神に捧げる天使の華

オーロラ・ブレインバレー

BOOK ONE

第1話 青空と、血の臭い

 河原のせせらぎに、小魚たちの群れが光る。

 涼しげな風が、遠くに見える雑木林を揺らし、蝉たちの鳴き声を運ぶ。

 指先を流れる水に浸せば、照りつける真夏のような太陽の暑さも忘れられる。

 青年は、背負ったリュックサックを下ろし、ひと息ついた。

白い角のない丸い石が、鞄の重みで擦れあい小気味よくささやく。背中を覆うほど大きな革製のリュックには、青年の『研究』の資料や論文執筆用の道具、旅に必要な生活用品が入っていて、かなりの重量になっていた。

 青年は鞄の中に手を突っ込むみ手際よく、水筒を三本取り出す。蓋を開け、川に浸して、冷たい水を汲んで水筒を戻すと、青年は腰を伸ばして、大きくのびをした。

 くしゃくしゃの寝癖だらけのオレンジ色の髪が、風に梳かされさらに乱れ始めていた。青年は身だしなみを気にするような素振りは見せず、穏やかな表情で太陽を見上げた。

両腕を伸ばし、筋肉をほぐす。

関節の可動域を広げるように、全身のストレッチを入念に行ない、長時間重い鞄を背負って歩いて来た疲れを癒す。

 凝り固まった筋肉に、血流が行き届き、体が上気して心地良い。


 時代錯誤の徒歩による旅。

 青年は、目をこすり、太陽の光を写したような黄色い瞳で空を見上げた。

 瞳が潤みキラキラと煌く。

 手をかざし、陽光を隠せば、透き通った青い空が、視界に広がった。

 その河原は、民族紛争で入国制限がかかっているルマリア共和公国の国境に沿うように流れていた。川を跨ぎ、一〇メートルほどの湿地を抜ければ、そこは乾燥と埃で覆われた草木の育たぬ砂漠の国であった。

 のんきに青空を見られるのは、この川の手前までだろうか。

雲ひとつない空は、砂漠に入れば恨めしい人の命を奪うだけの、驚異でしかない。

砂漠の熱風が、青年の鼻先に届きじりじりと死の呪いをかけてくるようだ。

砂漠だけがルマリアの脅威ではない。

吹き付ける風に、わずかに血の臭がした――。

 青年は目を細めた。

 河原の石を踏みしめる雑音。

青年は、ゆっくりと振り返った。

 背後に日焼けした顔に生傷を負った男が三人。

「(やれやれ)」

三人とも刃渡りの長い凶器を持ち、筋肉質な体つきをしている。破れたシャツの袖から覗く浅黒い肩の筋肉は肥大化し、生々しい切り傷が幾つも見られた。着ているものは砂埃や血で薄黒く変色している。どこからどう見ても、悪人ヅラにしか見えない。

 さらに周囲を見渡せば、川に沿って青年を挟み込むように二人ずつ、同じような格好の男が近づいてきていた。

「(いつの間に囲まれたのか? 逃げ場なし、か)」

 青年は、その状況に慌てる様子もなく流麗に振り返り、向こう岸に視線を向けた、

男が四人、雑多な草の中から身を起こす。

 いつの間にか総勢一一人の男たちが、青年を丸く取り囲んでいた。

 青年は左右に視線を動かし、余裕を感じさせるような微笑みを浮かべた。

「人違いではないのか?」

 青年の言葉に男たちは、いやらしい薄ら笑いを浮かべ、返答の代わりにとばかりに砂利を蹴って、一斉に飛びかかってきた。

 ざっと距離が縮まる。


しかし――。


青年は鞄を踏み台にすると大きく跳躍し、斬りかかってくる男の頭上を飛び越えた。

「なにィ!?」

 意表を突かれたのか、悪顔は目をひんむいた。

着るべき対象を失った刃は、青年の鞄に無残に切込みを入れ、堰を切ったように中身を溢れさせた。そのまま数人で、鞄を切り裂き中に入っているものを引っ張り出す。

 青年は、囲みから逃れると器用にとんぼ返りをして着地した。

 その動作は、猫科の動物のようにしなやかで、一曲一投足に無駄がなく、青年がただの旅人ではないことを男たちに言わずもながら示していた。

 彼らは浮かべていた薄笑いを消し、真に迫る面持ちで刃物を構え直した。

「(次は本気で来るか)」

 青年は、いつでも逃げ出せるように警戒しながら、男たちをにらみつけた。

 青年がただの旅人でないように、相手の方も、ただの追いはぎではないようだ。

獲物の動きを見るやいなや、即座に攻撃レベルを変えてきた。青年が逃げられないように、前から牽制を張りつつ、左右に散って陣を張る。誰が支持するまでもなく、個々がそれぞれの役割を認識し、動いている。それはまるで規律正しい軍隊を思わせた。

