第15話 人の心は流るる
書庫のR67と、R68の書棚の間に立ち、ガゼルは、R67の下から4段目の棚の縁に指をかけた。縁の一部が蓋になっており、10センチほど外れて上に開いた。中には、紙の鍵を差し入れるための吸い込み口のようなものが設置されている。ガゼルは、持っていた紙を真っ直ぐに伸ばすと、それに差し入れた。
紙は、白地におそらく差し入れる方向を示している矢印と、誰かがイタズラ書きをした跡が残っていた。話を聞くと、ケティル2世が子供の頃に、書庫でその紙を見つけ、油性のマジックで落書きしたそうだ。合金を織った紙であったが、油性で書かれると、さすがに跡が残ってしまう。フレイが、影響はないのかと尋ねると、ガゼルは、磁気を見ているため、問題はないと答えた。
「80年前の技術にしては、最先端だな」
吸い込まれていく紙鍵を眺めながら、フレイが呟くと、ガゼルは、少し黄ばんだ歯をニヤリと見せ話した。
「このセキュリティシステムは、ケティル2世の代のときに、わたしが新しく取り替えたのだ。地球への留学経験もあって、その時に電気工学の勉強をかじったこともある。屋内電気配線や、セキュリティのプログラムの構築などは、朝飯前だ」
ユリア嬢は、ガゼルの言葉に感心したように、頷いた。
「面白そうね、わたしも地球に留学してみたいな。ガイアの同位体と言うことは、知っているけど、実際に行ったことはない」
「高度な教育機関に挑戦するのは、少々無理があるかも知れませんが、見聞を広げるという意味では、ユリア様も行かれてみても良いでしょう」
紙鍵が吸い込まれ終わり、モータの駆動音がすると、R67とR68の書棚のあいだにある床がスライドし、地下道に通じる階段が現われた。
ガゼルが先導して、階段を下り始めると、階段の明かりが自動的についていった。
フレイとユリア嬢もそれに続いて歩き出した。
階段は、ふたり並んで通れるほどの幅しか無く。フレイは、ユリア嬢の後に下がって、続いた。
ユリア嬢は歩きながら少し振り返り、フレイに話かけてきた。
「フレイは、地球出身なんでしょう。ガイアへはどうやってきたの?」
「地球とガイアは、まったくぴったり同じ位置にある同位体。エレボスがあるガイアが、少し密度が重いんだけど、熱であったり、密度――平たく言うとエネルギーって言うのは、濃いものから薄いものへ、熱いものから冷たいものへ流れる性質があるんだ。地球とガイアを繋ぐ道で、偶発的に出来るものは、ふたつの同位体のあいだで起こった不安定な反応が影響している。その現象を、エレボスに干渉して、人為的に起こす方法を昔の人は考えたんだね」
「それじゃあ、魔法使いが、道を造っているって事?」
「うん。方法はふたつあって、魔法使いが、その場でエレボスに干渉して、簡易的に窓を造る方法がひとつ。もうひとつは、エレボスが地球の方に干渉しやすい状況を、造って長い間使える橋を造る方法があるんだ。僕が、ガイアに来た方法は、後者だね。地球とガイアで、同じ物質で造られた像が置かれていて、それがふたつの世界をつなげる道を造っている」
フレイが説明していると、階段が終わり、続いて、Uターンするように平坦な道が続いた。通路には照明と換気扇以外に何も設置されておらず酷く簡素な印象だった。
「施設のどこにこんなスペースがあるんです?」
フレイは前を歩くガゼルに尋ねる。
「ここは、施設の地下になる。2階と1階の部屋のあいだに、階段を設置するためのスペースが造られているんだ。階段の周りは、鉄筋コンクリートのほかに、金属の板を置いて、1階や2階で何かが起こり、あやまって階段が露出しないようになっている。階段を下りて反対向きに歩き出したところで気づいたと思うが、いまわたしたちは、3本の塔――トライアグリの中央にある塔の下に向っている。この政府と皇族が使っている施設が造られる以前より、トライアグリは立っていた。ケティル1世は勝れた呪術師で、トライアグリが、ルマリアの地形の中において、呪術の影響を全域に働かせる効果があることを知り得た」
「エレボスの流れを共振させて、広域に影響を及ぼさせる研究は、100年前に発表された。おそらくケティル1世という人物はその論文を見たのかもしれないね」
