方は、制御するためのただのコントローラでしかないようだ。

 鎧に穴が空き、そこに主フレイのエレボスの干渉領域が流れ込む。

 アポォリオンの苦痛を孕んだ叫びが上がった。

 なにが起こっているのか。フレイにはわからない。しかし、鎧の穴は広がるが、その中からアポォリオンの精神体のようなものが、放出されることは無かった。完全に周囲の空間の密度の方が高かったのだ。

 主フレイの力は、圧倒的だった。鎧に封じ込まれているとはいえ、いとも簡単に倒そうとしていた。

 アポォリオンは、圧縮される空間に押しつぶされ、どんどんと体の密度を小さくしていった。その最期も近かった。断末魔はか細く消え、もはや、そこに存在するのは、邪神のエネルギーの塊である。ついにその塊は、圧縮に耐えきれずに、四方に破裂した。火山が噴火するように、主フレイのエレボスの干渉領域を突き進み、言葉通り、バラバラになって、エレボスの流れに呑まれ、消えていった。

“やってしまったな……”

 従フレイは、肩を落とした。しかし、主フレイは突き放すように言った。

「神頼みをするよりも、自分たちで紛争を解決するための努力をしなければならない。侵略者に対して、いつまでも武力を振りかざしていては、旧世代の人類と同じだろう。武力ではなく、言葉を駆使して、相手を沈めることこそ、新しい世代の人間に与えられた、交渉手段だ」

“そんなのわかっているさ。だけど、それは、僕に言ったって仕方ない。ものには順序や、準備ってものがあるだろう。ルマリアの人たちが、みんなあなたの言うことを聞き受けるほど、従順かどうか、知っているのか? その人たちには、その人たちの、学び方、学ぶスピードがあるんだよ。そのためのクッション材として、アポォリオンがあったんだ”

「もう無くなってしまったよ。見ろ、下で戦っている愚かな者たちを!」

 視界が、くるりと向きを変え、地上の建物を映し出す。そこには、建物に群がる、ファイターを吹き飛ばし、ケティル3世のエレボス攻撃を跳ね返すヴラン・カァンがいた。ヴラン・カァンの本来の力を使えば、そこにいる者たちすべて、消し去ることが可能だろう。それをしないのは、彼女なりの善意なのかも知れない。

「アポォリオンが死んだというのに、その呪縛から、逃れられていないでいる。自分の悪意を、制御できていないのだ。それは、自分で考えると言うことを怠ってきた結果でしかない。他者に依存して、他者のありもしない目を伺って来たために、自分の悪意と善意を、コントロールすることを忘れてしまった。ただ本能のままに、突き動かされるだけの、動物以下の存在だ」

 主フレイは、手を挙げて、その手に、エレボスを集中させた。

 従フレイは驚いて、声を上げた。しかしその声は、自分のなかに虚しく響くだけで、運動伝達系の神経を主フレイに支配されているため、どうにも出来なかった。

 手の平に集約された、エレボスの玉は、破裂して花火のように飛散すると、そのひとつひとつが、地上に降り注いだ。それは、ファイターたちの頭を直撃し、一撃で動きを止めていった。あっという間に普通のファイターたちは、地面に伏してしまう。唯一それを避けたルイーゼと、ケティル3世が、主フレイの方を見上げた。

「アポォリオンは死んだ!」

 主フレイは、声を張って告げた。

「これ以上戦っても、意味はない。剣を引け! もしそれが出来ぬのならば、アポォリオンと同じ末路をたどってもらう!」

 その言葉にケティル3世が、反論する。

「アポォリオンが死ぬはずはない。現に俺の中にその力が宿っている。ふざけたことを抜かすなら!」

 ケティル3世が、主フレイに、手をかざした瞬間。主フレイは、目を細め、ケティル3世の直前の空間を破裂させた。

 風に舞う落ち葉のように、ケティル3世の体は、吹き飛び、地面を転がって、屋根に空いた穴の中に転げ落ちてしまう。悲鳴を上げるヒマさえなかった。

 その様子を見ていたルイーゼは、赤い刃を消し、跪いた。

 ヴラン・カァンも、主フレイの力に、何かを感じ取り、跪いて、頭を下げた。

 ルイーゼは、頭を下げて、話し始めた。

「神。あなたは、神です。私にはわかります。私の中にいる魔人が教えてくれるのです。あなたの意識の結晶は、人間や魔人とは、違う。アポォリオンによく似た神のエネルギーだと」

