第19話 泥まみれ、義務

 フレイは、瓦礫の山に手を当てて、状態を探った。かなり上から圧力をかけられているらしく、下に押しつぶされている瓦礫は、簡単には動かせない。がちがちに固まった状態になっていた。

 足場を確認しながら、瓦礫の山を登り、通路の天井に手をつくほどの高さまで来ると、フレイはエレボスの干渉領域を広げた。認識領域が拡大し、うっすらとではあるが、見えない秘密の部屋側の瓦礫の状態が頭の中に投影される。それでも、完璧に映し出されるわけではないので、作業は慎重にあたらなければならない。

 状態を確認すると、ガレイの山から15センチくらいの間にエレボスを集める。瓦礫と接している面に外圧をかけて、そのままゆっくりと瓦礫の隙間に浸透させる。水をしみこませて、凍らせるようなイメージだと思ってもらって良い。奏す売ることで、瓦礫がバランスを崩して、転がり落ちないようにするのだ。ここまでは、イメージ通りで、なんの問題はない。次からが少し大変な作業に入る。エレボスで、瓦礫を抑えつつ、両手の平のエレボスの波長を変え、触った瓦礫を、少しずつ砂に分解していく。

 作業としては、エレボスを介して、コンクリートを構成している分子構造を、切り離して、小さく分解していくのだ。初手の位置で、山になっている瓦礫の力の力点が狂い、崩れるかも知れない。

 とてつもなく地味な仕事であるが、運任せに近い、何とも、論理も計画性もないやり方であった。

 フレイは、上の方から少しずつ、コンクリートの塊を、砂に変えていった。ときおり手で押して、力の作用点を確認し、崩れないように、注意する。

 30分近くかけて、人ひとりが、通れるほどの穴を開けた。モグラのように張って、行くことになるが、穴から秘密の部屋の方を見れば、なだらかな山になっており、たぶん問題なく、部屋に入れるだろう。

 フレイは振り返り、ユリア嬢に小声で聞いた。

「まだ穴を広げる?」

 ユリア嬢は、腰を上げて、まるで工事現場の現場監督のように、腕を組んで、穴の具合を見てから、瓦礫の山を登って、穴の大きさや、崩れ具合を確認した。

「もう少し広げてもらえる? この格好じゃ、少し狭いかな」

 そう言ってユリア嬢は、はいていたスカートの裾を引っ張った。

 ユリア嬢は、薄緑色の裾がフレアになって少し広がっているスカートをはいていた。靴も、少しヒールのある靴を履いていて、瓦礫を掘って、本を引っ張り出そうという格好には見えなかった。

 彼女は、それだけ言うと、またアンダンテの側に戻っていった。

 結局、フレイは、穴の直径が、50センチほどになるまで広げることになった。




「さて、始めましょうか」

 ユリア嬢は、スカートの中から、白い手袋とマスク、眼鏡に、帽子を出して、完全武装をした。スカートの中に、鞄を仕込んでいたらしい。フレイは自分の分はないのかと尋ねると、ユリア嬢は自分の分しか持ってきていないといって、あやまった。

 アンダンテは、ユリア嬢の指示に従って、本棚があった部屋の左手側の瓦礫の除去に取りかかった。本が潰れて、破れた状態で、瓦礫の下敷きになっており、読める部分もあるが、約半分は、文字が擦れて滲んでしまっていた。

「瓦礫は、右手側の実験台が置かれているところに、いったん運びましょう。実験台の上にあった実験器具は、新しいのを買い換えればいいけれど、書籍は、大切な情報を記録しているからね。あたしは、本の選定を行ないます。アンダンテは、いまやっている作業を続けながら、埋もれている本を、私のところに持ってきてください。フレイもアンダンテを手伝いながら、瓦礫を運んでください。あなたは、ヴラン・カァンが持っていた黒い古書を見たことがあるので、それを探してください。その他の本は、アンダンテが運びます」

