第11話 涙と、微笑みの遺珠
パラパラと、ガラスが落ちてゆく。
フレイの首を締め上げるその腕には、見覚えがあった。
黒い鎧。
加減という言葉を知らないとでも言うように、それは、フレイの首を握りしめた。
“ヤバイ!”
フレイは、自分の危機に焦った。
喉を絞められているため、声が出ない。しかしそれでも、締め上げている手を解こうと、両手に力を入れ、何とか気道を確保する。
「ユ、リア――」
フレイの口から、かすれる声が聞こえてきた。
「ユリア!」
2度目の声は、部屋の中にいる人間に聞こえただろう。
カーテンが閉められていたため、中の様子は見えなかった。しかし、黒い鎧――アポォリオンが守る人間など、この国にはほとんどいないはずだ。正確に言えば、ケティル2世と、ユリア嬢。フレイの望みでもある。もしユリア嬢がいなければ、助かる見込みはない。喉を締め付ける握力はさらに増し、それを抑えているフレイの腕力では到底、防ぎ切れないほどになっていた。
カーテンが開き、ユリア嬢が顔を覗かせた。
白い顔。
その死んだような顔は、すぐに生気を取り戻し、窓の前に立っているアポォリオンの胸に手を当て、顔を見上げた。
「話して、大丈夫よ。悪い人ではないわ」
その言葉に、握力が弱まり、フレイは、アポォリオンの手から逃れた。
咳き込みながら、下を覗けば、ローブの人物が、顔を覗かせたところだった。唯一露出している。口元に嫌らしい笑みを浮かべて、右手をフレイにかざした。
ユリア嬢が、窓のドアを開けて、顔を覗かせる。
フレイは、窓の冊子に取り付いて、力尽くで、部屋の中に飛び込んだ。ユリア嬢と、窓の側に立っているアポォリオンに阻まれるが、四の五の言っていられる状況ではない。
「窓から離れろ!」
フレイは、声を上げて、窓の冊子に足をかけ、ユリア嬢ごとアポォリオンを押した。
攻撃の対象から外れたためか、アポォリオンは、予想外に簡単に倒れた。
床に倒れるユリアの悲鳴をかき消すように、轟音が、窓の外を通過して、どこかに炸裂した。
フレイは即座に身を起こし、窓の方を向いて身構えた。
ユリア嬢が、アポォリオンに起こされながら、不満の声を上げる。
「いったい何事ですの?」
「わからない。何ものかが、襲ってきてるんだ」
部屋は暗く、明かりも灯っていなかったが、フレイがは言ってきた窓の外から漏れる光のおかげで、どうにか、様子が見えた。
足の感触からすると、高級そうな絨毯が敷かれ、部屋の中央には、キングサイズほどのベッドが置かれ、大きな腹――あまりにも太っていたため、すぐにケティル2世だと連想することが出来た――が、見えた。戦闘をするには、少々、物があり過ぎだった。
向かい合わせに大きなソファが置かれその間に、テーブルが置かれている。ハッキリとは見えないが、ほかにも置物のシルエットが見られた。巨漢のケティル2世の部屋とは思えないほど、物がたくさんあった。歩けば、確実にぶつかるのではないだろうかと、うっかり思ってしまうほどだった。
ユリア嬢は、フレイの肩に手を置いて、少し揺すりながら、言った。
「なにが起こっているか、知りませんが、ここはお父様のご寝室です。それに、お医者様が、“今は安静に寝かせておかなければいけない”とおっしゃっていました。戦うなら、外でやってください」
「それは、襲ってきてる奴に言ってもらいたいなァ」
フレイは苦笑しながら、答えた。
ユリア嬢は、眉をひそめ、それからアポォリオンの胸にそっと指を触れた。
「アポォリオン。お父様を守って」
アポォリオンの兜の目が、うっすらと蒼く光り、ベッドの方に歩き始めた。
その時、部屋の壁の一部が爆発し、大きな穴が空いた。
ユリア嬢は、悲鳴を上げながら、頭を抱えてフレイの背後に回り込んだ。小さな破片が、飛んでくるのを、フレイは、腕を払って交わした。アポォリオンも、ベッドの前に立ち塞がり、飛んできた破片からケティル2世を守る。