 散乱した青年の持ち物は中身を確認されただけで、放置されている。金品目当てには見えない。一瞬青年は、ルマリア軍を想定した。

 持ち物を調べていた両目に双眼鏡をはめ込んだ男が、対岸に向かって手を振った。

 何か手話のようだがローカルなもので、青年には内容が読み取れない。

 一番手前のすすきれた革のハチマキを頭に巻いた男が青年から目をそらし、手話に参加する。視線が外れても、逃げる隙が見当たらない。ハチマキの男は、一瞬怪訝そうに顔をしかめ、青年の方に振り向きなおった。

「貴様、ウィザードか?」

 男は鞄を漁っていた仲間から学術論文の紙束を手渡され、確認するように青年に突き出した。

彼らにとっては思いがけない人物の登場により明確に敵意が現れた。

 ウィザード――おとぎ話的に言うならば魔法使いである――は、一般的にそれほど珍しい存在ではない。数年前までは総人口の約一二%は、ウィザード関連の事業を展開し、およそ二七%以上の人間が関連業種である。更にこの数字は『第六元素エレボス』の揺らぎが多い北半球において倍におよぶ。

 青年に魔法が使える可能性を示唆され、一層警戒し始めた悪漢たちとは対照的に、青年にはいくぶん余裕の表情が見られた。ただ、世間にはまだ発表する段階ではない書きかけの学術論文が切り刻まれ、大切な書類をぞんざいに扱われるのには不愉快らしく、言葉の返答の代わりに青年は、足下の砂利を踏みしめ初動に構える。それは明らかに対決の意思を示していた。

 川のせせらぎが、張り詰めた空気の中、何事もないように響く。

 ハチマキの男が曲刀を携えにじり寄る。砂利が軋んだ。そして体重を前傾するとつんのめるように青年に突進してきた。時間差で他の男たちも非線形に青年に突っ込んでくる。

 息を呑む速さで刃がきらめき、青年の頬をかすめた。

 小さい動作で繰り出される斬撃を避け、青年はハチマキをした男の手の甲を、右手で押し払う。受け流された身体が青年の脇をかすめる瞬間、青年はその腹を拳で連打した。

 ハチマキの男の上体が前屈すると、青年はその背に足をかけて後方宙返りをする。左から切り込んできたふたりの頭を飛び越えて背後に回り込む。青年に頭の上を飛び越えられたふたりは、体を返して砂利の上を滑った。片手で地面を掴み、スピードを殺す。その反動で石ころが飛び散り、地面が露出した。

 その横を三人がすり抜け、青年に進撃する。

 青年は着地した姿勢から、三本の刃をすべて交わし、ひとりは内蔵を抉るように拳を打ち、残りのふたりは側頭部を足刀を浴びせた。頭を蹴られたふたりは、完全に気を失い、腹部を抉られた男は、体を折り曲げて地面に沈黙した。

 その所業に、襲撃が止んだ。

 予想外の展開に次の一手が思いつかないらしく、陣が乱れたまま立ちすくむ。

「一端、引くべきだ」

 ようやく初撃のダメージから回復したハチマキの男が、顔をしかめながら漏らした。

「(懸命な判断だな)」

 無造作に突っ立っていた男たちは、その声を合図に即座に一箇所に集まった。

 切り替えが早い。

 しかし、

「想定外の強さだが、欲しい人材だ」

 と撤退を考えあぐねる反論が上がる。

 不意に、寒気をともなうイヤな感触が背後から忍び寄ってきた。青年がきびすを返すと後ろから飛んできた何かが、顔にぶつかった。

 顔前で、それは破裂し、きなこ色の粉末が広がる。

 青年は咳き込み、粉じんから逃げるように左に跳んだ。鼻腔をつく硫黄に似た臭気がまとわりつく。目を細めて異物が飛んできた方角を睨むと、陽炎に揺らめきながら、何ものかが歩いて来るのが見て取れた。

 背後の男の声が歓喜するように叫んだ。

「L!」

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