 ユリア嬢が、小声でテキパキと指示を出し、フレイとアンダンテを働かせる。

「それからフレイ、運んだ瓦礫が多くなってきたら、一度砂に分解しましょう」

 フレイは了解して、作業に取りかかった。

 まるで、化石を掘るような地味な作業を、フレイとアンダンテは、黙々とこなした。アンダンテが、喋らないものだから、余計に、作業に没頭できた。潰れて破れた本を、アンダンテが持っていき、その間にフレイが瓦礫をどかす。どうしても持てないような大きいものは、その場でフレイが砂に分解してしまった。

 そんな作業をどれだけ行なっただろう。天井には青いシートがかけられているため、外の様子はわからなかった。ただ作業を続けて、時間の感覚など、どこかに忘れ去ったようだった。

 ときおり、休憩を取り、ユリア嬢の作業を覗く。ユリア嬢は、地面の上に潰れた本や、無事だった本を並べて、必要な情報をノートにとっていた。

「読めるの?」

 フレイの問いに、ユリア嬢は、首を縦に振った。

 本に書かれている文章は、象形文字ではないが、別の国の言葉らしく、フレイには読むことが出来なかった。一応図解も載っているので、何となく、何を書いているのかはわかったが、それでも、大半は理解できなかった。

 ユリア嬢は、広げた本の文字を指さして、説明した。

「これは、ルマリアの古い言葉です。いまは、この国も国際社会に出ているため、共通言語を話すようになりましたが、120年前までは、ルマリア語を話していたそうです。ルマリア語の読み書き自体は、いま学校でも教えていないそうですが、わたくしは、修道院でルマリアの古典を勉強させられましたので、そこで覚えたんです」

 小さな国や、国交を開いていないところでは、いまも、自分たちの言葉を話していると言うが、言葉が伝達できないと、なにもコミュニケーションがとれないと、フレイは改めて、実感した。わからない言葉は、まさに言葉としての機能を失っているのだろう。

「ルマリア語は、いま修道院でしか勉強できないの?」

「そうですね。大学で、考古学系の勉強を擦れば習うことが出来るかも知れませんが、一般的なルマリア語として、紹介しているような本はありませんね。図書館に行けば、もしかしたら辞典があるかも知れませんね」

「ヴラン・カァンも、図書館で勉強したのかな?」

 フレイはふと、小さく呟いた。

 ユリア嬢は、ノートを取っていた手を止めて顔を上げた。

「フレイ、あなた、ヴラン・カァンとエッチをしたのですか?」

 フレイは、噴いた。

「な!? な!? にを――むぐぐぐ?」

 アンダンテが、とっさにフレイの口を塞ぎ、危うく大きな声で、聞き返してしまうところだった。

 フレイは、アンダンテに、もう大丈夫だから、とジェスチャーを送ると、声をひそませて、ユリア嬢に話した。

「ユリア嬢。あなたはお姫様なんだから、そんなこと平然と口にするもんじゃないだろう」

「そうかしら、それは普通なことだと、教わったわ。貞操は守りますけれど、なにも知識を持っていないというのは、ただのカマトトじゃないかしら?」

「デリカシーって言葉知ってる?」

「守られている立場で、そんなことをしている人に言われたくないわ」

 フレイはアンダンテの顔を伺う。彼女は特に何の気なしに、ふたりの話を聞いている。情報の出所は、アンダンテではなさそうだ。フレイは、ユリア嬢に顔を戻して、問いかけた。

「ルイーゼから聞いたの?」

「いいえ、何となくそんな気がしただけ。ヴラン・カァンが女だったことにも驚いたけど、それ以上に、自分を吸収しようとしている相手とエッチする方に、とっても衝撃を覚えたわ」

 ユリア嬢は、床に置かれている本のページをめくり、またノートを取りはじめた。

 フレイは特に弁解はしなかったが、まァ、確かに驚くようなことだとは素直に感じた。

「彼女がどんな気持ちで、僕とエッチしたのかは、いまもわからない。本人は、僕に対する、最期の晩餐だと言っていたけど、そんなことで、するのかな?」

「最後の晩餐だからといって、好きでもない男性と、エッチはしない。これは私の意見ですけどね。アンダンテはどうです?」

 フレイは、心の中で、“おいおい、アンダンテに聞くのか!?”とユリア嬢の言葉に驚いていた。

 アンダンテは、ユリア嬢に同意するように、首を縦に振った。

「一応ここにいる女の子の意見は、100%、“好きでもない男性と、エッチはしない”となりましたね。フレイにこだわっていましたから、もしかしたら情が移ったのかも知れませんね。今度あったら聞いてみたらどうですか?」

