第8話 アポォリオン
目覚めると、フレイは自室のベッドで眠っていた。
窓が開けられて、床に明るい影を作る。
風が強いのか、外の木の葉が大きく波打っていた。
部屋の中に入ってきた風は、ベッド脇のポールにかけられた点滴の袋を揺らす。袋からチューブが伸び、それはフレイの左手にされた包帯の下につながっている。
体は思うように動かせない。ただ清潔なベッドや、掛け布団、枕のシーツが心地良い香りを漂わせていた。
いつからベッドに横になっているのか、すぐには記憶をたどれなかった。しかし、徐々に記憶の映像が、断片的に蘇り、寒気を感じた。
天井を見ながら、フレイは、額に手を置いて息を吐いた。
ガーゴイルとの戦いの最中、誰かが語りかけてきたかと思うと、いろいろな感覚が空の状態になった。感情的な変化は何も感じない無意識のような感じだ。耳から聞こえる音は遠のき、心臓の鼓動がやけに強く聞こえたような気がする。体が自分以外の意志で、動かされているのだが、触覚や視覚などの五感は、フレイの意識化に置かれていた。だから、ガーゴイルを素手で、引き裂いたときの皮膚の暖かみであったり、切り裂かれていく繊維と繊維の感触は、指先が覚えていた。
当たり前だが、フレイは人でも、獣でも、皮膚を素手で引き裂くなど、経験はなかった。
かなりショッキングな、体験だ。
そして、天に向って放ったエレボス波。
暴走の規定値を、完全に超えた量のエレボスを体に溜め込み、それを放出した。
意識半分、体半分、暴走をしていたのは、すぐにわかった。
あの声――女のような声が、フレイを暴走させた張本人ということになる。
ルイーゼから聞いた、イドによって生まれた生命体。
確実なことは何もわかっていない。ただ暴走したという事実だけが、残された形だろう。
その時、部屋のドアをノックする音が聞こえた。
ドアはフレイの返事も待たずに開けられ、白い紙袋を抱えた包帯に顔をくるんだ人物――アンダンテが、入ってきた。
アンダンテは、すぐにフレイが目覚めていることに気づいた。目だけをドアのほうに向けているフレイの顔を見て、アンダンテは頷いた。
外に出ていたのか、アンダンテは、ツバの広い麦わら帽子を脱いだ。それから、奥の窓の脇にある、本や、髪が雑多に山積みになっているテーブルの上にそっと置いた。テーブルから椅子を引いて、持っていた紙袋を置くと、中身を探り、透明な袋――換えの点滴の袋を取り出し、慣れた手つきで、ベッド脇に掛かっているものを新しいものに交換した。
「どのくらい寝てましたか?」
フレイの声は、かすれていた。
長い間眠っていて、声帯を使わなかったから、筋肉が硬くなってしまったのかも知れない。
アンダンテは、指を4本立てて、答えを返し、今まで吊されていた点滴袋を紙袋にしまった。
フレイはそれをベッドの上から見ながら、体を起こそうと、身をよじった。背中の筋肉が固まって、左右に体感を捻れば筋肉が伸びる感触が、鮮明にわかった。
アンダンテが、ベッドに近づいてきて、フレイがおきるのを手助けしてくれる。壁のあいだに枕を置いてクッションにして、フレイは、手こずりながらもベッドの上に座ることが出来た。
「ありがとう」
フレイの言葉に、アンダンテは、頷き返した。
相変わらず、喋ろうとはしなかった。
アンダンテは、椅子の上に置いてあった紙袋を掴むと、椅子をベッドの側まで引いてきて、それに腰掛けた。別に話し掛けてくるわけでもなく、外を眺めながら、じっとしている。
アンダンテの意図は、読みかねたが、どうやら、少し部屋にとどまってくれているようだった。
「ルイーゼとの戦いは、どうなりましたか?」
はたして、会話が成立するのか不明だったが、フレイは自然にアンダンテに話し掛けた。
アンダンテは、静かにフレイの顔を見ると、膝の上に置いていた紙袋をベッドの端にのせて、椅子から立ち上がった。それから、テーブルの上の帽子を取って、そこから、新聞を取って寄こした。
用意のいいことだ。
話を聞かれたときのために、あらかじめ買って置いたのだろうか。そう思いながら、フレイは新聞を広げた。
一面にふたりの戦いの結果が載っている。
“ルイーゼ勝利!! 最強のファイターに初黒星!!”
