第6話 虚栄心の城
しばらくすると、病室のドアが開く音が聞こえた。
入眠する間際の、リラックスした状態であったため、フレイの耳にその音はクリアにはいってきた。
「引き留めておいて?」
医師の声とは違う、若い女の声がした。
「はい。奥のベッドに眠っています」
「そう」
硬いヒールの音を響かせながら、フレイの横になっているベッドのように歩いてくる。フレイは目を開けて、音のするほうに視線を向けた。
カーテンが勢いよく引かれ、整った顔立ちの女が、姿を現した。
見下すような、冷ややかな瞳は、笑えばかわいらしさがにじみ出るような、大きな瞳であったが、精神がゆがんでいるのか、鬱屈した人生を歩いてきたのか、卑屈さを醸し出していた。
女の顔には、うっすらと見覚えがあったが、どこであったのかはっきりと思い出せなかった。薄い空色のドレスを着て、上腕まである白い手袋をしている。片口が露出して、透明な白い肌が露出していた。髪はよく手入れをされていて、頭の後ろで、ドレスと同じ色のリボンを結んでまとめていた。
「何か御用ですか? お嬢さん」
フレイは、枕に頭をうずめたまま問いかけた。
女は、分と鼻を鳴らすように、顎を一瞬上げて話し始めた。
「いいえ、ただ顔を見ておきたかっただけよ」
その言葉にフレイは、眉をひそめて、問い返した。
「どこかであったことありましたか?」
女は、振り返って、入口のデスクのほうから様子をうかがっている医師の方に顔を向けてから、フレイを見直した。
「わたくしをご存じない?」
挑戦的なその口調に、フレイは、頷くしかなかった。
知らないものは知らないのだ。どうしようもない。人の顔を覚えるなど、注意してしてきたわけではない。どんな服装をしているか、その服装から、人物のバックボーンを想像したりすることはあっても、相手の表情から、その人がどんな人間かなど、考えないのだ。顔は嘘をつけるから。
女は、フレイの横になっているベッドを左手で叩きながら、身を乗り出してきた。
「わたくしは、ユリア・R・ルマリアよ! あなたとは、先ほどのアリーナで会っていますわ」
この国の皇帝ケティル2世の隣で、手を振っていたマッチ棒――皇女だと、フレイはその時始めて気づいた。確かにマイクの男が説明していたが、ケティル2世があまりにも太っていて、ボールとマッチ棒の親子という印象しか残っていなかった。それだけではなく、遠目だったために、余りよく見えなかったことも、覚えていない原因だ。
「それは失礼しました。遠くにいましたので、マッチ棒という印象しかありませんでした」
「マッチ棒?」
ユリア嬢は、ふと、眉を捻り、視線を横に向けて考え、その言葉がどんな意味を示しているのかを、考えた。すぐにその言葉の持っている意味が連想されて、フレイに八重歯を向けた。
「無礼な!」
右手を振り上げると、横になっているフレイの頬めがけて、平手を振った。
だがフレイが避けられないわけもなく、さっと状態をずらし、頭を枕の横に落とす。ユリア嬢の平手は空を切った。その勢いのせいで、体のバランスを崩し、ユリア嬢は、体を捻りながら、ベッドに倒れてきた。フレイはとっさに布団の中から手を出して、ユリア嬢の右肩を支えて、倒れるのを防ぐ。ユリア嬢の露出した右肩は、少しひんやりと冷たく、やわらかかった。
フレイは、ユリア嬢の肩を押して、起き上がらせる。
ユリア嬢は、右肩を左手で、何度も払いながら、身をひいた。
「ばい菌はついてませんよ」
潔癖症なのか、ユリアのその仕草に呆れながら、フレイは、枕の上に頭を戻した。
「不愉快な」
吐き捨てるように言うと、ユリア嬢はきびすを返した。拳を力強くにぎり、肩を緊張させながら、足早に入り口の方に歩いて行く。意志が頭を下げるが、それを無視して、ユリア嬢は、部屋から出て行った。
「なんだ?」
フレイは呟きながら、上体を起こした。
ユリア嬢が変えると、医師はフレイに、もう戻って大丈夫だからと言って、診療所から出した。
どうやら、彼女が医師にフレイを引き留めておくように頼んでいたようである。
「顔を見たかったから? なんのことだ」
フレイは、ユリア嬢の言葉を復唱して、肩をすくめた。