「……」

 フレイは、唇を尖らせて、頷いた。

 ユリア嬢は話を続ける。

「ところで、フレイは、ヴラン・カァンのことはどう思っているのですか? 好きでもない女性とエッチをした結果、情が移ったと、言うことでいいんですか?」

「ハッキリ聞くね」

 フレイは、苦笑いを浮かべながら、腰を上げた。

 ユリア嬢は、フレイの顔を見上げながら、にっこりと微笑んだ。

「興味あるからね」

「白状すれば、ヴラン・カァンが、あんまりにも美女だったから、エッチしたくなった。始めはそれだけだよ。それに、抵抗したって、敵うほどの力は、その時持っていないかったからね。どうせ殺されるなら、楽しみたいじゃない」

「フレイも男ですね」

 そう呟くと、ユリア嬢は、広げた本に視線を戻した。

「仕事に戻ってください」




 ひととおり秘密の部屋の片付けが済み、3人は、瓦礫の中から引っ張り出した本を、左手側の瓦礫が散乱したところに、並べておいた。誰かが侵入した形成は残すことになるが、ユリア嬢はそれも仕方ないと言って、ちゃんと整理することにしたのだ。

「たいした情報は、得られなかったからね。一応、書庫に戻って、調べる手がかりにはなったし、また秘密の部屋に入れるようになったら、読みたい本ばかりだったけど、アポォリオン――と言うよりも、封印した鎧に命令をする記述はやはり、あの黒い古書に書かれていたみたいね」

 ユリア嬢は、ノートをスカートの中に入れながら言った。フレイはスカートの中がどんな構造になっているのか気になったが、あまりにも関係のない話だったので、それには触れずに置いた。

「無駄骨にならないことを祈ろう」

「あら、まだ仕事は終わってないわよ。これから、書庫に戻って、調べるのを手伝ってもらうんだから」

「明日にしない?」

 フレイがげっそりと肩を落として、呟くと、ユリア嬢は、にこやかな笑みを浮かべて、フレイの頭を撫でた。

 その時、1階の通路の方から、声が聞こえた。

 3人は、首をそちらに向けて、一瞬緊張するが、即座に、フレイが開けた穴から通路の方に戻った。

「なぜ俺までが、立ち入り禁止に従う必要がある。どけ、愚か者が!」

 怒鳴り声と、それに続く大きな物音が、フレイたちの耳にまで届いた。

 フレイは、ユリア嬢と、アンダンテに耳打ちをする。

「様子を見るから、先に、書庫の方に戻ってて。ヤバイことになるかも知れないから、もしかすると、書庫からもでて、この建物から出ていた方が良いかもしれない」

 ユリアはその言葉に、首を振って、スカートの裾をたくし上げて、太ももに固定されていたベルトと、腰に回していたベルトを外し、鞄をアンダンテに渡した。

「あの声は、ケティル3世です。私も残って、様子を見ます。アンダンテ、書庫の秘密通路のドアを開けて待っていてくれる?」

「ユリア嬢」

 フレイの言葉を無視して、ユリア嬢は、アンダンテを先に行かせた。

「ケティル3世が何をしに来たのか、それだけ確認したら、離れましょう」

「スカートをはいてるから、逃げるとき早く走れないよ」

「抱っこしていってください」

 フレイは、舌打ちをして、穴の陰から、秘密の部屋の様子を確認した。

 1階の通路は、穴のちょうど真上にあって、ただ部屋の中を覗いただけでは、フレイたちの姿は見えないだろう。しかし、部屋の中に下りてきた瞬間に、その場を離れなければならない。人の気配があることがばれれば、建物の中を封鎖されて、逃げ場所を失ってしまう。特に、書庫の外を封鎖されれば、出入り口がふさがれたことになってしまう。通路から書庫までに横道でもあれば、追われたとしても、分散させて、逃げ切ることも可能だが、あまりにも、一本調子すぎるため、疑いが、集中するだろう。

