第16話 長い舌先の修辞

 牢屋の中でフレイは、目をさました。

 見覚えのある牢屋。煤けた天井には蜘蛛の巣が張り、壁に空いた穴からは、ネズミが顔を覗かせる。ひんやりとした床の上にゴザをしき、その上に、無造作に眠りこけていた。

 フレイは身を起こしながら、なぜここにいるのかを、思い出そうとした。

 頭が酷く痛む。

 一度成人してから、飲酒をしたが、その翌日、頭が割れるほど痛かった。不意にそんなことを思いながら、フレイは、記憶を探る。細い細い一本の綿の糸をたぐり寄せるように、頭の中を泳げば、突然目の前に荒波が押し寄せる感覚に襲われた。

 フレイは息を呑み、気づいた。

 イドの暴走。

 精神をイドに乗っ取られたのだ。

“イド! イド!”

 心の中で、自分のなかにあるもうひとつの生命体に語りかけるが、沈黙したままで、なにも返事が返ってこない。

 フレイは、周囲の静けさに、本能にイドなるものが存在したのかと、不安になってきた。いままでのことがすべて、夢の内で、いまがファイターとして掴まったあの日なのではないかと、思った。もちろん、その思いは、フレイの願望が含まれている。暴走で、ユリア嬢を殺してしまったのではないかという不安があったのだ。

 硬くなった全身の筋肉を伸ばし、フレイは這いながら、牢屋の鉄格子に掴まった。

「おーい! 誰か! 誰かいないのか!?」

 フレイは誰か気づいて、牢に下りてくるまで、声を張り続けた。

 牢屋から地上までは、確か距離があった。一度この牢屋を使って、出て行くときの経路を思い出し、恐ろしく無駄なことをしていることに気づき、フレイは、ゴザの上に戻った。

 横になって、目を閉じれば、光に包まれる光景が思い出された。

 あのあと、なにが起こったのか知りたかった。




 気が遠くなるほどの時間を待ち、ようやく牢屋の中に足音が響いた。

 フレイは上体を起こして、近づいてくる足音の方に体を向ける。

 その足音は、少し小さく、歩幅も短いように聞こえた。

“リッツか?”

 予想通り、鉄格子の向こう側に顔を覗かせたのは、童顔で、背の低い少年――リッツだった。

「あ、起きてる」

「リッツ。ユリア嬢は生きているのか?」

「死んだよ」

 フレイはリッツの顔を凝視し、それから俯いた。

 目の縁に涙が浮かんでくる。

 リッツは、続けた。

「嘘だよ。みんなを呼んでくるね」

 フレイが顔を上げると、きびすを返して、走り去っていくリッツの姿があった。フレイはそれを追うように鉄格子に取り付くと、思いっきり叫んでいた。

「バカヤロウ! タチの悪い冗談言うんじゃねぇ!」




 フレイが入れられている檻の前に、ルマリアで知り合った人たちが勢揃いしているが、檻が開けられることはなかった。

 ユリア嬢、アンダンテ、リッツ、ルイーゼ、そして、マンドレイク。

 マンドレイクが檻に新聞を差し入れ、黒いインクで縁取られた記事を見せてくれた。

 見出しは、“フレイ、二度目の暴走。ユリア・R・ルマリア、九死に一生を得る”となっていた。

 記事の内容は、呪術に関しては、ほとんど触れられずに、城の皇族区画に立つトライアグリの真下の部屋でフレイが暴走をしたと軽く書かれている程度だった。ユリア嬢もその近くにいて、巻き込まれたが、ヴラン・カァンと名乗る人物に、ガゼルと一緒に助けられたと言うだけで、ヴラン・カァンが何ものなのか、なぜガゼルが、そこにいたのかも、まったく書かれていなかった。中身のない内容だったが、フレイに対するバッシングには、かなり力が入っているようだった。ありとあらゆる罵詈雑言を駆使し、フレイを屈辱していた。