何かの意味があってのことだろうが、彼女のその言葉からだけでは、推測しきれなかった。王族の人間に砂をかぶせた奴の顔を拝んでおきたかったのか。それとも、魔法平和利用条約の制定の原因になった人間の顔を見たかったのか。しかし、フレイの顔は、一時期ニュースで、良く報道されていたはずである。いちいち顔を見に来なくても、当時――2年ほど前の記事を探せば、裁判中のフレイの顔が見つかるはずである。
「まァ、結構美人だったから近くで見られて良かったかな」
ひとりごちりながら、診療所の前に立ったフレイは、廊下の左右を見回した。
服は返してもらったが、砂だらけで着て変えるわけにもいかない。患者用の寝巻きで外をうろつくのも、あまり格好の良いものではないが、やむを得ない。
廊下は、入り組んでいるらしく、どちらの方向に、出口があるのかわからなかった。診療所の中にいる医師に聞けば、わかることだが、出口に向ったところで、別にこのあと行くところはない。フレイは、診療所のドアを開けて、中にいる医師に声をかけた。
「今何時ですか?」
「15時過ぎよ。早く行きなさい」
夕飯までには3時間、空きがある。フレイは、ドアを閉めると、適当に廊下を進み始めた。
バトルアリーナに戻っても、結局はルイーゼのバトルを見ているだけでしかない。フレイは底まで戦いを見たいとは思っていない。そもそも、一歩間違えば死んでしまうような戦いを、なぜ好きこのんで観客は見るのだろうか。その神経がまだわからなかった。わかろうとしないとも言えるが、わかりたくないのだから、理解しようとしないのは当然だろう。
ファイターたちが戦うのも、結局は、それが職業だからと言うだけの話だ。拍手を送られたときにフレイが感じた、高揚感も、もしかしたら手伝っているのかもしれない。一種の芸能活動なのだろうか。
フレイはぼんやりと考えながら、廊下を歩いた。
廊下は、なんの飾り気もなく、通路の中央に緑色の太い線が引かれているだけだった。左右の壁には、木製の手すりが備え付けられている。病室の扉――表札が掛かっている――を開けて中を見る気にはなれず、フレイは、ただひたすら歩いた。意外に広い建物の造りをしているらしい。
運ばれているあいだ目を閉じていたため、バトルアリーナから、どのようにして、診療所に運ばれてきたのか不明だが、バトルアリーナの中にある診療所ではないようだ。外に出た気配はなかったから、地下道を通って、近くの施設に運び込まれたのだろう。
「バトルアリーナ周辺を散策しておけば良かったな」と呟いた。
少し歩くと、両開きの色のついたガラス戸があった。
少し薄暗くサングラスのような色のガラス戸の向こう側は、明らかに病棟ではない雰囲気を持っていた。
正確な色は、把握できないが、濃い色の毛並みの良い絨毯が敷かれた大きな広間になっていて、その天井には、豪勢なシャンデリアが釣られている。フレイから見て、左手側の広間の奥には、巨大な鎧の置物が置かれ、それを磨いている女がいた。裾の広がったスカートに、前掛けをして、ぞうきんを片手に、自分の身長の倍もある鎧の隙間を掃除している。
さらにその奥には、置物を中心にして、左右から2回に上る階段が作られていた。フレイの位置からは見えないが、2階に上がるまでのあいだに、踊り場があって、そこで左右の階段がつながっており、さらに、左右に分かれていた。“X”字を作る構造になっているらしい。手すりの装飾もこっていて、建築に詳しくないフレイでも、お金がかけられていることは、一目瞭然であった。
鎧の置物がある反対の右手側には、アーチ状の天井の通路が延びている。
フレイは、ガラス戸を押し開けて、広間の中に入った。
ふわふわとした絨毯が、フレイの足を包んだ。
フレイは、鎧を掃除している女の子の方に歩きながら、声をかけた。
「大きな鎧ですね」
女の子は、ゆっくりと振り返り、フレイを見ると、視線を上下させて、微笑みながら話してきた。
「200年前に作られたものね。それよりも、ここは皇族専用の区画になりますから、見つかると、叱られますよ」
フレイの格好を見て、患者だと思ったようだ。不法侵入者に見られないだけマシだろう、と思いながら、フレイは、鎧の前に立って、その黒光りする甲冑を見上げた。
「見つかっても叱られるだけなら、叱られるまでいますよ」
「あら、わたしが叱るわよ?」
女の子は、そういって笑いながら、鎧掃除の仕事を再開した。
