第2話 鎖された戦場

 ウィザード――つまり、魔法使いは死んだ。

 四年前の『おとぎ話のような事件』のあと、魔法発動に必要な大気中の第六元素エレボスの流れに変化が起こった。誰もがその事件の詳細を知らないが、それが直接の原因であることは間違いないと認識している。

 魔法の基礎発動概念は、詠唱により、詠唱者の体内で第六元素エレボスを変化させ、自らの意図した形に反応を引き起こすことである。エレボスと、ひとくくりにまとめられてはいるが、実際のところ、分解するといくつもの量子に分けることができた。その量子自体は、エネルギーを持っておらず、移動エネルギーを持った流れになることで、エレボスの本質が現れるのである。

 エレボスは質量を持たない物質の集まりであり、物質を通り抜ける性質を持つ。

 魔法を使うと言うことは、自分の体を通り抜ける大気中の第六元素エレボスの流れをせき止め、エネルギーに対し言葉を使い干渉して狙った反応を引き起こすと言うことを意味する。せき止める資質こそ先天的な資質で、魔法を使えるかどうかが決まるのである。

ただし、せき止めてエレボスを溜める器の大きさにより、どれだけ強力な魔法が使えるかは変わってくる。ザルのような目の粗い器であれば、小さく弱い魔法しか使うことができない。反対に大きければより強力な魔法を扱うことができる。

 第六元素エレボスの流れは、四年前の『おとぎ話のような事件』を境に激流となった。視覚で認識できないが、大気中をほとんど漂うだけだったそれは、数千倍の速度で、せき止めようとする者を飲み込む程の濁流に変容してしまったのである。

 そのエレボスに起こった変化を調べることこそ、青年――フレイ・ソールの研究のテーマであった。

 フレイ・ソールは、魔法学校を卒業し、ウィザードが世間から消失していく中、指導教官のもとで研究を続けることを選んだ。

その選択は、ある意味必然であり、強制であった。

フレイが自分の進むべき道を歩み始めて、三年後、エンボスの氾濫に術者を傷つけ内容に魔法発動を可能とする方法が少しずつ出てきた。これはフレイの成果であった。寝る間も惜しみ、髪の毛がボサボサになっても期にせず、風呂にも入れない時が何日続いても研究所に泊まりこみ、諦めることなく実験を行ってきた結果なのである。


そして、思いもよらないところで、フレイの研究は足止めを食らうことになった。

 

エレボスの氾濫のあと、その荒ぶる流れの中に新たな物質が出現していることがまことしやかにささやかれ始めた。

器の小さいウィザードが毒づくようになったのだ。

毒づくとは、研究者内でのローカルワードで、広く一般的な言葉で表わすならば錯乱である。詠唱者の脳神経伝達に作用し、自我を乗っ取られた状態になってしまうのだ。

フレイの研究は、直ちに毒づきに移っていった。

魔法が使えるようになったとしても、毒づきの弊害で錯乱したウィザードによる事件・事故が発生すれば、魔法の利用自体が規制されかねない。一般的な詠唱者よりも大きい器を持っていたフレイは、なかば強制的に魔法を溜めるための実験に参加することになった。

その行動が誤りだったとわかるのに、さほど時間は必要なかった。

謎の物質を回収するため、溶液の中で収集実験を実施していた時のことだ。

実験から一三時間後、異変が起きた。

最初は、フレイの瞳の色が茶色から黄色に変化した。

次に髪の毛が急激に伸び、体にアザのような刻印が浮かび上がってきた。

フレイは実験装置から心配そうに周りを囲む仲間の中に、光を見た。

器が大きい事で、通常の錯乱までの限界値が高かったのが原因だったのかもしれない。

ゆっくりとフレイの心は侵食されていったのだ。

そして消失が始まった。


 フレイが次に意識を取り戻した時、彼の周囲は一変していた。

地下二三〇メートルに作られた研究施設は、隕石が落下したように掘削され、大きなクレータになっていた。研究仲間の姿はどこにも見られない。フレイは自分ひとりが生き延びたと、すぐに理解できなかった。