「ルイーゼが勝ったのかぁ。アンダンテは負けるの今回が初めてなんですね」
椅子に腰掛け直したアンダンテは、小さく頷いて、外に顔を向けた。相変わらずサングラスをしているので、その表情は読み取れなかった。
記事は、アニムス同士の戦いが、いかにすさまじいものかを克明に記載しながら、戦いの流れを追っていた。
どちらも最初からアニムスの力を使って、全力でぶつかり合ったらしい。ルイーゼの超剣は、アンダンテのアニムスの能力の前に、傷ひとつ与えられなかったようだった。勝利した理由には触れられていない。記者の認識力が足りないのか、“4時間の死闘の末、アンダンテのアニムスの効果が切れかかり、ルイーゼの剣が勝利した”と抽象的に書いてあった。
アニムスは、能力のレベルを上げる活力剤や、道具であって、それが切れると言うことはない。半魔人とはいえ、エレボスから生まれたもの。大気中にエレボスがあれば、無尽蔵にそれを使うことが出来る。もしアンダンテの能力が落ちてきたとすれば、持久力からくる、肉体的な疲労が原因だろうが、頂点に君臨し続けたアンダンテが、4時間程度で、持久力がなくなるとも思えない。フレイの憶測ではあるが、別の原因がルイーゼを勝利に導いたのだろう。
「怪我はなかったんですか?」
フレイが尋ねると、アンダンテは、少し体を斜めにして、背中を指さし、続いて、薄いチェックのシャツの袖をめくって、両前腕に巻かれた包帯を見せた。
「命が失われなかっただけ、マシ、という感じですね」
アンダンテは、頷いて、服の袖を戻した。
フレイはさらに記事を読み進めると、小見出しで、フレイの続いての対戦相手が紹介されていた。
“ルイーゼ対アポォリオン”
ファイターは、蓄えた賞金とともに、自由を手に入れるために、王直属の兵士と決闘をする。勝利したものが手にすることが出来る、木剣のために、乗り越えるべき敵は、予想通りアポォリオン。アポォリオンを前にふるえなかったファイターが今までにいただろうか。アポォリオンと戦って、自由を勝ち得たファイターがかつていただろうか。どちらもNOなのだ。
最強のファイターとなったルイーゼの相手にとって、不足なし。今までのファイターたちのように、アポォリオンの鋼の大剣に真っ二つに引き裂かれることはないだろう。
アポォリオンは、二〇〇年以上前のルマリアを襲った邪神の念を封じた鎧である。封じられた念は、王に仕えることをプログラムされ、王の命令に従って、これまでバトルアリーナ以外の戦場でも、その力を発揮してきた。一三〇年前のT89戦役に始まり、一〇〇年前のオヴェレリック戦争、九五年前のAB侵攻の阻止。数々の戦歴を飾り近年最期の大戦、六五年前の第三次世界大戦では、連合国軍の主戦力として、たった一体で、一五の敵連合国師団を壊滅と、三〇都市の開放を成し遂げました。
長く混乱と饑餓、貧困をもたらした大戦が終結し、バトルアリーナが開催されるようになってからは、王の兵の一員として、幾人ものファイターの自由の道を防いできました。最強のファイターを倒したルイーゼにとって、最期の強敵、血も涙も流さない邪神の化身たるモンスター。戦いのあと、ルイーゼの命があるかないかは誰もわかりません。1ヶ月後の決戦が決着したあと、すべてが明らかになるでしょう。
フレイは、新聞の日付を確認した。
ルイーゼ対アンダンテが行なわれた日の翌日の朝刊である。
ページをめくり、政治欄、社会欄を飛ばして、スポーツ欄を開くと、やや大きめに、フレイのことが取り上げられていた。
“暴走か!?”
