BOOK TWO

第12話 止まらない車輪

 ケティル2世の葬儀が行なわれたのが、7日前。街は普段の顔に戻りつつあった。

 彼に対して、ほとんど情報を持っていないフレイも、盛大な国葬から、彼が人民に慕われていたことが、容易に想像が出来た。どうやら政治家としては、父親ほどの才能を発揮できなかったらしいが、道楽の才能を、誰よりも持っていた。バトルアリーナを国益にまで発展させ、街の商業を充実させた。その結果、製造業の大部分が、衰退してしまったが、それ以上に、国が潤うことになったことは、人民にとってもプラスになった。

 彼の父親――ケティル1世の時代で、長き民族戦争が終わり。その息子――ケティル2世の時代で、街が栄えた。

 ルマリアの歴史において、この親子が成した事業は大きかったのだ。

 葬儀の日、ルマリアのバトルアリーナでは、礼戦が行なわれ、血の流れない戦いで、彼の死を尊いだ。

 彼の死の直後に、ケティル2世の第一子――リチャードゥ・ルマリアが、ケティル3世として、王位継承を行い、新皇帝が誕生した。 バトルアリーナの管理は、軍部で行なっていたため、ケティル2世が死んだとしても、そのシステムが崩れることはなかったが、王位継承語の中央政権のごたごたの余波を受けて、一時運営がストップすることになった。

 観光業のことを考えれば、続けた方が良いはずだ。

 政権が変わると言うことは、すなわち、すべての権力のもとを、自分好みにすげ替えることだ。ケティル2世が王位継承をしたときは、彼自身がそう言うことに無頓着であったため、ケティル1世の時から仕えている各省庁の大臣は、そのまま居座った。もちろん、居座っても良い人物であったのだから、ケティル2世の“何もしなかった”と言うことは、良い方向に進んだと見られる。

 しかし、新皇帝は、権力を持つやいなや、大改革を始めた。

 普段新聞や、情報誌を読まないフレイは、そう言うことに無頓着である。だから、大改革を起こす理由も知る気もないし、新皇帝の政策指針にも、まったく関心を持っていない。ただ、これがきっかけで自由の身になれば、好きなように、イドの研究をやれるのにと、思うばかりだった。

 イドの研究こそ、世界の人間が待ち望むことではないか。“魔法を使える”ことが、もうひとつの地球――このガイアに住む理由ではないか。それなのに、魔法が使えないとなると、ただの発展がひと世代遅れた、未開拓の土地ではないか。

 フレイは、自室の窓から、青い空を見上げて、毎日、ぼんやりとイドについて思考をしていた。

 窓の側の机に座って、広げていた資料を避けて、書きかけの論文に手をつける。「イドが自我を持つことについて」と言うこの国に来て知った新しい項目について書き進めた。

 そんなおり、フレイの部屋のドアがノックされた。

 返事をすると、ドアが少し開き、少しにやけた表情で、リッツが顔を覗かせた。13歳のくせに、実新谷らしい表情であった。

「フレイ、お客さんだぜ」

 そう言って、リッツはドアを開けた。

 リッツの後には、見覚えのある美人が立っていた。水色のフリルのついたロングスカートに、白いシャツが、涼しげな印象を映す。胸の前で、ツバの広い真っ白な帽子をもって、少し不安そうな瞳で、フレイの部屋を見渡した。育ちの良い顔というのは、どんな服でも、よく似合う。