ローブを被った人物が、エレボスに干渉して空を飛び、大穴の外にぬっと顔を出した。
「あれが、襲ってきたという犯人なの?」
ユリア嬢が、フレイの肩口に目を覗かせて、問いかけてきた。
ローブの人物は、外に浮かび上がったまま肩をすくめて、おどけるように話した。
「犯人とは心外だねぇ、お姫様。僕はまだ犯罪を犯していませんよ」
「器物破損、家宅侵入、建造物破壊は、立派な犯罪だ」
フレイが、突っぱねると、ローブの人物は、大きく口を開けて、笑い出した。
「君は人のことを言えるのか? 家宅侵入、僕がいなければ、お姫様の部屋に忍び込んで、婦女暴行までしかねない勢いじゃないか」
後に隠れていたユリア嬢が、フレイの背中を叩いた。
「それは本当なの?」
「ちょっと心配で覗きに来ただけさ」
「覗き!? まァ、嫌らしい」
ユリア嬢は眉をひそめて、フレイの尻をつねった。
フレイは、痛みにこらえながら、弁明する。
「意識がないって言ったから、様子を見に来ただけだよ」
「意識がないお姫様を襲うつもりだったらしいねェ」
茶化すようにローブの人物が話に割り込んでくる。フレイはにらみつけ、低い声で言った。
「くだらないこと吹き込むなよ」
ローブの人物は、にやりと笑うと、右手をかざして、エレボスを溜め始めた。
フレイは、ユリア嬢や、寝ているケティル2世に被害が出ないように、ローブの人物を回り込みながら、窓の方に走った。しかし、ローブの男はそれを無視して、ユリア嬢に向って、火の玉を放った。
ユリア嬢も、フレイも、あっけにとられて、動きが一瞬止まる。
アポォリオンは、ケティル2世を守っているため、ぴくりとも動かない。
フレイは、急旋回して、ユリア嬢に向って、突っ込んだ。
固まったまま動かない、ユリア嬢の腰を押して、ケティル2世のベッドの方に突き飛ばす。
火の玉は、フレイに直撃し、フレイは、窓の反対側にある、部屋のドアまで吹き飛ばされた。衝撃を、支えきれず、ドアが開き、フレイは廊下に転がった。
衣服に引火したので、慌てて、空気中の酸素と水素に干渉して、体の周りを水で洗い流す。少し火傷をしたように、皮膚に痛みが走った。髪からは焦げた匂いが漂ってくる。部屋の壁を、吹き飛ばすほどの衝撃をくらい、フレイは少し意識朦朧とした状態で、上体を起こした。
ユリア嬢が駆け寄ってくる。
フレイの衣服を払い、心配そうな表情で何かを語りかけてくるが、耳が遠くて何を言っているか聞こえなかった。
ユリア嬢の奥――部屋を横切って、ローブの人物が、フレイとユリア嬢の方に歩いてきていた。
何かフレイは、嫌な予感につき動かされた。体を起こし、口を開いて、ユリア嬢に指示を出す。頭に響いては着ているが、言葉として発音できているかわからない。
ユリア嬢の顔は、依然として、心配そうな表情のままだ。
相手は、ユリア嬢を、狙って攻撃していた。フレイが、助ける、助けないにかかわらず、狙いは、ユリア嬢だ。それを一刻も早くユリア嬢に伝えなければならない。
しかしそれよりも早く、ローブの人物の攻撃が飛んできた。
フレイはユリア嬢の手を引いて、駆け出した。
着弾した火の粉が舞い上がり、絨毯を燃やす。
走りながらそれを振り返ってみていたユリア嬢が、突然フレイの方を向いて、大きく目を見開いた。
「狙われているのは、わたくし?」
フレイは、頷き返した。それからふたりはもう一度振り返って、ケティル2世の寝室の方を見ると、ローブの人物が、顔を覗かせ、そして、部屋の中に身を引っ込めた。
ユリア嬢は、走りながらフレイの方を見た。
「お父様を放っておいて大丈夫かしら、あの人の狙いが、本当はお父様で、私たちを引き離すのが目的だとしたら?」
フレイは首を振って、かすれた声を出した。
「だと、すれば、端からケティル2世の方を狙ってるよ。それにアポォリオンが付いているんだから、下手に敵意を向けられないだろう。狙われているのは、明らかに君だ。それより、どこか隠れる場所か、外に出るかした方がいい。ここじゃ戦えない」
