第13話 足音を忍ばせて

「動くな!」

 フレイは、体を部屋の中に入れずに、右手を突き出したまま、声を発した。

 ローブ野郎は、フレイの言葉もまったく無視して、微かに動いた。いや、無視と言うよりも、耳に入っていないようなそぶりだ。背を向けたまま、何をやっているのか、フレイには判断が付かなかった。ただ、何となく、窓に寄せられて置かれている机の上の本を読んでいるようにも見えた。

 ローブ野郎の後ろ姿は、まるでテントが張られたように、手足がどんな状態か、わからない。もしかすると、フードを被っていると思わせて、正面を向いているのかも知れなかった。

「なかなか難しい本を読んでいるな。君は数学者か?」

 ローブ野郎は落ち着いた口調で、話してきた。そして、ページをめくるような音が聞こえてきた。

「いや、これは、ベクトルの計算式か……」

「動くなと言っている!」

「そう殺気立つな」

 ローブ野郎は、机の上に本を置いたらしく、微かにローブの端が揺れた。

「魔法使いのはずなのに、いったいどんな研究をしているんだ。教えてくれないか? ベクトルが、イドといったい何の関係がある」

 ローブ野郎は、振り返り、フレイに笑いかけた。

「お前に関係ないだろう。それより、なんの目的で、ここにいる!?」

 ローブ野郎は、白い歯を見せて、両手を上に上げた。

「まァ、とりあえず落ち着け。今日は話しに来たんだ。先日は、お前と、そこのお姫様を殺すのが仕事だったから襲っただけだ。今日は仕事抜きだ」

「信用できる分けないだろう。仕事抜きって事は、その仕事はまだ、受けてるって事だろう」

「おっと」

 ローブ野郎は、口笛を吹いて、にやりと笑った。

「察しが良いね。でも、安心しな。今日は殺さないぜ。雨が降ってるから、派手に暴れたくないんだよ。ほら、ローブが濡れると、重いだろ。無駄に体力使いたくないんだよねぇ。それにひとつお前らに、有益な情報を教えてやれば、別に、俺の雇い主は、お前と言うよりも、お姫様を殺す気がなくなってきたみたいだ。気まぐれというか、運があったのか、なかったのか」

 フレイの背後から、ユリア嬢が、声をかけてくる。

「わたしを殺そうとしている人って、いったい誰なの?」

 ローブ野郎は、クスクスと笑った。

「おいおい、お姫様。いくら何でも、それは教えられないだろう。信用商売だからねぇ。殺し屋は、でも俺、殺し屋じゃないんだけどね。殺し屋はサービス残業みたいなもんさ。さぁ、さぁ、立ち話もなんだから、部屋に入りなよ。椅子ないの、椅子?」

「ないよ」

 フレイは、一言呟いた。

「あっそ、ビンボーなんだな」

「話したいなら、今ここでしろ。内容によっては、帰ってもらうぞ」

「おいおい、お前も、自分の立場をわかってないようだな。どっちが強いか、まだわかってないようだな。なんなら今すぐこの建物をつぶしても良いんだぜ」

 ローブの裾が、ふわりと風を含み、広がる。

 周囲のエレボスが、急速にローブ野郎に吸収され、まがまがしい蒸気のようなエレボスの領域が立ち昇った。それは空中で触手を伸ばすように広がり、あっという間に、フレイたちを包み込んだ。逃れようのないほどの広い領域で、領域の広さは、その人間のエレボスを操れる量に想定するため、ローブ野郎の“建物をつぶしても良い”と言う言葉が、かなり真実みがある。

 フレイは奥歯をかんだ。

“何ものだ?”