 記事の終わりに、政府はフレイを拘束し、金輪際バトルアリーナに立たせないようにすべきだと、締めくくっていた。

 これに関しては、フレイにとっても願ったりであるから問題はない。

 フレイは、新聞をマンドレイクに返して、ユリア嬢の方を見た。

「生きてて良かった」

 ユリア嬢は微笑んだ。

「死ぬかと思ったけどね。ヴラン・カァンが、わたくしとガゼルをつれて、部屋から逃げたの。彼にとっては、ふたりとも、取引をするために生かしておきたかったのでしょう」

「奴は今どこに?」

 フレイのその問いには、マンドレイクが答えた。

「ヴラン・カァンは、ユリア様を助けたあと、姿をくらました。現在、事件の重要人物として、国中に手配をしているところだ。しかし、奴の狙いが、お前を取り込むことだとすれば、また近いうちにお前の前に現われるだろう。フレイ・ソール、お前は完全に軍によって行動を制限される。自由はなく。すべての行動に制限がつくことが決まった」

「なぜ?」

「決まっている。ヴラン・カァンを捕獲するためだ」

「無理だね。普通の人間の力では、返り討ちに合うだけ。命の無駄だよ」

 フレイが、鼻で笑うと、ユリア嬢が、檻に近づいて、しゃがみ込んだ。

「これはあなたを守るためなのよ。ルイーゼや、アンダンテも、協力してくれる。それだけじゃない。アポォリオンや、ほかの鎧兵士たちも戦うわ。ヴラン・カァンの目的が、あなたを吸収することなら、あなたがいる周囲に陣を張れば、倒すことも出来るし、捕獲することだって可能。もうひと月になること、言ってたでしょう。アポォリオンを解放するって」

 フレイは頷いた。

「秘密の部屋の変声のための機材を壊した、いま、アポォリオンに指示できるのは、わたくしだけです。だからといって、安心は出来ない。もし、アポォリオンの鎧に穴を開けることが出来れば、そこからアポォリオンのエネルギーが漏れ出すかも知れない」

「その可能性は、十分にあるね。奴は、魔人だ。普通の人間相手に戦うのと分けが違う」

 フレイの言葉に、ユリア嬢の後にいたルイーゼが、腕組みをした。

 アンダンテも、口を結んだまま、なにも語らなかった。

 ふたりとも、先行きが怪しいことに、気づいているのだろう。少なくとも、魔人を相手に戦おうなど、常識外れも良いところだ。

 世界に最初に現われた魔人は、7体合った。それらは地上を破壊するという、ただそれだけの目的のために、破壊活動を行なっていた。ガイアに住んでいるものは、恐怖を振りまくそれらに、頭を悩まし、怯えていた。魔人という言葉を聞くだけで、震え上がる人が、いったい何人いただろう。

 その魔人たちは、数年前――正確には、4年ほど前に、すべてが消滅した。フレイが、学生生活最期の年だった。

 地球とガイア、ふたつの同位体は、ひとつの世界となり、エレボスが、本来存在しないはずの地球に流れ出してしまった。最期の魔人は、ガイアを完全に消滅し、さらに地球をも巻き込んで、すべてを恐そうとした。

 それを阻止したのは、フレイの友人だった。フレイも、多少なりとも、働らき、その友人の代わりに賞賛を受けたが、それでも、その友人がいなかったら、魔人がいない平和な世界が、訪れなかったかも知れない。

 人びとに恐怖を植え付けているのだ。魔人という物体は。魔人という言葉は。

 フレイは、後に控えているアンダンテと、ルイーゼに尋ねた。

「魔人と戦ったことは?」

 ルイーゼは、目つきを鋭くして、小さく口を開いた。

「ない」

 アンダンテも、呼応するように、頷いた。

 ルイーゼは、腕組みをとき、檻の方に歩いてきて、鉄格子を握りしめた。

「魔人に親父と、お袋を殺された。仇討ちをするチャンスだ」

「仇って、ヴラン・カァンに両親を殺されたわけじゃないだろう。無理する必要はないよ。無駄死にしたって……」

 フレイの言葉に、ルイーゼは、表情を険しくした。

 彼の過去に何があるのかは知らないが、擬似的なセンチメンタリズムで過去を消すことが、正しいようには思えない。仮に魔人に両親を殺されて、ひとりになって、悲しくなったり、辛くなったりしたとしても、それは自分の内で解決しなければならないことではないだろうか。外部に対して、不満を発散したところで、悲しみが消えることもない。受け入れる事が、必要なのではないか。