 フレイは、座ったままで体をドアの方に向けた。

「珍しいですね。さぁ、入ってください」

 そう言うと、美人――ユリア嬢は、しとやかな足運びで、部屋の中に入った。

 後でリッツが、「シシシ」と笑いながら、ドアを閉める。

 ユリア嬢は、部屋を見渡しながら、フレイの側に寄ってきた。

「何もないところですね」

「この部屋では、寝るか、勉強するしかしてません。食事や風呂、トイレは、共同で使います」

「勉強?」

 散らかった机の上に持っていた帽子をおき、代わりに本を一冊手にとって、ユリア嬢は、ページをめくった。

 開けた窓から、生ぬるい風が、漂ってくる。

 父親の死後、フレイと、ユリア嬢は、頻繁にあっていた。男女のつきあいと言うよりも、ユリア嬢の暇つぶしに、フレイが付き合っているといった様子だった。皇室でのユリア嬢の立場が、どうなっているか、聞きはしなかったが、彼女の唯一の友人、アン・フォアイトも日々の仕事があるため、話し相手になることも出来ないのだろう。フレイの憶測ではあるが、皇室で、ユリア嬢と、悲しみを分かち合う人がいないのではないだろうか。

「わからない数式ばかりね」

 そう言って、ユリア嬢は、本をフレイに渡した。

「わたくし、魔法というものは、もっと直感的に扱うものだと思ってました」

「発動すると言うだけなら、直感的な作用で問題ないんですよ。ただ、その発動の原理や、なぜそれが起こったのかを研究していくと、どうしても、数字を扱う必要が出てくるんです」

「絵ではいけないの?」

「絵の場合は、抽象的ですから、見る人によって、主観が変わります。数字の場合は、魔法に関係なく、誰もが共通認識として、定量をイメージできますから、具体的に他者に伝達することが出来ます。魔法を使えなくても、魔法を理解することが出来るんですね」

「面白そうね。修道院では、あまり数学を勉強しなかったから、今からでも、間に合うかしら?」

 ユリア嬢のその言葉に、フレイはおかしくなった。まるで、年老いた、中年の言葉である。

「たしか十代ですよね?」

「17です」

「だったら大丈夫。心配するヒマがあったら、勉強した方が良いかもしれませんね」

 ユリア嬢は、微笑みながら、フレイに渡した本を受け取った。それから、眉をひそめて、小さく吹き出した。

 ふたりは、何となく笑いあい、それから、空を見上げた。

 ユリア嬢は、本を机に戻して、帽子を被りながら言った。

「少し外を歩きたいわ。付き合って頂けないかしら?」




 ふたりは、あまり人の通らない裏通りを通って、街の外れに出た。

 驚いたことに、ユリア嬢は、フレイよりも街の裏道について詳しかった。表通りを通れば、皇女であるユリア嬢は、嫌でも、目立ってしまう。しかし、そんな心配もなく、数人とすれ違っただけだった。

「よく抜け出してるんですか?」

 フレイのそんな質問に、ユリア嬢は笑って答えた。

「いいえ、この街に来てから、ほとんど、街の外には出てないわ。でも、退屈だったから、ずっと街の地図を眺めて、想像を広げていたの。道も曖昧に覚えてただけなのに、ちゃんと街の外れまで、これるものなのね」

 人家もまばらで、商店なども見あたらないルマリアの街の外れには、古い遺跡があった。

 観光名所としては、かなりマイナーで、世界遺産に指定されるような、歴史的価値も、景観を備えているわけでもなかった。

 ふたりが、到着したときも、3人のバックパックを背負った観光客が、ちょうど帰るところで、それ以外に人影はなかった。

 少し崩れかけた花崗岩のレンガが外周を囲い、その真ん中に、ほとんど真四角に意志を固めて作られた建物があった。2000年以上前、ここで祈祷が行なわれていたらしいが、今はただ建物が残るだけだった。