 実はフレイには、彼の正体が何となくわかっていた。人間では到底操れないほどのエレボスに干渉できるとすれば、想像できるのはひとつだけだ。エレボスの結晶から生まれた生命体。過去世界を破滅に追い込んだ7人と、同じだ。

「魔人か?」

 ローブ野郎は、フレイの言葉に、笑みを浮かべた。

「話してくれる気になったかな?」

 対峙しているフレイの肩にアンダンテが手を置いた。そちらを向くと、彼女が首を振った。

 フレイは、肩の力を抜いて、ため息を吐いた。どうやら、ローブ野郎に従った方が良さそうだった。

 フレイたちは、促されるままに、フレイの部屋に入り、並んでベッドの上に座った。ローブ野郎は、窓際の机から椅子を引いて、座り、膝の上で両手を組んで、満足そうに頷いた。さも、囚人を前に優越感にひたる看守のような様子だった。

「さて、それでは、落ち着いたところで、イドについて、知っていることを洗いざらい話してもらおうかな」

「イド?」

 フレイは、目を細めて、聞き返した。

「イドはまだ研究中で、なにか解明されたわけじゃない。そんなものを聞いて、どうするんだ?」

「どうするかは言えないが、イドによって精神を奪われた経験を持っている人間なんて、そうざらにはいない。おまえ立ちが来る前に、机の上の書類を読ませてもらったが、イドによる暴走は、その人間が使えるエレボスの総量に依存しているらしいじゃないか。エレボスの総量が多ければ、多いほど、イドが蓄積され、暴走のリスクが発生する」

「僕が知っている情報なんて、それ以上ないぞ」

「まァ、そうだろう。だが、俺の方からもひとつ、アイデアを送ってやろう。例えば、魔人が、エレボスを溜めて、魔法を使うとき、イドは溜まるのか? と言う疑問は、お前ならどう解決する」

 フレイは、眉をひそめた。なるほど、その考えは、浮かばなかった。いや、浮かばなかったと言うよりも、魔人がこの世界にまだいたとは思ってなかったから、仕方のないことである。

「考えられるとすれば、ひとつは、エレボスを溜める器に、イドが蓄積されるのだから、人よりもはるかに大きな器を持っている魔人は、最初の頃は、暴走のリスクがない。しかし、溜まり続ければ、否応なく、その影響が出てきて、暴走する可能性を持っている。もうひとつは、魔人自体が、エレボスの結晶でこうされているため、イドは蓄積されない。エレボス使用時に、何か違和感を感じたことはない?」

「今のところ、何も感じない。イドの蓄積が、ヒト特有の現象である可能性もあると思うが?」

「断定は出来ないね。イドを数値化して、計る施設が今世界のどこにもないから、あんたの体に、イドが溜まっているのか、いないのかは、判別が付かない」

 フレイは、ベッドの上であぐらをかいた。

 ユリアが、アンダンテに耳打ちするのが聞こえる。

「フレイって、適応能力ありすぎだよね。この間殺そうとした人間なのに、打ち解け過ぎじゃない? それに、お父様が死ぬ原因かも知れないのに……」

 ローブ野郎は、胸に手を当てて、話を続けた。

「いや、そうじゃない。俺たち魔人の体は、どんな違和感も、認識することが出来る。人間で例えれば、内蔵に腫瘍が出来たことも、魔人では認識できる。それは、俺たちの体が、エレボスの結晶によって生まれたもので、結晶体そのものだから、その認識力が生まれている。だから、現時点で、俺の体にイドと呼ばれるもの――それがどんな感覚なのかわからないが――異物が体の中に溜まっていく感触はない」

「それは、個人の主観であって、やはり、全体の意見とするには、評価が足りないね。イドは人間にとって廃物だが、魔人にとっては、異物ではない場合。その認識が正常に働いていると言えるの?」

 ローブ野郎は、顎に手を当てて、口をすぼませた。

「なるほど、その考えはなかったな。イドがエレボスの結晶と同じような構造をしていれば、気づかないうちに、溜まっている可能性はある。ヒトで言えば、気づかないうちに、筋肉や脂肪が付いて、体重が増加していることに相当するかな。異物ではなく、質量の増加は、認識しにくいものだ」