プラチナブロンドの髪を肩まで伸ばしたかわいらしい女の子で、まだ、20歳を超えていないようだった。身長も、フレイよりも頭ひとつほど小柄で、どこか学生の頃の後輩を思い出させた。まん丸の目をして、幼さの特権か、妙に話しやすい穏やかな暖かみを感じた。そんな女の子が、無骨な鎧の掃除をひとりでしているのだから、アンバランスな印象を受ける。
女の子は、鎧の胴体を拭き終えると、鎧の乗っている台座から飛び降りて、脇に置いてあるバケツにぞうきんを浸した。
「ひとりで掃除するには、大変じゃないんですか?」
フレイが尋ねると、女の子は、白い歯を見せて、返してきた。
「最初は、大切なものだから緊張して、時間も掛かかったけど、もう2年も毎日拭いていると、愛着が湧いて、楽しいわ。冷たいのに、なんだか鼓動が感じられるの」
そういうと、女の子は、バケツの隣に置いてあった、木の踏み台をとって、鎧の台座によじ登った。
「ときどき、200年もルマリアを見守ってくれて、ありがとう、なんて話し掛けながら、なんだか人形に魂が宿る、って古い呪術の本とかに書いてあるみたいに、この鎧にも何か宿ってるんじゃないかと思っちゃうのよね」
「ふぅん、鼓動ねぇ」
見上げた鎧は、黒光りして、かなり重量がある様子だった。置物でなく、誰かがこれを着て動けるとすれば、おそらくそれは、人間では無理だろう。不思議なことに、その鎧の隙間という隙間には、黄土色の素材で、目張りがされてあり、完全に密閉されていた。近づいて、見えない部分――鎧の重なっている部分を少し持ち上げてみても、同じように目張りがされていた。
「ああ! 触っちゃダメよ!」
女の子は、踏み台から飛び降りて、フレイの手を鎧から離した。
「壊れたら大変!」
「ごめん、でも、この鎧、なんで目張りされてるんです?」
「目張り?」
女の子は、首をかしげて、フレイの見ていたところをのぞき込んだ。
「ああ、ジュヒですね。呪う、皮と書いて“呪皮”というんです。これは、鎧の中に封じ込められている邪神アポォリオンの心を外に出さないようにしているという話しです」
「アポォリオン?」
「ええ、200年以上前にこのブラック・ティタニウムの鎧に封じられ、ルマリアの危機には、その力を王族のために使うとされています。ですが、最近は危機と言うよりも、ファイターの卒業試験にかり出されることが多いんですけどね」
女の子はそういって、鎧の兜を見上げた。
「じゃあ、この鎧は動くってことですか?」
フレイの問いに、女の子は、少し寂しそうに頷いた。
そこへ、広間に声が響いた。
「アン、アンー!」
その声に反応して、女の子は、踵を上げて弾みながら、顔を上げた。
「はーい!」
女の子が返事をすると、2階の手すりから、ユリア嬢が、嬉しそうな表情で顔を覗かせた。
「ルイーゼが勝ったわ――あっ!」
その顔も、女の子の隣にいるフレイを見つけると、一瞬にして豹変した。明らかに不満そうに、口をとがらせ、眉間に皺を寄せた。ユリア嬢は、手すりから離れて、駆け足で階段を下りてきた。
女の子は、水の入ったバケツを済に置き直しながら、明るく話した。
「さすが、ルイーゼさまですね。今日は8連戦で、大変な試合運びになるかと心配してましたけど、その心配も、いらなかったみたいですね」
女の子は、階段を下りてきたユリア嬢の顔を見ながら離した。
ユリア嬢は、階段の最期の3段を飛び降りて、手すりに掴まりながら、弧を描いて、女の子とフレイの前に立った。
「アン! どうして、この男がいるのよ!? ここは、王族や、関係者以外は立ち入り禁止なのよ!」
腰に両手を当てて、強い口調でユリア嬢は、フレイをにらみつけた。
女の子――アンは、フレイとユリア嬢の間に立って、困ったようにフレイの方を見ながら口を開いた。
「はい、わたしもそう話したんですけど、叱られるまでは大丈夫と言いまして」
「アンが叱らなきゃダメなのよぅ」
ユリアは額に手を当てて、頭を垂れた。
フレイは人ごとのように笑いながら、肩をすくめた。
「何かあれば、ユリア嬢に呼ばれたと言いますから安心してください」
「冗談ではないわ! そんなことをされたら、わたくしに迷惑が掛かります」
ユリア嬢は、フレイの肩を押して、強引に病棟のドアのほうに体を向けさせ歩かせた。
あせったような表情に、フレイは不思議に思った。王族であれば、どうどうと、フレイに出て行けと指示を飛ばせばよいと思うのだが、ユリア嬢は、眼をキョロキョロと左右に動かして、誰かに見つかりはしないか、気にしている様子だった。