ガゼルは、歩きながら話を続けた。
杖をついての歩行のため、歩くスピードが遅く、話す時間がたっぷりとあった。
「ルマリアにエレボスに干渉する力を持って生まれてくる子はいない。ケティル1世も例外はなく、魔法は使えなかった。だが、遺伝的に、声にひそむ音域に、普通の人間が持ち得ない倍音が含まれていた」
「倍音?」
フレイと、ユリア嬢は、顔を見合わせた。
ガゼルは、フレイ帰りもしないで、答える。
「倍音とは、例えば、“ド”の音で声を出したときに、“ド”以外の音が混じることだ。喉の作りか、何が影響しているのかまでは知らないが、人間には聞こえない音域をケティル1世は話すことが出来た」
「そうか!」
フレイは、声をうわずらせて、目を見開かせた。
その声に驚いて、前を歩いていたふたりが立ち止まる。
「ユリアの声だけに反応して、アポォリオンが動くっていうのは、鎧を共振させる音域を発することが出来るからなんだ。ほかの姉妹にそれが出来ないのは、遺伝的に、喉か、何か機関が、それように造られていないんだよ。あッ――!」
フレイはあることに気づき、口を閉ざした。
その動きがあまりにも大げさだったので、ユリア嬢は、不思議そうに、首をかしげた。
「あ? なに、何か気づいたの?」
「いや」
フレイは、俯いて、言葉を濁した。ガゼルのほうに視線を向けると、ガゼルは、視線をそらし、前を歩いて行った。
ユリア嬢は、歩いて行ったガゼルを見送り、眉をひそめて、フレイの肩に手を置いた。
「なに? 話して」
「いや、これは、ごめん、言えない」
フレイは、ユリア嬢の背中を押して、歩かせようとしたが、ユリア嬢は、その手を止めた。
「わたくしに関係していることなのね。言って、大丈夫だから」
ガゼルの背は、遠くなっていた。
おそらくガゼルもそれを知っているのだろう。
「ユリア嬢に兄姉が多いのは、もしかすると、先に生まれた兄姉にアポォリオンを操る素質がなかったからかもしれない」
「ああ、だから、わたくしは、生まれてすぐに修道院に送られた?」
「そこまではわからないけど、単純にケティル2世が酒池肉林だって事じゃない。何か作為的な血の頸木があったと考えられるね」
ユリア嬢は、どこか憑き物が落ちたような、スッキリしたような表情で、頷いた。そして、小さくなったガゼルの方に向き直ると、足取り軽く歩き始めた。
フレイは、あっけにとられてしばらくその後ろ姿を見ていたが、慌てて、後追い、横に並んで問いかけた。
「ごめん、やっぱり言うべきじゃなかった」
謝罪するフレイに、ユリア嬢はにこやかに答えた。
「どうして? わたくし、なぜか今すごく気分が軽くなったの。不思議ね、必要だから子供を作る、ただそれだけだったの。道具を造るように子供を作っていたことを知ったはずなのに、どうしてかわからないけど、気分が晴れ晴れとしている」
「それはショックが大きすぎて、神経が麻痺したわけじゃないの?」
「ううん、そう言うのとは違うなぁ。今は言葉に出来ないけど、いつか教えることが出来ると良いな。フレイ、ありがとう」
ユリア嬢の言葉に、フレイは、どこか不気味さを覚えた。本当にショックを覚えていないとすれば、いったいどんな感情を覚えているのだろう。確か彼女は、17歳だと聞いている。5歳年下の女の子の気持ちが、正直なところ、読めなかった。
通路は行き止まりになり、ガゼルが立ち止まって、ふたりを待っていた。右手側の壁に、木彫りのドアが備え付けられ、ガゼルはそれを引いて開けた。
ふたりを促すように、ガゼルは左手を広げた。
ユリア嬢とフレイは、並んでその部屋に入った。
まずフレイは、違和感を覚えた。およそ100年近く前に造られた部屋にしては、やけに設備が、近代的――いや、最新鋭過ぎる気がした。この建物のセキュリティシステムと比較すれば、まったく気にならない程度の設備だろうが、ユリア嬢のおじいさんの代から使われている秘密の部屋には見えなかった。