 しかし、それでもルイーゼは、続けた。

「それでも魔人と戦う。確かにヴラン・カァンという魔人が、俺の両親を殺したわけじゃないけど、これは気持ちの問題だ。魔人というものは、すべて倒すべき存在だ」

「ジレンマはないのか?」

 魔人を憎めば、自身の体内に取り込んだ半魔人もその対象になる。

 フレイはそれを尋ねたが、ルイーゼは、答えないまま、後に下がった。しかたなく、マンドレイクの方に顔を向けて、作戦がどうなっているのかを聞いた。

「僕は、ずっとここで寝ていればいいの?」

 マンドレイクは、頷き、話し始めた。

「この第三ファイター収容所は、都市部からじゃっかん離れた位置に建っている。ほかの収容所は、人気の多い場所に建っているため、そこで戦闘が起きれば、被害も大きくでる。しかしここならば、建物の周りに十分な敷地があるのと、人気が少なくなっているため、被害が少ない」

 確かに、第三ファイター収容所は、建物の周囲半径50メートルほどの敷地を置いて、塀が建てられている。もし戦闘が起こったとしても、上手く敷地内で行なえば、被害は少ないだろう。

「軍の監獄の場合、そこに入っている囚人たちを一時的に別の監獄に移動しなければならない。戦闘の結果、囚人たちが逃げ出してしまいましたでは、本末転倒だ。その他、軍の施設も、機密があったり、破壊されては困る設備があるため、使うことは許可できない」

 フレイは、薄汚い独房を見渡し、ため息をついた。

 残念ながら、長くいたい気持ちにさせる部屋ではない。

「とりあえず、することもないんだったら、掃除道具を借りられるかな」

 フレイの言葉に、リッツが小さく吹き出した。冗談で言っているわけではない。汚いところだから、きれいに掃除をしよう、ただそれだけのことである。

 マンドレイクは首を縦に振り言った

「用意しよう」




 フレイは檻の中で寝転がり天井を見上げていた。なんでもない日が、延々と続くような、退屈な気分である。

 檻の中の掃除は、隅から隅を丁寧に3日間かけて行なった。埃や蜘蛛の巣だけではなく、壁に張り付いた苔をとり、壁の穴を修繕し、鉄格子まで磨き上げた。

 掃除を熱心にやっている時は、退屈をしなかったが、いざそれを終えてしまうと、なにもすることが無くなった。当然と言えば当然だ。4メートル×4メートルの狭い敷地内で、雑魚寝をする以外に、なにもなかった。一応新聞や、本を読むことを頼んだが、あいにく監獄の照明は、通路に小さな明かりがあるだけで、本を読んだり、新聞を読むために、照明を強くすることは出来なかった。簡易の電気スタンドを頼んだが、あいにくこの国には、コンセントを刺すタイプのものしか売ってなく、当然檻の中に電気配線などあるわけもないので、別の明かりを持ってくることも出来なかった。

 ひんやりとした、天然の冷蔵庫のように、冷たい空気が辺りを満たしている。

 思考はいつになく冷静だった。

 しかし頭の中を流れていくものに、有益なものはなく、情報量も少ない。思考を川に例えるなら、穏やかな清涼感のある小川程度のせせらぎだ。普段は、もう少し荒れているが、周りを囲む防波堤が、多少の荒れも押さえ込んでいるが、いまのせせらぎ程度の流れには、大げさすぎるものだった。