フレイがドアに近づいたとき、広間の2階のほうから声がかけられた。
「ユリアさん、どうされたのですか?」
ユリア嬢のフレイをお捨てが止まった。フレイとユリア嬢は声のした方を見上げると、2階の手すりのところに、派手なドレスを着た婦人が数人立っていた。その奥には、ユリアと同い年か、それ以上の青年や少女がユリアのほうを、まるで見下すように、視線をしたにして見ていた。
「お母様、たち」
ユリア嬢は呟くと、広間の中央に歩いて行って、両手を広げて、婦人たちに話し掛けた。
「病棟から患者が、迷い込んでしまったので、今外に出てもらおうとしてもらっていたところです」
婦人たちは、手にした扇で口元を隠しながら、目を細めた。
「そんな使用人のするようなことは、皇女のあなたがする必要はありませんよ。少しは、自分の立場をわかって頂けないと、物笑いの種にわたくしたちを巻き添えになさらないでくださいね」
そういって、婦人たちは顔を見合わせて、卑しく笑った。
ユリアは、俯いて、膝をつき、小さく返事をしただけだった。
指導している。教育をしているというふうには到底見えなかった。明らかに、ユリア嬢を蔑み、いじめているとしか見えないその様子に、フレイは、疑問と同時に不快感を覚えた。
ユリア嬢と、母親たち――なぜ複数形なのか――のあいだに何かがあってのことだろう。それを知らないフレイが、立ち入るのは、火に油を注ぐようなものだ。心ではそう思っていても、フレイの口は、いつの間にか開いていた。
「そんなことで、物笑いの種になるわけないだろう。それに、迷い込んだ人間を、外に出す仕事は、使用人だろうが、誰だろうが、問題が起きる前にやるべきじゃないんですか?」
「なんですって?」
フレイの言葉に、2階の手すりにいた母親たちは、目の色を変えた。
広間の中央で、膝をついていたユリア嬢も、顔を上げて、驚いた顔をフレイのほうに向け、ウィスパーボイスで怒鳴った。
「何を言い出すの! 余計な気づかいは無用よ!」
フレイは別に気づかいはしていない。母親たちの言葉に、おかしなところがあったから、指摘しただけなのだ。もちろん、指摘しようと思ってはいなかったので、これから起こる問題は、少々面倒に感じている。
母親たちのひとりが、扇を閉じて、フレイのほうに向けながら、大きな口調を出した。
「あなた、誰に向って口をきいているのですか。平民の分際で、皇族に意見を申すなどとは不届きな。皇族の区画に侵入しただけでも、大罪であるにもかかわらず、よもやわたくしたちに意見をするなど!」
それぞれの国には、その国の仕来りがある。
確かに、フレイの常識はこの国では通じないのかもしれないが、その母親の言っていることは、世界基準から見ても、明らかに時代錯誤だった。
「皇族って言ったって、ただの血族でしかないのではないんですか。そこに本当にいるべき人であれば、もう少し正常な判断をすべきだと思います。平民の言葉と言って、はねのけるのは、愚かな人間にしかできない。身分が違っても、その意見を聞き、正しければ採用する、正しくなければその考えをただそうとするのが、賢い人間の所業なのではありませんか」
「わたくしたちを愚弄するつもりですか!?」
母親たちの後ろにいた若い男女も手すりのところにまで歩いて来て、フレイのほうに注目した。
多勢に無勢。
若い男女の服装からしても、ユリア嬢の母親たちと同じく、皇族であることは確かだ。きらびやかな金ピカ主義。服装選びのセンスはあるようで、その格好に不快感を持つことはないが、そのどの顔も、フレイを完全に蔑むような、いやみったらしい表情をしていた。
「何を騒いでいるか?」
母親たちの奥から、太い声が聞こえ、2階の手すりにいる者たちは、全員振り返った。彼らは、道を空けるように頭を下げて、ふたつに分かれ、声の主を通す。
従者ふたりに車椅子を押してもらいながら、巨漢の主――皇帝ケティル2世が現われた。
ケティル2世は、手すり越しに、首を少し伸ばし広間にいるユリア嬢、フレイ、そしてアンに視線を送る。
「ユリア、そこで何をしている?」
「はい、お父様。病棟から患者が迷い込みましたので――」
「フレイ・ソールか?」