ユリア嬢は、すぐに頭を切り換えて、通路の先を指さした。
「だったら、この先の2番目の十字路を左に曲がれば、3階まで下りる階段がありますわ。もしくは、そこのふたつの部屋!」
ユリア嬢は、すぐそばの通路向かい合ったドアを指さした。
「そこのふたつの部屋は、今の時間誰もいないはずだから、窓から、飛び降りれば、簡単ですわ」
「はは、度胸があるね。お姫様とは思えないよ」
フレイはにやりと笑いながら、ブレーキをかけて、左側のドアを押し開けた。ケティル2世の部屋が、通路のちょうど突き当たりにあった。そこから左右に折れる通路があったが、ローブの人物が、建物の左と右に回り込むかで、安全度合いが変化する。
フレイは押し開けて、すぐに、ドアを閉めた。
「あいつが、外にいた」
そう言って、ユリア嬢の手を引いて、向かいのドアに近づく、しかし、たどり着く前に、背後から轟音が響き、フレイは、ユリア嬢の腰を抱いて、通路の進行方向に、横っ飛びした。最初に開けたドアが、衝撃で吹き飛び、そのままの勢いで、向かいのドアを叩いた。火の手の勢いはさらに勢いを増し、廊下の天井に取り付けられた火災報知器を燃やした。しかし、けたたましい音は鳴らず、ただスプリンクラーから水がまかれた。
フレイは水を浴びながら、ユリアの手を取って、走り出した。
頬を歌う滴をぬぐい、フレイは何か奇妙な感覚に落ちた。しかし、ぼうっと考えているヒマは許されない。フレイは、ユリア嬢の言葉通り、ふたつめの十字路を左に曲がった。
ユリア嬢が小さく悲鳴を漏らす、ふたりは、そこで立ち止まり、足を戻した。
階段の下には、ローブを揺らして奴がいた。
「何人いるの?」
ユリア嬢が、小さく呟く。
フレイは曖昧に返事をするしかできなかった。もしかしたら、服数人いて、建物を包囲している可能性もある。
希望があれば、外に逃げ出した。ルイーゼが戻ってきて、脱出の手助けをしてもらいたいところだが、廊下を走り回っていれば、どこに自分たちがいるかもわからないため、あまり希望が持てないだろう。
ルイーゼがアンダンテをつれて戻ってきてくれることも、考えられるが、どちらも、憶測だ。今は自分の力で、困難を乗り切ることを考えるしかなかった。
「非常口はないの?」
フレイは、ユリア嬢の手を取り、小声で問いかけながら、通路を曲がらずに真っ直ぐ進んだ。
「あるはずですけど、すぐには思い出せないわ。建物の中は広いし、何より、頻繁に使わないから――」
通路の奥から止みに紛れて、ローブの人物が現われた。
フレイは振り返って、追い詰められていないかを確認する。幸いなことに、後からは、誰も来ていなかった。通路の左右には、ドアがあり、逃げ入ることも出来るが、中に待ち伏せされている可能性も考えられたので、うかつには入れなかった。
フレイは、怯えるユリア嬢に耳打ちをする。
「建物を壊すことになるけど、良いかな?」
「え――? そんなこと言われても」
判断を決めかねているが、答えを悠長に待っていられない。
フレイは、しゃがみ込んで、床に手を突いた。
ローブの人物が攻撃を仕掛けてきた方法で、フレイは、床をエレボスで干渉した。
床が盛り上がり、絨毯が円状に切り裂かれ、宙を舞う。
しかし次の瞬間、床は一気に陥没し、支えをなくして、下の階に落ちていった。
ユリア嬢が悲鳴を上げて、フレイに掴まってくる。
フレイはそれを支えながら、怪我の内容に、瓦礫を避けながら下階に落ちる。
着地後、驚いた顔でフレイを見つめるユリア嬢に、苦笑いを作って見せ、フレイは、ユリア嬢を抱えたまま、走り出した。
「自分で歩けますわ!」
落ちないようにフレイの首に掴まりながら、ユリア嬢が叫んだ。
しかし、フレイはお構いなしに、すぐ近くの部屋のドアを蹴り開け、寝ている部屋の主が飛び起きるのも無視して、窓を蹴り開けた。警戒しつつも素早く外を見渡し、ローブの人物がいないことを確認して、フレイは部屋から飛び出した。