決着の寸前。フレイ・ソールはそれまでの動きとは、明らかに違う様子だった。
髪の色が、オレンジに光り、電灯が灯ったかのような輝きをまとう。それまで体術では、傷ひとつつけられなかったガーゴイルの皮膚を、素手で、簡単に引き裂き、最期は、手から放ったビームで跡形もなく消滅させた。
ガーゴイルを連れてきた、リチャードゥ・Jr・ルマリア皇子に使えているヴラン・カァン氏によりますと、「ガーゴイルの皮膚は、鉄の糸を織って作られたように頑丈で、例え武器による攻撃でも、皮膚の下の発達した筋肉に阻まれて、一切のダメージは受け付けません。ガーゴイルを捕獲しようとした、一個師団が、どんな手を使ってもダメージを与えられなかったことが証明になるでしょう。肉体に比べ、知能が劣っているために、簡単な魔法による操作が効き、捕獲も成功しなかったと思います」
その場にいた観客は、フレイ・ソールが、ガーゴイルを引き裂いたあとの状況しか見ていませんが、フレイ・ソールの右手は、ガーゴイルの紫色の体液に染まっていましたので、それが素手で攻撃したことを証明するでしょう。おそらくは、魔法を使って、ガーゴイルの攻撃を防いだあと、イドによって軽度暴走し、何らかの魔法による補助を受けながら、ガーゴイルを攻撃したのだと思われます。
イドの暴走による被害は出ませんでしたが、観客が一時騒然とするような、悪寒を感じたのは事実です。それに対して、軍のアリーナ管理局のマンドレイク氏は、謝罪表明を行ない。記者会見の場で頭を下げました。これは、暴走したフレイ・ソールだけの問題ではなく、対戦相手に問題があったことを認め多ことになります。
この先の、フレイ・ソールのファイターとしての活動に、大きく影響を及ぼす事件となりました。今後の展開に注目が行くでしょう。
「勝手なことを言ってるなァ」
フレイは新聞を折りたたんで、アンダンテに返した。
イドの暴走するほど、エレボスは溜めていなかったはずだ。フレイのなかでは、安全圏で勝負していた。首を捻りながら、原因を考えるが、結論としては、ルイーゼの話した内容につながっていくように思えた。
つまり、イドとエレボスは、別々のところに溜められている。そして、イドはエレボスを溜めるためないに、かかわらず、その力を増大させていき、生命体になる。多重人格と違うところは、その人格が、フレイのどこに格納されているかだろう。ウィルスのように寄生して、栄養分を吸収しているのだ。そうすると、そのウィルスの目的は、なんだという話につながる。病原体としてのウィルスであれば、増殖するだけが目的であるが、フレイに取り付いたウィルスは、生命体として、自我を持っていると考えられる。
治療方法が、まだ考えつかなかった。
フレイから新聞を渡されたアンダンテは、新聞を開いて中の記事を読んでいた。まるで1面の自分の記事は見たくないと言うようである。
ふと、フレイの目に、“ルイーゼ対アポォリオン”の文字が入ってきた。
何か思考に引っかかった感触がする。
フレイは、ベッドの端まで移動して、ゆっくりと足を下ろした。貧血気味のように、一瞬立ちくらみを起こしながら、フレイは立ち上がった。
新聞を閉じて、フレイの様子をうかがっているアンダンテの方を向いて、フレイは言った。
「ちょっとアポォリオンを見てくるね」
着替えたフレイは、点滴スタンドをもって、闘技場裏の病院の入り口をくぐった。
平日の午後の診療が始まったばかりで、待合室には年寄りがあふれていた。ただし、どの年よりも、設置されたモニターでバトルアリーナの様子を熱心な目で観戦していた。
血圧が上がって倒れるんじゃないかと心配になるような、老人もいて、看護士に注意されていた。そもそもバトルアリーナの様子を病院で放送するなと言いたくなるが、要望が多いのだろう。病院を訪れる患者の顔を見ても、陰湿な暗さはなく。患者とは言えないような晴れ晴れとしている人が多いように見えた。
フレイは、何食わぬ顔で、前回アン・フォアイトにつれられて、病院の外に通じる道を逆走した。点滴スタンドを引いているせいか、病院の患者がうろうろしていると、看護士も何も尋ねてこなかった。
温暖な気候のせいだろう。少し人柄が穏やかになっているのかも知れない。
難なく、フレイは、アポォリオンが置かれている広間のドアにたどり着いた。
ガラス戸越しに、広間を覗く。人影はない。2階のほうも見てみたが、人通りはまったくなかった。そもそも、王室関係者立ち入り禁止なのであるから、そうそう人通りが多くても困るだろう。色のついたガラス越しだったが、広間のほうの照明が落とされ、薄暗くなっているのが何となくわかった。フレイは、そっとガラス戸を押し開けた。
首だけドアから出して、中の様子を探る。
「いや、やめてください」
女の潜めた声が聞こえてきた。
フレイは眉をひそめ、周囲を見渡すが、どこかの影に隠れているのか、姿は聞こえなかった。
「黙れよ。黙って俺の言うことを聞いてりゃいいんだよ。そうすりゃ、生活の保障だって、ちゃんとしてやるよ」
「あなたにそんなことされなくても、生活に困っていませんわ」
男女が言い争う声。
痴話喧嘩か?