 声の主が、ちょうど真上にまで来た。

 部屋の中を見た声の主は、当然ながら、声を荒げた。

「どういう事だ!? 部屋の中は、瓦礫が散乱していてると言ったのは、嘘ではないか!!」

 駆け寄ってくる足音。

「そんなはずはありません」

 少しの間を置いて、否定した声を上げた人物が、驚きの声を上げた。

「今朝見たときは、瓦礫が散乱していました!」

「馬鹿者が!! 侵入者を、許したというのか!?」

 小さなうめき声が、聞こえ、続いて、穴のちょうど前に、人影が下りてきた。

 ユリア嬢が、驚いて、悲鳴を上げかけるが、寸前のところで、フレイが口を塞いだ。フレイはそのまま背を穴の縁につけ、物音を立てないように息を殺した。いま動けば、完全にばれてしまう。

 下りてきた人影は、慌てるような声を上げながら瓦礫の山を滑り、床面に着地したようだった。

 続いて、また人影が下りてきたが、その人影は、ちゃんと着地をして、最初の人影に、声をかけた。

「ケティル3世。病み上がりだろう。あまり無茶はしない方が良いんじゃないのか?」

 その声にフレイは、息を呑んだ。口を押さえている、ユリア嬢がフレイの手を指で突っついて、上目遣いに見てくる。フレイは頷いて、穴の縁から、外の様子をうかがった。

 口調が変わり、音域も、少し低くなっているが、間違いなくその声は、フレイの聞き覚えのある声だった。男のような女のような声。穴の縁から見える、そのローブの裾は、間違いなくヴラン・カァンであった。

 彼女はちょうどローブの裾で、穴を覆い隠すように立っていた。そのため、ケティル3世が、こちらを向いて話し掛けてきても、穴の存在に気づかなかった。

「無茶もしたくなる。見ろ、ガゼルが立ち入りを禁止したというのに、どういうわけか、誰かがこの部屋の本を瓦礫から掘り起こして、読んでいるではないか。この中に、もしアポォリオンの命令関係の記述があれば、俺にそれを読ませまいと、盗みに入ったのかも知れん」

 ケティル3世は、部屋の左側に平積みされて並べてある本の山から、一冊手に取り、中身をぺらぺらとめくった。

 その隙に、フレイは、思い切って、ヴラン・カァンのローブの裾を小さく引っ張ってみた。

 一瞬彼女の体が、びくりと跳ね上がり、素早く身を翻して、フレイの方に顔を向けた。フードの下から見える目が合い、彼女は、驚いて、また身を翻し、穴に背を向けるようにして立った。それから、フードを少し持ち上げて、1階にいる人の様子を確認する。

 フレイの位置からは見えなかったが、1階の人間がヴラン・カァンの振り返った動作に気づいていれば、一巻の終わりである。

 ケティル3世は、手に取った本を難しそうな顔で眺めていたが、やがて1階の通路の方を見て手を招きながら声を上げた。

「下りてきて、解析をするんだ。ヴラン・カァンの言うように、古いルマリア文字らしい」

 ヴラン・カァンは、少し壁に体を近づけ、穴にローブをぴったりつけるようにして、穴があることがばれないように配慮をしてくれたようだった。穴がローブで覆われたことで、外の様子が見えなくなった。どうやらヴラン・カァンが、下りてくる人間に向って話し掛けているようである。

「手伝おう」

「済まない、歳は取りたくないな」

 しわがれた声が聞こえてきたあと、瓦礫の上に足がつくような音がした。覆っていたローブが揺れて、穴の中に少し明かりが差した。しかし、外の様子まではうかがい知ることは出来ない。

 秘密の部屋に下りたのは、しわがれた声の主と、もうひとりだった。

「よし、お前らは警備に戻れ、ヨォクンとシンジェイは、そこで待機していろ。ヴラン・カァン、ヒマならお前も解読に手伝うか?」

「私は、ルマリア文字が読めないからな。ここで座っている」

 そう言ってヴラン・カァンは、コートの裾を広げながら、やや中腰気味に、穴の前で腰を下ろした。足下のローブが地面につき、そこから少しだけだが外の様子が見えるようになった。