後で部屋の主が叫ぶ声が聞こえる。
月明かりのもとに躍り出て、フレイは、地上に着地した。エレボスを逆噴射して、クッションにしているため、かすり傷ひとつない安全な着地である。
ユリア嬢はため息をついて、フレイの顔を見た。
一連があまりにもとっさであったために、思考の一部が停止でもしたようだった。
ユリア嬢を下ろし、並木の下に移動させながら、フレイは、周囲を見渡した。
ルイーゼや、アンの姿は見えない。やはり、また建物の中に戻ったと考えて良いだろう。
建物の方から悲鳴が聞こえ、フレイは、今、飛び出してきたばかりの窓を見上げた。
そこにはちょうどローブの人物が足をかけて、窓の冊子の上に立とうとしているところだった。ローブが夜風にはためき、そいつは、ゆったりとした動作で、フレイたちを見下ろした。フレイたちが、外に出ることは、すでに計算ずくだったとでも言うような、そんな様子だった。
ふわりと窓から浮き上がり、上空に飛翔した。
「あのローブ野郎、まだ戦い足りないらしいなァ」
フレイは、それを見ながら、小さく呟いた。
エレボスのコントロールが不安定ではあるが、多少無茶でも、戦う選択をした。
誰かの助けを期待して、ユリア嬢を助けられなかったら、後悔するだけだ。フレイと、ユリア嬢がおとなしく死ねば、暴走したときの被害よりも数百倍は、被害が少ない。それは理解している。しかし、自己犠牲の精神は、自己欺瞞でしかない。
フレイは、エレボスを溜めて、自分の周りの分子に干渉する。体の周囲に密度が増し、ゼリーの中に入っているような、液体の中を泳ぐような、そんな小さな圧迫感が、皮膚に感じる。
それが本来の、エレボスの干渉なのだ。久しく感じていない。空を飛ぶ感覚。
魔法使いが戦うと言うことは、単純にエレボスを体内に溜め込んで、それを放出するだけではない。体内に溜め込んだエレボスと、体外のエレボスを反応させ、体の物質をバラバラに分解するようなイメージで、空気と同化するのである。
風が吹けば、フレイの体を通り抜け、雨が降れば、滴は、フレイをなぞりながら、溶けるように滑っていく。水と、体を構成しているタンパク質が、手を結ぶような、涼やかな感覚だ。
フレイは、空を飛んだ。
感覚には、周囲の空気に干渉して、押し上げてもらっているイメージだ。
ローブ野郎は、飛び上がってくるフレイにめがけ、馬鹿のひとつ覚えのように、火の玉を打ってきた。
フレイはそれを避けようともせずに、腹一杯に息を吸い、一気にそれを吹き出す。
ただの息ではない。
火の玉は、一瞬にしてちりぢりになった。
さらにその向こうにいるローブ野郎にも、強風となったフレイの息が襲い、突風にあおられて、木の葉のように後に飛ばされた。建物の壁にぶつかり、ひび割れたレンガが、地上に降り注ぐ。ローブ野郎の体は、軽く壁にめり込み、頭をがっくりと倒れても、壁にくっついたまま落ちなかった。
ローブ野郎は、頭を振って、顔を上げ、フレイを睨んだ。
「覚醒が始まっているかぁ、遊んでもいられないな」
そう言って、壁にめり込んでいた両腕を引っこ抜き、体を倒れかけながら、空中に跳躍した。風に乗るようにエレボスの流れに乗って、ローブの端をはためかせなが宙に舞い上がる。
ローブ野郎は、弓を引くように、合わせた両手を引いた。その間には、酸素に干渉して、エレボス反応を起こさせた火の棒のような物が伸び、さらに長弓のように上下に、弓と弦が広がった。
フレイは右手を掲げ、空気中の水分に干渉する。エレボスを使って強制的に凝固反応をさせると、手の上に直径5センチほどの氷塊が出来上がる。それは左右に伸びていき、大きな太いつららが製氷された。
ふたりは、火と、氷の矢を同時にはなった。
矢はほとんど同じような速度でぶつかり、爆発音を轟かせた。水蒸気が広がり、視界が、悪くなるが、フレイにとっては、それはどうでも良かった。周囲のエレボスに干渉しているため、ある一定の範囲であれば、その中でなにが起こっているのかを、感知することが出来た。それはもちろん相手にも言えることだ。