フレイは、足音をひそませて、広間の中に入った。それから、ドアを静かに閉め、ドアにぴったりと背をつけて、どこから声が聞こえてくるのかを耳をすませた。
薄暗い広間は、右手側に天井がアーチ状の通路があり、左手に2階へ上がる階段がふたつあった。階段の登り口に挟まれるようにして、黒光りする鎧――アポォリオンが鎮座してある。2階の照明は薄暗い。広間の天井が、半球状の吹き抜けになっているので、言葉が拡散されて、位置がハッキリと特定するのに時間が掛かった。
「いや!」
少し強い口調で、女が声を上げる。
フレイは、音の出所を特定した。
アーチ状の天井の通路に顔を向け、それから、壁に背を当てたまま静かに歩き出す。
通路の奥は、ほとんど真っ暗で、微かに広間の薄暗い明かりが、差し込んでいる程度だった。ほとんど黒っぽい影の中にふたつの人影がうごめく。顔は見えない。目をこらして、瞳孔の絞りを開く――開くかどうかは、鏡を見ないとわからない。フレイの気分だ。
「母親が死んで、どうしてここに入れると思う?」
「ご自分の力だと思っているの? 自惚れないで、お父様のおかげですわ」
「だとすれば、父が死ねば、お前はどうなる?」
薄暗い明かりの中で、女は、両手を掴まれて、壁に押しつけられた。相手の男が、顔を近づけながら、いやらしい口調で話す。
「父と縁があるから、置いていられるのは道理だ。それが父のお前の母親への義理なんだ。その縛りがなければ、君がここにいられる理由があると思っているのか?」
「お父様を殺すおつもり?」
「まさか。あれだけ太っていれば、内臓に負担が掛かって、死ぬのは時間の問題だ。医者の精密検査で、異常が出ていても、生活態度を改めようとはしないんだぜ。自分で、自分を殺そうとしているのさ」
吐き捨てるように男は言うと、女に顔を近づける。
「いやッ――!」
女の口を塞ぐように、男の頭が重なる。
フレイは、とっさに叫んだ。
「衛兵! 衛兵! どこだぁ! 侵入者だ! 衛兵!」
腹の底から出したフレイの野太い声に、影にひそんでいるふたりが、顔を離した。
フレイは横目で、それを確認して、広間の方に歩いて行き、再度声を立てる。
通路にいる男は慌てるように言った。
「誰かくる前に、行くぞ」
「痛い!」
通路の方を見ると、大柄な影が、小柄な影の腕を引っ張っているところが見えた。
「いや、離して!」
小柄な影が、腕を振り下ろして、束縛から逃れ、壁に寄り添う。そして、広間のほうに倒れるように、歩いて来た。
後ろにいる男の影が、舌打ちをして、きびすを返して、走っていく。
広間に現われたのは、ユリア嬢だった。
ユリア嬢は、薄明かりの中、広間の中央に立つフレイを見つけて、目を丸くした。
「侵入者?」
フレイが声を上げたとも知らず、ユリア嬢は状況が飲み込めないで立ち尽くす。しかし、状況が飲み込めていないのは、フレイも同じだった。
現われたユリア嬢を、口を半開きに呆けた顔で見つめていた。フレイの叫んだ声は、静けさの中に消えゆき、衛兵などどこにも現われなかった。ただ薄い橙の照明の下に、ふたりはお互いを見やって、じっと佇んでいた。
落ち着いたユリア嬢は、フレイを叱らなかった。
フレイのほうは、興味はあったが、ユリア嬢が通路でだれといたのかを聞くことはしなかった。王族は、王族で、何かあるのだろう。スキャンダルを聞きたい気持ちは、多少はあるが、それを実行に移すのは下衆である。
「たぶん、間接照明に切り替わってるんだと思う。今はお父様も、お母様たちも、ほかの闘技場に出かけているから」
アポォリオンの左側にある階段の一段目に腰掛けて、ユリア嬢は、天井に吊されたシャンデリアを眺めた。