 建物も、ただの小屋のようなもので、中には何もなく、小さな石ころが転がっているだけだった。

 ユリア嬢は、建物の屋根の上を見上げて、フレイに尋ねた。

「上は、日差しが照って熱いかしら?」

 直射日光が照りつけ、屋根を覆っている意志の材質にもよるが、鉄板のような状態になっているかも知れない。

「たぶん熱いだろうけど、ちょっと昇ってみようか」

「うん」

 フレイは、ユリア嬢を抱きかかえると、助走をつけて、建物の壁を駆け上がった。ごくごく微量だが、エレボスで背中を押したからこそ出来る芸当である。

 予想通り、屋根の上は、焼けるように熱かった。

 ふたりは、悲鳴を上げて笑いあって、すぐに地面に飛び降りた。

 フレイは、ユリア嬢を下ろして、地面にへたり込んだ。そんなフレイを、ユリア嬢は、自分の帽子で仰いで、笑った。

 それから外周の壁の側に出来ている日陰のところまで、ふたりは休むことにした。

「お父様が亡くなられて、7日もたってしまったのね」

 ユリア嬢は、腰掛けるにちょうど良い石にハンカチをかけて、腰掛けた。雲のない青空を、仰ぎ見るユリア嬢の横顔は、静けさを保っていた。

 7日間、ユリア嬢とあっていたが、父親のことを話したのは、これが初めてだった。とにかく、父親に限らず、皇族の中で起こったこと、国のことなど、一切話題にしてこなかった。フレイもそれに気づき、気を遣ってわきまえていたので、ふたりは、なんでもない話をしてきた。

「気分は大丈夫?」

 フレイが、尋ねると、ユリア嬢は、フレイの方を向かずに、笑みを浮かべ、小さく頷いた。

「寂しいよ。2年間くらいしか、一緒にいなかったし、お父様と言っても、自分のなかで、あまりハッキリとわからない、もやもやとしたものがあったの。でも、いなくなっちゃうと、なんだか、寂しい」

 ユリア嬢の言葉は、友人にでも話すような、柔らかな響きがあった。

「父親らしいこともされたことなかったはずなのに、なんだか心に引っかかるものがあるのね。不思議だわ」

 風が吹き、美しい髪がなびく。ユリア嬢は、帽子のつばを指先でつかまえた。

 フレイは、後にある壁に背をつけながら、くつろいだ姿勢をとる。

「引っかかるものかァ」

 小さなつぶやきは、空に吹かれて消えた。

 フレイにも、ケティル2世の死で、やはり引っかかるものがあった。

 それは、ユリア嬢のような感情の引っかかりではなく。もっと冷静な、疑問である。

「アポォリオンさぁ、7日前の夜のはなしだけど、ユリア嬢の“父親を守れ”って命令を無視して、助けに来たじゃない?」

 ユリア嬢は、思い出すように視線を斜めにして、答える。

「ええ、言われてみれば、そうね。」

「僕は、あの時点で、ケティル2世が亡くなられたから、ユリア嬢を守りに来たんだろうと思ったんだけど、部屋に行ってみると、まだケティル2世は、生きていた。命令が書き換わる条件は、基本的には、言語だけなの? それとも、守護者の危機の度合いで、上書きされちゃうのかなァ?」

「うーん、わたくしも、そんなに詳しく知らないの。だけど、どちらもありそうよね」

 ユリア嬢は、顎の下に手を軽く添えて言った。

 確かにどちらも、命令を書き換える条件としては、会って良いことだろう。だとすると、ユリア嬢を狙っていたことが、たんにアポォリオンを引き寄せること、と言う策略に置き換えることが出来る。

「失礼かも知れないけど、ケティル2世は、司法解剖されたの? 死因におかしいことはなかった?」

 フレイの言葉に、ユリア嬢は、目を見開いて驚いた顔を作る。

「心肺停止と、お医者様から言われただけで、死因を調べるなんてことはしてませんわ。それに、もともと、お医者様には、“今日が峠”と万が一が起こるかもしれないことは、聞いていましたから……」

 ユリア嬢は、胸を押さえて、声をしぼませた。

「大丈夫?」

 フレイの問いに、ユリア嬢は、静かに頷いた。

 墓に埋められてしまった人間を、掘り起こすことは出来ないため、本当のところはわからない。つまり、他殺か、自然死か。フレイは今、“今夜が峠”と言われていたことを知ったわけだが、だとしても、それがちょうど襲われた時に重なることはあるのだろうか。襲われて、血圧があがり、それが影響した可能性はある。ほかにも要素は、もちろんあるが、調べてみないことには、正確な事実は浮かび上がらないだろう。