今のフレイのエレボスの領域は、半径およそ10メートル。その端で、空中――水蒸気の中を突き進んでくるローブ野郎の感覚が、まるで見ているように、脳の中でイメージが起こされる。
霧が晴れるより先に、脳の中のイメージが、ローブ野郎が手をかざすのが見えた。フレイが距離をとろうと下がろうとしたとき、ローブ野郎の手の平がフラッシュした。
一瞬にして、フレイは、感電した。意識を失いかけ、エレボスの干渉がとかれる。
予想外の展開に、フレイは、焦った。
並木に頭から落ち、小枝に頬を切る。そのまま枝に引っかかり、身動きがとれなくなった。
「電撃、か」
うめきながら、フレイは、硬直しかけている筋肉を働かせて、枝をどけようと、体を捻る。枝を足で押して引っかかっている体を起こそうとするが、思うようにいかない。それどころか、体を支えていた枝が折れ曲がり、フレイは、さらに落下して、木から落ちてしまった。幸いなことに、木製のベンチがしたにあり、その上に頭から落下した。ベンチは真ん中から折れてしまったが、そのおかげで、フレイは脳天をコンクリートに強打することはなかった。もちろん痛みはあるのだが。
ぐったりと地面に伏せてしまったフレイのもとに、ユリア嬢が駆け寄ってきた。
自分が狙われているというのに、まだ、こんなところにいるのか。とフレイは、言いたかったが、口からかすれた息しか漏れてこなかった。
ユリア嬢は、地面に膝を突いて座り込み、フレイの上半身を起こした。
心配そうな顔を覗かせて、フレイの頬を軽く叩いた。
少し離れたところに、ローブ野郎が降り立つのが見える。
フレイは、目を動かして、それをユリア嬢に伝えた。
ユリア嬢は、フレイの目の動きを見て、顔を回して、近づいてくるローブ野郎に気づいた。
ローブ野郎は、なんの躊躇も、迷いも見せず右の手の平をかざした。赤い閃光が、手の平の中心に収束し、炎の玉が、出来る。めらめらと燃える赤い炎は、徐々に大きくなっていき、直径1メートルくらいまで膨れあがった。
フレイは、体を起こして、戦おうとしたが、体が感電していたため、思うように動けない。
放電系の魔法は、光の速さで、対象物に、攻撃を仕掛けるため、前もって、自身の身体を防衛する盾を張っておく必要があった。完全にフレイのミスである。相手を見くびっていた。あとになって後悔しても遅い。
ユリア嬢が、フレイに覆い被さるように体を曲げて、フレイを抱きしめた。
フレイはユリア嬢の肩口から見える、火の玉をじっと見ていた。
なすすべはない。
ルイーゼ。
助けてくれ。
死を覚悟したとき、フレイとユリア嬢の前に、黒い巨体が、立った。
黒い巨体は、腕を振りかぶると、常識を無視して、火の玉を殴りつけ、ローブ野郎に向って跳ね返してしまった。エレボスの干渉で生まれた化学反応を殴るなど、常識では考えられない所業だった。
火の玉はローブ野郎に直撃して、悲痛な叫び声が上がった。
黒い巨体――アポォリオンは、フレイと、ユリア嬢を守るように仁王立ちになった。
その広い背中を、フレイは初めて、頼もしく思えた。
ユリア嬢が顔を上げて、前に立つ黒い甲冑を不思議がるように、目をしばたたいた。
「わたしを助けに来たの?」
ローブ野郎は、まさか跳ね返ってくるとは思っていなかったようで、火を防ぐエレボスの盾を張っていなかったようだ。全身に火の手が上がり、地面を転がりながら、叫びを上げ続けた。
フレイは、少しずつ筋肉のしびれが、治まってきたのに気づき、口を開いた。
「とりあえず、アポォリオン、がいれば、殺される、ことは、ないみたいだね」
力なく笑うフレイの肩を、ユリア嬢は、少し力を入れて、抱きしめた。
ローブ野郎は、ようやく体に着いた火に自分で生み出した水をかけて、沈下し、静かに地面にうずくまった。