 フレイは、黄色いままの瞳は黄色く変色してしまった。

そして、フレイの暴走から謎の物質の名称が第七元素イド――精神分析学上の本能衝動由来の名で呼ばれることになったのは皮肉でしかない。




 焦げた匂い。

 ――露出した岩盤。

 涙が頬をつたった。

 夢の中で誰かの手をつかもうとしていたらしい。横たわったまま、右手を汚い天井に向けて突き出していた。フレイはつきだした手のひらを握りしめ、息を吐いた。

「この匂いがあの夢を思い出させたのか」

 深く呼吸をすると生物の焼ける匂いが鼻から肺に入ってきた。

 焼けた匂いと起きがけの朦朧とした意識の中で、記憶と夢、現実が混ざり合い、一年前の実験がつい先ほどの出来事のように鮮明に蘇る。今自分がどこにいるか、正しく認識できなかった。

 体を横たえたまま、首を左右に振って周囲を見渡す。

白熱灯の細い明かりが、古びたいレンガ造りの壁を照らしていた。壁の上部に手錠がふたつ吊るされ、その間に焦げ跡がついていた。

「(これが匂いの原因か)」

 フレイは顔をしかめ、反対側に顔を向けた。

反対側には、サビだらけの鉄格子がはめ込まれ、ここが獄中であることを示唆していた。壁も天井も埃でくすんでいた。

「捕らえられたのか」

 フレイはため息をついた。

 記憶の時系列が正常に並び直され、自分が置かれている現状を認識し始めた。

 河原で悪漢たちに襲われた時に、吸ったきなこ色の粉末の影響で、思うように動けなくなりリンチにされた記憶が蘇る。

天井を見たまま、男たちの言葉を思い返せば“欲しい人材”など、意味深な言葉を発していた。

「(奴隷売りの一団だろうか?)」

 人さらい、誘拐の類は、どれほど文明が近代化したとしても起こりうる。特に砂漠に囲まれた地域であれば、快適に生活を営むための労働力が多大に必要になり、奴隷商売が頻発し易い。

「(でも、ルマリア共和公国の国境沿いで、人さらいが事件になっていると、耳にしたことはない。もしそんな事件が起こっているならば、確証はなかったとしても、近隣諸国で噂されるはずだ。しかし、彼らの統制のとれた動きから推測するに、ある程度組織化されたグループが、恒常的に行動しているようにも考えられる)」

人を捕獲している。

「(一体何のために?)」

 フレイは、導き出された結論に疑念を浮かべた。

 しかし、すぐに瞼を閉じて眠りについた。

「(捕まってしまったものに原因を探っても仕方がない)」

 リンチで傷めつけられた体は上体を起こすこともままならない。格子がはめられた牢獄に捕らえられている今、寝て体を休める以外選択肢はなかった。

体の力を抜くと、思考のノイズが減っていき眠りはすぐに訪れる。

 しかし心地よい入眠を遮るように鉄がきしむ音が反響し、フレイは目を開けた。




 湿った空気を追い出すように乾いた微風が流れる。

 フレイの耳に階段を降りる複数の足音が聞こえてきた。

「(四人くらいか)」

 耳をそばだたせながら、フレイは目を閉じた。

 床をこするような雑な足音の中に、ひとつだけ硬い踵を踏み鳴らす人物がいた。硬質で淀みないその足音から何となく厳格さが感じられる。足音だけで周囲にプレッシャーを与える。即座に上長であることが想定できた。

「意識は?」

「まだです」

 低いしわがれた男の声と野太い男の会話が聞こえた。

「カプセルを使用したゆえ――」

「それだけではないだろう」

 しわがれた声の男は窘めるように鋭く言った。

非情な冷たさで相手を威圧するように響きに、フレイは思わず身を震わせてしまった。

 足音はフレイを閉じ込める檻の前で止まった。

フレイは薄目で様子を探ろうとしたが、どっしりとした体つきの男が檻に手をかけて来たので、慌てて目を瞑る。薄暗いことが幸いして、彼が起きていることは気付かれなかったようだ。