 ときおり顔を出すユリア嬢や、リッツから、外の様子を聞けば、かなり世情も変わってきていた。こうして寝転んでいるいまも、世界は動いているのだ。

 ルマリアの人民は、ケティル3世を政権から下ろし、弱冠17歳のユリア嬢に上に立ってもらおうとしていた。フレイから見れば、ユリア嬢などまだ子供である。皇帝の権力を得たからといって、正しい国益につながるような判断が出来るとは思えない。しかし人民は、いったい彼女になのを望んでいるか知らないが、彼女をリーダーに仕立てようとしている。リッツの話しでは、それを先導している人間がいるそうだが、ケティル3世側からの暗殺を恐れ、ほとんど姿を隠しているという話しだ。その話しからも、うさんくささは匂い立つが、ユリア嬢が、ルマリアの人に受け入れられていることは、少しばかり、嬉しかった。

「でも、嬉しいと、権力を得ていいかどうかは、別だろう」

 フレイは誰ともなく呟いた。

 ケティル2世が死んで、急にルマリアが動き出したようなイメージを持っていた。ただの太った親父ではなく、それなりに、国の舵を取っていたと言うことだろう。

 監獄の通路を歩く音がして、フレイは、顔をそちらに向けた。

 現われた人物に、フレイは顔をしかめた。

「神出鬼没とは、お前のことを言っているらしいね」

 そいつは、口元をにやつかせ、羽織っていたローブの端を払って、檻の前に座り込んだ。

「俺は普通に、入ってきただけだぜ。ただ、誰も俺の本当の顔を知らないから、気づかなかっただけ」

 そう言って、被っていたフードを取り、ヴラン・カァンは素顔を見せた。

 フレイは、体を起こし、息を呑んだ。

「驚いたよ。女だったのか?」

「男だといった覚えはないはずだが」

 ヴラン・カァンの顔は、清涼な顔立ちの女だった。女っぽい男に近いが、紛れもなくその瞳は女だった。後に無造作に結んだブロンドの髪をほどけば、廊下の薄明かりの中でも、その美しい髪に魅了されてしまう。

「しかしその声は?」

 ヴラン・カァンの声は、どう聞いても、若い男の声であった。顔が女で、声が男というアンバランスさに、フレイは、軽く笑った。

「俺は、エレボスの結晶体たる魔人だぞ。人間のようにタンパク質の結合で形を作っているわけではない。多少であれば、姿や、声――つまり声帯を変えることくらいは、出来る」

 フレイは、便利だなとつぶやき、寝転がった。

「今日は、何しに来たんだ。外じゃ、お前を捕獲しようと躍起になって陣形を整えているんだぜ」

 ヴラン・カァンは、にっこりと微笑み、さらに顔を女性らしくしていった。唇は少し立体感が出て、厚みを持ち、妖艶な印象を受ける。あまり考えたくはないが、セクシーな顔立ちである。ヴラン・カァンは、無造作に立ち上がると、するりとローブを脱ぎ捨て、裸になった。

 ローブで見えなかったが、かなりグラマラスな肉体をしていた。

 フレイは、自分の目つきが、上下舐めるような視線になっている事に気づいて、慌てて目をそらした。

 ヴラン・カァンは、つま先に掛かっていたローブを軽く蹴ると、ヒタヒタと、進み出て、鉄格子を掴んだ。

「きれいに掃除されているね。地面が固いのが、いやだけど、楽しめそうだ」

 その言葉に、フレイのイマジネーションが膨らむ。少し期待してしまっている自分が、恥ずかしくなった。

 彼女の掴んでいた鉄格子が、砂のように分解されて、床に降り積もっていく。同じように、檻の中に入るのに邪魔な鉄格子を砂に変えて、ヴラン・カァンは、フレイの、側に歩いて来た。

 薄い陰毛が、フレイの顔の前で止まる。見上げると、豊かな乳房越しに、笑みを浮かべているヴラン・カァンがあった。

「ムードを大切にする? それとも、いきなりしたい?」

「本気で言っているのか?」

 フレイは、頬が少し赤らむのを感じながら、顔をしかめた。

 それを見たヴラン・カァンは、薄笑いを浮かべ、フレイの隣に腰を下ろした。

「初めて?」

「試してみるか?」

 フレイの言葉に、彼女は、楽しそうに目を細め、キスをしてきた。

 ヴラン・カァンの細い指先が、フレイの胸板をなぞりながら、服の裾を掴み、ゆっくりと脱がせ始める。その間も、キスは続き、フレイが服を脱ぐ瞬間だけ、糸を引きながら唇を離した。