 ケティル3世が、背広姿のふたりに平積みになっている本を調べさせている。

 フレイは、ヴラン・カァンが、ルマリア語が読めないというのが、本当かどうか少し気になったが、自分からはコンタクトをとらなかった。ユリア嬢の口を押さえていた手を取り、ふたりで、ローブと穴の隙間から、ケティル3世の様子を探る。

 不意に、隙間から入ってくる光が増え、まぶしさに目を細めた。

 ヴラン・カァンが、体を捻り、フレイたちの方に体を向けた。口の前で指をかざし、喋るな、とジェスチャーをする。それから指先を立てて、上を指さした。

 フレイと、ユリア嬢は頷いて、ヴラン・カァンの出方を待った。

 彼女は、フードの端を上げて、一度見上げると、ローブの後側の裾を上げて、手招きをした。なるほど、ローブの中で話しをすれば、気づかれにくいと言うことらしい。フレイが頭を突っ込もうとすると、なぜかユリア嬢も、一緒になってローブの中に頭を入れた。

 ヴラン・カァンは、体を戻し、正面を向きながら、ローブの襟元を広げた。そしてそのまま口元まで持ち上げると、本当に小さな声で、話し始めた。

「私の声の大きさで喋れ」

 フレイとユリア嬢は頷いた。

 ローブの中でふたりは、体を横に傾ける、少し無理な姿勢になっていた。襟元を広げて、それを手で押さえている隙間越しに、ふたりは、ヴラン・カァンの体の両側から見上げるような形で、顔を見ていた。ヴラン・カァンもまた、隙間から下目使いにふたりに目配せをする。

「何をしている」

 その問いには、フレイが答えるより先にユリア嬢が答えた。

「アポォリオンの事を調べていた。あなたに聞きたいことがある」

「いまはダメだ。状況を考えろ」

「いつなら良い?」

 ヴラン・カァンは、少し押し黙り、ややあって口を開いた。

「今日、深夜0時」

「場所は、街外れの遺跡」

 それだけ言うと、ユリア嬢は、ローブから顔を出してしまった。

 フレイも、ユリア嬢に、服の裾を引っ張られ、ローブから体を出した。ユリア嬢の行動は早かった。そのまま、通路側の瓦礫を静かに下りて、足音を立てずに、通路を進んだ。フレイもそれに並んで、歩く。

 後ろで、ケティル3世がヴラン・カァンを呼ぶ声がする、その直後、さらに驚いた声が通路に響いてきた。

「ヴラン・カァン、後ろを見ろ! 奥に通路があるぞ!」

「ん? どこへ通じている通路だ?」

 振り返ると、ヴラン・カァンが、通路の中に顔を覗かせて、フレイの方を見ていた。

 まさに茶番だ。ヴラン・カァンは、ケティル3世に、自分の知っていることを教えていないらしい。

「真っ暗でなにも見えないな! 誰かいるのか!?」

 ヴラン・カァンは、フレイたちの方に、叫んでみせる。

 隣を走るユリア嬢が、口元を押さえて、笑いを抑えようとする。それはそうだ。フレイも同じように、ニヤリと笑みを浮かべていた。ケティル3世からすれば、何でもないような動作でも、フレイたちは、自分たちがいるのを知っていて、ヴラン・カァンが叫んでいるとわかっている。あからさまに演技をしているのが、バレバレだ。

 フレイたちは、走るのを止めて、足音を立てないように忍び足で、通路の先にある階段に向った。後の方では、ケティル3世が通路の方に顔を覗かせているらしく、声が反響して響いてきていた。

「大声を上げる奴がどこにいる。もし侵入者がいれば、みすみす逃がしてしまうだろう。どうやら、ここが本来の秘密の部屋の入り口らしいな。シンジェイ! 中に入って様子を調べてくるんだ。ヨォクンは、警備に、建物から出る人間の検問を張るよう指示を出してくるんだ。怪しい人間は誰も出すな」

「ケティル3世はどうするの?」

「もちろん俺も中に入る。お前もな!」

 ケティル3世がそう言ったとき、フレイとユリア嬢は、すでに、書庫に通じる階段を半分以上上っていた。足音を立てないように慎重に昇っていたため、いくぶんスピードは遅かったが、それでも、逃げ切れるだろう。