視界の端で訪問者が四人であると確認した。

金属の擦れる甲高い音がし、人が入ってくる気配がしたかと思うと、突然フレイは水をかけられて上体を起こした。

「何するんだ!」

 鼻に入った水を飛ばして、フレイは自分を囲む四人を睨み上げた。

 正面には右腕のない男が、不敵な笑みを浮かべて見下ろしていた。黒いジャケットの胸元には、大きな傷跡が残り、左腕の袖は、肥大化した筋肉が袖を通らなくなったためか、肩口からバッサリ切り取られていた。そのせいで、反対側の腕の通っていないだらりと降りた細いジャケットの袖が、異様に見えた。顔にも複数の傷跡を残し、右目を眼帯で隠していた。その立ち姿は、仁王立ちと呼ぶにふさわしい堂々としたものであった。

その左右には浅黒いスキンヘッドの男が、水の滴るバケツを構えていた。背後には、河原で襲撃をしてきた革のハチマキの男が、こっぴどく怒られてしょげているようにうつむき気味に立っている。

 右腕のない男は、左右の男たちを下がらせ一歩前に出た。その仕草はよどみがなく、威厳を感じさせるものだった。右目が眼帯で隠れていても、左目ただひとつの眼光で人を立ち竦ませるだけ眼力を発していた。人を家畜としか見ていないような、冷たい光である。

 身なりはから推測するに男は、軍隊に所属しているように見えた。襟章には三つの星が光っている。左袖は破り捨てられているが、その仕立てはしっかりしたものらしく、ひと目で良い品質のものと見て取れた。

「ウィザードらしいな」

 男は、冷淡な調子で問いかけてきた。

 フレイは男を見上げたまま、口の端で笑って小さく頷いた。答える必要はないが、別段男の問に答えたとして、不利益になることは今のところなかった。

「魔法の使用は、国際条例によって、禁止されているけどね」

「許可を取れば使えるだろう」

 なるほど、フレイの思った以上に、その男は、条約のことについて調べているらしい。



 事件後、国際魔術協会で諮問委員会が結成し調査に乗り出した。

 唯一の生き残り、フレイの尋問も長期間行なわれたが、暴走時の記憶は無いため、実験の内容については話すことができても、それ以上のことを説明することができなかった。研究施設が消滅し、研究データも消えてしまったため、“消滅した”という事実と、エレボスに含まれるイドが作用することで“暴走”が起こる可能性があるという憶測だけが、世間に広まることになった。

 実験以前にも、イドによる錯乱は見られたが、直接的にフレイの暴走により、魔法が制限されることになった。

 国際魔術平和利用条約が、ほどなく制定され、


「使用目的と、使用状況によっては許可が下りることもある。しかし見たところ、こんなところじゃ、許可は下りないだろうね」

 フレイは、檻の中をぐるりと見回し、白い歯を見せて、不敵な笑みを浮かべた。それから男の方に視線を向けると、男もフレイを見下ろして、唇を歪めて笑っていた。好奇に目を光らせ、フレイと視線を交わす。

 背中に汗が噴き出るのを、フレイは感じた。

 男が、右にいる浅黒いスキンヘッドの男に顎でしゃくって、合図を出す。それから服の左ポケットに指を入れ、サビのついた鍵を取り出した。鍵を渡すと、男はフレイに視線を戻し、口を開いた。

「俺は、ルマリア軍、バトルアリーナ管理局ファイター育成課主任、マンドレイクだ」

 鍵を渡された男は、檻の端の方の施錠を外し、もうひとりのスキンヘッドの男と一緒に侵入してきた。

 フレイはそれを、上目遣いに見上げながら、全身痛みの走る重い体をよじらせた。

 もうひとりのスキンヘッドの男の手には、黒光りする手錠が握られている。

 マンドレイクの話は続く。

「書きかけの論文には、フレイ・ソールと記されていたが、それが貴様の名前か?」

 フレイは、ふたりの男に無理矢理上体を起こされ、顔をマンドレイクに向けて固定される。たくましい筋肉をしたふたりの男に、フレイはなすすべもなかった。両手を後ろ手に掴まれ、手錠をかけられる。例え体調が万全の状態だったとしても、つかみ合いになれば、筋力の差から、どうにもならなかっただろう。