 彼女は、フレイを押し倒し、上に身体を重ねる。

「床が冷たいから」

 小さく呟いて、キスの続きを始めた。

 長い舌が、フレイの下を転がす。

 魔人のくせにどこで覚えたのか、やけにキスがうまかった。男女の情事中に、どこで覚えな、などと聞けるわけもなく、フレイは、ヴラン・カァンの髪を撫でながら、瞳を閉じた。

「ついこの間までは、殺そうとしてきた相手なのに、優しいね」

 瞼を開けると、ほんの鼻先に、彼女の瞳があった。残念なことに、途方もなく美人の容姿であった。これが魔人でなければ、どんな男でも魅了することが出来ただろうに。

「抵抗したって、敵わないんだから、優しくした方が、僕もお前も気分良いだろ」

「お前って言わないで」

「なんて言えばいい?」

「ヴェニィ」

 フレイは少し笑みを溢し、頷いた。

「かわいい名前だ」

 ふたりは額をつけて、クスクスと笑いあい、小さくキスをした。

 フレイは、彼女の首に手を回しながら、尋ねた。

「なァ、もしかして、俺の精子をえようと考エレボスのか?」

 彼女は、首を振った。肩に掛かったブロンドの髪が、揺れ落ち、フレイの顔をくすぐった。

「俺――この姿の時は、あたしの方があってるね。あたしが欲しいのは、あなたの中にあるイド。あなたの静止を宿して、子供を作ったからと言って、私の本当に欲しいものは手に入らない」

「本当に欲しいものって?」

 彼女は、フレイの下半身に手を伸ばし、耳元で呟いた。

「気持ちよくしてくれたら教えてあげる」




 魔人とセックスをするハメになるとは、思っても見なかった。

 ヴラン・カァンは、野獣のごとき動きでフレイを魅了し、そして、儚げな女性の瞳でフレイの心を熱くさせた。彼女の体の中は、自在にうごめき、何度もフレイは達してしまう。それでも、彼女は満足することはなく、檻の中が甘酸っぱいにおいで満たされても、まだ、欲望がとどまることはなかった。

 フレイは、やっているあいだ、彼女が何を企んでいるのか、ずっと考えていたが、結局答えは見つからなかった。幸いなことに、ヴラン・カァンとセックスしているあいだ、ユリア嬢や、リッツが、来ることはなかったが、逆に来なかったことが、ハメられているのではないかと、疑惑になってしまう。

 情事が終わって、ヴラン・カァンは、フレイに抱かれながら、疲れ果てていた。

 フレイは、彼女の顔に張り付いている、髪を払い、瞳を覗き込んだ。

「大丈夫?」

 ヴラン・カァンはわずかに頷き、深呼吸すると、ゆっくりとした動作で、腰を上げた。首筋に張り付いた髪を手で掻き上げながら、彼女は、鉄格子の向こうに歩いて行った。

 フレイが様子をうかがっていくと、彼女の体は、みるみるうちに、細身の男性のような体つきに変わっていった。尻のふくらみも、ウエストのくびれも、フレイがいま抱いていた細い肩も、消えゆき、角張った体に変化した。振り返った彼女の顔は、男とも、女ともとれない中性的な顔立ちをしていた。胸のふくらみは、薄くなり、かろうじて、隆起はしていたが、まな板のような胸だった。

 薄い唇を開き、ヴラン・カァンが、言う。

「ありがとう。楽しかった」

 フレイは、体を起こし、鉄格子越しに、彼とも、彼女とも、形容しがたい、ヴラン・カァンの顔を見た。

 鉄格子は、ヴラン・カァンが通ったあとを通れば、フレイも檻の中から出ることが出来た。しかし、体は、檻の中から動こうとはしないで、鉄格子をふたりの間に挟むことを望んでいた。