 ユリア嬢に直接言うことはしないが、ユリア嬢と言い争っていた男の件もある。

 ケティル2世の命を狙っている人間が、ゼロと言うことは、考えない方が良いだろう。

 フレイは、ユリア嬢の顔を見て、話を始める。

「アポォリオンの命令を、もし、ケティル2世が書き換えたとすれば、やっぱり、ユリア嬢は心配されてたんだろうね。最期にユリア嬢と話しをしたいと言ったのも、無事を確認したかった、と言うのがあるのかも知れない」

 フレイの言葉に、ユリア嬢は、寂しげな顔で答えた。

「今となっては、誰にもわかりませんわ」

 そう言って立ち上がり、日差しの中に進み出る。

「でも、そう思っても、お父様は許してくださるよね」

 ユリア嬢の小さな背中は、儚げで、消え入りそうな印象を受けた。

 風がでてきた。

 快晴だった空には、ちらほらと、雲が浮かび始めている。

 いつのまにか、湿度も上がり、気圧が落ちて来ているのが、感じられた。

 ユリア嬢は、ぽつりと呟いた。

「雨が降りそうね」




 ふたりは、すぐに帰路についたが、その途中、降り出した豪雨に体を濡らした。

 何とか、フレイの寄宿舎までたどり着いたが、ほんの数百メートルほどのあいだで、びしょびしょになってしまった。雨が体に当たりすぎて、痛いと感じたのは、初めてだった。地面を叩く音も、バチで小太鼓を連打するような、硬い音が続いた。

 あまりに濡れてしまったので、そのまま寄宿舎の中には入れない。そこで玄関の軒先で、少し水を落としてから、入ろうということになり、ユリア嬢は、スカートをぞうきんのように絞った。すると、スカートから滝のように流れ落ちた。

 それを見たふたりは、笑いあいながら、靴の中に入った水をだしたり、服に含んだ水を搾り取った。

 ひととおり水を払いを得ると、フレイは、寄宿舎の玄関に顔を覗かせてた。

「おーい、誰かいないかァ!?」

 タオルを持ってきてもらおうと、声をかける。

 寄宿舎の中は、誰もいないように静まりかえっていた。人の気配が、まったくしない。

 仕方なくフレイは、呼び鈴を鳴らして、寄宿舎の管理人を呼んだ。雨に濡れて寄宿舎に入ると、怒るくらいだから、タオルのひとつ持ってきてもらっても、問題はないだろう。

 しかし、いくら待っても、管理人は来なかった。

 もう一度呼び鈴を鳴らすが、来る気配すら感じられなかった。

「誰もいないの?」

 ユリア嬢が、フレイと同じように、玄関の中に顔を覗かせて、尋ねてきた。

「わからない。バトルも行なわれてないんだから、ひとりやふたり、ファイターが残ってるだろうし、それに、管理人までいなくなるなんて、めったにないよ。そもそも、管理人が外出するときは、メイドが残って番をしているはずだよ」

「入ったら怒られるかしら」

「あとで掃除するしかないね。濡れたままいたら、風邪引いちゃうよ」

 そう言ってフレイは、肩をすくめて、中に入った。

 寄宿舎のロビーは、静寂で、フレイと、ユリア嬢の、水に濡れた靴の音だけが、響いた。

 フレイは、その異常な雰囲気に、足を止めた。ユリア嬢もつられて、フレイの少し後で、立ち止まる。

 するとその時、遠くの方から、階段を下りてくるような足音が聞こえてきた。その音は、ロビーの方に向ってくるように、少しずつハッキリと聞こえてきた。

 フレイとユリア嬢は、顔を見合わせて、しかし、どこかいぶかしげに眉をひそめあった。

 ロビーに駆け下りてきたのは、フレイよりも、ファイターランクが上の男だった。名前は知らない。フレイたちに目もくれず、つき動かされるようにロビーを横切る彼を、フレイは呼び止めた。