フレイは、ユリア嬢の言葉を聞きながら、アポォリオンの鎧の隙間に詰められた呪皮を観察していた。点滴スタンドに繋がれているため、移動するたびにそれを持ち運ばなければいけないのが不便であった。
呪皮には、黒い済のようなインクで、模様のほかに、ところどころ文字や、記号が書かれていた。触感は、ゴムで、弾力が跳ね返ってきた。
ユリア嬢は、フレイが聞いているか、聞いていないか関係なしに、ひとり話し続けた。
フレイはそれを、さっきのショック症状を和らげるあらわれだと思い、嫌がらずに話し相手になっていた。と言っても、フレイのほうが、不法侵入者であるから、王族を無視して勝手に振る舞うことも出来なかった。
「あなた、ご家族はいらっしゃらないの?」
「弟がひとり」
「どこにいらっしゃるの?」
「さぁ? 去年ジオフロント魔法学校と言うところを卒業して、まァ、魔法学校を卒業しても、魔法使いとしての職場はもうないからね。たぶん、別の仕事をするために勉強をしているか。学校の教官の研究を手伝ってるんじゃないかな」
「あの――」
ユリア嬢は言いよどみながら、フレイに問いかけてくる。
「お父様とお母様は?」
「出来れば、その話は、したくないかなぁ」
フレイは、鎧の腰の関節部分を守るシールドを持ち上げながら呟いた。
フレイの位置からは、ちょうど、階段の手すりの影に隠れていて、ユリア嬢の顔が見えないが、彼女は小さくと息を吐久のが、聞こえてきた。
「わたくしのお母様は、わたくしを生んですぐに亡くなられたわ。出産の時の出血多量が原因。一度もお顔を拝見したことはないけれど、美しかったと聞いているわ」
「写真も、絵も残ってないんですか?」
「ええ。わたくしが生まれると同時に家も没落してしまったので、すべての財産は国に回収されてしまった。わたくしは修道院に送られて、15歳になるまで、そこで暮らしてたの」
「その話なら、アンという女の子から聞きました。彼女とは仲がいいんですか?」
フレイは、アンがユリア嬢の髪を撫でながら、さとすように声をかけていたときの様子を思い出した。
「姉妹だと思ってます。たぶん彼女も、そう思ってくれています。王室に呼び戻されるとわかって、不安になっていたわたくしを心配して、ついてきてくれたんです。王室に戻って2年間、苦しいときはいつも彼女が私の支えになってくれた。……どうしてわたくし、あなたにこんなことを話しているのかしら?」
「ふふふ、それは、話し終えて気分がスッキリしてから、考えたらいいんじゃないんですか?」
ふたりは、顔を見合わせて、小さく笑いあった。
「聞いてもいいですか? 15歳になって、わたくしを王室に戻した理由を、あなただったら、どうお考えになりますか?」
「誰が呼び戻したかによるけれど、必要だったから、戻したんだと思う」
「命じたのは、お父様らしいわ」
「だったら、跡を継がせるか。ユリア嬢のお母さんに似てきたからか。かわいくなってきたから、マスコットとして側に置いておきたかったか。あとは、何も考えてないか。すぐに思いつくようなことだと、今言ったものだと僕は思うな。君はどう思ってるんだ。僕に尋ねるってことは、何かしら、自分なりの考えがあって、それを確かめたいと思ってるんだろう?」
フレイは、アポォリオンの設置されている台座から下りて、点滴スタンドをもち、階段に座るユリアの隣に腰を下ろした。
ユリア嬢は、広間の絨毯に視線を落とし、やや間を置いて、首をかしげた。
「わかりませんわ。わからないのね。たぶんあなたのおっしゃった、何も考えてらっしゃらないと言うのが、正解なのだと思う。もしくは、わたくしのお母様に対する義理か」