 ローブ野郎はそう言うと、立ち上がり、ローブの裾を引き擦りながら、ユリア嬢の前に進んだ。それから、膝を突いて、ユリア嬢を見上げて話した。

「誤解ないように言っておくが、お姫様の父上を殺したのは、俺じゃないぜ」

 突然の言葉に、ユリア嬢は、言葉を失って、口をぽかりと開けたまま、固まった。

 ローブ野郎は、それだけ言うと、立ち上がり、また椅子の方に向って歩き出した。

 ユリア嬢は、顔色を変えて、ベッドから立ち上がり、ローブ野郎の肩を掴んだ。敵意はないとはいえ、かなり不用心である。

「じゃあ、誰が殺したって言うの!? あなたが来たことで、血圧があがって、亡くなられてしまったのよ。もし何事もなくあの夜を乗り切ることが出来れば、お父様は死なずに済んだかも知れないのに」

 ユリア嬢の手に力が入り、ローブをぎゅっと握りしめる。ローブ野郎は特にそれを怒るまでもなく、簡単に引きはがし、振り返っていった。

「原因がないとは言わない。間接的には、荷担しているからな。だが、話の途中で腰を折られても仕方がないんで、先に行っておいただけだ。許しを請うたわけじゃない」

 ローブ野郎の言葉に、フレイは小さく呟いた。

「じゃあ、誰が殺したんだ?」

 一同はフレイの方を見た。

「あんたが殺したわけじゃない。と言う言葉から想像するに、別の誰かが殺した、ということになる。闘技場で怪物に襲われたことが、一段階目であって、それは二段階目に続く間接的なものであったとすれば、僕たちが、あんたに襲われている最中に、ケティル2世が、殺されたことになる。そう。あのアポォリオンが、現われたときなんか、絶好の機会じゃない?」

 ローブ野郎は、フード越しにフレイのほうを見たまま、ニヤリと笑みを浮かべた。

 それを見たユリア嬢が、ローブ野郎につかみかかる。しかし、それは軽くいなされ、フレイのほうに、はじき飛ばされた。フレイはユリア嬢の肩を掴んで支える。

「良い想像力をしているなぁ。確かにアポォリオンが、現われると言うことは、ケティル2世の部屋は、無防備だね」

「アポォリオンがどんな命令系統で、行動するのか知らないけれど、守る人間が死なない限り、命令を実行し続けるとすれば、ユリア嬢を守りに来た時、誰かに命令を書き換えられたと考えられる。アポォリオンが命令を聞くのは、ケティル2世と、ユリア嬢だけだから、必然的に、ケティル2世が、命令を書き換えたことになる。ケティル2世は、僕たちが、その部屋に戻ったときも、まだ息があった」

「言語による命令の書き換えがあったことがわかるねぇ」

 答え合わせをするように、ローブ野郎は言った。

 フレイが掴んでいるユリア嬢の肩がふるえていた。

 内部にケティル2世を殺した犯人がいる。もしかすればそれは、ケティル3世を殺傷した人物と関係あるのかも知れない。フレイが考える以上に、皇族の中が荒れているようだった。

 なにが起こっているのかはわからない。血族内での、権力争いなど、別にたいした話しではない。血族の周囲にいる人間が権力争いを起こしている場合だってありうる。民主主義の占拠による国の代表を決めるシステムになっていれば、まだ多少なりとも、マシかも知れないが、この国のシステムであるから、今さらそれを言ったところで、始まらない。

 ユリア嬢は震える声で、ローブ野郎に言った。

「お父様の部屋で、なにが起こったのか、教えて」

 ローブ野郎は、フード越しに頭をかきながら、苦笑いをする。

「女の涙は、面倒だな」

 そう言うと、窓の方に向って歩き、ドアを開けた。

 湿った空気が、そっと部屋に入り込んでくる。窓の外は、雨が斜めに降り、強い風が吹いているようだった。

 ローブ野郎は窓枠に足をかけると、窓の上に中腰で座った。

「出直してくるぜ」

 飛び降りようとするローブ野郎に、フレイは、声をかけた。

「お前、名前は?」

「ヴラン・カァン」

 それだけ言うと、ローブの裾をはためかせ、ヴラン・カァンは窓の外に飛び出した。

 アンダンテが、スッと立ち上がり、窓に取り付いて外を見る。それからフレイの方に顔を向けて、首を振った。開けたままの窓を閉め、アンダンテは、ユリア嬢の前まで歩いて来て、膝をついて座った。