部屋の一番奥には、おそらくトライアグリの中央にある塔の外壁が露出していた。その前には、儀式用の祭壇らしきものと、方陣が地面に書き記されていた。左手側の壁には、少しかび臭い本が陳列されている棚が占め、その反対側には、小さいテーブルと、化学実験用の、各種機材が置かれた台があった。そのどれもが古びて、煤けた印象があったが、それを囲むように、部屋の四方に設置された大型のスピーカと、実験機材が置かれた台には、ノートPCが開いた状態で置かれていた。その隣には音声入力用のマイクが置かれている。壁の隅はなんのコード化わからないケーブルが多数押しやられていて、どう見ても、呪術師が使っていた部屋と言うよりも、工学の実験室のような印象を受けた。
フレイ自身も、イドの研究で、大きな研究室を持ったとき、入所して1年も経たずに、これと似たような、部屋になっていた。
ユリア嬢が、不用意に部屋の中央に向うのを、フレイは止めた。
そしてガゼルを振り返ると、そこにはローブ野郎――ヴラン・カァンがいた。
フレイは吹き飛ばされて、祭壇の方陣の上にまで滑っていった。
ユリア嬢が悲鳴を上げる。
吹き飛ばされる直前、確かにフレイは、ガゼルのとなりに立つ、黒いローブを着て、フードを目深に被ったヴラン・カァンがそこにいた。もうろうとする頭を振って、入り口の方を見ると、ガゼルに腕を掴まれているユリア嬢と、フレイの方に歩いてくるヴラン・カァンの足が見えた。
フレイは、腹を蹴られ、仰向けにされた。反撃の間もなく、両手足を、鎖で繋がれ、身動きの出来ない状態にされる。さらに、口に布きれを入れられ、猿ぐつわまでされてしまう。
ユリア嬢が、ガゼルの手を払い、拘束から逃れて、部屋の端に逃げた。
「どういう事です、ガゼル! なぜここにお父様の仇がいるのですか!?」
「ユリア様に王位についていただくためには、必要だったのです。誤りはしません。わたくしは正しいことをしているのです」
「そんなことを聞いていません。ちゃんと説明なさい!」
「ケティル3世が王位に就き、正当な王位継承権を持つユリア様のお命が危ぶまれたのは事実です。そのお命を守るために、ヴラン・カァンの力を借りました。ケティル3世の暗殺を依頼し、その報酬に、そこにいるフレイ・ソールの命を差し出すのです」
「なぜフレイが!? それに、ヴラン・カァンは、ケティル3世――お兄様の依頼を受けて、わたくしを殺そうとしているのですよ。それを知っているのですか! あなたは、たかが王位継承権などと言うくだらないもののために、わたくしの友人を手前勝手に売ったというのですか!?」
ガゼルは、両手で顔を覆い、泣き崩れるように、膝をついて話した。
「おお、ユリア様、姫君様。どうか、この老いぼれを責めないでください。わたくしは、この国の将来と、あなた様のことを考えているのです。それにフレイ・ソールは、過去に大量殺人を犯した大罪者です。ここで裁かれるのが、一番良いのです」
そのガゼルの言葉に、ヴラン・カァンが笑い声を上げた。
「まァ、お姫様。そんなにじいさんを責めるなよ。このフレイ・ソールって奴がこの世から消えてしまえば、ルマリアの問題だって、解決するんだぜ。俺が、お前の兄貴を殺して、その兄貴を支持している奴らをすべて殺す。アポォリオンを破壊し、邪神を解放させて、血の頸木さえも、解放させてやるぜ」
「アポォリオンを破壊? 正気ですか、そんなことをすれば、ルマリアにいったいどんな被害が及ぶのかもわかりませんよ!」
ユリアの言葉は正論だ。
フレイはエレボスに干渉して、鎖や猿ぐつわを外そうと試みたが、フレイの拘束されている空間のエレボス量が、ずいぶん少なく、エネルギーがまったく充填できない。鎖に何か呪符が仕込まれているのか。それとも、床に描かれた方陣が影響しているのかはわからなかったが、状況は芳しくなかった。
ヴラン・カァンは、実験機材が置かれている台からマイクをとると、くるりとステップを踏みながら、方陣の上まで来た。喉の調子を見るように発生をすると、部屋の四方に設置されたスピーカーから、拡声された声が響いた。
「アー、アー、まさに皮肉だね。ケティル2世が太らなければ、こんな状況にはならなかったかも知れないのに」
ユリア嬢は、ヴラン・カァンの言葉に、声を上げた。