 ヴラン・カァンは、脱ぎ捨ててあった服を手に取り、身なりを整え、またいつものようにローブを羽織って、フードを被った。

「あなたも、いつまでもそんなかっこうしていたら、風邪ひくよ」

「帰るのか」

 フレイは、ヴラン・カァンの言葉を無視して尋ねた。

 ヴラン・カァンは、少しうつむき気味に微笑むと、小さく口を開いた。

「いまから、外にいる連中と戦う。アポォリオンを破壊し、邪神を復活させるギリギリのところで、お姫様に交渉をする」

 彼女は、フレイの方に顔を向け、フード越しに顔を見ているように言った。

「“アポォリオンを破壊されたくなかったら、フレイを私の身体に封印しろ”ってね」

「諦めてなかったのか?」

「当然」

「さっきのは、僕への最後の晩餐か?」

 フレイの言葉に、彼女は、くすりと笑い、顔を近づけてきた。唇が触れる寸前、彼女の口元が、あのキスを交わした唇に変わる。

 キスを交わし、フレイの耳元で囁く。

「気持ちよかったよ」

 スッとヴラン・カァンは後に下がり、手を挙げて、別れの挨拶を言うと、牢獄の出口に走り出した。

 フレイは慌てて、追いかけたが、自分の姿に気づき、檻の中で脱ぎ広げられている服を掴んだ。

 ヴラン・カァンが、魔人である以上、アポォリオンを破壊することは、難しくはないだろう。中に封印されているものが、邪神というフレイの知らないものであっても、魔人の力は、容易に想像が出来た。彼女の言葉は、おそらく、達成されるだろう。いま外にいる連中が束になって、ヴラン・カァンに立ち向かったとしても、勝てる見込みはない。

 過去にフレイが魔人に打ち勝ったときは、特殊な魔法――ヴァル・アトラクタを使えたが、その魔法は、エレボスを体内で、何重にも掛け合わせると言う手法をとっているため(説明を省くが)、イドの暴走の引き金になりかねない。

 フレイはよろめきながら、パンツとズボンを一緒に履き、靴を突っかけると、檻を出て、ヴラン・カァンのあとを追った。

 なぜ彼女が、自分にこだわるのか、まだハッキリしていない。

 体を重ね合わせたせいで、少し情が移ってしまった。フレイがもう少し淡白な人間だったら、セックスはセックスとして、中に出せて気持ちよかったと思えたはずだ。しかし、どうやらフレイはそんな人間ではないようだった。自分でも気づかなかったが、ヴラン・カァンに関心を持ち始めていたのだ。

 彼女は、フレイの精子を体の中で受け取っても、それが彼女の求めていることとは、ほど遠いことを知っていた。フレイが自嘲気味に言った通り、もしかしたら、フレイに最期の晩餐を振る舞ってくれたのかも知れない。彼女の目的は、フレイを体の中に吸収することだ。それは、フレイの中にある、イドという生命体を取り込みたいがゆえのことだ。

 取り込みは、半魔人が人間に子供に取り込まれることと、同じ意味を持つ。

 なぜ完全であるはずの魔人が、イドを取り込みたいと感じるのか。それが一番の謎だった。フレイよりも彼女の方が、イドに詳しい。だから、イドの正体を知って、取り込みたいと願うのかもしれない。それが彼女にとって、有益だと言うことだ。

 フレイは、牢獄から、地上へ上る階段を5段抜かしで駆け上がった。

 出口の方からは、爆発音が反響して、耳に届いた。すでに戦いが始まっているらしい。

 しかし、フレイは、どちらの味方をするのか、自分でも、わからなかった。いや、味方ではないのかも知れない。フレイは、階段を駆け上がりながら、戦いを止めたいと願う自分の気持ちに気づいた。