ユリア嬢の言葉を遮って、ケティル2世がフレイに視線を向けた。フレイが頷くと、彼は満足そうに首を上下に動かした。
「先ほどの戦いは、良かった。これからも、観客を魅了するために、精進するがよい」
「勝手なことを言いますね。僕は、ルイーゼとは戦うつもりがなかった。けれども、あなたの身勝手な言葉のせいで、かり出されただけだ」
「しかし、観客を魅了した事実は残っている。ファイターなら、それは誇りに思え」
「僕はかってにファイターにさせられたんだぞ! 自分の意志でファイターになったわけじゃない。あなたの国の軍が、人さらいめいたことをして、戦う人間を補充しているんですよ。これが国際社会にばれれば、どんな制裁が加えられるか、わかっているんですか?」
フレイの言葉に、ケティル2世は、大きく笑うだけで、何も反論をしてこなかった。かわりに、広間でひざまずいていたユリア嬢が立ち上がり、フレイにツカツカと歩み寄ってきた。
「跪きなさい! それが皇帝に対しての口の利き方ですか!」
そういってユリア嬢は、フレイの両肩を押さえつけて、かがませようとした。だが、女の子の力でフレイを跪かせるほど、フレイは非力ではなかった。どれだけユリア嬢が力を込めたところで、無駄なことである。
「よさないか、ユリア」
ゆったりとした口調で、ケティル2世はユリア嬢に話し掛けた。
ユリア嬢は、ケティル2世のほうを見上げながら、眉をひそめて、困ったような表情を作る。
「ですが、お父様に対して、失礼な物言いをしたのですよ。謝罪させなければ、ならないのではありませんか?」
「言葉による攻撃であれば、応える必要はない。それに対して腹を立てるのも、時間の無駄だ。ユリア、おまえのしている行為も、労力の無駄であるから、やめなさい」
ユリア嬢は、言われるがままに頷いて、フレイから離れた。
ケティル2世の両脇にいる、母親や、その取り巻きが、クスクスと声をひそませてユリア嬢をあざ笑っているのが聞こえてきた。ユリア嬢は、両手を腰の前で組んで、顔を俯いてしまった。
ケティル2世は、鼻息を漏らし、フレイのほうに視線を向けた。
「ファイターは社会のはみ出しものであったり、社会から、排除されるべき人間が、正常な生活をするために作られたシステムだ。自分たちの飯を、観客を沸かせることで、得る。普通に働いて、食事を用意することが出来れば、それにこしたことはないが、アニムスのように、普通に働けないものは、社会の中で、受け皿になる場所が必要なのだ。お前も、ファイターなら、寮で生活しているだろう。その寮で住むファイターが、どんな表情をしているか、じっくりと帰って観察するんだな」
そう言ってケティル2世は、後ろにいる従者に合図を出した。合図を受けた従者は、車椅子を後ろに引いて、ケティル2世を下がらせる。
フレイは、ケティル2世の言葉の意図を掴みきれずに、前に乗り出した。
「それと、人さらいとは、関係ないだろう! 僕が言っているのは、多国籍の人間を、誘拐する行為が、国際犯罪ではないのかと言っているんだ!」
ケティル2世は、後ろに下がりかけた車椅子を止めもせず、フレイを冷笑するように見下ろした。
「邪悪なるものを消滅させた英雄だとしても、これから先、暴走して大老殺人を犯すような危険性があれば、国際社会から、排除されても誰も文句は言わない。お前は、自分が生きることを望まれていると思っているのか? 一部の親しい人間ではなく、社会から必要とされていると思っているのか?」
「僕がファイターになるのは、必然だったと言うことなのか? 仕組まれていたのか?」
フレイの問いには答えずに、ケティル2世は、命令するような強い口調で返した。
「ファイターとして戦え、商業的に成功すれば、まともな生活が出来るようになる。ハハハハハ!」
野太い笑い声を上げて、ケティル2世は従者に車椅子を押されて、2階の奥に消えていった。後に続いて、母親たちや、その取り巻きも、行ってしまった。
フレイは、消えてしまったケティル2世がいた空間を呆然と見つめて、固まっていた。
自分が社会から、排除されることを望まれている人間だとしても、それほどショックはない。見知らぬ人間に「お前いらない」などと言われても、鼻で笑う程度のことだ。そもそもケティル2世の言葉をすべて鵜呑みにするほど、彼の情報が正しいのか、判断がつかない。
それよりも、フレイが、掴まったことがシナリオであれば――。