 その言葉に、主フレイは、耳を傾け、そして、小さく首を振った。

「嘘をつくな。貴様は、その人間の精神をアポォリオンの力を利用して、封じ込め、表出した魔人ではないか!」

 ルイーゼは、肩をふるわせて、体をこわばらせた。

 そんなルイーゼに、主フレイは、声をかける。

「名を名乗りなさい。そして、もとのあるべき姿に戻るのです。半魔人よ」

「ヴレイド・レイドゥ……」

 それだけ言うと、ルイーゼは前のめりに倒れ、動かなくなってしまった。

 主フレイは、屋根の上におり、ヴラン・カァンと、ユリア嬢の前に立った。

 ユリア嬢は、状況がつかめないらしく、アンダンテを抱えたまま、目を丸くして、フレイの姿を見つめていた。

 主フレイは、跪いて頭を下げているヴラン・カァンに近づくと、その頭に手の平を置いた。

「ヴラン・カァン、わかっているな」

「はい」

 緊張しているのか、彼女は、声を少し裏返して話した。

「知らなかったとは言え、あなたを吸収しようなどと考えた、わたくしの心、いかに浅はかだったか。お許しください」

「よい。許す」

「はい」

 主フレイは、体を起こし、ユリア嬢の前に進み出た。

「私はフレイ神。貴様の知っているフレイの体を使い、エレボスの中に漂っている私の精神体を集めさせてもらったものだ」

 主フレイはわかりやすいように、簡単に話した。

 しかしそれでも、ユリア嬢にその全容を把握するだけの思考は無かったようで、ただ一言だけ呟いた。

「イド?」

 主フレイは、頷いた。

「アポォリオンは消滅した。この国を蝕んでいる悪意は、アポォリオンに吸収され続け、その平和を勝ち得てきたようだ。そのため、この国にいる人間は、知らず知らずのうちに、アポォリオンによって心を奪われてしまっていた。自分の野心につけ込まれ、悪意へと消化させてしまったのだ。そして、封印が一度解除され、制御系を失ったアポォリオンによって、その精神を操られるに至った」

「お兄様や、ルイーゼ、ほかのファイターたちが、わたくしたちを襲っていたのは、それが理由ですね」

「そうだ。アポォリオンがいなくなっても、その中にある悪意を、コントロールできなかったために、戦い続けた。この国には、いま大人が存在しない状態と言って良い。本来であれば、自分の悪意は、自分でコントロールして、押さえなければならなかった。しかし、それを、アポォリオンの管理者が、知らぬ間に、悪意を吸収していた」

 ユリア嬢は、目を閉じて頭を垂れた。懺悔でもするように、胸に手を当てる。

 そんなユリア嬢の頭に、主フレイは、手を乗せる。

「この国を治めるのは、なみなみならぬ力を必要とする。血族だけが、治められるものではなく、能力の高い人間を、支持するような体系に変えなければならないだろう。それは1年、2年で完成できるものではない。おそらく、貴様が主体となって、人を導き、そして、変革させねばならないだろう」

「はい」

 ユリア嬢は、静かに返事をした。

 夜風が、吹き、すべてを洗い流すように、街を駆け巡る。

 何も知らぬ住人たちは、寝息を立てているのだろう。しかし、彼らにも、これから先、自分たちの感情と向き合う必要が出てくるのだ。楽しい、楽しいだけの人生など、所詮はいつか崩れ去る。自分の悪意――怒りや、嫉妬、憎しみなどの感情と、向き合っていくのが、人間として、正しい生き様なのだ。

 星は今日も瞬いている。

 主フレイは立ち上がり、夜空を見上げた。

 遠く虫の音色が聞こえてきていた。




 数週間のうちに、ルマリアの国は、激変を始めた。

 街には犯罪が起こり、それを捕まえるための警察官の配置される人数が増える。それまで穏便に事が話されていた政府の議会では、喧喧諤諤の結論の出ない議論が行なわれ、国の進むべき道を真剣に話されるようになった。その中心には、ユリア嬢が立ち、陣頭指揮をとっている。