「血縁はあっても、他人か。だったらユリア嬢も、そこまで父親に縛られる必要はないと思うけど、口で言うほどは簡単じゃないんだろうね」
ユリア嬢は、軽く鼻をならしてから、ゆっくりと立ち上がった。スカートをはたき、埃を取るような仕草をする。それから、深呼吸をひとつして、フレイに顔を向けた。
「ところで、あなたはこんなところで何をしてらっしゃるの?」
フレイは立ち上がり、点滴スタンドを肩に担ぎながら、階段を少し上って、手すりに寄りかかり、鎮座しているアポォリオンを見た。
薄明かりの中、不気味に佇む鎧。黒光りする鎧は、どこかゴキブリを連想させ、少し嫌悪してしまう。
「邪神が封印されている鎧。その封印について、少し知りたかったんです。自分の体の中に蓄積されるイドを封じる手立てはないのか。どうすれば、イドを消費・消化することが出来るのか。そのヒントがあるかと思ったんだけど。記号と模様、書かれている文字の意味が読み取れないからね。一筋縄ではいかないよ。まさか自分の体を呪皮の中に閉じ込めるってことも出来ないしね。呼吸が出来なくて、死ぬよ」
ユリア嬢は、アポォリオンの前に進み出て、それを見上げた。
「口のところだけ、呼吸をするために開けておけばいいのではなくて?」
「封印は、完全に密封されている。鎧の指関節や、腰のシールドを動かしてみたけれど、どれだけ動かしても、隙間ひとつ出来ない構造になってる。呪皮が詰まっているからだけではなく、鎧の構造自体、考えて作られているんだね」
ユリア嬢は、台座の上に乗って、足の関節部分を指先でなぞる。
「アポォリオン」
そのつぶやきに反応するように、呪皮に記された模様が、薄明かりの中、赤く発光し始めた。
頭の兜の部分が、息を吹き返すように、顔を上げた。
ユリア嬢は驚いて、台座から飛び降りて後ろに下がった。フレイも、点滴スタンドをひっつかむと、階段を駆け下りて、アポォリオンの前に立った。
兜のちょうど目の部分にオレンジ色の明かりが灯り、まるで目のように、フレイとユリア嬢を見下ろす。
足を持ち上げ、少し高くなっていた台座から下りる。広間の絨毯は、長い毛をつぶされ、アポォリオンの足跡がついた。
アポォリオンは、一定の距離を保って立ち止まる。ユリア嬢とフレイが1歩下がれば、それに反応して、1歩前に進んだ。
フレイは、アポォリオンから視線を話さずに、ユリア嬢に尋ねる。
「君との距離を測っているみたいだけど?」
フレイの影に隠れて、アポォリオンをのぞき見ているユリア嬢は、フレイの背中を少し押しながら答えた。
「そんなことを言われても、知らないわ。まさか動くなんて思ってませんでしたもの」
「アポォリオンは、王族の言うことを聞くって、新聞に書いてあったぞ。台座に戻れって指示を出した方がいいんじゃないのか?」
「そ、そうか」
ユリア嬢は、相変わらずフレイの背中を押して、アポォリオンの盾にしながら呟いた。それから、フレイの肩口からアポォリオンを見ながら、口を開く。
「台座に戻りなさい、アポォリオン」
しかし、アポォリオンは何も返事をせずに立ち尽くしたまま、動かなかった。
「手を触れなきゃダメなんじゃないんですか?」
「え、嫌よ。恐くて近寄れないわ!」
「でもこのままにして置くわけにもいかないでしょう?」
首を横に振って、フレイの影に隠れてしまったユリア嬢に、フレイは続けていった。
その時アポォリオンが動いた。思いのほか素早い動きで、フレイのほうに突進し、太い右腕を前に伸ばす。