「どうかしたのか?」

 男は、走ったまま軽く振り向いて答えた。

「ケティル3世が、刺されたんだ!」

 それだけ言うと、男は、ロビーの奥の通路に消えていった。

 残されたふたりは、言葉の意味を理解しかねて、顔を見合わせたが、すぐに、男のあとを追っては知りだした。




 ロビーの奥の食堂に大勢集まって、モニタの前で固唾を呑んでいた。リッツも、最前列に陣取ってモニタに食い入るように見入っている。物音ひとつ立てず、さらには、フレイとユリア嬢が、入ってきたことすら、まったく気にもとめない。

 フレイとユリアは、少し端の方から、顔を覗かせて、モニタに映し出されている映像を眺めた。

 モニタには、傘を差した男のインタビューアーが、闘技場に隣接されている病院の前に立ち、現在のケティル3世の様態を告げていた。

「2時間前に搬送されて、今もなお、ケティル3世の緊急手術が行なわれています。裂傷箇所は、5カ所。傷が深いため、出血が酷いとの情報が入っております。皇族の血液は特有の種類であるため、輸血のための血液型が、足らず、ケティル3世のご兄弟や、ケティル2世のご親族関係者が、自分の血を分けて、懸命にケティル3世を救おうとしています」

 フレイは、ユリア嬢の方を見た。

 ユリア嬢は、少し暗い瞳で、モニタをじっと見つめていた。

「事件が起こったのは、2時間ほど前。視察で行かれた、農区05エリアの乾期農業事業研究所から出た直後のことです。刃渡り15センチの出刃包丁を持ったふたり組が、SPの制止をかいくぐり、ケティル3世に近づき、計5カ所の外傷を負わせました。内3カ所は、内臓にまで達する刺し傷との情報が入ってきましたが、詳しい状態は、まだ入ってきておりません。ケティル3世を襲ったふたり組は、その場で取り押さえられ、現在、農区05警察署にて取り調べが行なわれています。そちらの方にもインタビューアーが、取材に行っていますので、いったんカメラを移してみましょう。農区05署の前のトロッチさん、お願いします」

 画面が変わった。

 警察署と思われる建物の前に詰めかけている記者たちの様子を移し、それから横にカメラを振って、女のインタビューアーが、マイクを持って話し始めた。

「農区05署の前では、ごらんのように、国中の新聞社、テレビ関係者、週刊誌の記者が集まって、新しい情報が入ってくるのを今か、今かと待っている状態です。ケティル2世の葬儀と、一連の事件の取材に来ていた国外のメディアも、集まってきているようです。一時は、警察や軍関係者と、衝突する場面も見られましたが、今は静かになっております」

 女が、建物の方を向くと、カメラもそれに会わせて首を振って、建物の3階の辺りに焦点を合わせる。

「犯人は今、建物の3階で、警察機関と、軍部が共同で、取り調べを行なっている最中です。今のところ、両機関から取り調べに関する情報は下りてきていませんが、どうやら、犯人が犯行動機を話し始めているという、情報が流れてきています。正式な情報が入りましたら、また連絡をしたいと思います」

 画面上の女が、軽く頷くと、画面はまた、病院のカメラに切り替わった。

 フレイは、画面に見入っているユリア嬢の肩に手を置いた。ユリア嬢は、静かにフレイのほうに視線を向けて、それから少し前のめりになっていた背を伸ばした。

 ユリア嬢は、食堂の出入り口を指さし、歩き始めた。

 フレイもそれについて歩く。

 食堂を出て、少し歩いたところで、ユリア嬢は、大きく息を吐いた。

「犯人は、なんの目的で、刺してきたのかしら?」

 少しうつむき気味に、廊下の先を見ながら呟いた。

 フレイは、その言葉に応える情報は持っていなかったが、ユリア嬢の口から出たはじめの言葉にしては、あまりに冷たいのではないかと思った。

「お兄さん、心配だね」

 フレイの言葉に、ユリア嬢は、首を少し振り向かせて、フレイの方を向いた。

「そうね。心配、かな」

 濁すような口ぶりに、歯切れの悪さを感じた。

「でも、お兄さんらしい事されたことないし、歳も10歳以上離れていると、なんだか、お兄さんとは思えないかな。それに、血がつながってるって言うのも、あまり、実感ないから、他人みたいなんだよね……」