「意味のわからないことを言うのはやめて、フレイを離しなさい。あなたの声では、儀式を執り行えません」
「残念ながらお姫様、それが執り行えてしまうんだよ。じいさん、説明してあげたら?」
ユリア嬢は、膝をついて床に崩れているガゼルに取り付いた。肩を揺さぶりながら、問いただすと、ガゼルはゆっくりと顔を上げて、答えた。
「ケティル2世は晩年、この秘密の部屋に下りられなくなりました。ストレスか、怠惰かはわかりませんが、お体が大きくなりすぎて自ら歩くことが出来なくなり、地下に通じる階段を下りる事が出来なくなられたのです」
フレイの感じた違和感の原因は、それだったのだ。
儀式をするには声が必要だが、通路内は狭く、ユリア嬢とフレイが並んで歩けば、肩がぶつかったまま歩くことになる。これでは、例えケティル2世が自分で歩けたとしても、秘密の部屋まで来ることは出来ないだろう。部屋の四方にあるスピーカーと、実験台の上のノートPC、ヴラン・カァンの手にしているマイク。これらは、遠方にいるケティル2世に喋らすものではなく。マイクとノートPCを使い、誰でも、ケティル2世や、ユリア嬢の持っている特殊な音域の声を出そうというのだ。
ユリア嬢は、問い詰めるように、厳しい口調で、ガゼルを詰めた。
「では、儀式は誰が行なっていたのです。わたくしと、お父様以外に、誰が行えるというのです?」
ガゼルは、おずおずと言いよどみながら、床に視線を落とした。それから、かぼそい声で、呟いた。
フレイの拘束されているところまでは、声が届かなかったが、ユリア嬢は、目を見開き、ガゼルをじっと見つめた。
ガゼルは、ユリアの腕を掴み、言葉を続ける。
「しかし、これは応急処置です。わたくしは、ユリア様が、儀式をなさるまでのただの繋ぎなのです。現に、ルマリアの悪意をアポォリオンに吸わせることが出来ても、アポォリオンの命令は、出来ません。それだけはケティル2世を介して行なわなければ、ならなかったのです。どれだけ機械で、あなた様の高貴な血を真似ようとしても、不可能なのです」
「そんなことろは問題ではありません。わたくし以外の人間が、儀式を執り行えると言う事実が問題なのです」
ユリア嬢はそう言って、ヴラン・カァンの方に厳しい視線を送った。
ヴラン・カァンは、書棚から、古びた本を一冊とった。かなり分厚く重そうな本で、背表紙の厚さが、15センチほどもあり、縦の長さも、30センチ近くあった。装丁がしっかりと作られているが、ところどころ、虫に食べられたらしく、穴が空いていた。
黄ばんだページをめくりながら、ヴラン・カァンはフレイの頭の前に立った。
「本を持ちながらだと格好がつかないが、呪術は長いんでね」
そう言ってにやりと笑みを浮かべると、彼は、意味の理解しがたい言葉を呟き始めた。
『ユヴィウェ・ギフ・ヒ・アティォフ・セキュニ・リ・ヤ・ダ・ルウェイン……』
スピーカーから流れるその言葉に、方陣が反応し始め、白く光り始める。
ユリア嬢が、慌てるように首を振るが、儀式を止めようと、ヴラン・カァンに飛びかかっていくようなことはしない。フレイもそれは賢明な判断だと思う。ユリア嬢が、飛びかかったとしても、たんに怪我をするだけだ。
ヴラン・カァンの言葉が続き、フレイは、体の表面に電圧が掛かるような、ピリピリとした感覚を覚える。
『ウクュィン・ティア・ア・ララ・オフェロ・ルィ・ジ・ジャァリゥ・ヲンリ……』
次の瞬間、フレイの心臓が強く脈打った。
何かに呼応するように、ヴラン・カァンの呼び声に起こされるように、フレイの中の何かが、動き始めた。
フレイは、自分の胸元を虚しく見下ろし、何も出来ないでなすがままの状態にはを強く噛んだ。
その様子を見ていたヴラン・カァンは、口元からマイクを離し、不気味な笑みを浮かべた。
「さて、俺の声に、貴様の魂の器が応えてくれたようだな。次は第二段階だ。貴様の精神ごと、イドを俺の中に吸収する」
フレイは驚いて、ヴラン・カァンの方を見た。
「この部屋には、どこにもお前を封じ込める器となるものが、どこにもない。ここで精神を貴様の体から抜き出したとしても、ただエレボスにながされて消滅するだけだ。誇りに思ってもらいたいな、魔人の中で、永遠にいきられる人間など、ほかにはいない」