死んだわけではないようで、すぐに、体を起こして、立ち上がった。フードの端が、ぼろぼろに焼け焦げ、すすになった部分が、風に吹かれて、地面に落ちる。明るい色の長い髪と、その髪越しに見えた、値のような赤い瞳が、フレイの目に入ってきた。
ローブ野郎はすぐに自分の顔を左手で隠し、後に下がった。
「フッ」
それから、口の端を、歪めて、鼻で笑い、後に大きく跳躍した。エレボスに干渉して、一気に建物の上にまで昇り、建物の影に隠れていった。
撤退したととらえても大丈夫そうな、沈黙と、しかし、不快感が、フレイの中に残った。
アポォリオンが出現したことで、勝ち目がないと思ったのだろうか。いや、それにしては、あまりにもあっけない終わり方だ。フレイは、思考を巡らせて、違和感を払拭しようとした。
「アポォリオンが、ここにいるってことは、命令が書き換えられたか、守るべき対象が変わったから」
フレイのその言葉に、ユリア嬢は、驚いて、フレイの顔を見た。
現時点で、アポォリオンの命令を変えられる人間は、ケティル2世と、ユリア嬢のふたりだけだ。仮に、そのうちのひとりが命を落としたとき、アポォリオンは、次にどんな行動をとるのか? フレイは、ルールを明確に知らないため、わからなかったが、ユリア嬢の顔が蒼白に変化していくのを見て、どこか答えを得たような気がした。
ユリア嬢は、アポォリオンに、フレイを担がせた。それから、自分を、父親の部屋に連れて行くように命令を下した。
その声は、緊張しているのか、か細くふるえていた。
アポォリオンは、ユリア嬢を、肩に乗せると、建物を迂回して、王の部屋の真下まで走った。それから、ローブ野郎が開けた大穴に向って、跳躍をした。
その間、ユリア嬢は、口をきかず。胸元に、手を当てて、自分を落ち着かせようとするように、じっと目を閉じていた。
王の部屋には、すでに先客がいた。
部屋は明かりが灯され、ケティル2世のベッドを継母や、その子どもたちが、取り囲んでいた。
窓の外から飛び込んできたアポォリオンを見ても、継母たちは、まったく動じず、冷たい視線を、送ってきた。
ユリア嬢は、アポォリオンから下りて、ケティル2世に近づこうとしたが、それをさせまいと、継母たちが、がっちりベッドの周囲を取り囲んだ。フレイは、何とかしてあげたかったが、アポォリオンの肩に担がれたまま、様子を見ているしかなかった。
やがて、ベッドの方から、うめき声が聞こえ、継母たちは、顔をそちらに向けた。
ユリア嬢も1、2歩、歩みだして、止まった。
ベッドを取り囲んでいた継母たちは、顔を見合わせ始める。その中のひとりが、ユリア嬢の方を向いて、口を開いた。
「ユリア。皇帝がお話になりたいそうです」
そう言うと、ベッドを取り囲んでいた継母たちは、全員引き下がり、ベッドから少し離れたところに集まった。
最期まで、ベッド脇に残って、ケティル2世の手を握っていた青年も、ユリア嬢に席を譲るように立ち上がると、継母のところまで下がった。その途中で、アポォリオンに担がれているフレイのほうに視線を送ってきた。その視線は、背筋が凍るほど冷たく、寒々しいものだった。
ユリア嬢が、ベッド脇に膝を突いて座る。
ケティル2世は、ユリア嬢の方に弱々しく手を伸ばし、そっとその頭を優しく撫でた。顔には微かに笑みが浮かび、目尻から、涙が溢れた。そして、その腕は、力なくベッドの上に崩れ落ちた。もう二度と、意志を持って動くことはない。
ユリア嬢が、ベッドの上に投げ出されたケティル2世の手を取って、顔をうずめた。
声を上げて、涙を流す。
最期に話すことも出来ずに、ケティル2世は亡くなられた。
継母たちも顔を伏せた。
部屋の明かりが、無神経にとうとうと灯り続けた。
夜風が、部屋の壁の大穴から吹き込み、悲しみを慰めているようだった。
(Book One End)
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