 ユリア嬢を先に昇らせ、フレイは、少し後をついて行った。秘密の部屋の方から、甲高い足音が響き、ぐんぐん近づいてくる。秘密の部屋から、階段のところまでは、それほど距離はない、足音のタイミングから、フレイは、逆算して、ケティル3世たちが、階段にたどり着くタイミングをイメージした。

「ユリア嬢、もう少し急いだ方がいい。いまは奴らの足音で、少しくらいなら、音が立っても気づかれないだろう」

 ユリア嬢は、一寸振り返るが、すぐにフレイの言われた通り、素早く階段を上り始めた。こういう頭の切り替えは、本当に素早いと、フレイは感心していた。

「いまのペースだと、もしかすると秘密の扉が閉るところが、見られるかもしれない」

 ふたりは、通路に響いてくる足音に耳を傾けながら、急ぎ足で昇った。

 階段を上りきると、アンダンテが、秘密の部屋の鍵を入れるところに指をあてがって待っていた。ふたりが会談から出てくるのを確認すると、アンダンテは、指先を本棚に押し込んだ。すると、数ミリほどであるが、ボタンを押すように、凹み、鍵の紙がイジェクトされ、同時に、秘密の扉が閉り始めた。

 フレイは、アンダンテの側によって、小さい声で尋ねた。

「閉め方を探しておいてくれたのか?」

 アンダンテは立てに首を振り、鍵紙をユリア嬢に返した。

 アンダンテは今日ここに初めて下りた。フレイもそうだが、扉を閉める方法など、聞いていない。アンダンテは、おそらく、フレイたちがケティル3世の様子を見ているあいだに、逃げるための準備をしておいてくれたのだろう。口はきかないが、気が利く話しである。

 ユリア嬢は、アンダンテから、鞄を受け取ると、フレイに背を向けて、スカートの裾をたくし上げて、またスカートの中に収めた。それからすぐに、書庫の出入り口の方を指を指して、歩き始めた。

 秘密の扉が最期まで閉るのを見ずに、3人は、書庫から出た。




 すぐにトライアグリから外に出たかったが、ケティル3世が指示した通り、建物を出る人間は検問を受け、出入りが厳しくなっていることが予想されたため、いったん、ユリア嬢の部屋に身を隠すことにした。

 トライアグリの、3本の塔の中心付近は、皇族のプライベート空間であり、当然ながら、ユリア嬢の部屋もそこにあった。

 書庫を出て、3階にあるという部屋まで行くために、階段まで向う。階段は、書庫を出た右手奥の通路にあり、3人はユリア嬢を先頭に歩いた。

 階段の頭上には、監視カメラがきらめき、階段を昇降する人を映している。もちろん来るときも、これに映っていたはずだから、監視カメラの映像を見れば、ユリア嬢が、4階でいったい何をしていたのか、すぐに疑問が浮上するだろう。フレイは、どうにか監視カメラの、映像を改ざんしたいと重いながら、階段を下りた。

 すると、階下から、かなり激しい足音を響いてきた。

 ユリア嬢とフレイは、顔を見合わせた。

 フレイが引き返すか? とジェスチャーをするが、ユリア嬢は、監視カメラを気にしてか、フレイ越しに、上目遣いに、天井を見上げ、首を振って、階段を下り始めた。

 階段は直線的な螺旋を描きながら、かけられていたが、隣り合っている部分に隙間がなかったために、下を覗き込んで、足音の主がなんなのか、探ることは出来なかった。しかし、だいたいの予想はつく。この区画は皇族のプライベートスペースである。用もないのに、足音を立てて走るなど考えられない。それに、いまそんなことをする人間は、フレイの頭の中で、ひとりしかいなかった。