やはりそうだったのだ。
フレイは、目を細めた。
ヴラン・カァンの桁外れのエレボスに対する干渉力は、エレボスの結晶たる魔人であったから、可能だったのだ。人間離れした、戦い方や、力から想像すれば、当然の結論である。
ユリア嬢が、方陣の側まで駆け寄ってきた。
「いったいフレイを窮することが、なんになるというの? 馬鹿なことはやめて、フレイを解放しなさい。今ならまだ、人の道から外れたことは許されます」
「人じゃないんだよ、お姫様。俺は魔人だ。エレボスのよどみから生まれ、悪に心を奪われた、純粋な魔人。人を騙し、陥れ、そして殺す。暴力よりもなお、悪の根源。それを求めるために俺は生まれたんだ。ほかに何もいらない。許しなんてクソクラエだぜ、お姫様よォ!」
「汚い言葉を!」
ガゼルが、よろめきながら、ユリア嬢の腕を掴み、後に下がらせようとした。しかし、ユリア嬢は、それを拒み、ガゼルの手をふりほどいた。
「悪を求めるのであれば、わたくしたちの迷惑にならないところでやりなさい。それにフレイが、悪だと思っているのだとしたら、見当違いも甚だしい。フレイは、わたくしのために、力を貸してくれています。それは、皇族に媚びを売ろうというよこしまな考えではありません」
媚びても仕方ないしな、とフレイは、心の中で呟いた。
ユリア嬢の言葉も、ヴラン・カァンの耳には届いていなかった。ヴラン・カァンは、フレイや、ユリア嬢とは、違う視点からものを見ているようだった。
「フレイ・ソールが例え、悪をわずかしか持っていなくても、フレイの中で生まれし生命は、どうかな? 数年前の研究者大量殺人に始まり、ついこの間の、ガーゴイルを素手で引き裂いた力、それらに悪意が含まれていないと、どうして言える?」
「イド?」
「そうさ、お姫様。フレイのエレボスを溜める器の中で、イドが目覚めたのさ。そのイドは、悪意をもって、すべてを破壊する。俺たち魔人よりも、タチが悪いかも知れないんだぜ。さぁ、下がりな。お姫様の出番は終わったんだよ。端から、フレイをつかまえる話しだったんだ」
ヴラン・カァンは、古書のページをめくり、マイクを口に近づけた。
ユリア嬢は、ガゼルに引っ張られ、方陣から離れていく。彼女の瞳は、同様に揺れていた。
フレイの中にいるイドが、悪意を持っている可能性は、誰にも否定できない。フレイ本人でさえ、今の話を聞けば、自分のなかで恐ろしい生命がうまれ、体を乗っ取ろうとしているのではないかと、不安になってしまう。前科もある。ユリア嬢のように、ジレンマのようなものに苦しむのもわかる。しかし、事実だとしても、フレイはそれを呑むわけには、いかなかった。ヴラン・カァンの言葉のままに行けば、自分の命がなくなる。それはただの自殺でしかない。自己犠牲の精神が、美しいなどと言っていられるほど、フレイは悟りを開いているわけでもないのだ。
命は惜しい。
ヴラン・カァンが、呪術の続きを語り始めると、方陣から光が立ち上り、それを中心に、部屋の中をエレボスが、回転し始める。エレボスは、エレボス同士でぶつかり合い、干渉波を出して、部屋の書棚や、実験棚の上の機材を小刻みに揺らした。
『ユヒ・ギュスウェイン・ヴェルト・ギ・オォル・シン・クゥォンツ・リ……』
方陣の中の空気が振動し、火花が散る。
フレイの体は持ち上がり始め、鎖で両手足を繋がれていなければ、吹き飛ばされていただろう。
心臓の鼓動は激しさを増している。
猿ぐつわをされて、叫ぶことも出来ず、フレイはなすがままだった。
それは突然フレイに語りかけてきた。
“私はフレイ。魂の座に集まりし、大いなるエネルギーの意志。自我を獲得し、自由意志のもとで、私は産声を上げる”
フレイは、頭に響いてくるその声に、驚いて、目を見開いた。鼓膜による振動から伝達された言葉ではない。脳の中の神経が反応して、造られた言葉だ。
“フレイ・ソールは僕だ”
“ふふふ、私はお前から生まれた、エネルギー体だよ。フレイ・ソールという自我を持った生命体とは違う。フレイとは、私を表わす言葉でもある”
“イドか?”