 抑揚なく話すユリア嬢の口ぶりは、まさに、他人事のようだった。

 フレイは、それについて、深く追求することはなかった。家庭の事情だろう。

「まァ、ともかく。ケティル3世個人に対する攻撃の場合と、王族に対する攻撃の場合があるから、ユリア嬢も、あまり外をひとりで歩かない方が良いかもね」

「護衛をお願いね」

「ああ、雨が止んだら、送っていくよ」

 フレイは、近くの窓に近づいて、空を見上げた。

 後の方で、ユリア嬢が、小さく尋ねてくる。

「ついてきてくれる?」

「もちろん」

「わたしの部屋までだよ」

 フレイは、振り返って、ユリア嬢の方を向いた。

 ユリア嬢は、廊下の壁により掛かって、目を閉じて、呟いた。

「敵は、外部のものとは限らないでしょう」

 静かな廊下には、雨音が響いてきた。

 ユリア嬢の目は、冗談を言っているような雰囲気ではなかった。

「何か知っているの?」

 フレイの言葉に、ユリア嬢は、首を振って答えた。

 何か知っているわけじゃない。フレイは、ユリア嬢が、不安を感じていることを、直感した。瞳が微かに震えている。フレイは、ユリア嬢に近づき、額の髪に触れた。

 黒髪は湿り気を帯び、額に張り付いていた。

「とりあえず、服を乾かすか、着替えた方が良いね。さっきの部屋に、アンダンテの姿が見えなかったけど、自室にいるのかな?」

 フレイは呟きながら、廊下の先に目を移した。




 アンダンテの部屋の前に立ち、フレイは、ドアをノックした。

「アンダンテ、いる?」

 何度かノックをするが、返事がなかった。

 ユリア嬢は、不思議そうに、フレイの顔を見ながら、尋ねてきた。

「どうしてアンダンテにようがあるの? あなたの部屋に、乾かすものは、ないの?」

 フレイは、左右を見渡し、誰もいないことを確認してから、小さな声で話した。

「濡れた格好でいつまでもいられないだろう。アンダンテから、服を借りようと、思ってね。僕の服じゃ、少しサイズが合わないんじゃない」

 背筋を伸ばして、フレイは、ユリア嬢の前に立つ。身長は、フレイのほうが高く、肩幅も、広い。足の長さも違うから、フレイのズボンをユリア嬢がはけば、かなり不格好になるだろう。リッツから借りても良いが、たぶん彼の場合は、サイズが小さすぎて、入らないだろう。

「サイズ大きそうだね。でも、乾くまで、フレイの服でも良いよ。別にそれで、外を出歩くってわけでもなししね」

「そう? じゃあ、アンダンテもいないことだし、僕の部屋に行こう」

 ふたりが歩き出したとき、ちょうどアンダンテの部屋のドアが開いた。気配に気づいたフレイが、ふと振り返ると、包帯で顔をぐるぐるに巻いた、アンダンテが、顔を覗かせていた。

 何? とでも言うように、一瞬首をかしげる。

 フレイは立ち止まって、ユリア嬢を引き留めた。

「寝てたの?」

 フレイの言葉に、アンダンテは首を振って答えた。

「そう、ユリア嬢の服が、雨に濡れてしまってね。乾くまで、何か適当な服を借りれないかと思って、尋ねたんだよ」

 アンダンテは、フレイのとなりに立っているユリア嬢の方を見て、少し黙ったあと、右手を覗かせて、人差し指で、“来い来い”とジェスチャーをした。

 ユリア嬢は、目をしばたたいて、フレイの方に顔を向ける。

「アンダンテは言葉を忘れたんだよ」

「そうなの?」

 ユリア嬢は、好奇の目で、アンダンテの方を見て、「でも貸してくれるのなら」と歩き始めた。

 フレイも後に続いて、アンダンテの部屋に向おうとしたが、アンダンテが、手の平を開いて、フレイに入ってくるなとジェスチャーを送った。フレイは、頷いて、廊下の壁に背をつけた。