 言葉は発しないが、ユリア嬢の頬を指先でぬぐい。それから音も立てずに、フレイの部屋から去っていった。

 フレイは、ユリア嬢の方をさすりながら、声をかけた。

「大丈夫?」

 ユリア嬢は、首を横に振り、言った。

「大丈夫じゃない」

「わかった。少し休め」

 フレイはユリア嬢をベッドに寝かせ、掛け布団を掛ける。

 窓際の机に向おうとしたフレイの手を、ユリア嬢が、掛け布団の隙間から手を伸ばして掴んだ。

「眠るまで、側にいて」

「わかった」

 フレイは頷いて、机から椅子を引っ張ってきて、ベッドの脇に添えた。椅子に座り、ベッドに寄りかかるように、両肘を付いた。

 幼児帰りをしているのだろう。何か不安に狩られたとき、誰かに守られていたい、何かに掴まっていたいと、感じるのは、別に不思議な事じゃない。

 ユリア嬢は、もう片方の手も出して、フレイの手を掴むと、それを自分ののど元まで引いていき、抱きしめるように、握りしめた。それから目を閉じて、布団の中に潜り込んだ。

 フレイはじっとユリア嬢が眠りにつくまで、ベッド脇に座って待った。

 しばらくして、ユリア嬢の寝息が聞こえてくる頃には、フレイもうつらうつらとし始め、結局は一緒になって、眠りこけてしまっていた。




 不意に風が吹き、フレイは、目をさました。

 ベッドに寄りかかっていた体を起こして、窓の方を向くと、ユリア嬢が、机の椅子に座り、窓枠に寄りかかって薄暗い空を見上げていた。

 群青の空が広がり、ぽつりぽつりと、星の瞬きがきらめく。遠くの家の屋根が月明かりで白く照らされているのが見えた。虫の鳴き声が、フルートの音色のように涼やかに響くと、それに会わせておどるように、ユリア嬢の髪が風に揺らいだ。

 フレイが立ち上がって、ユリア嬢に近づくと、ユリア嬢は、振り向かずに話した。

「きれいなお月様ね」

 ユリア嬢は、少し体を窓の端に寄せて、フレイが外を見れるように気を遣ってくれた。

 フレイは、窓枠に手を突いて、身を乗り出して、天で光る半月を見上げた。白い閃光を放ち、太陽光のあたっていない反対側のくらい面も、どこかぼんやりと輝いている。夜の1時を回った辺りだろうか。街並みも、月明かりに照らされている以外、まっ暗に染まり、昼間の活気はどこかへ消えていた。観光客が多いのだから、歓楽街でも作れば、それで収入が得られるだろう。しかし、宗教の違いか、この国の人たちは、夜に外に出歩くという習慣を持っていなかった。

 ユリア嬢は、白く照らされた街並みを望みながら、呟いた。

「一度、城に戻ろうと思うの」

「城って言うのは、病院と、闘技場あいだにあるところのこと?」

 城という言葉にしては、狭苦しいと思いながら、フレイが尋ねると、ユリア嬢は首を横に振った。

「あれは別宅。城は、ここから、北へ、10キロほど行ったところにある、首都センチニァにあるの。そこには、お父様の書庫があるの」

 フレイは、ユリア嬢の意図が読めずに眉をひそめた。

「そこで何をするの?」

「わたくし、亡くなる前のお父様と少し話をしたわ。もしお父様に何かあるようなら、書庫にある隠し扉から、秘密の部屋に行けるらしいの。お父様はおっしゃったは、アポォリオンは、血族の中で、次の王位に就くものの指示に従う。それは、誇り高いことでも、幸せなことではない。邪悪なるものの意志が、国を滅ぼさぬように、管理をしなければならない、と」