“そう。お前は、私のことをイドと呼ぶ。人から生まれし欲望の源泉”
フレイの身体は、あおられながら、部屋の真ん中くらいの高さまで持ち上がっていった。
手足を拘束する鎖が皮膚に食い込み、血が滲む。
『イェ・リハエム・ジニュィヘ・アウェニムェ・セイハェンシ・エン……』
“私たちは、いま肉体という檻から解放され、精神体と言う脆い姿に変わろうとしている。お前は、他者の干渉で、自分の命や、人生を捨てることを許せるか?”
“愚問だ。自殺願望など、持ち合わせていない”
“ならば、私の力を貸し与えよう。私たちは、結局のところ、共棲していかなければ、生きてはいけないのだ”
フレイは、その言葉に眉をひそめた。
“私たち? 私は、の間違いだろう。僕は、イドがいなくても、生活には困らない。イドは、僕を介してエネルギーを溜めているのだから、困るのは、そっちだろう”
“私の恩恵を、なにも感じていないというのか? 幾度となく私の力を貸し与えることで、窮地を乗り越えられたというのに”
“馬鹿を言え、イドの暴走のせいで、僕は同僚殺しの罪を受けて、研究すらまともに出来なくなったんだぞ”
“私が目覚めた時のことか。確かに私は、産声を上げる赤ん坊のように、自我を獲得したことを歓び、すべてのエネルギーを発散した。その結果、イドとして悪者扱いされるのは、心苦しいな。ハハハ”
フレイは心の中で舌打ちをした。
イドは、さらに語りかけてきた。
“さぁ、私に精神を譲り渡せば、今すぐこの場所を消滅させて、何もかも終わりにしてやろう。そこでマイクをにぎっている魔人なんぞ、一瞬で滅ぼしてくれよう。お前の力では、このエレボスの流れを遮断している方陣から、抜け出ることは出来ない”
「フレイ! フレイ!」
フレイの耳に、自分を呼ぶ声が聞こえた。
いつの間にか目を閉じていたらしい。瞼を上げるのも重い。
髪が乱れ目の前を、ばさばさとなびいていた。
声のする方にゆっくりと顔を向ければ、ユリア嬢が、呼びかけていた。
彼女の後では、ガゼルが、彼女を抑え、方陣に近づかないように叫んでいる。
「方陣に近づいてはなりません。巻き込まれて、体を完全に分解されますよ!」
「ガゼル、ああ、わたくしの友人が、いま殺されようとしているのですよ。それを止める手立ては、どこにもないのですか?」
ガゼルはうつむき、ユリア嬢の問いには答えなかった。
ユリア嬢の泣きそうな顔が、見える。その表情は妙に幼く、手をさしのべて、支えたくなるような、愛おしさを感じさせた。
フレイは、ユリア嬢をじっと見つめた。イドに頼らずに、儀式を止める最良の方法を、ユリア嬢に気づかせる必要があった。
ふたりの目があったとき、フレイは、目を微かに動かした。
気づいてもらえるだろうか。
部屋の中にある方向に目を動かした。
ユリア嬢はゆっくりと顔をそちらに向けた。彼女は、口を少し開け、何かに気づいたような表情を作ると、涙を拭き取り、ガゼルの手を振り払った。それから、実験台の上に置かれているノートPCに駆け寄ると、高く持ち上げ、力強く床に叩きつけた。
あっという間の出来事だった。
部屋の四方のスピーカーから耳障りな高音が響き渡る。
マイクからノートPCを通して、声の変声をしているのであれば、それを叩けばよい。さすがに目の動きだけで、ユリア嬢に伝わるとまでは思っていなかったが、何とか危機を脱したと、フレイはほっとした。