 フレイが、固定された頭のまま、マンドレイクを睨み上げると、彼はそれだけで返事を受け取ったというように頷いた。

「よもや、魔法禁止平和条約を締結するきっかけを作った人物と会えるとは思っていなかった。光栄に思う」

「そう思うなら、もう少し丁重に扱ってもいいぜ」

「ご期待に添えなくて、残念だな」

 マンドレイクは、肩をすくめると、きびすを返して、歩き出した。そのあとをハチマキの男が続き、フレイは檻から出され、ふらつく足のまま、無理矢理、後ろを歩かされた。

 マンドレイクの踵の音が、冷たい石畳の通路に反響する。

 くしゃくしゃの髪をつたって、額に水滴が落ちた。しかし、フレイは後ろ手に拘束されているため、それを払うことすらできない。逃げだそうにも体はぼろぼろで、歩くのが精いっぱいだ。走ることすらできない。

 フレイをつれた一団は、通路の先の鉄格子をくぐり、階段を上った。

 背後で、鉄格子の錠が閉められる音が聞こえてくる。それに交わるように、フレイの前方からは、風のゆらぐ音が聞こえてきた。




 階段を上りきると、少し広い通路に出た。

 階段から上ってきて、正面の通路の壁は取り払われていた。奥は吹き抜けの中庭のようになっているようで、日光がさんさんと照りつけている。地面が焼けているのか、蜃気楼のように、空気が揺らいだ。

 マンドレイクは、足を進め、吹き抜けの方に向った。

 等間隔で縦に線の入った柱がならび、その間を石造りの柵が取り付けられていた。マンドレイクは柵の前で立ち止まり、後ろにいるフレイたちの方に顔を向ける。

「No.1AABF(ナンバ・ワン・ダブルエイ・ビ・フォ)を連れてこい」

 フレイを後ろ手に掴んでいた男が返事をし、フレイをマンドレイクの右隣に並ばせる。

 強引に歩かされ、不満のひとつでもあげようかと思っていたフレイの眼下に、中庭の光景が広がった。

 フレイたちのいる、通路は、3階の高さに位置し、その下には、照りつけられた、草ひとつは得ていない焼けた大地があった。そこには、変わった形の置物が壁沿いに面して陳列されている。目を細めて、置物をよく見る。

 一番大きな置物は、木を1辺1メートルほどの立体格子状にくみ上げたもので、幅は目算で7メートル四方、幅をとっていた。置物の中には、衣類を掛けるポールのようなものもあったが、中央の軸にくい打たれている木片の先端は、棘状に削られ、薄汚れていた。ほかにも鉄棒のようなものや、平行棒、10メートル上から垂らされた荒縄など、中規模のトレーニング施設を思わせた。

 フレイが、中庭をのぞき込んでいると、隣のマンドレイクが、尋ねてもいないのに、説明を始めた。

「これはアリーナと呼ばれる闘技場で戦うファイターたちの訓練施設だ。良く注目すれば、乾いた砂や、器具についた血が見られるかもしれないな」

「アリーナ? いったい何の話をしているんだ?」

 フレイは、顔をしかめて、マンドレイクを見上げる。

 その国の基本的な情報を調べて、入国しているわけではないので、突然用語を並べられても、正確な認識ができない。フレイの旅は、ただの旅行ではなく、研究を兼ねた旅であって、関心は、研究素材――イドに集中していた。

 長身のマンドレイクは、フレイの頭3つ分ほど高い位置からフレイを見下ろした。フレイの身長が、176センチメートルであるから、ゆうに2メートルは超えている。

「貴様は、バトルアリーナも知らないのか」

 呆れるように、口を半分開けて、マンドレイクはため息をつく。それから中庭を見下ろし、ひとりごちった。

「ルマリアの観光商業の中心で、ファイター同士や、ファイターと獣が戦い、殺し合う。旅行のパンフレットには、必ず小さく説明を添えてあったはずだが? 経済産業観光省はどんなマーケティングをしているのか」