「管理?」

 ユリア嬢は、頷いた。

「アポォリオンは、邪神を鎧に封じ込めたもの。そして、それ以外にも、ヒトの気を――悪意を鎧の中に吸わせているらしい。そして、鎧と鎧の隙間にある呪皮によって、ゆっくりと浄化され、外に無害のエネルギーとなって放出される。血族は、それを秘術によって循環させる義務がある。本来は、王位と管理者は別である必要があるのだけど、ケティル1世には、お父様しか子供が出来なかったの。それで、お父様は、ケティル2世として権力を継ぎ、政治形態を、ケティル1世のまま継承した」

「するとケティル2世は、一度は、管理者と政治謙抑を分離しようとしたんだね」

「でも、上手くいかなかったから、形だけは、王位に就いたとおっしゃったわ。何があったかは教えてくださらなかったけど、おそらくは、お父様の遠い親族が、お父様が権力の座から下りないように、工作をしたのだと思うわ」

「それも憶測だけどね。だとすると、昼間のケティル3世が、刺傷された事件も何か関係しているのかな?」

 フレイがふと、窓の外を覗くと、宿舎の敷地の塀の向こうで、人影がいくつか動いた。

 酔っぱらいが、夜道を帰宅しているというような歩き方ではない。静まりかえった街の中を、人目に付かないようにした動きだ。

 フレイは、ユリア嬢を下がらせると、頭を低くして、窓の減りに頭を寄せた。窓が開いていたままになっているが、いま閉めると、姿を見られてしまう。少なくとも、窓を開けたまま寝ているように思わせておいた方が良いだろう。

 人影は、予想通り、軽々と塀を乗り越えて、敷地内に入ってきた。

 数は3つ。

 その時、フレイの部屋のドアが開いた。

 フレイが、振り向くと、包帯を顔に巻いたアンダンテが、顔を覗かせた。

 一瞬、ミイラ男かと思うような、ぞっとする登場のしかたである。

 アンダンテは、顔を覗かせたまま、右手を部屋の中に差し入れ、何か紙切れを振った。ユリアがそれを受け取りに行き、紙に書かれた何かを、読む。それから、フレイのほうに身をかがめたまま、歩み寄ってきて、アンダンテの持ってきた紙切れを渡した。

 紙には、尖った文字で“表から5人”とだけ書かれていた。

「表から、5人、宿舎に入ってきたってこと?」

 フレイが呟くと、アンダンテは頷き、指先を動かして、フレイの持っている紙を裏返すように指示を出す。

“かなりの手練れ、ほかのファイター、気づかず”と、走り書かれていた。

 この宿舎にいるファイターのほとんどは、それほどランクが高くないため、侵入者がある程度の実力を持っていれば、気づかれずに宿舎の中に立ち入ることは出来るだろう。

 ユリア嬢は、不安げな表情で、フレイの顔を見た。

「わたくしが、原因なのかしら?」

「出来れば、別の人が、ターゲットだと嬉しいんだけどね」

 フレイは、口元をほころばせながら、窓の外にそっと顔を覗かせて、下を見下ろした。

 人影は、フレイの部屋のちょうどましたに、壁を背にしてぴったりと張り付いた。人影のひとつが、フレイの部屋を見上げる。

 フレイは慌てて顔を引っ込めた。

「ごめん、見つかった」

 アンダンテが、部屋の外に顔を戻した。

 廊下を走る音が、聞こえてくる。数は複数人。

 数秒後、激しい物音がして、沈黙が訪れた。

 その物音で、ほかのファイターたちが、部屋の外に飛び出して、アンダンテと話しをする声が、フレイの部屋に聞こえてきた。アンダンテの実力は、折り紙付きだ。侵入者が、昼間現われたローブ野郎――ヴラン・カァンほどの能力者でない限りは、対処に困ることはないだろう。

 フレイは、窓の下をのぞき込み、裏手から回り込んできた侵入者がどうなったかを確認した。侵入者は、たいそうなことに、壁をロッククライミングして昇ってきていた。手慣れた様子で、何もないような壁に指を引っかけるところを見つけて、まるで小さな蜘蛛のようにするすると昇ってくる。