 ユリア嬢が、不安そうな顔を向けるが、一言、「大丈夫」と答えておいた。彼女が、アンダンテの部屋に入っていくのを見送って、フレイは天井を見上げた。

 意外と時間の掛かるのに、ため息をつき、フレイは、床に腰を下ろした。

「ファッションショーでもやってるのか?」

 しばらくすると、ユリア嬢ひとり部屋から出てきて、フレイに、一枚の紙を渡した。

“返さなくて良い”

 少し尖った文字で、そう書かれていた。

 なるほど、言葉は忘れていないようである。

 ユリア嬢は、紺色のワンポイントの入ったTシャツに、デニムという、軽装だった。ビニール袋に、濡れた服を入れて、少し重そうに持っている。フレイがそれに気づいたのを見て、ユリア嬢は、ビニール袋を、フレイに差し出した。

 フレイは、肩をすくめて、それを受け取り、自室の方を指さして、歩き始めた。

 ユリア嬢は、フレイの隣にならびながら、自身の足元を見た。白ベースの黄色いラインが入ったスニーカが、跳ねている。自慢するように、口の端を上げた。

「おろしたてのスニーカーよ。黒のミュールにするか、迷ったんだけど、アンダンテさんが、こっちが似合ってるって言うから、こっちにしたの」

「へぇ、それは文字で?」

「ジェスチャーで」

 ユリア嬢は、左右、前後に首を回して、廊下に人がいないのを確認すると、声をひそませて話した。

「女性の方だったのね。ちょっと驚いたわ」

「へぇ、向こうが教えてくれたの?」

「いいえ」

「まァ、服を借りたんだから、それくらいわかるか」

 フレイがそう言うと、ユリア嬢は、少し頬を赤らめて、フレイの背中を力強く叩いた。

「もう、いやらしい!」

 フレイは背中をさすりながら、苦笑いを浮かべた。

 なるほど、フレイは、靴のことを言ったのだが、顔を赤らめると言うことは、アンダンテから、下着も借りたと言うことらしい。

 ユリア嬢は、唇を尖らせて、すねたように、そっぽを向いた。

 フレイは、微笑みながら、隣を歩いた。

 自室に近づいて、ふいにその微笑みが、固まった。

 背筋がぞくっとするような、抽象的な寒気をフレイは感じた。エレボスの乱れだ。

 背後で物音がして、振り返ると、アンダンテが、廊下に出てくるところだった。彼女もフレイと同じように、何か悪寒のような、エレボスの変化を感じたらしい。露出している口元をきりっと結び、警戒するように、静かに動いた。

 アンダンテは、ゆっくりと、足音を立てずにフレイとユリア嬢の側に寄った。それから、フレイの部屋を人差し指で指して、頷いた。

 フレイは、自分の部屋がゴキブリで満たされているように、いやな顔をした。

 ふたりは、ユリア嬢を3歩ほど、下がらせた。狙いがユリア嬢の可能性も残っていたので、ひとりで逃がすことは出来ない。アンダンテが、ユリア嬢の前に立ち、フレイが、壁に張り付いて、ドアに左手を伸ばした。まだ魔法は、使っていない。相手が、エレボスの流れを索敵している可能性があったので、攻撃する直前に、エレボスを溜める必要がある。

 ドアノブをゆっくり回すが、内部機構が古いため、途中でバネが弾けたような、微かな軋みがした。フレイはそれを合図に、一気にドアを開けた。

 瞬時に、右手に、エレボスを溜めて、部屋の中を確認した。

 中には、人らしきものがいた。

 ドアを開けたのにもかかわらず、それは、フレイに背を向けたまま、微動だにしない。

 長いローブを羽織り、頭はフードで隠れている。

 見覚えのあるローブ。

 黒地に、裾の方に、筋の糸で刺繍が施されている。先日フレイとユリア嬢を襲ってきた、ローブ野郎である。

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