「あいにく、観光で入国しようとしたわけじゃないんでね。必要のない情報は、入ってこないんだよ」

「新聞も情報誌も読まないとは――」

 マンドレイクはフレイの顔を見て、鼻先で嗤い、肩をすくめて、首を振った。彼の目に映るフレイは、世間知らずの研究者に見えるのだろう。フレイが起こした事故がきっかけで、魔法平和条約が締結したことを知っていると言う事は、その周辺に出た記事で、フレイの大まかな経歴を読んでいるのだろう。

 魔法学校を卒業し、そのまま学校で研究を続けた。研究の途中で、イドを暴走させ、研究施設を仲間の研究員、施設の職員もろとも消滅させた。下手をすれば、裁判記録を掲載した情報誌もあったので、完全にメディアに翻弄されているのかもしれない。

 そんな蔑むような、不愉快な光が、左の瞳の中にあった。

 フレイを後ろ手に掴んでいる男が、中庭を指さして、マンドレイクに声をかける。

「主任、Code.Lが来ました」

 その言葉に、フレイと、マンドレイクは同時に、中庭に視線を向けた。

 細身の色白の青年が、1階から、中庭に下りる小階段をゆっくり下りてきていた。右手には抜き身の刃幅の細いサーベルを携え、弄ぶように、軽く揺らす。そのたびに、光が反射して、サーベルの刃が白くきらめいた。

 短髪で、額が広く顎の先が鋭いシルエットをしている。表情までははっきり見えなかったが、所作からにじみ出てくる雰囲気で、涼やかな印象を受けた。

 階段を下りると、日差しを避けるものがない、乾いた砂地の大地だ。彼は、照りつける太陽の光が熱くないのか、黒いパンツに焦げ茶色のブーツを履いて、長い袖の白いシャツを着ていた。

 マンドレイクは、左腕を顔の前まで上げて、手首を振って、袖に隠れていた腕時計を出した。

「ルイーゼめ、あと1時間もしないうちに闘技が始まるというのに、こんなところで何をしているんだ」

 左手を払って、袖を直すと、マンドレイクは振り返って、強い口調で、指示を出す。

「No.18FB3、ルイーゼを早くバトルアリーナに連れて行け。闘技に遅れるようなことがないようにするんだぞ」

 ハチマキの男は、敬礼をすると、駆け足で、通路を走っていった。

 フレイは、その姿を見送りながら、呟いた。

「16進数?」

 つぶやきは、マンドレイクの耳にも届いたようで、感心したような声を上げた。

「さすがにイドの数値解析を行なおうとした研究者だな。2度聞いただけで、収容者のナンバーが、16進数になっていることに気づいたのは、貴様が2人目だ」

「2人目、ほかにもいるのか?」

「貴様の目の前にな。ハハハハハ!」

 そう言って豪快に笑い声を上げると、マンドレイクは、中庭を見下ろした。

 本気で言っているのか、それとも冗談で言っているのか、フレイには見抜けなかった。右の顔からは、結ばれた口元しか見えず、眼帯に隠れた瞳を見ることはできなかった。

 フレイも中庭に視線を向けると、中庭では、Code.L――ルイーゼと呼ばれた青年が、サーベルを優雅な動作で振るっていた。

 右手を払い、サーベルが空を切る。左足を蹴り上げ、そのまま体を浮かせて宙返りをした。何とも身軽。体を捻り、2回転しながら、体をしゃがませる。回転を止めるために、右足を横に滑らせ、左手を地面に添える。まるで、バレエを見ているように、その重心移動は、重さ・体重を感じさせなかった。フレイも、魔法が使えなくなってから、体をより鍛え始めたため、その動きの美しさに見とれた。