 ユリア嬢が隣から顔を覗かせる。

「何か落とした方が良いかしら」

 顔に似合わず物騒な提案をさらりと言ってのける彼女に、フレイは、苦笑いを浮かべながら、首を横に振った。

「簡単に避けられるから、意味ないよ。ここはアンダンテに任せよう」

「フレイは何もしないの」

「アンダンテの方が、接近戦は強いからね。僕が戦うと、辺り一帯にかなり被害を出すかもしれないから」

 ユリア嬢は、思い当たる節があるようで、少し悲しそうな表情で、微笑んだ。

 その時だった。部屋のドアをぶち破り、アンダンテが、吹き飛ばされてきた。

 フレイはとっさにユリア嬢の前に立ち、飛んでくる破片から庇う。先の尖った木片を、払いながら、なにが起こったのか目をこらす。

 アンダンテが床を転がりながら、フレイの前に滑って来た。

 フレイはクッションになって、衝撃を和らげ、それから、ドアのほうに視線を向けた。

 破壊されて、原形をとどめていないドアの向こう。廊下には、何か巨大な生物らしきものがうごめいていた。フレイの部屋の壁にひびが入り、小さな破片が、飛び散った。ドアの内側に、それは手を入れ、強引に押し開こうと、力を入れた。5本の指は、1本が人間の腕ほどもあり、まるで、粘土で作られた壁を押し開けるように、簡単に、壁をこじ開けた。

 廊下からは、数人の苦痛にうめく声が聞こえてきた。

 薄暗い中では、シルエットしかわからなかったが、牛のような巨体の四足歩行の、前足を人間の手にすげ替えたような、生物で、無理に押し入ろうとしている顔らしきところには、瞳孔が真横に伸びた瞳が、黄色く光っていた。

 ユリア嬢が、フレイの背中にしがみつくように、隠れる。

 その生物は、首や背中を大きく揺さぶって、身動きできるスペースをこじ開けようとした。振動がコンクリートを通して、フレイの足下に響いてくる。

 横たわっていたアンダンテが、上体を起こした。それから、フレイの方を向いて肩を押した。

 フレイはアンダンテの手をどけて、言った。

「逃げろって言いたいのか? やめろよ。夢見が悪くなるだろう」

 フレイの後にいたユリア嬢も、肩越しに、アンダンテに声をかける。

「逃げるなら、みんな一緒じゃないと」

 アンダンテは首を振って、もう一度肩を押した。

 冗談ではない。フレイは、その手首を掴むと、即座に自分の首に回して、アンダンテを立ち上がらせる。そして、ユリア嬢の方を向いて、指示を出す。

「逃げるから、僕の胴体にしがみついてくれ、高速で、空に上昇する」

 ユリア嬢の動きは、早かった。フレイが言うとなんのためらいもなく、フレイの胴に苦しいほどの力でしがみついた。

 背後を振り返ると、奇形の人牛が、引っかかった胴体のまま、腹を床につけて両手を伸ばしてきていた。

 フレイは、外も確認しないまま、エレボスを凝縮して、体の背後から撃ち飛ばした。体の周囲をエレボスの波が覆い、フレイは、窓の外にはじき飛んだ。

 外では、ちょうど、侵入者が窓の縁に手をかけたところで、フレイの飛び出す勢いに負けて、ふたりが吹き飛ばされた。ひとりは窓の端にしがみついて、それに耐えると、フレイのあとを追うように、壁を蹴って跳躍した。エレボスの領域を広げているため、その中を比較的速いスピードで突き進んでくる物体が、あることは、振り返らなくてもわかった。

 フレイは、エレボスの波の方向を真上に変え、体の飛んでいく方向を変えた。

 エレボスの流れは、直角に折れ曲がり、フレイの体は、90度真上に飛翔した。間髪おかずに、侵入者のひとりが、フレイの足下を飛び去っていった。やり過ごしたかかに見えたが、そう簡単にはいかないようだった。

 飛び去っていった侵入者の服の背中が、裂け、中から、鷹のような大きな大きな翼が生えた。それと同時に、体が縮み、服が脱げ、尻の部分からは、トリの尻尾のような扇状の羽が広がった。それは翼を閉じて、尻尾の角度を変えることで、体の向きを反転して、仰向けになった。次に翼を広げると、空中で、急ブレーキをかけて、勢いを殺し、さらに大きく羽ばたいて、フレイのほうに飛翔した。