 外に出て、目の前にあった、手すりに体を預けながら、天空を見上げた。

 辺りは夜の暗闇がおり、星明かりの中、ヴラン・カァンのローブが、舞った。空を自在にエレボスの流れに乗って移動し、地上にいる、おそらくルイーゼやアンダンテ、アポォリオン立ちに攻撃を仕掛けているのだろう。魔法の光を地上に打ち込んだ。

 フレイは、手すりに足をかけて、中に飛び上がり、エレボスの干渉領域を周囲に伸ばした。エレボスの流れを掴み、体を空中に浮かばせると、背中から押し出されるように、飛び上がった。

 全速力で、ヴラン・カァンに向って飛翔し、彼女が気づくよりも先に、横から彼女の体を掴んだ。両手で彼女の胴体を抱え、さらに速度を上げて、その空域から逃げようとしたとき、前方に黒い障害物が現われた。

 アポォリオン。

 手にした巨大な剣を振り上げ、ヴラン・カァンめがけて振り下ろしてきた。

 ヴラン・カァンは、両手を挙げて、それを防ごうとしたが、両腕を切り落とされ、絶叫した。

 フレイは、アポォリオンの脇をすり抜け、逃げようとした。

 アポォリオンは、空中にもかかわらず、体を強引に捻り、逃げるフレイとヴラン・カァンに向って、剣を凪いだ。

 ヴラン・カァンの首筋に剣の切っ先が伸びた瞬間、フレイの頭の中で、何かが爆発した。

 体を中心にして広がっていたエレボスの領域は、まがまがしい形に変化し、密度を上げながら、フレイの周囲に収束し始める。体の周りほんの数ミリにエレボスの領域が、幕のように張り、そして意識の奥で、もうひとりの生命体の息吹が聞こえた。

 フレイは、何も考えずに、ヴラン・カァンに向いていたアポォリオンの剣に手をかざした。

 一秒のさらに短い時間の内に行なわれたその動作は、剣を粉末状に崩壊させ、粒子レベルにまで分解した。

 アポォリオンは武器を失い、自由落下に身を任せて、フレイから離れていく。フレイはそれに向って、手の平をかざし、エレボスの波動を、打ち込んだ。その波は、黒い鎧の表面をぼろぼろと剥がしながら、アポォリオンを地面に吹き飛ばした。

 頭の中で、別の意識が語る。

 フレイはそれにしがたい、手の平を、切り落とされたヴラン・カァンの両腕にかざした。

 血は流れていないが、フードから覗く口元は、苦悶にゆがんでいた。

 フレイの手の平が、少し暖かくなり、ほのかな明かりを放つ。

 地上を見下ろせば、アポォリオンが吹き飛び、大穴を開けたところに、ルイーゼや、アンダンテが集まってきていた。ルイーゼは、フレイのほうを見上げながら、赤い刃の剣の先を向けてきた。何かフレイに挑戦状をたたきつけるような印象を受ける。しかし、そんなことに構っているヒマはない。

 フレイは、別の意識の命ずるままに、体の中にあるイドを、放出した。イドというものが、エレボスと同じような感触で、どうやって体の中から出ていくのかが、わかった。

 それは、別の意識が、フレイを支配しているがゆえのことだった。

 靴にゆがんでいたヴラン・カァンの口元は、次第に落ち着きを取り戻してきた。切り落とされた腕は、肘から少しずつ物質が伸びて、手首を造り、水かきのような手を作ったあと、細胞が崩壊するように、指の形だけを残して、崩れ落ちてしまった。

 瞬く間に、ヴラン・カァンの両腕は、切り落とされる前の状態に戻った。

 フレイは、地上を見下ろし、ゆっくりと降下を始めた。

 物陰からは、ユリア嬢や、見覚えのあるファイターたちが、顔を覗かせ、下りてくるフレイのほうに駆け寄ってきた。その誰もが、不審げに眉をひそめている。当然と言えば、当然の対応である。

 フレイが降り立つと、真っ先にルイーゼが前に立ち、切っ先を向けて、にらみつけてきた。

 さて、フレイは、心の中でため息をついた。

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