 ルイーゼが下りてきた階段から、ハチマキの男が走ってくる。

 驚いたことに、男が足を蹴ると、砂埃が舞い上がり、濃霧のように、視界を悪くした。

 対して、ハチマキの男に声をかけられて、動きを止めたルイーゼの周りには、砂埃が地面のほんの少し立ち上っただけだった。

「美しい」

 フレイは素直に、呟いた。

 隣でルイーゼの様子を見ていたマンドレイクは、ハチマキの男がルイーゼと話すのを確認すると、声を上げて、きびすを返し、左の奥の方に、歩き始めた。

「診療所に行くぞ」




 薬瓶がテーブルの上に雑多にならび、その診療所の管理者が、おおざっぱな性格なのを表わしていた。

「らっしゃい!」と威勢のいいかけ声で、フレイたちを迎え入れてくれたのは、大柄な――お世辞を言えばふくよかな――体躯の中年の女医だった。白衣のポケットに両手を無造作に突っ込み、豪快に笑う。

 歩くだけで、全身に痛みが走る、フレイに「3日前見たときはアザだらけだったけど、体は良くなったかい!?」と背中を力いっぱい叩いて、椅子に座らせるのだから、たまったものではなかった。崩れるように椅子に腰を下ろしたフレイの左手をとると、血圧を測り、視力、聴力を検査し、聴診器による内臓の音を聞いた。

 頭が回るから手際がいいのか、それともおおざっぱだから手際がいいのか、わからないが、どんどん検査を済ませ、2、3の問診を行なうと、すべてのデータを用紙に書き込んだ。

 用紙は、マンドレイクに渡された。彼は、さっと目を通すと、すぐに女医に用紙を返した。

「血液検査の結果が出ていないが、問題はないだろう。HYU-1941の接種を頼む」

「ハイよッ」

 女医は景気よく答えると、ものが散乱しているテーブルの上をのぞき込むようにしながら、ひとつひとつ薬瓶を取り除いて、中に埋まっている目的のものを探す。

 フレイは、マンドレイクのしかめっ面を見上げた。

「HYU-1941?」

 耳にしたことのない薬の名前だった。

「この国に入国した対象者に接種が義務づけられている薬だ。うかつに砂漠に出られて、毒サソリなんかに、殺られても困るからな」

「すると、サソリの毒に免疫をつける薬なのか?」

「まァ、そういうものだな」

 視線も合わさずに、マンドレイクは答えた。

 前後の分に整合がとれないが、問いただすよりも早く、フレイの後ろに待機していたスキンヘッドの男が、フレイの座っている椅子を回転させて、テーブルでHYU-1941を探している女医の方にフレイの左側を向けた。

「あった、あった」

 女医は、円筒状の5センチメートルほどのプラスチックケースを指でつまんで持ち上げた。その白いケースには、黒いインクで1941と走り書きされているだけで、成分や、その他の情報はまっさらであった。ケースの上部を引っ張ると、蓋が取れる。中は、剣山のように細かい針が林立しているのが見えた。

 スキンヘッドの男が、慣れた手つきで、フレイの左腕の袖をまくり上げ、上腕を露出する。

 女医は、フレイの脇に左手を差し込み、露出した上腕を少し持ちあげた。白いケースを右手で持ち、フレイの皮膚に当てる。、

「じゃあ、痛いですよ」

 そういってケースを押しつけた。ケースの構造は、尻の1/3が2段構造になっていて、尻を押すと、針が飛び出る仕組みになっていた。加減というものを知らないのか、なんの躊躇もなく、針は、フレイの肌に刺さった。

 刺されるまでのあいだ、フレイはただ見守っていたわけではない。制止する声を上げたり、上体や、腕を捻って、刺されないようにした。しかしそれらは、まったく意味がなかったのだ。ほとんど抵抗など無いに等しいと言わんばかりに、スキンヘッドと、女医の手で、フレイは訳のわからぬ薬を接種された。

 女医が宣言した通り、激痛が上腕に広がる。針が一本の時とは違い、何本も並んでいるため、肌の抵抗も大きくなっている。広い面に突き刺さっているため、皮膚も押されて、接種し終わるまでの時間が、30秒以上掛かったのではないだろうか。フレイにしてみれば、もっと長い時間に感じるほど、苦痛を伴う時間だった。