フレイは、首を振って、頭の中で浮かんだ思考を忘れようとした。飛躍して考えている。冷静な、客観性もなければ、正しい情報もないのだ。総計しても、何にもならないだろう。
一連を見ていたアンが、フレイを気にしながら、ユリア嬢の方に歩いて行った。
「大丈夫ですか、ユリア」
「ええ。お父様は、わたしに何か大切なことを教えてくれようとしているだけなのよ。あの人たちの前で、恥を掻かせようとしているわけじゃないわ」
フレイは深呼吸して、固まっていた体の緊張を解いた。それからアンに肩を抱かれているユリアに眉をひそめた。
「お母様たち、て、なんで複数形なんです?」
ユリア嬢は、フレイの方も見ずに、何も応えなかった。
代わりにアンが、フレイに顔を向けた。
「さあ、あなたはもう帰りなさい。うろうろされては、迷惑ですから、あたしが玄関まで送っていきましょう」
有無を言わさないような、強い視線でフレイを直視したあと、アンは、両手でユリア嬢の肩を抱いて、優しい口調で、声をかけた。
「ユリアはひとりで戻れるよね?」
ユリア嬢は、小さく頷いて、アンを軽く抱きしめた。
「ありがとう」
呟くと、ユリア嬢は、フレイに一瞥もくれずに、階段を駆け上がって行ってしまった。
それを見送るフレイを、アンは、ガラスドアのほうに促した。
「調べればわかることだから――」
皇族の区画から出て、フレイを玄関まで案内している最中に、フレイはユリア嬢のことを聞き出そうとしたが、アン・フォアイトは一向に口を割らなかった。
だが、誰でも知り得る情報は、外に出るまでのあいだの話だねとして、フレイに教えてくれることを、承諾した。
「ケティル2世には、正妻のほかに6人の内妻と、9人のお子様がいるの」
「お盛んなことですね」
「ええ、そうね」
アンは、微笑み返した。
「ユリアのお母様は内妻のひとりだったの。でも彼女が、2歳の時に亡くなられて、ケティル2世が、子育てに無頓着だったから、ユリアは、すぐに修道院に預けられたわ。一昨年の15歳の誕生日に、ここに戻って来るまでは、静かに暮らせたのに」
アンの表情が、少し曇る。
“継母のイジメかな”
フレイは、典型的、と内心、鼻で笑った。
「それはそうと、どうして、アンは、ユリアと呼び捨てにしているんです。身分は、どう見ても、違うようですが?」
アンの格好はどう見ても、使用人の格好だ。まさかアンも、ケティル2世の血縁者とは言うまい。髪の色も違えば、ケティル2世とユリア、その家族の持っている雰囲気とは、似てもにつかない。
「あたしは、ユリアが預けられた修道院で一緒に育てられたのよ。ちょうど同い年だったから、兄弟のように遊び回ってたわ。一昨年ここに戻ってくるときに、彼女もひとりじゃ心細いからって言うし、使用人の働き口もあると聞いたから、一緒に出てきたの」
「それで、あの鎧を2年間、掃除してるってわけかぁ」
アンは、クスクスと笑いながら、フレイの背中を叩いた。
「あれは、仕事の一部よ。アポォリオンの掃除しかしてないみたいに言わないで。ほかにも、クラスAファイターの生活を見たり、皇族が住むこの城や、王都の本城の清掃をしたり、ほとんど休むヒマがないんだから」
「アハハ、こき使われてるんだ?」
「お給料は良いから、まだ許せるけどね」
そういってアンは、茶目っ気たっぷりにえくぼを作って、笑みを見せた。
通路を下り、階段を下りると、廊下の先に、夕焼けに照らされた町並みが見えた。ふと、それまで歩いて来たところで、窓がなかったことを、フレイは思い返した。建物の外周部を通らずに、内部を通ってきたのだろうか。
フレイは、寄り道をされないように、玄関を出るまで、アンに見送られた。フレイが玄関の階段を下りていくのを確認すると、アンは手を振って、建物の中に戻っていった。
とりあえず建物の前を十数歩歩ほど歩いたところで、帰り道のわからないフレイは、空を見上げた。
「ところでここはどこだ」
出てきたばかりの建物を振り返ると、その向こうにバトルアリーナが見えた。バトルアリーナは円形であるから、それに反って歩けば、寄宿舎から来た道にたどり着けるだろう。
フレイはそう考えて歩き出したとき、フレイの前に、男が立ち止まった。
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