フレイは、とっさに左手に点滴スタンドの柄をにぎり、右腕をユリア嬢に回して抱えると、横に飛んで逃げた。
アポォリオンは、急旋回して、自重などものともしないで、フレイを追撃する。着地寸前のところで、胸ぐらを掴まれ、フレイは、ユリア嬢から引き離されるように、階段のほうへ吹き飛ばされる。その勢いで、点滴が外れた。
倒れかかるユリア嬢をアポォリオンは抱くように支える。
点滴スタンドが、広間の壁に当たり、跳ね返ってユリア嬢のほうに跳んでいくが、アポォリオンが、身を挺してそれを庇う。
絨毯の上に転がるフレイはそれを見ながら声を上げた。
「あなたを守ろうとしているんだ! いまのうちに早く台座に戻るように指示を!」
ユリアが頷いて、アポォリオンの胸に手を当てようとするが、さっと起き上がらされたために、目標がそれる。
アポォリオンは、ユリア嬢の前に立ち、フレイを見下ろす。
慌ててアポォリオンの腕に抱きついて、ユリア嬢が止めようとするが、アポォリオンの動きは速かった。箱入り娘につかまえられるような動きであれば、戦争で活躍できるはずもない。
フレイのすぐ頭上に飛びかかってきたアポォリオンは、拳を振り上げて、振り下ろした。
フレイは、寸前のところで、転がり攻撃をかわす。
アポォリオンの拳が、絨毯を巻き込んで、床の中にめり込んだ。破壊された床の破片が、散った。
休む間もなく、アポォリオンは攻撃を繰り返し、フレイは、広間の中を跳躍して逃げ回った。
広間が破壊されていく中を、ユリア嬢は右往左往しながら叫ぶ。
「どちらも止まりなさい。フレイ! 止まらなければ、アポォリオンに触れることも出来ませんわ!」
その通りなのだが、アポォリオンの攻撃は、ガーゴイル以上に早く、確実にフレイをとらえてきている。まさに王族を守ろうと、敵と判断したものを駆逐する操り人形である。立ち止まるヒマがあれば、すでに立ち止まっている。逃げているのはそれなりのわけがあるのだ。
フレイは、奥歯を噛み、殴りかかってくるアポォリオンを飛び越えた。アポォリオンは体を捻って、フレイの足をつかまえようと、空いている手を伸ばしてくるが、ギリギリのところで、フレイが身をよじって交わす。そのまま絨毯を転がり、姿勢を低くしたまま起き上がり、ユリア嬢のほうに走る。
アポォリオンも狙いに気づいたようで、ユリア嬢の前に立ち塞がって、拳を構えた。
「いまのうちに触れ!」
フレイが叫んだ。
振り下ろされる鉄拳を、交わし、アポォリオンの股の間を滑り込む。
「台座に戻りなさい!」
そこへ、ユリア嬢の声が響き渡る。その声は、アポォリオンの腕が地面に突き刺さる音にかき消される。
緊張の糸が張られ、静寂が下りる。
フレイの耳にユリア嬢の荒い息が聞こえてきた。
アポォリオンは、ゆっくりとした動作で、体を起こすと、足音を響かせながら、台座のほうに戻っていった。
それを見送るユリア嬢は、肩の力を抜いて、大きくため息をついた。
「フレイ、もう大丈夫よ」
広間を見渡し、自分の足下に滑り込んできているフレイを見つけて、ユリア嬢は、穏やかな笑みを作った。
フレイは、少し顔を赤らめながら、ユリア嬢から視線を外して、小さく呟いた。
「意外とセクシーな下着履いてるんだな」
滑り込んださい、ちょうどユリア嬢のスカートの裾がめくれ上がり、中の下着が見えてしまったのだ。
不可抗力である。
ユリア嬢は、フレイの言葉の意味に気づき、スカートを抑えながら、フレイの頭を蹴りつけた。
避けることも出来たが、あえてフレイはそれを受けた。
ごめんと……。
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