 針を抜き、ガーゼを押し当てて、女医は、包帯を巻く。その上から、注射箇所に圧力が掛かるように、ベルトを巻き付けた。

 フレイは涙目になりながら、マンドレイクを見上げた。

「これで、僕は自由の身ってことでいいんだよな?」

 マンドレイクは、冷笑を浮かべ、フレイの質問を鼻で笑った。

「手錠は外しても構わない」

 スキンヘッドの男に合図して、手錠は外された。しかし、その言葉には引っかかるものがあった。

「手錠は、とは、どういうことだ?」

「言葉通りの意味だ。手かせを取り、自由に国の中を移動する権利は、貴様に与えられた。ただし、自分の意志で、出国したり、勝手気ままに振る舞う権利までは与えられない。貴様の持てる権利の多くの部分は、我々、バトルアリーナ管理局ファイター育成課の管理下に置かれ、指示に従ってもらう」

「断る。体調が復調すれば、貴方たちでは、僕を止められなくなるぞ。意味のわからないことを言って、僕を怒らせない方が、いいんじゃないのか?」

 半分脅しも込めて、フレイは、不敵な笑みを作った。

「国を挙げて、非合法にファイターの補充をしているんだろう。そんなことが世界に広まれば、国連から、経済制裁を加えられるんじゃないのか?」

 国の観光事業――アリーナでの、ファイターの戦い。それから中庭の訓練施設。組織化された、人さらい集団。ルマリアの中で何が行なわれているか、連想するには、十分すぎる材料だった。

 予想通りではあるが、フレイの脅しに、マンドレイクは、にやにやといやらしい笑みを浮かべるだけで、なんの効果もなかった。

「貴様が心配しなくても、外部に情報が漏れないようなシステムになっているんだよ。それから、HYU-1941を接種すると、薬の影響で、国境を越え外国に出国すれば、たちどころに毒が体を巡る」

「予想通りだな」

 抵抗できないために、甘んじて接種を受けたが、フレイの予想通りの結果である。

「ルマリアの領土の中央には、HYU-1941を緩和する緩和剤が散布する装置があり、それより一定の距離離れれば、散布する化学物質の影響が弱くなり、HYU-1941が活動を開始し始める。それから緩和剤は、緩和するだけで、HYU-1941のウィルス増殖を止めることはできない。体内の毒素が増えれば、国内にいても死ぬ。一定の期間ごとに、バトルアリーナ管理局ファイター生活衛生課の行なっている抗生物質の投与を行なわなければならない」

 マンドレイクは、白い歯を見せた。

「さらに言えば、貴様を怒らせたいのだよ。とんでもないことをしでかしてくれるんだろう? 魔法を使える人間は、捕獲することが難しい。占い、まじない、祈祷泥土の能力の魔法使いであれば、容易だが、我々が望むような高度な戦闘に特化した魔法を使いこなせるほどのセンスを持っている魔法使いは話が別だった。いろいろな手を尽くしたが、上手くつかまえたとしても、逃げられてばかり。そのうちに、魔法平和利用条約が、締結され、攻撃魔法が禁止されるようになってしまった。そうなると、誰が魔法を使えるのかもわからなくなり、手当たり次第捕獲しても、魔法を使えると白状する人間はいなかった」

「そりゃ、だれだってイドに翻弄されたくはないだろう」

「魔法が禁止されれば、魔法使いというブランドは、より高い値打ちをもつ。なぜだかわかるか?」

 魔法使いをアリーナで戦わせる。

 彼らの目的は理解した。禁止されている魔法を使って戦うことで、アリーナそのものの価値を上げようというのだ。それを、なんてんも前から――少なくとも、条約が締結される前から――魔法使いをつかまえようと躍起になっていたのだろう。

 フレイが黙って睨んでいると、マンドレイクの左目が、冷酷にきらめいた。

「フレイ・ソール、貴様はもう少し自分が世間に広く認知されていることを、知るべきだな。“あのフレイ・ソール”本人が、バトルアリーナで、戦闘を行なう。世界に知れ渡ほどの知名度だ。これほどの宣伝効果はないだろう」

「白昼夢だね。魔法使用の許可が下りるはずない」

 フレイが鼻先で、笑うと、それをかき消すように、マンドレイクが大きな声で嗤いあがった。

「心配無用。アリーナでヒーローになってくれよ」

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