 ファイターたちも、それまで和気藹々とした雰囲気を一変させ、好戦的な戦いをするようになった。もはや、そこには、し合いなどと言う美しいやり取りなど存在しない。ただの殺し合いである。ただ、すべてのファイターたちが、そう言った状態になったわけでもなかった。一部のファイターは、怖じ気づき、戦うことすら出来ないものも現われた。軍もそう言う人間をいつまでも喰わせて置くわけにもいかず、結果として、戦わないものを放出するという結論を採った。

 それに便乗するように、フレイとアンダンテ、そして、ルイーゼが、ファイターという職業から足を洗った。

 変革する前のバトルであれば、アンダンテやルイーゼも戦うことが出来たが、ただの殺し合いになってしまっては、ふたりもどうやら、やる気を削がれたらしい。もともとふたりは一生遊んで暮らせるだけの貯蓄をしていたらしく。ファイターという職業を失い、アニムスとして、社会の中に出たとしても、問題なくやっていけるらしかった。ただ、ふたりに待っていたのは、アニムスとしての孤独な人生ではなく、別の道であった。

 ファイターを止めたアンダンテとルイーゼは、ユリア嬢の付き人として、議会や、その他に地方の視察の場などに付き添うことになった。もちろん公的な場所に出るときは、アンダンテも、かなり離れたところに下がり、公務の邪魔にならないようにしていた。さすがに包帯を全身に巻いた人間が、後にいたのでは、仕事もやりづらいだろうという配慮である。

「フレイも、一緒に働こうぜ」

 ルイーゼは、フレイの前にココアの入った紙コップを置いて言った。

 壁一面にガラスがはめ込まれ、明るい光が差し込むホテルのラウンジで、ルイーゼとフレイは最期の挨拶を交わしていた。1台だけおかれたモニターには、議会で演説をするユリア嬢を映していた。フレイたちのほかに、家族連れが数人いるだけで、ラウンジは閑散としている。

 フレイは、ココアを口にして、首を横に振った。

「僕は研究者だし、性分も、政治には向いてないんだよ」

 ルイーゼは向かい側のソファーに腰を下ろすと、残念そうに、苦笑いを浮かべた。

「身辺整理を始めたって聞いたから、そろそろ、旅に出るのかと思っていたけど、アンダンテや、ユリアには挨拶しなくていいのか? 寂しがるぞ」

「忙しいからね」

 フレイはそう言って、モニターのほうに視線を向けた。モニターに映るユリア嬢の顔は、17歳とは思えないくらい凛々しく、生き生きとした力を持っていた。

「これからユリア嬢は、国際社会の場に出るって言う。重要な使命があるんだよなァ」

「議会が終われば、勉強さ。彼女、まったく根を上げない。やっぱり、ケティル3世よりも皇帝の座にふさわしかったんだな」

「そう言うと、ユリア嬢は怒るよ」

「だろうね。結局、努力の差だもんな」

 フレイは、ココアを飲み終えると、ソファーの脇に置いてあった鞄に手をかけた。ルマリアに訪れたときの鞄は切り刻まれて使いものにならなかったため、新調した。戦いが終わってからの数週間で、2本の論文を書き、それを所属していた大学の教官宛に提出した。添削と、内容を確認してもらい、問題がなければ、正式に発表されるだろう。

“エレボス収拾におけるイドの蓄積・暴走について”

“精神体としてのイドと、その自我の発現について”

 フレイの体には、今なおイドが存在している。主従関係は依然変わらず、いつでも、体を乗っ取られる可能性が秘めていた。この先の研究は、エレボス内に含まれているイドの成分が、いったいどの程度あるのか。そして、それはどんなきっかけで、蓄積されるか。など、研究題材は、山のようにある。現段階では、エレボスを使用しても、暴走する危険はないと評価が出来るが、あとはその結論を国際社会がどう評価するかだけだ。

 ただフレイは、その結果がどんなものでも、研究を続けるつもりだった。

 ルイーゼは、ホテルの前まで見送り、そして、議会の行なわれているトライアグリに戻っていった。

 誰もが、自由に自分の生きたい道を決めることが出来る。

 そして、それは自分の欲望を自分の自我によって、コントロールすることでもあるのかも知れない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る