 よく見ると、窓から落ちたほかのふたりの侵入者も、同じように形態を変えて、飛翔してきていた。

 フレイにしがみついているユリア嬢が、飛んでくる侵入者たちを見下ろしながら、大きな声を上げた。

「もう少しスピードアップできないの!?」

「上げるのは、出来るけど――!」

 ユリア嬢が振り落とされる可能性もあったため、どうしようもなかった。ユリア嬢は、フレイの胴体にしがみつき、足を絡ませて、必至に振り落とされないようにしている。フレイの左手は、アンダンテの手首をもち、反対の手は、腰を抱きかかえていた。

 フレイはアンダンテの耳に包帯越しに声を上げて指示を出す。

「僕の首に腕を回して! アンダンテなら振り落とされずに、しがみついていられるだろう。僕は、ユリア嬢を支える!」

 アンダンテは頷き、フレイの首に腕を回した。

 フレイは空いた手で、ユリア嬢の二の腕をもち、引っ張り上げる。

 風に髪が大きくはためく。

 ユリア嬢の両脇に腕を回し、背中で組み合わせて固定すると、フレイはエレボスの波の速度を変化させた。

 その時アンダンテが、手を離した。

 速度を上げた瞬間だったのと、両手を固定していたため、つかまえるヒマもなく、あっという間にアンダンテは小さくなっていった。

 何を気取ってか、アンダンテは、額のところで、人差し指と中指を立てて、小さく挨拶をすると、体の向きを地面に向けた。

 舞い上がってくる3体の異形の生物は、翼をはためかせ、アンダンテを避けるように飛び退るが、アンダンテはそれを許さなかった。アンダンテの体が、金色の衣に包まれたかと思うと、ニードルのように、3体の方に伸びて、その身体を貫いた。しかし、致命傷は与えられなかったようで、3体は、咆哮を上げて体の向きを変えると、アンダンテに群がった。

 筋の闘気の衣をまとったアンダンテと、3体は、入り乱れるように、戦闘を始めた。

 部があるとは到底思えない。

 フレイは、空中で静止した。

 戻れない。

 戻れば、アンダンテの意志が無駄になる。

 しかし、だからといって、このまま逃げることも出来なかった。

「ユリア、僕の首に手を回して、絶対に落ちないようにしてくれ」

 フレイの指示をユリア嬢はすんなり聞き入れ、黙ったまま、アンダンテの方を見下ろしながら、フレイをぎゅっと抱きしめた。

 フレイは、人差し指を立てて、天をさし。エレボスを体内から、人差し指に集中させる。

 地面に落下しながら戦うアンダンテを避けてエレボス波を放つなど、とても難しい芸当である。だが、それでも対応の方法はある。

 フレイは、標準を会わせると、レーザービームのような細いエレボス波を地上に向って放った。ビームは、アンダンテの間際をそれて、地面に突き刺さる。

 アンダンテが一瞬フレイのほうを見上げる。次の瞬間アンダンテは、群がっていた1体をビームの方に蹴り飛ばした。

 その一体は、体を真っ二つに引き裂かれ、一瞬で絶命した。

 立て続けに、残りの二体も、アンダンテは、始末をすると、地上に舞い降りた。それから、フレイのほうを見上げて、小さく手を振り、そのまま、宿舎の中に入っていった。中にいる異形の人牛と戦うのだろう。それか、弱いファイターたちを助けて、避難させるつもりだろう。リッツも寄宿舎で眠っているはずだ。

 フレイは、寄宿舎に入っていくアンダンテを見送ると、北に向って、飛翔した。

 襲ってきた理由が、ユリア嬢にあるなら、少なくとも、彼女を避難させるのが、鮮血である。

 なにが起こっているのか、フレイにはわからなかった。おそらくは、ユリア嬢も同じだ。誰が殺したがっているのかもわからない状況で、フレイは、ただ北を目指して、飛ぶしかなかった。

 ユリア嬢は目を閉じて、フレイの首元に顔をうずめたまま、何も話さなかった。

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