ヴラン・カァンは、自分の声がスピーカーから変声されて来なくなったので、一瞬なにが起こったのかわからずに、手に持ったマイクを見たが、即座にノートPCを破壊されたことに気づき、持っていたマイクを、ユリア嬢の方に投げつけた。
「お姫様よォ。儀式の途中で、それを止めたらどうなるのか、知ってるんだろうなァ!」
ユリア嬢は、マイクを避け、代わりに実験台の上にあったフラスコを投げつけながら叫んだ。
「知るわけないでしょう!」
「偉そうに! 呪文の効果は、方陣を働かせるためのスイッチに過ぎない。呪文を途中で止めたからと言って、儀式がなかったことにはならないんだよ。見ろ! フレイの体がバラバラになるところを!」
ヴラン・カァンの言う通り、方陣の周囲に取り巻いている風は、やまずに、勢いも増すばかりだ。
鎖で繋がれた手足からは、血が滴り、風圧に負けて、空中に飛び散った。
ヴラン・カァンは、憎々しげに方陣の中で吹き乱れるフレイの姿を睨み、手に持っていた、古書を投げつけようとした。そこへ、ユリアの声が、響く。
「待って!」
ユリアの声に、ヴラン・カァンは動きを止めた。
「待って、その本を私に渡しなさい。私なら、儀式を止められます」
「儀式は続けるんだ!」
「止めます! あなたにとっても、フレイの体が、むざむざ消滅するのを見ているつもりもないでしょう。どうせなら、自分の体に取り込みたい。だったら取り込めばいいでしょう。しかし、いまはわたくしに主導権があります。わたくしは、フレイが死ねば、悲しい。しかし、それを受け入れる事は、出来るでしょう」
フレイは、心の中で、汗をかいた。
「つい先日お父様を亡くしましたから、その悲しみと向き合って、受け入れる事ができます。あなたが、例えわたくしに本を渡さなくても、なにもそんなことはありませんが、いま儀式を止めれば、いつか、あなたがフレイを取り込めるチャンスがあります。どうしますか?」
ヴラン・カァンは、激しい形相で、ユリア嬢ににらみをきかせるが、すぐに、鼻で笑った。
「見え透いた強がりを言いやがる」
ユリア嬢が、笑みを浮かべるのが見えた。
ヴラン・カァンは手招きをして、ユリア嬢を呼び寄せた。
「来い。儀式を止めたければ、ここに立って、詠め」
ユリア嬢は、素早くヴラン・カァンのもとに駆け寄り、本を受け取った。ヴラン・カァンが、ページをめくり、ユリア嬢に指示を出す。
フレイは、間違えたところを詠まされないことを祈り、瞼を閉じた。
“私の力を使わぬか”
イドは、恐ろしく冷たい声で、フレイの頭に語りかけてきた。
それは、吹雪く雪山の中に鎖された牢の中で、飢えた、けだものの唸り声にも似ていた。
“ユリア嬢が助けてくれる。彼女ならやってくれるさ”
そこへユリア嬢の朗々とした声が耳に届いた。
『ウェンリ・ヒ・ルドォリ・アィンクゥ・フェジ・ジキュゥリェン・ド・ア・ア・リア……』
“ならば、私は、お前を無理に乗っ取るしかないな”
“え?”
フレイの周囲が、真っ白く発光した。
心地良い眠りに誘われるように、鎖でとらわれた手足の感覚が消え、吹き乱される髪が、頭皮を引っ張る感じもなくなる。
穏やかなさざ波の音が聞こえたかと思うと、轟音が響き渡った。
それもすぐに止み、フレイは意識を失った。
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