 3階にたどり着いたとき。2階と3階の踊り場にケティル3世が、姿を現した。その後には、大柄な男ふたりとヴラン・カァンが、控えていた。

「ユリア、何をしているんだ?」

 少し息を切らせながらケティル3世が問いただした。

 ユリア嬢は、冷ややかな目でケティル3世を見下ろし、冷厳と答える。

「トライアグリの展望台に行って参りました。中央の塔は、侵入することが出来ませんが、左右の塔からでしたら、展望台に昇ることが出来ます」

 フレイは一瞬口を挟みたかったが、するするとユリア嬢の口から言葉が出て行ったため、それを防ぐことが出来なかった。展望台への入り口には、監視カメラがついているのだ。うかつにそんなことを言えば、証言が嘘だと言うことがばれてしまう。

 ひやひやしながら、フレイはユリア嬢の横顔を見ていた。

 ケティル3世は、ゆっくりと階段を上りながら、襟を正して話した。

「秘密の部屋に侵入者があった」

「つかまえたのですか?」

「いいや、逃げられた」

 まるでヘビのようにいやらしい目つきをしながら、ケティル3世は、足を運んだ。

「そうですか、では警備に連絡をした方が良いのではありませんか?」

「もう連絡した」

「侵入者と鉢合わせしたんですか?」

「いいや」

 ケティル3世は、階段を上りきり、ユリア嬢の前に立った。まるで威圧するように、胸板を突き出して、ユリア嬢に押しつける。ユリア嬢は、一歩も引かず、ケティル3世の顎を見上げた。

 突然ケティル3世は、左手でユリア嬢の肩を掴みそれから、右手をスカートの裾に手を伸ばした。

 その手は、スカートをめくり上げる寸前で、フレイに止められた。

「昼間から何をやってるんだ」

 フレイの言葉に、ケティル3世は、よどんだ目でにらみつけてきた。

「皇帝に手向かうのか?」

「皇帝だろうが、場をわきまえてもらおう。女子のスカートをめくるなんて、常識的じゃない」

「貴様、フレイ・ソールだな。なぜここにいる?」

「ユリア嬢の護衛だ。命を狙う馬鹿がいるからな」

 その言葉に、ケティル3世は、不適にニヤリと笑みを浮かべると、体を起こし、ユリア嬢を突き飛ばした。すぐにアンダンテが回り込み、ユリア嬢を支える。冷ややかにそれを見て、ケティル3世が、悪びれもしないで、話した。

「スカートをはいていると、そこに何か隠してるんじゃないかと思ってね」

 きびすを返して、ケティル3世は、階段を下り始めた。それから吐き捨てるように、振り返りもしないで大きな声を上げた。

「イドを暴走させて、ユリアを殺しかけた馬鹿が、護衛とは聞いて呆れるぜ!」

 大笑いをして、ケティル3世は、お連れが待っている踊り場にたどり着いた。

 確かにケティル3世の指摘は正しい。ヴラン・カァンがいなければ、フレイはユリア嬢を殺していたかも知れないのだ。

 ケティル3世は振り返り、ユリア嬢の方を指さしながら、口を開いた。

「建物内には賊がいる。お前は、私の許しが出るまで、自分の部屋から一歩も出るな!」

 ユリア嬢は、階段の端まで歩きながら、反論をする。

「いくら皇帝といえど、わたくしの行動を制限する権限はありませんわ」

「お兄ちゃんとして言ってるんだよ。かわいい、かわいい、妹が、賊の手で犯されやしないかと、思ってねェ」

「下品な」

 ユリア嬢は、小さな声で呟いた。

 ケティル3世は、さらに大声で続けた。

「後で部屋に行くから、シャワーでも浴びて待っていろよ! ハハハハハ!」

 屈辱するように言って、大笑いすると、そのままケティル3世は、大男ふたりを連れて、階段を下りていった。ヴラン・カァンも一番後について行くが、前を歩く3人に見つからないように、肩をすくめて見せた。

 フレイはユリア嬢の少し後ろに立ち、その肩に手を置いた。

 ユリア嬢はフレイの方を向くと、少し憎たらしそうな顔つきを、ゆるめた。

 ケティル3世の最期のジョークは、笑えないジョークである。近親相姦をほのめかす。フレイは、いつか見た、ユリア嬢が、アポォリオンの広間近くの通路で、セクハラを受けていたことを思い出した。そしてその相手が、ケティル3世だったのではないかと、何となく思いを巡らせた。

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